思いつくまま

2004年05月
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目次 
●カッコウの声:No. 1249 2004.05.31
●自分:No. 1248 2004.05.30
●一億個の地球:No. 1245 2004.05.29
●大江戸生活体験事情:No. 1244 2004.05.29
●竜とわれらの時代:No. 1243 2004.05.29
●役不足:No. 1242 2004.05.28
●何か:No. 1241 2004.05.27
●心亡くさずに:No. 1240 2004.05.26
●不思議な感覚:No. 1239 2004.05.25
●宝物:No. 1238 2004.05.24
●忘れ物:No. 1237 2004.05.21
●与えられた枠とできる枠:No. 1236 2004.05.20
●覗かせてもらう:No. 1235 2004.05.19
●時間と知恵:No. 1234 2004.05.18
●風の街:No. 1233 2004.05.17
●ガーデニング:No. 1232 2004.05.16
●川原へ:No. 1231 2004.05.15
●データで検証!地球の資源ウソ・ホント:No. 1230 2004.05.15
●無謀なもの:No. 1229 2004.05.14
●雨の中で:No. 1228 2004.05.13
●当たり前の自然:No. 1227 2004.05.12
●学会:No. 1226 2004.05.11
●桜:No. 1225 2004.05.10
●弱体化:No. 1224 2004.05.08
●7回忌:No. 1223 2004.05.07
●スノーボールアース:No. 1222 2004.05.07
●健康:No. 1221 2004.05.06
●成果:No. 1220(11) 2004.05.04
●デスモスチルス:No. 1219(10) 2004.05.04
●旅は続く:No. 1218(9) 2004.05.04
●棒鱈:No. 1217(8) 2004.05.03
●砂採集:No. 1216(7) 2004.05.03
●岬:No. 1215(6) 2004.05.03
●知識の記憶:No. 1214(5) 2004.05.02
●誕生日:No. 1213(4) 2004.05.02
●天売、焼尻:No. 1212(3) 2004.05.02 ●夕日の町:No. 1211(2) 2004.05.02
●はまぼうふ:No. 1210(1) 2004.05.01
●旅の一ページ:No. 1209 2004.05.01


さくら。江別市文京台

●カッコウの声:No. 1249 2004.05.31

今朝は雨である。
雨に濡れて緑が濃い。
しっとりとして心が落ち着く。
今日久々に大学に車で来た。
やっと道北の調査で採取した資料の
一部を持ってこれた。
機会がなくてなかなか運べなかったのが
少し作業を進めることができる。
一昨日の予定が雨で一日順延になったが、
昨日、小学校で父兄が
学校の周りの環境整備をした。
9時前に学校に着くと
カッコウが近くの林で鳴いていた。
非常にすがすがしい気持ちになった。
カッコウの声を久々に聞いたような気がする。
私は、地元の人と組んで、
校庭の木の枝の剪定作業をおこなった。
少し剪定作業をやったが、大変な作業である。
木に登ってすることはできない。
地元の慣れた人が剪定で落とした木を
拾って集め、トラックに載せていくことになる。
集めた枝葉は、近所の農家の人が、
自分の畑近く空き地に捨てて
腐らせ堆肥にするという。
これは素晴らしいことである。
今までこのような地区の作業をしたら、
そこで出たごみは何もかも
ゴミ収集で持っていってもらうことになっていた。
自然のものは自然に帰すべきだと常々思っていたが、
不本意ながら、自分自身どうすることもできなかった。
しかし、今回農家で自然に帰してくれる。
また、大きな木や丸太は、
夏に校庭でおこなう
キャンプファイヤーの薪として利用されている。
素晴らしいことである。
お昼は、先生も父兄も子供も一緒に
中庭でジンギスカンをした。
親子ともども楽しんだ。
ジンギスカンあと、
長男の同級生で、学校すぐ隣の
農家の子供もうちをおとずれた。
学校から草むらを通りぬければ、すぐである。
そこのお父さんは大工仕事が得意で、
大きな二階建ての納屋や、
子供の遊べる二階建ての子供ハウス
大きな3人に掛けのブランコ
ウッドデッキにはジャグジーなどが
手作りされていた。
日曜大工の域を超えている。
2×4だから簡単ですよというが、
私には、能力からも正確からも、不可能である。
その家は、森の中の一軒屋で
私が理想としていたところである。
そこの親と話していたら、
近くの土地が宅地として
売りに出ていたという話を聞いた。
でも、もうすでに遅い。
昨日は、いろいろ地元の人と交流したので、
なかなか楽しかった。
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桜と葉。江別市文京台

●自分:No. 1248 2004.05.30

今朝は霧が出ている。
道路も乾いている。
今日は多分晴れるだろう。
暑い日になるかもしれない。
長いようで短い5月も終わろうとしている。
この一月、やはりいつものようにあわただしく過ぎた。
何をなしたかは問うまい、振り返るまい。
それは自分が一番知っている。
それに満足感があるかどうかも
自分のみが知ることである。
反省は必要だ。
しかし、反省によって夢を捨てるようなら
反省などしないほうがいい。
反省して、明日からの前進につながればいい。
反省で、つらい思いのみ残るのであれば、
そんな反省はしないほうがいい。
生きていくことは大変だ。
しかし、生きていかねばならない。
そのために、努力をすることを怠ってはならない。
過大なる夢であっても、望むのであれば、
努力し、その結果、破れても後悔すまい。
できそうな希望を望み、
そんかもとも果たせなくとも、悔やむまい。
そんな夢や希望を持ったもの自分。
果たせなかったもの自分。
すべて自分の中の営み。
その営みだけな確かのものである。
それを確かだと思える自分こそが、信ずべきもの。
生きていくということは、
自分自信をどれほど信じるかであろう。
たとえ自分が自分を裏切ったとしても、
自分は自分を許せるか。
夢を果たせなかった自分でも、信じ、
再度、夢を託せられるか。
同じ一生を共にするなら、
頼りない自分であっても、信じるしかない。
いつでも自分から、いつまでいっても自分である。
もしもそんな一生の相棒の自分が、
期待に応えてくれたら、
大いに褒めてやろう、喜んであげよう。
そんな日が来ることを、根気強く見守っていよう。
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さくら。江別市文京台

●贅沢への不満:No. 1247 2004.05.29

今朝は雨である。
朝から小学校で父母による環境整備の予定だ。
小雨決行だそうだ。
今は小ぶりである。
あるのだろうか微妙なところか。
多くの人が参加するので、日程変更があると
これるこれないがあって、人数や準備が狂うので、
少々の雨ならやってしまうのだろう。
それほど寒くはないので私はいいのだが、
子供たちは校庭の石拾いの予定である。
就学前の子供は多分体育館で遊ばせておくのだろう。
しかし、昼に予定していた焼肉はどうなるのであろうか。
楽しみにしていたのだが、雨だと落ち着いてできないし、
校内でやると匂いがつくし。
まあ、指示に従うしなかない。
学校教育に親もかかわるのはいいことだ。
PTAの存在意義はまさにそこにある。
しかし、子供が学校からもらってくる
プリントの多さには驚いた。
その大半を、担任が日々作成しているようだ。
大変なことである。
贅沢なことだけれども、プリントは最小限でいい。
先生たちは子供たちが学校いるときの
教育に専念してほしい。
このような親へのサービスに疲労していないだろうか。
そして肝心の教育の現場で疲れ切っていないだろうか。
余力の範囲内で行われているのであればいいが、
あまりに多くの労力が払われているような気がする。
親としては、もう十分、熱心でいい先生
であることはわかったから、
信頼しているから、
どうか、もう教育に専念してください、といいたい。
この信頼関係だけがあれば、
必要不可欠な情報だけでいい。
連絡網で、電話の一言でもいいのではないか。
贅沢を享受しながらの不満だから
なかなかいいにくことであった。
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●一億個の地球:No. 1245 2004.05.29

井田茂・小久保栄一郎著「一億個の地球」
(ISBN4-00-006571-8 C0344)
を読んだ。
これはトイレで読んでいたものだ。
井田氏の新しいものがあるので、
そのほうが情報が新しいが、
これはこれで、わかりやすく書かれていて
参考になるものであった。
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●大江戸生活体験事情:No. 1244 2004.05.29

石川英輔・田中優子著「大江戸生活体験事情」
(ISBN4-06-273390-0 C0195)
を読んだ。
電車の中で読んでいたい本だ。
やっと読み終わった。
著者の二人が、江戸時代の暦や道具などを使って、
実際に生活してその感想や考えをつづったものである。
なかなかおもしい。
このシリーズも読み続けているせいか、
以前ほど面白みがなくなってきたが、
それぞれ工夫が凝らしてあるので、
面白いことは面白い。
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●竜とわれらの時代:No. 1243 2004.05.29

川端裕人著「竜とわれらの時代」
(ISBN4-19-861585-3 C0093)
を読んだ。
久しぶりに小説を読んだ。
これも、一月かかってやっと読み終わった。
以前から読みたいと思っていた本であった。
ゴールデンウィークに出かけたときから
読み始めたものである。
予想通り面白かった。
そして、科学とはどのように位置づけるか考えさせられた。
私とは違ったものと比較されたが、
でも、考えている根本は同じであった。
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ベンチ。江別市文京台

●役不足:No. 1242 2004.05.28

今朝は風があったが、暖かかった。
昨日は平年より10℃以上高く、
7月下旬の陽気だったそうだ。
確かに暑かった。
ふと考えた。
私は、大学で学生に学問を教えている。
それは、自分の専門としているたことや、
かつて興味を持っていたことや、
今も興味を持っていることなど
その分野で論文を書いているようなものを
授業として教えている。
単に専門知識を伝えるなら、
何も私が最適な人材ではないはずである。
もっと優れた人がいっぱいるはずだ。
つまり、私でなくてもいいのだ。
私は多数の中の一人にすぎないのか。
私自身は何かが違うと思いたいわけである。
しかし、そうなると単に学問以外の何かを伝える
気持ちや態度が必要になる。
そこに思考が及んだときに、
私は、それに値する人間かという疑問が起こった。
家庭でも夫として、父親として家族に接している。
子供には、あしなさい、こうしなさい。
これはいい、あれはだめ、と指示を出している。
命令をするだけ、判断を下すだけが
私の役割ではないないはず。
命令、判断以外の何かが必要なのである。
私は、それに値する人間なのかと問うと、
自分にはそんな自信がない。
他人との比較は、ここでは無用である。
自分自身の心の中の問いである。
その問いに対して、
私はそれに値しないという答えが返ってくる。
すると、私は、教師として、親として
自信のないままその役割をしているわけである。
では、役不足の私のおかげで多くの学生や家族が
迷惑を蒙っているのである。
その責任をどう取ればいいのか。
今後、私はどう振舞えばいいのか。
いまさら能力を高めろといわれても不可能だ。
また、今の役割を辞めることはできない。
それこそ多くの人に迷惑をかけることになる。
私にできることは、謙虚に、真摯に
自分のできることを、精一杯するしかない。
それは、間違いだらけ、失敗だらけかもしれないが、
それしかできないのである。
昨日より今日の方が、今日より明日の方が、
少しでもその役をうまくこなせるように
なんとか努力を続けていくしかない。
考えてみると、これはイバラの道なのかもしれない。
人間として社会で役を果たすとはつらいことである。
社会で生きていくというのは、大変なことだ。
そして自分が役不足であるために、
常にによりよく役をこたすための努力が必要だ。
観客に少しでも喜んでもらえるように。
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花の芽。江別市文京台

●何か:No. 1241 2004.05.27

今朝は薄曇であったが、
暖かく、やや蒸し暑い朝である。
「何か」についてふと考えた。
何人かの人が一緒に「何か」をするということは、
なかなか難しいことである。
でも、それが一人ではできないことであれば、
その「何か」を組織ですることは、
重要な意義があるであろう。
しかし、その「何か」のために、
「何か以外」を捨てたり、
我慢したりしなければならない。
その「何か以外」が我慢の範疇で収まる限り、
「何か」は成し遂げられるであろう。
しかし、「何か以外」が、
誰かの我慢の限界を越えたとき、
誰かもしくはその組織は
破綻をきたすであろう。
当たり前のことだが、そんなとき
その組織を維持したければ、
そんな我慢できない理由を解消したり、
あるいはその我慢できない人を組織から
すべての合意の下に
組織から解き放つことができれば、
その組織は再び円満に活動しだすだろう。
もし、その我慢が組織の過半数を占めるのであれば、
組織を改革するか、解散するしかない。
これは、ごく当たり前のことだ。
しかし、そんな当たり前のことが
なかなかできないから、
ある人は我慢ができずに、
自分や人を傷つけるなど、
最悪の事態を招くことになりかねない。
人間は社会的動物である。
でもやはり動物である。
動物的本能も満たさなければならない。
それが、組織の目的と一致しなければ、
そのような本能を組織できむき出しにすることは
組織運営を危機に陥れる。
人間は動物であることを捨てられない。
でも、社会生活も営まなければならない。
社会が高度すればするほど、
そんな難しい生き方を身につけなければならない。
つまりは、我慢の限界を
できるだけ高くする訓練をつむことに他ならない。
果たして、我慢することが
本当の幸せへの道なのだろうか。
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鵜飼い。岐阜市長良川

●心亡くさずに:No. 1240 2004.05.26

今朝は晴れていたが、
風があったので、肌寒かった。
今日も疲れが抜けず、写真を撮る元気もなく、
自転車で、途中で止まらずに、来てしまった。
やるべきことがたくさんある。
物理的、時間的にはかなり厳しい。
そのためには、集中して、短時間で
ひとつずつこなしていかなければならない。
ある人のメールに、
忙しくして、
「心を亡くさないように」という言葉があった。
心すべき言葉だ。
淡々と心乱すことなく、こなしていこう。
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タンポポ。江別市文京台

●不思議な感覚:No. 1239 2004.05.25

今朝は、霧雨であった。
歩いている途中で雨は上がったが、曇り空であった。
今朝、ふと不思議な感覚に襲われた。
それは、大学院時代、山に調査に行ったときに
山に入った瞬間に感じたものと同じ感覚であった。
今朝、道を歩いていて、林の中を通るために、
木々の中に入った瞬間に、その感覚に襲われた。
安らぎとも違う、えも言われる感覚である。
周りの音や景色から隔離され、
木々の中を草を踏み分け歩く。
そんな時に突如、感じた。
その感じが、
都会から山に何度も出かけていた時代に、
山に入った瞬間に感じたものと同じであった。
学部学生のときは、感じなかった。
何年も山の中で調査をした結果
感じることができるようになったものだ。
最初、北海道の山の中に一人で調査に入るのは、
恐怖であった。
学問という知的好奇心と、
自然に恐れおののく自分の恐怖心と戦いながら、
自然に分け入っていた。
そして、調査に入るぞという気持ちで、
強い緊張感もあった。
そんな時期には、こんな感覚は感じなかった。
5、6年野外調査を経た後、
そんな境地に達したのである。
今思い起こすと、同じような気持ちを、
指導教官の言葉からも聞いていた。
学部学生のとき、
指導教官と一緒へ山に調査に行くと、
山に入った瞬間、その教官は
「ああー、山に帰ってきた」
としみじみと独り言を
いっているのを何度か聞いたことがある。
その時の私は、これからの調査の緊張で、
そんな感覚はわからなかった。
でも、山や自然の中で長い時間を過ごしていると、
そんな気持ちに自分もなっていることに、
ある時から気づいた。
たぶん、その先生と同じ境地に達したのであろう。
今日、そんな感覚が訪れた。
なぜだろう。
私は、博物館に勤務しているとき、
自然を忘れていると反省し、
自然への回帰を、この大学に来て目指した。
その結果ではないだろうか。
そのために、2年以上の時間が
必要だったのかもしれない。
今から数えると野外調査だけでも、
この2年半に115日おこなっている。
多いか少ないかわからないが、
それほどの時間を自然の中で過ごすと、
そんな感覚が戻ってきたのだ。
この感覚が自然回帰の証ならうれしいものである。
そしてなにより、この感覚は、
非常に心地よいものである。
安堵、安らぎ、恍惚、リラックス
どれもぴったりとしない。
恩師のまねをすれば、
「ああー、自然に帰ってきた」
というべきものかもしれない。
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タンポポ。江別市文京台

●宝物:No. 1238 2004.05.24

岐阜で教員への実験授業をおこなった。
一応この手ものは、
何らかの成果を出すためにおこなっているので、
それぞれの気持ちがどうであろうが、
成功という結論を導き出すものである。
しかし、どうもしっくり来ないところがある。
実際にはそのようなところが目をつぶって、
よかったと成果ばかりに目を向ける。
もちろん対外的にはそれが必要であろう。
何かが違和感があるところ、
予想とは違ったところ、
うまくいかなかったところ、
そんなところについつい目をつぶってしまう。
しかし、もしかするとそんな失敗、
しこりのようなところに、
発展の芽ともいう宝物があるのではないだろうか。
それがもしかすると一番の成果かもしれない。
失敗に学ぶこと、
それが実践的試験での大切なことではないだろうか。
今回の先生たちへの実験授業では、
一番大切なところである
この実験授業へと取り組む姿勢が、
違っていたようだ。
主催者の目指すところと
受講者の望むところが違っているようだ。
それは、こちらの伝えかたが悪いのか、
それとも需要と供給が一致しない前提が悪いのか、
望む側の意識改革が必要なのか、
何が悪かったのか、よくわからない。
しかし、そんなところこそ
明確にすべきではないだろうか。
そのような失敗にこそ、重要なことが
隠されているのではないだろうか。
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ひとりしずか。江別市文京台

●忘れ物:No. 1237 2004.05.21

明日から、1泊2日で岐阜に行く。
教員教育の実験授業のためである。
仕事量が増えて、だんだんきつくなってきた。
今日、研究室に着いたら
カギを忘れているのに気づいた。
守衛さんに開けてもらったから
いつものと同じように研究室に入り、
仕事は始められた。
それは、それほど問題ではない。
それよりも、ショックだったのは、
このような忘れ物をしないために、
今まで色々注意を払ってきたのだ。
それが今回も、失敗したことだ。
何度も忘れたことでひどい目にあった。
不注意をなくすために、いろいろ注意をしてきた。
朝持ってくるものは、
札入れと、小銭入れ付きキーホルダー、
それと時計に付けた研究室のカギ、
の3つだけしにた。
3つのうちのひとつを忘れたのだ。
3つでも多いのなら、2つにすべきだ。
実は、なんとか2つにしたかったのだが、
手ごろなものがなく、できなかったのである。
以前は、ノートとスケジュール帳も
2つだったのをひとつにした。
でも、もう一冊バインダーを持ち歩いている。
もっと、数を減らすべきだ。
数を減らせば、忘れる率を減らせる。
最小はゼロである。
しかし、それは不可能だ。
一番の防御は、人間の側が注意を怠らないことだ。
その注意も習慣にすれば、
それほど苦痛ではなくなるかもしれない。
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すみれ。江別市文京台

●与えられた枠とできる枠:No. 1236 2004.05.20

今朝は小雨であった。
風が少しあったが、それほどひどくもなく、
濡れることもなかった。
雨は雨で、緑がしっとりしていいものだ。
暑くもなく寒くもなく、
過ごしやすい時期でもある。
大学はゴールデンウィークも終わり
定常的で落ち着いた時期に当るのだが、
私自身は、なぜか、なかなか落ち着かない。
私にとって、6コマ+非常勤1コマは、
束縛が大きいようだ。
非常勤の曜日は、一コマだが、
午前中は少し仕事ができるが、
午後は何もできない。
それに週に2日が3コマあるので、
その日は、ほとんど疲れて何もできない。
だから、一日2コマが
私にちょうどいい授業数のようだ。
週一日は午後から会議日だ。
すると私がおこなえるコマ数が
自ずから決まってくる。
週3日、最大6コマである。
そして残りの週で、
その講義の準備をすることになる。
来年度から新しいカリキュラムに変わる。
したがって、講義内容も
かなり変更をしなければならない。
まったく新しい内容の講義を、
前期後期で1つずつ加えることになる。
すると、その準備で
たくさんの労力を使わなければならない。
5コマが最大である。
現在おこなっているゼミは実質的に無理となる。
外的条件と自分の能力を考えると、
いい教育をするために、努力するが、
その努力は、ある与えられた枠内でしか
できないこととなる。
これは、当たり前のことかもしれない。
しかし、最高の学問、それも教養という
とらえどころないものを、教育として
与えることができるのだろうか。
来年度の講義内容を、かなり考えなければならない。
でも、そんな努力が、
自分自身のプラスとなるはずである。
講義内容が、自分の研究と
直結したものにすればいいのである。
いやしていかなければ、面白くないのである。
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たんぽぽ。江別市文京台

●覗かせてもらう:No. 1235 2004.05.19

今朝は晴れであった。
心地よい天気の中を歩いてきた。
いい季節である。
しかし、なかなか河原遊びや、
ハイキングができないのが不満だ。
それは、土曜日曜で、なおかつ好天の条件が
そろわないと行けないと思っているからだ。
気軽に野山に出ればいいのだ。
その気になれば、雨さえ降ってなければ、
近くの森に散歩に行けばいい。
でも次のチャンスは、
5月末か、6月になりそうである。
なんでこんなにいい天気の日に
デスクワークや屋内での仕事をしているのだろう
という気によくなる。
仕方がないことなのだ。
これが社会生活を営むということだ。
食べるため、快適に生きるために
自分が選んだ手段だ。
農業や酪農を生業とすれば、雨の日も雪の日も
つらい作業をしなければならない。
それを自分が望むかどうかだ。
日曜菜園のように天気のいいとき、
気の向いたときだけできればいいが、
相手が生物だから、
実際にはそうもいかないだろう。
生物を相手にするときは、
やはり手を抜けないのであろう。
だから、森や川、海へ自由に生きている彼らを
気の向いたときに、のぞかせてもらうのが、
私にはあっているようだ。
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緑。江別市文京台

●時間と知恵:No. 1234 2004.05.18

今朝は、雨上がりのどんよりした天気で、
少々風があったので肌寒かった。
しかし、歩いていると温まってきた。
曇りのためにいつもより暗い。
花と新緑の季節なった。
花が咲き、若葉が出はじめている。
緑が日一日と濃くなってくる。
雨の日には、じっと考え事をし、
晴れの日には、外で活動したくなる。
そんな季節となった。
いつもこのころには、
定常の仕事のサイクルに入るはずで、
安定しているはずなのに、
今年は、いろいろ仕事が増え、忙しい。
自分のため、大学のため、社会のため、
いろいろな立場で、
自分の役割をこなしているが、
でもやはり、自分のために時間を使いたい。
そしてそれが、大学や社会のために
なっているのが理想だ。
自分以外の人との共同や、
対象にした仕事は、他人への気遣いが必要だ。
他人への気遣いは、
いくらしても終わりがないのでつらい。
もしろん調整が必要となる。
一方、自分のやりたいことも終わりがない。
しかし、これは自分の好奇心を満たすためなので、
いくらでもやりたいこととなる。
できれば、自分のことに時間と知恵を
たくさん使いたいものだ。
そして、それを大学や社会に役立てることに、
時間と知恵を使いたいものだ。
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さくら。江別市文京台

●風の街:No. 1233 2004.05.17

昨日、久しぶりにアルコールを少々飲んだら、
今朝は体がだるい。
ほとんどアルコールを飲まない生活をしていたため、
肝臓がアルコールを分解するのに
疲れているのだろう。
やはり、アルコールは飲まない方が
私にはいいようだ。
今朝は曇っていた。
それほど寒くはなかった。
風がなかったせいであろう。
土曜、日曜は天気が悪く、
風もあり、外では過ごせない天気であった。
次男が、一昨日、隣の家の庭で半日外にいたら
風邪がひどくなった。
冬と比べて湿度が上がってきた。
家の中の湿度も上がり、
じっとしていると寒いのだが、
動くとすぐ蒸し暑くなって汗ばんでくる。
体温調節の難しい季節だ。
風さえなければ、いい季節なのだが。
いつも思うのだが、
この地域は風の街である。
風を有効利用すればいいのにと思う。
しかし、風力発電や風車などは、
酪農学園大学にひとつあるだけである。
ここでは、発電するほどの風はないのだろうか。
この町に住むものは風を知らなければならない。
風に慣れなければならない。
風があっても外で遊べる体を
作らなくてはならないのだ。
風があっても防御の仕方を学ばなければならのだ。
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つくし。江別市文京台

●ガーデニング:No. 1232 2004.05.16

昨日、8時ころから急に曇りだした。
風も強くなってきた。
だから、出かけるのをやめにした。
いつも土曜日曜は、天気さえ良ければ
出かけようと思っていても、
なかなか出かけられない。
それに風が強いので、天気でも肌寒く感じる。
残念である。
さてさて春からずうっと川原に行きたいと思っているのに、
まだ、一度もいってない。
また、近くでいい川原も見つからない。
夏までに何とかしたいが、
どうなるだろうか。
今年からキャンプをしたのでテントを探しにいったら
まだ、出ていない。
バーベキュー用品や、ガーデニング用品が
たくさん出ていた。
家内と子供、ガーデニングの買い物をした。
家に帰って、やりかけの子供の恐竜の
骨のモデルを完成した。
その後、次男は隣のうちで
庭いじりをずっと手伝っていた。
長男はミニトマトの鉢植えを作った。
家内はかいわれ大根とネギを植えていた。
家族そろってガーデニングである。
私は、興味がないので、家にいた。
さて、私のしたい快適な川原でのキャンプは
いったいいつのことだろうか。
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たんぽぽ。江別市文京台

●川原へ:No. 1231 2004.05.15

今日は晴れているので、お弁当を持って、
川へ遊びにでかかる予定だ。
長い時間、そしてゆっくりと遊べるような
川原が見つかるといいのだが。
風がなければ海でもいい。
行こうといっていていまだに実現しない。
いい川原のキャンプ地も見つからない。
そんなものを探しに行きたい。
川原の自然に接し、
そこでたくさんの時間をかけて遊ぶ。
これは、多くの人が忘れつつあることかもしれない。
そして、今の都会人からすると、
とっても贅沢なことかもしれない。
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●データで検証!地球の資源ウソ・ホント:No. 1230 2004.05.15

井田徹治著「データで検証!地球の資源ウソ・ホント」
(ISBN4-06-257316-4 C0240)
を読んだ。
たくさんのデータに基づいているが、
論理の不確かなことが多い。
ときには、論証されてない仮説の上に、
論理を構築している。
内容より、危ういところが
たくさん見受けられ気になった。
読者が、この本を読んで、書かれた内容を
ホントと信じているとすると、危ないことである。
ジャーナリストは、もっと論理的であるべきだ。
彼らこそ、常識にとらわれず、
証拠やデータをもとに、
もっともだと思われる考えをするべきだろう。
科学ジャーナリストの質を向上してほしい。
もちろんこの著者は、
その他のデータを基にしないジャーナリストよりは
証拠をたくさん示している点では充実しているが。
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みどり。江別市文京台

●無謀なもの:No. 1229 2004.05.14

今朝も雨である。
道路には、大きなミミズが車に引かれた
の死骸がたくさん落ちていた。
特に耕された畑の近くにはたくさんあった。
土の中にいればいいのに、
耕されてあわてて移動していくのだろう。
あるいは、今いた環境に飽き足らず、
新天地を求めて移動していくのだろう。
しかし、このようなあわてもの、
あるいは「無謀なもの」は、
多くのミミズうちでは少数派だろう。
このような一見無謀な行動を
起こすものがいることこそが
そのミミズにとっては重要な生存戦略とえいる。
このような行為が種としてできることが、
種の分布の拡大をするのだ。
「無謀なもの」の多くは、そのとき死ぬかもしれない。
しかし、ほんの少しでも他の地域で
生き残るものがいれば、
その種は広がり、反映する。
もし今までの住んでいた環境が、
なんらかの異変で存在しなくなったら、
種の大部分は死に絶えるだろう。
そのときに頼りになるのは、
今まで住んでいたところを離れていった
無謀とされる種だろう。
これは、ミミズだけでなく、
すべての種にもともと組み込まれている
生命の仕組みであろう。
多数派と違う「無謀なもの」の多くは、
新しい環境にたどり着けず死に絶えるだろう。
しかし、そのような「無謀なもの」がいるから、
種は新天地を開拓できるのだろう。
多数派として平穏に暮らすもよし。
少数派の「無謀なもの」としてチャレンジするもよし。
それぞれの生き方である。
私は後者を選びたい。
たとえ結果が「無謀なもの」の死だとしても、
夢にかけてみたい。
そして、もしも、万が一、成功すれば、
それは、人類への大いなる知的貢献ができるだろう。
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しずく。江別市文京台

●雨の中で:No. 1228 2004.05.13

今朝は雨である。
しとしとと暖かい雨である。
めまぐるしく天気が変わる。
でも、その天候のめぐりで
一気に植物たちが変化する。
朝見た枝の緑が夕方には濃くなっている。
そんな変化が感じられる。
今朝もゆっくりいろいろ見ながら歩いてきた。
そんな時ふと考えた。
朝5時50分に自宅を出て、
大学に着いたのは6時40分であった。
いつもは40分ほどで着くのに、
ゆっくり自然を楽しみながら歩いていると
10分ほどの多くかかっている。
通勤電車の乗り継ぎのタイミングが悪くて、
いらいらする10分を過ごすより、
ずっと楽しい10分を過ごした。
歩くことは、車や電車に比べれば
もちろん面倒だ。
でも、私は、それをしなければならないような環境に
自分をおき、通勤中に自然に接することにした。
こうでもしないと、田舎にいても、
なかなか自然に接することができないのだ。
こんな田舎にいても、サラリーマンとなると、
自然から遠ざけれられるのだ。
だかからこそ意識的に
自然に接する努力をしなければならないのだ。
つまらない努力だが、
現代社会で今生きるための
私の妥協点がここなのである。
そんなことを考えながら歩いてきた。
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えぞえんごさく。江別市文京台

●当たり前の自然:No. 1227 2004.05.12

今日は快晴であった。
自転車が大学においてあったので、
昨日、今日と、歩いてきた。
昨日は雨、今日は気持ちいい天気であった。
どちらもいいものだ。
植物を眺めたり、写真をとりながら、
いつもより長い時間をかけて歩いていた。
でも、ほんの10分や15分で
こんなに贅沢な時間を過ごせるのはうれしい。
忙しさにかまけて、
自分の本当に望んでいたものを
なくしていた都会生活を
今思い返しても、ぞっとする。
もちろん、そんな生活をいいと思い、
そして疑問なく過ごしている人も多いだろう。
田舎暮らしなど、
とんでもないという人も多いだろう。
でも、私はこんなに身近に自然に
接することができるのを
心からいいことだと思っている。
これはもしかすると、
現代社会で非常に贅沢なことを
しているような気にさえする。
ちょっとの前までは当たり前にあった自然が、
今やかなりの苦労しなければ、
目にできないのは非常につらいことだ。
転職までしないと手に入らないとは
非常に変なことだ。
そのために快適さを手にしたというが、
本当にそれが快適なことなのだろうか。
よく考えてみることが必要だ。
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すみれ。江別市文京台

●学会:No. 1226 2004.05.11

今朝は昨日からの雨だ。
暖かい雨である。
ある人のメールに返事するとき、
学会と自分のおかれた立場について考えた。

「今年は、○○学会は行きませんでした。
私は、大学教育で授業期間は、
宿泊が伴うような出張は難しくなってきました。
たぶんこれから、多くの大学で
そのようになっていくでしょう。
日帰りできる関東圏は
多くの学会に参加できるでしょうが、
地方大学は難しくなると思います。
しかし、私はこの状況を不利だとは
思っていません。
学会集会の存在意義は、
研究者にとっては業績を稼ぐために重要です。
あとは、同業者との情報交換でしょうか。
でも本当に自分属している研究分野は、
メールなどで最新情報は知っているはずです。
ですから、学会の集会とは、
いち研究者にとっては、
業績稼ぎとコミュニケーションが
重要な目的となっているように思います。
それは、今の私には、重要なことではありません。
私は、研究をしていますが、
主流をちょっと外れているからです。
少し外からみていると、
学会に多数参加されている人たちは、
教育に対してどのような比重を
おいているのでしょうか。
聞いてみたいものです。
私は、本務である学生教育の方が
重要ではないかと考えています。
少なくとも給料分は誠実にこなすべきです。」

と答えた。
教育は難しいものだ。
もしかすると科学以上に難しいかもしれない。
科学のように方法すら定まってないのだから。
日々模索が続いている。
そして、教育するからには、
最先端、最高の学問を伝えたいと考えている。
一流の研究者でなくとも、
一線級の科学を理解しておく必要がある。
そんな科学者であり教育者である人たちが
実は重要な役割を果たさなければ
ならないはずだ。
しかし、その重要性が
あまり理解されていないようだ。
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れんぎょう。江別市文京台

●桜:No. 1225 2004.05.10

北海道もやっと桜の季節を迎えた。
あちこちで桜の咲いているの見かける。
桜の季節になると、
桜の木がこんなに多かったのだ
ということがわかる。
そして、そんなに多い桜の木を
いいと思う自分がいる。
私だけでなく日本人はみんな
さくらが好きなのだろう。
だから桜の木がたくさんあるのだろう。
でも、私は、今年は花見をしていない。
通りすがりに花を見るだけだ。
こんどの休みには、
花を見ることができるだろうか。
でも、横目でも花を見ることのできるのは
気持ちいい。
できるだけ外に出て、自然に触れていこう。
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●弱体化:No. 1224 2004.05.08

3講目が終わって、その足で飛行機に乗り
実家の京都に向かった。
さすがに京都は暖かく、コートは要らなかった。
しかし、朝夕は肌寒く、上着を着なくてはならない。
こちらの人はこの気候に馴れているのだろう。
思ったより薄着で平気である。
ということは、北海道の人は寒さに対して、
暖房で対抗したために、
逆に寒さに対して抵抗力を失ったのかもしれない。
文明によって、人間は快適に暮らせるようになった。
しかし、その反面、人間が本来持っていた
肉体的、あるいは精神的な強さをなくしたのかもしれない。
つまり弱体化が起こっているのだ。
来るべき、エネルギー危機や資源の枯渇を考えると、
人間の肉体は強くなっているべきなのに、
逆に弱体化が進んでいる。
これは、人間の破滅への加速化が
促進されているのかもしれない。
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つくし。江別市文京台

●7回忌:No. 1223 2004.05.07

今日の講義が終わったら、そのまま京都に向かう。
父の7回忌である。
早いものである。
長男が生まれた年に父が死に、
そして次男が生まれたときに3回忌をし、
長男が小学校、次男が幼稚園に入ったときに
7回忌をする。
節目が一致するのも、より印象を強くする。
私が、父の死のときに与えられた宿題があった。
それは、理性がおこなう科学と、
人間としての感情。
この2つを、どう一人の人間で調和させるか。
あるは、私の研究、教育、今度の自分の生き方に
どう反映するのか。
それが宿題であった。
ある程度は折り合いが着いたように考えていた。
しかし、実行となると、おぼつかない。
たとえば、大学での教育と、家庭での教育。
この2つが整合性を持っていない。
大学教育は理性的おこなえる。
しかし、家庭教育は感情というものが
たぶんに影響する。
この2つが、まだ整合的に実施できない。
自分の未熟さなのだろうか。
それとも、もともと難しいことに
挑戦しているのだろうか。
わからないが、全力で取り組むしかない。
父になんて報告すればいいのだろうか。
まだ、決まってない。
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●スノーボールアース:No. 1222 2004.05.07

ガブリエル・ウォーカー著「スノーボールアース」
(ISBN4-15-208550-9 C0044)
を読んだ。
この本はカンブリア紀の前に起こった
全地球凍結の理論が認知されるまでの
過程を描いたノンフィクションである。
全地球凍結の理論は、
一人の個性的な人間によって作られていく。
そんな理論を著者自身が
世界各地に地質学者たちと赴きながら
体験して書いたものである。
もちろん反対論者の取材もしている。
非常に面白い本であった。
主人公ともいうべきポール・ホフマンとは、
カナダで一度案内をしてもらった。
また、カナダの地質調査所いた時代だ。
彼に対して、巨漢でマラソンランナーで、
タフであるという印象をもった。
しかし、それは断片に過ぎない。
この本から得たポール・ホフマンは
違った印象であった。
この理論がなかなか面白いものである。
斉一説を否定しているような面もある。
この件については、私も今後
充分考えていきたいテーマでもある。
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さくら。江別市文京台

●健康:No. 1221 2004.05.06

ゴールデンウィークは道北へ
自家用車で家族で旅行に出かけていた。
天気がよくなかった。
野外調査や野外での遊びがあまりできなかった。
残念である。
家に帰ってくると、晴れていた。
皮肉なものだ。
でも、天候ばかりは仕方がない。
出かけるとやはりたいしたことはしていなくても、
移動だけでも疲れてしまう。
子供たちも疲れているだろう。
でも、今度の土曜には子供たちは小学校の行事で、
花見がある。
私は、法事で京都に2泊3日で帰省する。
あわただしいことが続く。
健康だけには注意すべきだ。
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●成果:No. 1220(11) 2004.05.04
一級河川を調べるつもりが、
雪解けの増水だろうか、河原が出ているところがなかった。
だから、砂を少しとっただけで、
まだ成果がでてない。
つらいところである。
挽回できるだろうか。
こればかりは自然が相手だから、
難しいものがある。
努力するしかない。
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●デスモスチルス:No. 1219(10) 2004.05.04
デスモスチルスが発見された歌登にいった。
ゴールデンウィークだというのに
そこは人がほとんど訪れず、
留守番の人が独りいて、
我々がいくと電気をつけてくれた。
暖房ももちろん入っていない。
電気は頼んでつけてもらったが、
これではますます人は来ないだろう。
なぜこのような施設をつくったのだろうか。
国の助成金目当ての施設なのだろうか。
この状態なら、しかるべきところで
化石を集めたほうがきっと有効利用できるのではないだろうか。
少なくもと学芸員がいて、多くの資料があり、
生きている状態になっている標本として欲しいものだ。
そのためには、市町村レベルではなく、
道や国のレベルの施設をつくるべきなのだろう。
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●旅は続く:No. 1218(9) 2004.05.04
昨日は、午前から雨となった。
子供たちのほとんど車から外に出れず飽きたようだ。
今日もあまり天気が天気がよさそうではない。
しかし、旅は続く。
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●棒鱈:No. 1217(8) 2004.05.03
木組みの干物を干す台がたくさんある海岸があった。
良く見る、開いた魚がたくさん干してある。
身欠き鰊かと思った。
しかし、今はそんなに取れないから不思議だなと思っていた。
看板に棒鱈、身欠き鰊という文字があった。
たくさんあったのだタラなのだ。
タラを開いて干す木組みの3、4階建ての棚が
海岸沿いにたくさんあった。
面白かった。
カラスかカモメよけにネットがかけられている。
これが棒鱈になるのだ。
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●砂採集:No. 1216(7) 2004.05.03
昨日は、サロベツ原野を過ぎたあたりから
稚内あたりまで、砂はあまりとれず、苦労した。
周辺の海岸は、昆布やホタテの漁場になっているのだろうか
コンクリートで護岸されているところ多く、
なかなかいい海岸が少なかった。
それは、漁場として海岸が護岸されているからだ。
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●岬:No. 1215(6) 2004.05.03
昨日は稚内を回った。
サロベツ原野からノサップ岬、宗谷岬を回った。
サロベツ原野は広かったが
2つの岬は、狭くて人が一杯だった。
ノサップ岬はさらに狭くて車を止めるところがなく、
見学するのをあきらめた。
宗谷岬はぐるぐる回ってなんとか車を止めるところを見つけた。
考えてみると、岬とはとがったところだから、
狭いのが当たり前である。
そこに人が集まれば人が込み合うことになる。
まして日本最北端とも名前がつけば、
ますます込みあう。
ゴールデンウィークの天気のいい日なら
ますます込みあう。
でも岬から結局見えるのは、海だ。
多くの人は岬の先端で海を見ているだけなのだ。
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●知識の記憶:No. 1214(5) 2004.05.02
日本海沿いの国道を走ってくると、
町にはいると、その町の特徴を示す看板や街灯が気になる。
一目でこの町は何が名産、特徴、売りなのかを知ることができる。
そんな中、アンモナイトや砂金など
地質に関するものがあると、やはり気になる。
北海道の地質から離れて久しいので、
なぜそのようなものが産出するのかが
覚えていない。
書物に頼るしかない。
知識だけの記憶はなかなか残らないものだ。
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●誕生日:No. 1213(4) 2004.05.02
気づいたら、今日は私と次男の誕生日である。
奇しくも、4人の家族のうち、2人の誕生日が一致したである。
確率的には起こりうることである。
決して少ないものではないが、
それほど多くもあるまい。
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●天売、焼尻:No. 1212(3) 2004.05.02
30年近く前だろうか。
じつは天売、焼尻に来たことがある。
一人で立ち寄ったのだ。
海鳥の一杯いる海岸の崖、オンコの林、牧場などを
歩いて見て回った。
何せ昔なので記憶が定かでない。
来たという思い出と、
印象的な場面の映像だけが記憶されている。
人の経験、思い出とはこのようなものなのだろうか。
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●夕日の町:No. 1211(2) 2004.05.02
羽幌町で泊まった。
この町は、天売島、焼尻島があるため、
そこの海鳥が売りでもある。
宿は船を模したものである。
しかし、宿の部屋は全てが、西の海に面して立っている。
普通では考えられないつくりだ。
確かに海が西側にある。
じつは、もう一つの売りが、海に沈む夕日なのだ。
だから夕日を見るために西向きなのである。
そして、がきれいなので有名だそうだ。
昨日は天気が良かった。
ロビーに日の入りの時間が書いてる。
風呂上りに窓の外を見ると、
きれいな夕日が沈むところであった。
確かにきれいだ。
まあ、天気にも恵まれたのであるが、
知らなかったせいか、思わぬ儲けものをしたような気がした。
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●はまぼうふ:No. 1210(1) 2004.05.01
浜辺にでると、たくさんの人がうつむいて何かを探している。
きくと、「はまぼうふ」をとっているという。
葉っぱから地下にある茎の部分がおいしいらしい。
1、2cmの小さな葉っぱが砂から顔を出している。
似たような葉っぱがたくさんある。
しかし、葉っぱが光っているからわかるのだという。
馴れれば確かにわかる。
我が家の子供でも見つけられる。
しかし、写真を撮るためにひとつ掘った。
それ以外は見つけてみるだけ。
食べる気もないのに掘り出すのは
命を無駄にすることだから。
掘った一つも近くで探している人に子供にあげさした。
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●旅の一ページ:No. 1209 2004.05.01

今日は快晴である。
我が家は今日から5日まで、
4泊5日の道北旅行へ出かける。
我が家の旅行を紹介しよう。
私は、調査が目的である。
そのために、調査道具やパソコン、撮影、GPS、
関連の機材で、リュックと調査かばん一つが必要となる。
目的地は、道北の1級河川である
天塩川、渚骨川、湧別川で河原の調査
海岸線沿いの砂の採取、
そして各地の代表的な岩石を採取をすることである。
家族はもちろん観光旅行である。
だから、できる限り家族サービスをしなければならない。
子供が、どこでも遊べるように、
砂遊びセット、虫取り、魚とりセット、
旅館での遊び道具であるレゴやおもちゃ、本、
夜寝るときに読む本も12冊
などいっぱい持っていく。
車の中で飽きないように、
CDとカセットの何本も持っていく。
家屋全員分の長靴も忘れていけない。
だから荷物が多くなっていく。
それでも、子供が大きくなってきているので、
だんだん少なくなってきてはいる。
でも、車のバンの後ろは荷物で満杯となる。
行けばいったで、トラブルもある。
こんな旅行は、大変だが、
でも、やはり楽しいものである。
長男は、旅行に行ったら絵を描くことにしている。
旅館に着いたら、その日あったことを何枚か絵をして描く。
それを一昨年の暮から初めた。
何ページ書いたろうか。
2冊目のノートもだいぶ進んできた。
このノートも我が家の思い出となっている。
次男はまだ、なかなか絵にならないが、
書くための紙は用意していく。
何を書いたのかは、次男の頭の中だけにあり、
私たちには理解できない。
家には、旅から帰ってくると、
子供たちがあちこちで拾った
石ころや木切れがたくさん出てくる。
石ころはオブジェとして壁を飾っている。
でも、自然体験と家族の思いが一番のお土産となる。
以上が、我が家の旅行の様子である。
我が家の旅行は、観光地が目的ではない。
もちろん通り道にあればよることだってあるが、
川や海で自然に接して遊ぶことが一番の目的である。
そんな旅行の一ページがまた加わる。
今回は自宅から、自家用車で出発となる。
今日はいい天気だ。
いい旅ができるといいのだが。
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