思いつくまま

2004年01月
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目次 
●留研先:No. 1134 2004.01.31
●やるべきこと:No. 1133 2004.01.31
●考えるということ:No. 1132 2004.01.31
●日帰り旅行:No. 1131 2004.01.31
●やりくり:No. 1130 2004.01.30
●次なる目標:No. 1129 2004.01.29
●自由さを残す:No. 1128 2004.01.28
●思案中:No. 1127 2004.01.27
●夢を追いかけて:No. 1126 2004.01.26
●教育の評価:No. 1125 2004.01.24
●季節の移ろい:No. 1124 2004.01.23
●雪の中の運動:No. 1123 2004.01.22
●音楽への回帰:No. 1122 2004.01.20
●意図せぬ行為への感動:No. 1121 2004.01.19
●センター試験:No. 1120 2004.01.18
●田舎の暮らし:No. 1119 2004.01.17
●地球温暖化:No. 1118 2004.01.17
●吹雪の後に:No. 1117 2004.01.15
●等身大の生き方:No. 1116 2004.01.14
●当たり前のこと:No. 1115 2004.01.13
●エントロピーと子供:No. 1114 2004.01.12
●節約を子供から:No. 1113 2004.01.11
●快楽と自分への厳しさ:No. 1112 2004.01.09
●ライフライン:No. 1111 2004.01.08
●心の中の散策:No. 1110 2004.01.07
●歩み続けること:No. 1109 2004.01.06
●一年の計:No. 1108 2004.01.05
●ロールプレイング:No. 1107 2004.01.04
●初詣に思ったこと:No. 1106 2004.01.03
●初詣:No. 1105 2004.01.02
●時と心:No. 1104 2004.01.01

●留研先:No. 1134 2004.01.31
海外研修に3年後の春に出かける権利を持てる。
その申請が春にはじまる。
そのためには、どこに行くか決めておかなければならない。
心当たりがない。
候補地としては、
オーストラリア、イギリス、アメリカ、カナダ、ニュージーランド
など英語圏だろう。
地質学と哲学を結びつけるようなことをできないか。
そんなことをやっている人はいないのか。
地質学史ではない。
科学哲学でもない。
しかし、地質学史、科学哲学は基礎素養として必要だろう。
それを踏まえることも重要かもしれない。
やはり誰かを介して紹介してもらうしかないのかもしれない。
もし、いくとなると、2年という準備期間ができる。
なんとか早く行き先を決めたいものだ。
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●やるべきこと:No. 1133 2004.01.31
やるべきことがいろいろある。
そんなやるべきことをまとめておこう。
やるべきこと
・奨励研究の決定:海外調査
・留研先の決定
・4月からの方針決定:理系教員
・衛星画像論文
・本の骨子
・試料整理
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●考えるということ:No. 1132 2004.01.31
考えていることがなかなかまとまらない。
いや、考えることができない。
これは、考えるべきことが明瞭でないせいでもある。
いや、それ以前に考える気力、モチベーションも下がっている。
なにかのやるべきことをつくること。
なにか集中できることを早く見つけること。
それをする必要がある。
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●日帰り旅行:No. 1131 2004.01.31
東京に日帰りで出かける。
朝一番の飛行機ででかけ、
夜の飛行機で帰ってくる。
早朝は雪が降っていたのだが、
6時前には雪がやんでいた。
助かった。
日帰りの場合は、疲れるが、
泊まりよりは楽だ。
2日を使うより、荷物も少ないし、
泊まっても他の用事がない限り、
一日無駄になる。
それを考えると、日帰りに限る。
ただし、これができるのは、飛行機の便が
都合よく利用できる場合である。
いろいろなところを日帰りをしたが、
やはり東京が一番楽である。
そんな東京に今日出かける。
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木。江別市文京台

●やりくり:No. 1130 2004.01.30

昨日、短期計画を考えた。
3月でに、何がやりたくて、
何をやらなければいけないかを
リストアップした。
この中から、何ができそうかを
考えなければならない。
これが計画を立てることでもあるが、
現実的なものでなければならない。
日々やらなくてはならない仕事も
こなさなければならないのである。
やりくりが必要だ。
力を入れるところ、力を抜くところ、
細切れの時間ですべきこと、
集中してすべきこと、
こつこつとすべきこと、
そのやりくりをうまくしなければならない。
なにも、これは、短期の計画だけではなく、
長期計画でも、すべての計画で同じだろう。
計画の本質は自分に与えられた時間と能力という
有限のものを有効に使うためである。
その結果、成果をあげ、
できれば最大限の満足感を得たいのである。
計画はそうであるべきだろう。
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夜明け前。江別市文京台

●次なる目標:No. 1129 2004.01.29

仕事が一段落すると、
さあ次は何をしようかという気持ちになる。
それを考えているときが、一番わくわくする。
でも、いままで、一生懸命やってきていると
つい脱力感が生まれる。
これには注意が必要だ。
次なる目標をうまく定めて、
それをスタートすることだ。
実はそれが難しいのだが。
目標を決めようとすることが面白いのである。
やりたいことは一杯あるのだ。
どれをやるかを考えよう。
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木。江別市文京台

●自由さを残す:No. 1128 2004.01.28

毎日写真をとっていて
思ったことがある。
デジカメを使うようになって、
横位置で写真を撮るようになった。
時々縦位置で撮ることもあるが、
ほとんどが横位置である。
それは、画像を画面で見るとき
縦位置の写真は見づらいし、
位置を横のものを立てに修正する手間が
かかるからである。
しかし、これは、おかしいことである。
まさに主客転倒である。
写真をとるのは整理することが目的ではなく、
記録することが目的なのである。
縦位置だけでなく、斜めにして撮ったほうが
効果的なこともあるはず。
より目的物を大きく切り取れることもある。
かつてスライドを主にして撮るようになってから、
縦位置か横位置かでしか撮らなくなった。
それ以外の方法では撮らなくなった。
ここで一度自由さを減らしている。
自然物のあるがままの姿を
ある限られた画角で切り取るのだから
その切り取り方ぐらい
自由さを残しておきたいものだが、
これからは適切な切り取り方を優先していこう。
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雪と松かさ。江別市文京台

●思案中:No. 1127 2004.01.27

一生懸命やっていることが、
評価されずに、形式が重視される。
形式、皆と同じでなければ許されない。
一歩先を行くと怒られる。
出すぎた杭は打たれる。
良かれと思って一歩先に行くと打たれる。
世の中はままならないものである。
そんなときは潔く身を引くほうがいいと思う。
お互い、ストレスの元である。
しかし、引き際が難しい。
思案すべきである。
喧嘩して分かれるのが
一番手っ取り早いし、
すっきりしている。
しかし、精神的には、疲れる。
おとなしくしていて、
何かの理由を見つけて分かれるの一番いいのだが、
それもいつになるかわからない。
悠長な作戦である。
だから思案中である。
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アイスバーン。江別市文京台

●夢を追いかけて:No. 1126 2004.01.26

ある活動に参加していた人から
久しぶりにメールが届いた。
数年ぶりだったので、
私のメールアドレスを忘れていたのだろう。
私もその人のアドレスが
まだ使われているかどうか
わからなくなっていた。
でも、インターネットのホームページを
たどっていって私のホームページに
たどり着いたらしい。
元気にやっていることを知らせてくれた。
私も夢を追いかけるように、
次のような返事を書いた。

「こんにちは。

ほんとうに久しぶりです。
まったく連絡を取れてなかったので、
どうしているのか心配していました。
そうですね、Nさんも、
もう卒論の時期なのですね。
早いものです。
Sさんは修士論文を書いているはずですが、
連絡しても、返事がありません。
多分、必死にがんばっているのでしょう。
Nさんは、博士課程に進んで、
修士論文を書いて終わるのですか。
それも自分の選択肢です。
何らかの計画があっての行動でしょう。
その計画は、自分の夢でしょうか。
もしそれが自分の夢なら素晴らしいことです。

夢を持つことは大切です。
夢さえあれば、
どんな苦しいことも耐えていけます。
そして、夢に向かっているかぎり
やっていることは周りから見ると大変でも、
思い返すと、自分ではそれほど大変でなく
楽しい思い出でもあります。
私は故あって、いま北海道の江別で暮らしています。
多分、この地が終(つい)の住まいとなるでしょう。
そんな気持ちでこの職場を選びました。
ある人から見れば、
公務員という安定した職から、私大の教員へ。
神奈川という都会から、
北海道のそれも江別という札幌から外れたところへ。
というような見方もあるでしょう。
でも、私は理想の地、理想の職として、
ここを選びました。
他人がなんと言おうと、
自分の夢に向かっているときが幸せです。
幸いにも家族もこの夢に同意してくれています。
ですから、次は私の夢を何とか実現させたいものです。
Nさんも、ぜひ、自分の夢を追い求めてください。

また、連絡をください。
気長に待っていますので。
ではまた。」

友人から久しぶりに連絡をもらうのは、
うれしいものだ。
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●教育の評価:No. 1125 2004.01.24

昨日、廊下を歩いていると、
試験監督を終えられたある先生が、
「試験を時間いっぱいまで、
がんばっている学生が
試験ができているとは限らない」
という話をされているのを聞いた。
私もそれは感じることがあったが、
それは、今の教育の評価の方法に
問題があるのであって、
学生に問題があるのではない。
そんな集中力をもってやっている学生こそ
評価してあげ、励まして、
さらにモチベーションを高めてあげる
努力をすべきであろう。
そのためには多人数の講義ではなかなか難しい。
少子化が進んでいるこんな時にこそ、
教育の密度を上げる努力を
すべきではないだろうか。
大学も商売は商売として努力すべきだが、
教育の質を高めることこそが
一番の経営努力すべきところではないだろうか。
そのためには、もう少し柔軟な評価方法を
考えていく必要があるかもしれない。
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街灯と木。江別市文京台

●季節の移ろい:No. 1124 2004.01.23

日がだいぶ伸びてきたようだ。
朝、家を出る時間は6時前後だが
日によってばらばらである。
しかし家を出ることは真っ暗だが、
歩いているうちに周りが明るくなりはじめる。
その明るくなり方が、その日の天気によって
いろいろ変わっていく。
なかなか面白い。
6時半から7時ころに大学に着くが
そのころにはだいぶ明るくなっている。
寒くて雪の降る明け方であっても
季節の移ろいは目に見えてくる。
寒さや雪はまだまだこれからであろうが、
太陽の運行は季節を先取りしているようだ。
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並木。江別市文京台

●雪の中の運動:No. 1123 2004.01.22

さてさて試験がはじまり、採点もはじまった。
忙しくなる。
でも、他にもこなすべきものがある。
それもこなしたい。
新聞を読んでいたら、
スノーシューについての記事があった。
やってみたいのだが、
単価が高いのでそうしようか迷ってしまう。
それに、子供でもはけるものでなければならない。
わかんのような木の軽いものがあるといいのだが。
北海道の冬は、身近にある雪の中で遊ぶことを
考えたいものだ。
私は、スキーは怪我が怖いのでやめた。
それに10年間北海道に住んでいたとき
スキーを何度もやったが上達しないせいもあった。
しかし、冬の屋外の運動をしてみたい。
冬の森も面白いはずだ。
雪の中を歩くには、スキーかかんじきのようなものを
はかなかればならない。
私のような人間には、歩くスキーがいいのだが、
それでは、スキーをしたことない
子供や家内には難しいだろう。
だから、スノーシューのようなものがいいのだが。
一度探してみようか。
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●音楽への回帰:No. 1122 2004.01.20

今日で後期の授業は終わりである。
明日からは定期試験となる。
私は、今週中に論文を仕上げなくてならない。
ほぼできているのだが、
まだ少し考えるために時間が必要だ。
Portable Hard diskの20Gbを使っていなかった。
それを今度は、音楽用として利用することにした。
しかし、再生装置はコンピュータがないと
できない点が不便である。
しかし、今まで聴かずにしまいこんでいたCDを
利用できるようになってきた。
CDのコンピュータへの読み込み速度が速いので、
一枚の音楽用CDのデータを
10分ほどで読み込んでしまう。
手持ちのCDを簡単に読み込んでしまえるのである。
手持ちのCDは半分ほどしか読み込んでいないが、
917曲で3.34Gbしかはいっていない。
もし20Gbすべてに音楽を入れたとすると、
5000曲ほど入ることになる。
CD枚数にして500枚である。
とってもじゃないがすべてを聴ききれるものではない。
このような操作をするために
同僚からApple社の無料ソフト
iTunesというものを紹介してもらった。
これはなかなか優れたソフトである。
iPodというApple社の再生用のPortableHDの
装置のソフトだが、
Windouwsユーザも意識したものでもある。
しかし、問題はいつ聴くかが問題だ。
家ではテレビが中心であった。
しかし、これからは音楽を中心にしても
いいかもしれない。
テレビの情報は必要なものだけを
必要なときだけ見るようにすればいいのだ。
最近は音楽の世界にあまりに接していない気がする。
もう少し、接触があっていいのかもしれない。
そんなことを考えてしまった。
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木の枝。江別市文京台

●意図せぬ行為への感動:No. 1121 2004.01.19

今日はゼミ、明日はゼミの補講で、
これで後期の日程が終わり、
定期試験となる。
その後に短い期間で、
採点と成績をつけなければならない。
これが終われば、今度は大学の入試だ。
なにかとあわただしい時期だ。
でも、細切れの時間がいっぱいできる。
そんな細切れの時間こそ、有効に使うべきだ。
今年こそ、2月と3月を有効に使おう。
昨日のセンター試験の監督をしていたとき感じた。
真剣に物事に取り組む姿は素晴らしい。
たとえどんなこと対しても、
真剣であることは素晴らしい。
そして、そこには何か人を厳かな気持ちにさせる
何かが生じてくるようだ。
人間の真摯な行為が人間の心を動かす。
しかし、これは意図しているのではなく、
無心にやっているからであろう。
意図した感動は、よほど注意深く
しなければならない。
音楽、文学、演劇などはそれにあたるだろう。
しかし、それらは感動を与えることを
目的にしている。
だから味わう側も感動を与えられて
当然のつもりでいる。
もし、感動を与えられないときは
すごく損をした気がする。
だから逆に大変だ。
意図せぬ行為が予期せぬ感動を生むとき
そこにすごくいい感動があるのではないだろうか。
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●センター試験:No. 1120 2004.01.18

昨日と今日はセンター試験である。
わが大学でもセンター試験がおこなわれる。
私も今日の試験監督をしなければならない。
昨日と今日は、寒いが、いい天気で
公共の交通機関は通常通り動いているはずだ。
センター試験は全国で
一律の条件でおこなわれるから、
詳細にすべきことが決められている。
面倒でもあるが、
そのとおりやればいいという安易さもある。
でも、考えてみると、
多くの同年代の学生が
時を同じくして、同じ試験を
受けているというのは、
不思議な景観であろう。
多くの人は、この人ために、準備し、
体調を整え、試験に臨んでいるはずだ。
でも、ベストの条件で試験を
受けられるとは限らない。
北は北海道から、南は沖縄まで、
さまざまな気候条件で試験がおこなわれる。
決して同一条件などはありえないであろう。
あるいは人間であるから、
体調もいろいろであろう。
だから体調を崩したり、天候の都合などの
ベストで試験が受けられないこともあろう。
そんな場合は追試験がおこなわれるが、
ベストで受けられない試験で、
その人の将来を選別するというのは
納得できない人もいるだろう。
あるいは対等の条件であるから、
それでいいという考えもあろう。
試験は、時間と共におこなわれる。
一定時間で回答することを要求される。
人間の将来を、このような試験という尺度で
選別することがいいかどうかを
本当は問うべきであろう。
しかし、これもいまさらといわれそうだ。
がんばってもらうしかない。
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●田舎の暮らし:No. 1119 2004.01.17

昨日は久しぶりに札幌に出かけた。
私は、バックアップ用のハードディスクとDVD-Rを
購入することが目的であった。
地図や画像が多くなってして、
バックアップをしておかないと
何かあったとき大変だからである。
DVD-Rのメディアも購入した。
焼くのにどれくらいの時間がかかるかわからないが、
大容量データのバックアップに
試しに使ってみようと考えている。
すごい時間がかかりそうで心配である。
4.7Gbを焼くのだから。
さて、札幌に家族で出かけたのだが、
街に出ると人ごみの中ですぐに疲れてしまう。
私だけでなく家内もそうである。
でも、これがもともとの人間の生理ではないだろうか。
人間も生物である。
生物は自然の環境に適応しているはずである。
その環境とあまりにちがっていれば、
やはり体や精神に良くないのではないだろうか。
都会の異常なほどの暖房、
外との激しい気温差、
見知らぬ人との異常の近接、
車の騒音、排気ガス。
このような環境が人間にいいとは思えない。
私にとって都会は必要に迫られた時だけ
行くのがいい。
用がなければ出かけたくない。
でもこれは、もしかすると私が
田舎の暮らしが身に付いた
せいだけなのかもしれない。
しかし、これは望むところである。
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●地球温暖化:No. 1118 2004.01.17

伊藤公紀著「地球温暖化」
(ISBN4-535-04821-5)
を読んだ。
温暖化に対する不確かさを
はっきりと示してくれているいい本であった。
温暖化に対する私の疑問に対する
多くのヒントが書かれていた。
私もこれを基礎的参考書として、
地球温暖化に対して勉強していこうと思った。
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2本の木。江別市文京台

●吹雪の後に:No. 1117 2004.01.15

天気予報ではまだ強風大雪注意報がだされている。
確かに気象衛星の画像をみると
台風のような低気圧が2つ並んでオホーツク海にある。
北海道には台風はあまり来なが、
台風クラスの典型的な寒冷低気圧ができている。
冬型の気圧配置で等圧線が混んでいる。
小康状態に入っているだけだろうか。
今朝は、昨日の暴風雪と打って変わって
穏やかな朝となった。
薄く曇ってはいるようであったが、
風もなく、月さえ見えていた。
今朝、歩いてくるとき、
いつもの景色とだいぶ変わっていた。
それは、激しい吹雪でいたるところに
吹き溜まりができたり、雪が吹き付けられたりして
いつもとは変わった景色が見えていたからであろう。
天候の激しい変化があったあとは、
なんとなく見慣れない景色が見えて面白い。
そういえば、子供のころ、
台風のあとに変化した町を
見て歩いた記憶が残っている。
これは、好奇心だろうか、野次馬根性だろうか。
見慣れているものが、見慣れないものへと
変貌しているのをみるのは好奇心をくすぐるものだ。
しかし、見る側の好奇心だけならいいのだが、
被害者というものがいると、そうはいかない。
見る側のマナーや良識が必要となる。
そのへんの境目を見分けることが
重要な素養が体得が難しい。
これは、自然の驚異を幾度となく
体験するしかないのかもしれない。
そして、被害者や援助者、観察者など
さまざまな立場になって経験をつむことも
必要なのかもしれない。
そのためには、野外、現場というものに
接することが大切なのだろう。
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●等身大の生き方:No. 1116 2004.01.14

今朝はいつもどおり家を出た。
外は激しい吹雪であった。
農場を通るときは、
風をさえぎるものがないので、
激しい横殴りの吹雪となっていた。
メガネが曇って前が見えなかった。
途中からメガネをはずして歩いた。
風に面している方のポケットに、
デジカメを入れたいたら雪がかかってきたので、
反対側に入れかえなければならなかった。
大学に着くとポケットには雪がたくさん入っていた。
10時前の今は、早朝以上に激しい吹雪となっている。
電車やバスが遅れたり、
止まったりしていなければいいのだが。
今日は大学は正規の授業ではなく、
補講の日である。
こんな天気でも、いつもどおりに、
自力で40分ほど歩けば大学に着く。
そして、通常通りのことができる。
いいことである。
これは、考えてみると当たり前のことなのだが、
動力に頼った社会では、
こんな当たり前のことができないときもある。
天候に左右されることなく、
自分のしたいことができるのである。
これこそ、自分の体の大切さと、
等身大の生き方の大切だろう。
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雪の並木。江別市文京台

●当たり前のこと:No. 1115 2004.01.13

今日は1時間半ほど寝過ごした。
その上家内が子供の病院の予約を取りに行ったので、
子供の世話をしていた自宅を出るのが遅れた。
いつもより2時間ほど遅く自宅を出た。
明るい朝日の中を歩いていくことになる。
人通りも車の通りも多くなっている。
そんな中を歩くと、いつもとは違った
景色や自然を見ることができる。
新鮮な感じがして面白かった。
時間の変化が景色や自然を違ってみせる。
当たり前のことである。
しかし、そんな当たり前のことが
強く感じられた。
それが面白かった。
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●エントロピーと子供:No. 1114 2004.01.12

今朝も雪が降っている。
今までの雪の少なかったのを
補っても余りあるほど降っている。
昨日は、子供と雪かきの後、
子供たちのおもちゃ箱を整理した。
壊れているものやいらないものを捨てようとすると、
それはいるという。
使って遊んでいるのを
一度も見たことがないのに、いるという。
いるいらないの区分を、
子供たちはどこでしているかがわからない。
子供たちには、しまうためのスペースがないという
空間には限界があるということが
理解できないのかもしれない。
また、しまうことも非常に苦痛を感じるようだ。
あとで続きで遊びたいと思うのだろうか。
しまうことは遊びが終わることを意味するからだろうか。
しかし、実際には遊びの続きをしなかったり、
突然気が変わって別の遊びをする
なんてことがすぐに起こる。
大人はやっと片付いてほっとしていると、
しばらくするともとの状態へともどる。
徒労感が募る。
エントロピーは増大し続けるものである。
あるときエネルギーを注入して秩序を持たせても、
それは、一時的、刹那的なものだ。
しかし、しないわけにはいかない。
足の踏み場もないほどになり、
生活に支障をきたるようになるからだ。
これが毎日繰り返されるのである。
かなり抜本的整理をしてもエントロピーの増大に
歯止めはかけられない。
なぜなら、エントロピーの増大は
自然の、子供の摂理だからである。
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●節約を子供から:No. 1113 2004.01.11

ここ数日多くの雪が降った。
今までの少ない降雪を補うかのように、
大量に降った。
今日も、子供たちと一緒に、
除雪をすることにしよう。
最近、長男が買い物に出かけるのを
嫌がるようになった。
それは買い物をしているより、
家で自分の好きなことをしているほうが楽しいからだ。
だから、気軽に家族で買い物に出かけることが
やりにくくなった。
置いて出るときも一番近くのスーパーに
夫婦で急いで必要なものを買ってくるだけである。
そうしないとすぐに1時間や2時間が
過ぎてしまうからである。
しかし、おかげで、無駄に買い物をすることがなくなった。
消費の快楽をというものを減らせるようになってきた。
自分たちだけでなく、社会や地球にもいいことであろう。
あとは、この傾向を守れるかどうかだ。
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●快楽と自分への厳しさ:No. 1112 2004.01.09

昨日、全道的に大雪が降った。
雪に慣れているはずの北海道でも、
かなりのトラブルがあった。
テレビのニュースでも、除雪がなかなかこないという
トラブルを伝えていた。
そんなニュースを見ながら思った。
昔と比べれば、信じられないくらい
除雪の体制はよくなっているはずだ。
年に何度が廃雪もしてくれる。
しかし、人間は一度楽を覚えるといけない。
なかなか苦労すること、大変な方へは戻れない。
楽さを権利かのように勘違いして、
楽さを破壊されることを極端に嫌う人もいる。
でも、よく考えてみることだ。
それは摂理に反することではないか、どうか。
楽さから得られる達成感は、
人間に自分にとっていいことなのか、どうか。
我慢した後に得られる達成感の味わいは、
何ものにも変えがたい。
その我慢が、初原的なもの、
たとえば肉体的、精神的努力を
要するものであればるほど、その達成感は大きい。
そんな達成感を味わうことが、
最近は少なくなってきているような気がする。
除雪にしても、商業主義によって、
業者委託、ロードヒーティング、自家用除雪機など
楽さを金で買うことが、
あたかも是であるかのように喧伝されている。
しかし、体を動かし、除雪することによって、
冬の運動不足を解消できるし、
廃雪にも知恵をつかなければならない。
そんな達成感を手軽に味わうことができる。
除雪の後の汗は、すがすがしい達成感を味わえる。
そんなことも少しずつなくなってきた。
ジョギングや犬の散歩をするくらないなら、
自力で除雪すればいいのだ。
北海道では、一週間に数度は除雪が必要になる。
これを利用するればいいのだ。
職場と住居も歩いていけるところにあれば、
たとえ1時間かかろうが歩けばいいのだ。
1時間歩けば、必ず着くのだ。
そんな必要時間を生活の一部に組み込めば、いいのだ。
肉体的な、かつては当たり前にしていたことを
生活に組み込むようにすればいいのだ。
それも、できるだけ自分に厳しくして、地球に優しくすれば、
そのやさしさは自分に戻ってくる。
これが、大雪のニュースから考えたことだ。
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枝と雪。江別市文京台

●ライフライン:No. 1111 2004.01.08

昨日は冷え込み、昼間も気温があまりあがらなかった。
今日は、気温はそれほどでもないが、
雪が大量に降った。
30cmほども積もったろうか。
いつものように自宅を出ようとしたが、
あまりに雪が深いので、長靴を履いてできた。
気温はそれほど低くなく、
雪の中を歩いているせいか、
汗ができて、手袋、帽子をとり、
襟も空けなければならないほど体が暖まってきた。
北海道で、豪雪の日にも
いつもと変わりなく生活することが、
文明社会だからできるようなってきたのだ。
本当なら、屋根の雪下ろし、出入り口の雪かきを、
なにをおいてもすべきなのだろうが、
今では、それも、急ぐ必要がなくなった。
豪雪に耐えられる家があれば、
玄関先の雪をどければいい。
車さえ使わなければ、
人の歩くところを確保すればいいのだ。
車も、我が家は屋内の駐車場だから、
道路の除雪が終わってから、
必要となれば、使えばいい。
無理して使うこともない。
いざとなれば、じっとしていればいいのだ。
これも、電気、水道、ガス、灯油などの
ライフラインが確保されているからだ。
自宅は、 灯油はタンクがあり、
ガスも都市ガスが配管されている地域だが、
プロパンガスにしている。
だから、暖房はなんとかなる。
水道の本管は1.5mの不凍深度に埋設されているし、
自宅内は、水を使っている限り、
凍結することはない。
実は肝心の電気が、問題である。
電気がなければ、すべては終わりである。
何とか必要最低限の電力を自給したいが、
まだ、風力発電も太陽光発電も実施していない。
できれば、ストーブの電力と灯油のモーターだけは
なんとかしたいものだ。
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沈む満月。江別市文京台

●心の中の散策:No. 1110 2004.01.07

今日から通常通り生活に戻ることになる。
今日、大学に来るまで歩きながら考えた。
毎日決まった道を歩いているとき、
何をしているか考えてみた。
あるときは、撮影できる自然がないかを考えている。
あるときは、滑らないように気をつけている。
あるときは、仕事のことを考えている。
あるときは、ボーっと何気なく考え事をしている。
いろいろなことを頭で考えながら歩いている。
歩くいうことの他に
考えるということことをしているのではなく、
歩くと共に考えるということをしている。
それも、自然の中を歩くと共にである。
この考えるということには、
外に意識を向けていることとと、
自分自身に意識を向けていることの2つがある。
もし、歩くではなく、車だったらどうだろうか。
音楽、ラジオ、運転と、
自分自身に意識を深く向けていることは
少ないように感じる。
自分自身の意識の中にいちばん入りやすい時間、
それは、自然の中を歩いているときではないだろうか。
自然を感じるのも、
歩いているときが一番ではないだろうか。
現代人は、自然の中を歩く時間が減ってきた。
公共の乗り物では、人工の環境に自分をおき、
他人がすぐ横にいる。
そんな環境では、他人の影響なく自分に入り込めない。
自然の多い中を歩くこと、
これが、いちばんスーッと自分の意識の中に
無意識に入り込める方法ではないだろうか。
テレビや音楽などの人工のない、
自然の景色、風、匂い、温度、靴底の感触など、
より自然に近いものを肌で感じる時間が、
必要ではないか。
自分の中の自然の状態を常に感じる時間を持つこと、
これが重要なではないだろうか。
でも、現代生活では
自分の中の自然をなくしているのではないだろうか。
そんな時間をなくした現代人は、
深く自分の考えの中を巡り歩けないのだ。
これも一種の自然破壊ではなだろうか。
自分自身の心の中の散策も
これからは必要な時期に来ているのではないだろうか。
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雪化粧。江別市文京台

●歩み続けること:No. 1109 2004.01.06

今日は、午前中を研究室にいることにしている。
たまった仕事をとりあえず、こなすことにする。
そして、年度区切りのハードディスクや
メールやファイルの整理をする。
そして、明日からは、本格的仕事を開始しよう。
やることはいろいろあるが
どこまでこなせるだろうかわからない。
でも、止まることなくたとえ少しでも一歩でも
進むことが重要である。
目標に向かって歩み続けること、
それが重要であり、いちばん大事な目標である。
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雪囲い。江別市文京台

●一年の計:No. 1108 2004.01.05

久しぶりに研究室に出た。
メールの処理だけで予定時間を過ぎてしまった。
朝から税務署に再度出かけた。
そのために、時間が限られていた。
仕事がたまっている。
結果的に1週間の長い正月休みになった。
少しは、仕事に追われたほうが、
仕事をしはじめるには、いいのかもしれない。
明日も午前中だけ研究室でかけることになる。
やるべきことを整理していくべきだろう。
一年の計をたてて望もう。
昨年のように2月に中だるみにならないようにしよう。
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おみくじ。江別市

●ロールプレイング:No. 1107 2004.01.04

昨日は一日中、家族で家に居た。
久しぶりにお正月のテレビ番組をいろいろ見た。
こんなにテレビを見たのは久しぶりだ。
子供たちは、お年玉にあげたレゴブッロクを
二人に2箱ずつあげたので、
2日にわたってつくり、遊んでいた。
子供たちには、楽しいことなのだが、
はたで見ていると、よくもこれほど遊べるなと
感心するほど飽きずに遊んでいる。
子供たちは二人で何らかのストーリをつくりながら
遊んでいるようだ。
ストーリはしょっちゅう変わっているようで
飽きることなく遊んでいる。
ロールプリイング遊びとでもいうのだろうか、
いくら遊んでも飽きないようだ。
そんな子供の遊びに興じる姿を見て、
自分も役割について考えた。
大人も、はたから見ると、
なぜこれほど毎日長時間働くすることあるのか
と思うほど、仕事をしている。
これも、ある役割を果たしているからかもしれない。
そしてその役を完璧に果たすことに、
何年も、何十年の時間をかけるのだ。
演技が認められたり、ダメだといわれて、
その評価に応じて新たな役割へ変わっている。
何のことはない、
子供たちのロールプレイングの延長に
われわれ大人の社会もあるのかもしれない。
そんなロールプレイングからはずれて生きることは、
人間として社会生活を営むことを
否定することなのかもしれない。
生きていくということは、
組織、地域の一員として
子として、夫として、親として、
自分の役割を、いかに上手に演じるかを
日々努力していくことなのかもしれない。
われわれはいつもよりより演技者であることを
目指しているのかもしれない。
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雪の灯ろう。江別市

●初詣に思ったこと:No. 1106 2004.01.03

昨日は、車で神社へ初詣に行った。
近くの神社がないからだ。
駐車場がわからなかったので、
近くのスーパーの駐車場へ車を止めて、
駐車場の人に断って、歩いていった。
2日の朝9時過ぎだったので、
神社はそんなに込んでいなかった。
雪道をテクテクと遊びながら、家族で歩いていった。
雪景色の中、神社がなかなかきれいだった。
子供がおみくじをしたがった。
くじと勘違いしたのだ。
そんな時に、習慣とその背景にあるものに考えがいった。
子供には宗教というものがよくわかっていない。
長男はキリスト教系の幼稚園にいっているので、
幼稚園ではキリスト教的な行事が行われる。
冬休み中も、毎日お祈りをして、
色をぬる用紙をもらっている。
だから、キリスト教のお祈りを毎日する。
次男は習ったこともないのに、
長男のまねをしてお祈りができるようになった。
まさに門前の小僧習わぬ経を読みとなった。
子供たちは、神社で、賽銭をあげて、
すずをならし、お祈りをする。
子供は素直である。
行われていることの理由より、
楽しいこと、みんなのすることなど、
ごく普通の行為として、すべての行事を吸収してしまう。
そこに宗教的意味、背景、歴史など
考えを及ぼすことなく、素直にイベントを受け入れている。
これは、日本人の宗教の原点があるような気がする。
与えられるものを素直に受け入れる。
みんながやるからというごく素直な動機によるのである。
これが、子供なら罪もなく問題ではないのだが、
大人がこのような行為をするというのは、
文化や伝統というものを、意識せずに
流れの中で、軽い気持ちで行っているような気がする。
その文化、伝統の背景にあるものを問うことなく
受け入れ、行動していくことは、
もしかすると非常に危険なこと、矛盾に満ちたことを
無批判に受け入れていくことになるのではないか。
間違った未来をもごく素直に、
無批判に受け入れていくのではないかと思うと
背筋が寒くなった。
そんな初詣をしてきた。
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●初詣:No. 1105 2004.01.02

昨日は午前に母を送っていき、
本屋で本を買い、昼に帰ってきた。
家内が途中で気分が悪くなったので、
昼食を外で取る予定だったが、急遽帰ってきた。
風邪気味で、昨夜母に付き合って
紅白が終わるまで付き合って
寝不足だったからだ。
それに加え、暖かいところと寒いところへ
繰り返し出入りしたので、気分が悪くなったようだ。
帰ってしばらく寝たらだいぶよくなったようだ。
今日は、近所の神社へ初詣をしよう。
昨年はアパートの近く神社があった。
子供をそりに乗せて歩いていった。
できれば、今年も歩いていきたい。
歩いていけるようなところに神社があるかどうか。
地図には出ていない。
でも、人目につかないところに
ひっそりと小さな神社がいい。
それが、一年に一度、みんなの注目を浴びるのだ。
これが、何十年も繰り返されているもの。
そんな時間の重みを感じにいこう。
宮司がいるような立派な神社もいいだろう。
でも、できれば、小さな神社がいいものだ。
わからないことにはいけない。
少し、探してみよう。
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●時と心:No. 1104 2004.01.01

昨日も、そして今日も普通の日としてすごした。
母が来ているため、少しの違いはあるが、
ごく普通の日常となった。
年の区切りとは、何のため、誰のためなのか。
習慣、儀礼、形式、心の切り替え、リセット。
大晦日、1月1日を区切りに何かがよくなればいい。
もし、商業主義やマスメディアに踊らされているなら、
もう一度振り返るほうがいいかもしれない。
古きよき時代にはそれぞれの風習には意味があった。
それ知り、実践をしてきた人は日に日に減っている。
でも、時は否応なく流れていく。
われわれが進んでいるこの道は、
本当に正しい選択なのだろうか。
時勢、時代などの時の流れは、
受け入れるべきものだが、
もしその流れが間違っていると思うとき、
どうすればいいのだろう。
自分自身の生活を変えるのは可能かもしれない。
でも、それで時代が変わるのか。
一家で取り組めばよりよくなるかもしれない。
でも、それで世間を説得できるのか。
世間に対して意見を言うのもいい。
でも、それをいうだけでいいのか。
都会に住むナチュラリストのように
自分自身が矛盾に満ちた存在にならないか。
時代の評論家、偏屈者、変人、奇人。
彼らに時代を変える能力があるのだろうか。
やるべきに目に見えた効果はないかもしれないが、
やはり心を伝えることである。
何が大切で、何が間違っているのか。
この身を任せている時の流れは間違っている
ということを知りながら流されていく心。
流されていきながらも心はその間違いを強く意識すること。
そんな心を伝えることが大切ではないだろうか。
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