思いつくまま

2003年06月
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目次 
●名残惜しさ:No. 883 2003.06.30
●科学的とはどういうことか:No. 882 2003.06.30
●人間関係:No. 881 2003.06.29
●大江戸えねるぎー事情:No. 880 2003.06.29
●得より徳を:No. 879 2003.06.27
●体の声を聞く:No. 878 2003.06.25
●怠惰脱出法:No. 877 2003.06.24
●家とは:No. 876 2003.06.23
●自分ですること:No. 876 2003.06.22
●農をめぐる旅:No. 875 2003.06.22
●高校数学でわかるマックスウェル方程式:No. 874 2003.06.22
●宇宙と大地と 農あるくらしへ:No. 873 2003.06.22
●ぐれる!:No. 872 2003.06.22
●いい先生:No. 871 2003.06.21
●私のいる場所:No. 870 2003.06.20
●子供から教わる:No. 869 2003.06.19
●備えあれば憂いなし:No. 868 2003.06.18
●自然の意思:No. 867 2003.06.17
●社会への貢献:No. 866 2003.06.16
●新築:No. 865 2003.06.16
●考えるより慣れろ:No. 864 2003.06.14
●歩く楽しみ:No. 863 2003.06.13
●若者たち:No. 862 2003.06.12
●順番に:No. 861 2003.06.11
●プラスとしての解決策:No. 860 2003.06.10
●要不要:No. 859 2003.06.09
●悩まなければ時間短縮:No. 858 2003.06.08
●自分流の生活スタイル:No. 857 2003.06.07
●コミュニティへの参入:No. 856 2003.06.06
●定常的状態:No. 855 2003.06.05
●人としてあるべき姿:No. 854 2003.06.04
●もう夏:No. 853 2003.06.03
●白いスケジュール表:No. 852 2003.06.02
●6月は:No. 851 2003.06.01

●名残惜しさ:No. 883 2003.06.30

昨夜は、京都からきている母と一緒に
隣町の温泉宿泊施設に泊まった。
以前すんでいたところからすると、
温泉旅館にはぐっと近くになった。
車で15分ほどでいけるようになった。
昨日から今日にかけて、雨だったので、
母を連れ出そうと予定していたことができなかった。
母もあと3日間、滞在する。
限りあるから、惜しい。
限りあるから、より味わいたい。
限りあるから、より大切にしたい。
極当たり前の気持ちだろう。
今朝、旅館のロビーで母と二人で、
世間話をしていたら、
母は「もう、半分過ぎた」としみじみという。
終わる前から名残惜しそうな言いかたをする。
離れていると、直接会えることが
非常に大切であることがわかる。
母とあと何度会えるだろうか。
もちろん母もそれを気にしているのだろう。
孫と会いたい。私と会いたい。
そんな気持ちが痛いほどわかる。
そしてお互いそう間単に会えないことも
重々わかっているのだ。
だから会える今が惜しいのだ。
それを私も大切にしてあげたい。
後、三日間親孝行しよう。
今日は私事ばかりになった。
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●科学的とはどういうことか:No. 882 2003.06.30

板倉聖宜著「科学的とはどういうことか」
(ISBN4-7735-0016-6 C0300)
を読んだ。

なかなか面白い本である。
そして、板倉氏の文章のうまさがあらわれている。
板倉氏のいつもの主張が表れている。
このような驚くようなネタが
どこでも、いつでも、見つかればいいのだが、
それがなかなかできないから苦労するのである。
これはこれで、手法としては成立すると思う。
そして、このネタが続く限り、独創性は維持できる。
でも、ネタがなくなったとき、どうなるのか。
仮説実験授業という手法は残るのだろう。
それはそれでいい。
でも、この本で人を驚かせ、感動させたような手法は
残らないのだろう。
むつかしいところだ。
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●人間関係:No. 881 2003.06.29

昨日、ゼミの学生たちが来て、我が家でコンパをやった。
8名の学生たちがきた。
昼食だったので、ノンアルコールでおこなったが、
やはりにぎやかだった。
残った料理を持たしたら、いっぱい持って帰った。
下宿をしている学生も多かったので、
喜んでもって帰った。
残飯も出なくて、助かった。
何のテーマもなく、何の決まりごともなく、
単にパーティをするだけである。
それでも、何らかのゼミという日常的な付き合い以外の
違った形態が生まれるとそれは新鮮な気がする。
そして、新たな思いに基づく関係が生まれてくる。
このゼミは、専門のゼミでもないので
学部、学年、出身を越えた不思議な付き合いが生まれる。
そして、その不思議さゆえに
そこには何がしかの不思議な連帯が生まれる。
人間の関係とは面白いものだ。
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●大江戸えねるぎー事情:No. 880 2003.06.29

石川英輔著「大江戸えねるぎー事情」
(ISBN4-06-185431-3 C0195)
を読んだ。

江戸時代のいろいろなものごとを
エネルギーに換算し、現代のエネルギー使用と比較したものである。
なかなか面白かった。
人間のするいわゆる手作業ともいうべきことでも、
ありとあらゆることができることを教えてくれた。
それも、地球に負担をかけることなくである。
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花。江別市文京台

●得より徳を:No. 879 2003.06.27

昨日は、母が来たので空港まで迎えに行った。
ここ数日寒かったので、夕方、ストーブを炊いた。
それでちょうどよい温度となった。
涼しいのはいいのだが、寒いのは、大変だ。
今朝も涼しかったが昨日ほどでもなかった。
自転車できたのだが、霧雨であった。
濡れるのが嫌で急いできたので疲れた。
霧雨程度なら別に濡れてもいいのだが、
ただメガネが濡れると見づらく不自由をする。
メガネがいちばん弱点だ。
それにメガネは一度使い出すと、
はずしては生活をするのが嫌になる。
これが困る。
ストーブ、メガネなどでみられたことは、
便利さ快適さなどを与えてくれるもの全般に通じるものだ。
いちど便利さ、快適さ、快楽などの得を味わうと
不便な状態に戻るには、苦痛を伴う。
これをきらって、みんなより快適さを求める
無限ループへと進んでいく。
麻薬的に快適さ、便利さ、快楽などは
エスカレートしていく。
その行き着く先は、見えている。
破滅である。
今の文明も同じ所に行き着くのであろう。
禁欲的に自分の身の丈にあった生き方をしている
もののみが、生き残るのである。
そんな生き方は、現代社会においては
一種の徳をもった生き方のように見える。
金銭や便利さなどの目先の得より、
人間として徳を重んじる生き方。
そんな生き方がしたいものだ。
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ニセアカシア。江別市文京台

●体の声を聞く:No. 878 2003.06.25

朝夕はかなり涼しい。
朝、半袖だと寒いくらいだ。
そのせいで家内が風邪をひいた。
厚手のジャンバーを着て、外に出ていたようだが、
風邪をすでにひいていたようだ。
私も朝夕の行き帰りはかなり寒い思いをする。
先入観に囚われず、自分の感覚を信じて、
寒い時は厚着をし、暑い時は薄着をする。
ただそれだけのことだ。
荷物になることを嫌う余り、
風邪をひいては損得勘定から言っても
割が合わない。
重いといっても大したことはない。
そんな当たり前のことを心がけよう。
バイク乗りが革のつなぎを夏でも着るは、
安全もさることながら、
やはり風を受けて寒いからだ。
自分の体を守るには、
自分の体のセンサーが伝えている情報を
素直に聞いてやることだ。
今頃なら昼間は半袖とジャンバーだろうか。
寒さによって、ジャンバーの厚さを変えればいい。
ただそれだけのことだ。
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2つのベンチ。江別市文京台

●怠惰脱出法:No. 877 2003.06.24

今日は、曇りで風も強く肌寒い朝であった。
酪農学園では今朝も牧草刈りがおこなわれていた。
ニセアカシアの白い花が満開である。
ニセアカシアはハリゼンジュというそうだ。
四国の石や写真がまだ整理しきれてない。
これは、ついつい億劫で後回しになっているせいである。
卒論生が私の石を素材に統計処理をはじめている。
その影響で、私の写真や砂、石の整理もできるだろう。
来月の道南に出かけるまでには終わらせたいものだ。
人は、いったん怠惰が芽生えると抜け出るのに苦労する。
怠惰を芽生えさせないのがいちばんなのだが、
それが簡単にできるのなら怠惰というものは存在しない。
なにかのきっかけで怠惰を解消するのが、
いちばん手っ取り早い方法だ。
怠惰を常に年頭においておき、
きっかけができたら、そのとき思い切って終わらせる。
それが怠惰脱出のための近道かもしれない。
でも、これはあくまでも怠惰を抜け出るために、
怠惰に陥らないことがいちばん理想であることは
いうまでもないことだ。
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ニセアカシア。江別市文京台

●家とは:No. 876 2003.06.23

家がの荷物がだいぶ片付いてきた。
私たちは、広い家を、有効に使っていない。
いちばん有効に使っているのは、
子供たちが、広い遊び場としての利用かもしれない。
そのためであれば、広く何もないの理想である。
何年もかけて家は使い込んでいくものかもしれない。
そしてそのときに使いやすいスタイルに
なっていればいいのだ。
家自身が個性を発揮する必要はない。
家は、家族の集う場であって、
家族を束縛するものではない。
広いからいい、狭いからだめなどというのは早計である。
自分たちの生活しやすい、自分たちがくつろげる、
家族が安心してすごせる、人が来やすい場など
自分たちの生活スタイル、年齢、家族構成に
あわせて、必要な家は、その時々で変化していくはずだ。
それをある時期のスタイルで、家から家族を縛ることは、
家本来の機能えはない、人間の自由さをなくすことだ。
家とは、家族が集うところで、
家族とは、人間の最後のよりどころとなるものであろう。
そのいう意味においてのみ家は、重要であろう。
でもその重要さは、
それ以上でもないし、それ以下でもない。
広さ、間取り、価格、新旧など、
どれも家の一側面に過ぎない。
これを今、忘れてしまっているような気がする。
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●自分ですること:No. 876 2003.06.22

自分がつくれる、あるいは自分がやっとできたことがあると、
うれしいものである。
たとえそれが、他人がもっと上手にきれいにできても、
自分でできることの重要性は少しもなくならない。
いやいまやなんでもお金で買えるので、
自分でやることが少なくなり、
その重要性は昔より大きいだろう。
自分でやることがどれほど大変なことか、
それほど難しいことか、身をもって体験しているので、
たとえ他人の成果を利用するときも、
その大変さや価値がわかる。
もし自分でできるもののほうがいいのなら、
自分でつくろうという気になるはず。
つまり、他人のもの、商品を考える場合、
自分のレベルが他人の評価に反映できるであろう。
自分でつくったものがどんなに出来が悪くても、
実用に耐えるものなら、使おうという気が起きるだろう。
あるいは、より高機能を求めるなら、
それにたする代価として、
その価格は適切かどうか判断でききるだろう。
これは、自分のできることを基準とした、
一種の絶対評価といえるだろう。
もしそれができなのなら、
同等のもの同士の機能と価格を比較していくしないだろう。
一種の相対評価しかできないだろう。
自分自身の中に絶対軸を持ついう意味で、
実際に自分でやってみることの重要性は大きい。
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●農をめぐる旅:No. 875 2003.06.22

秋山豊寛著「農をめぐる旅」
(ISBN4-8294-0182-6 C0061)
を読んだ。
これは、秋山氏の「農ある暮らし」への準備あるいははじめたころにかけて
取材していたものをまとめたものである。
彼が農の達人、オピニオンリーダーたちを訪ね歩いたもので、
彼の農への道を確実にするためのプロセスだった。
かれは、周到なる準備をしていてのである。

「金もうけ、という点かいったら農業は、そんなに割りの良い仕事ではありません。
金だけが目的なら、もっと別のことをやった方が良いでしょう。
でも、私は農業のやりがいというもは、別のところにあると思っています」
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●高校数学でわかるマックスウェル方程式:No. 874 2003.06.22

竹内淳著「高校数学でわかるマックスウェル方程式」
(ISBN4-06-257383-0 C0242)
を読んだ。

「物理学の理解としては、この関係を、
これ以上分解してりかいすることが不可能な基本的な関係
=法則
であるとして受け入れるということを意味する」
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●宇宙と大地と 農あるくらしへ:No. 873 2003.06.22

秋山豊寛著「宇宙と大地と 農あるくらしへ」
(ISBN4-00-000180-9 C0095)
を読んだ。

日本人最初の宇宙飛行士、秋山氏が
TBSを退社して農業に従事し、
自給自足の生活を始めた。
そこには、地球環境の真の理解と、
強い信念と行動力があった。
多くの地球環境を考える人間は行動力がない。
そして真の解決も行動することである。
そんな痛烈な批判をみをもってかれは行っているいるようだ。

「こうしたなかで、「行動」こそ必要な時代であり、
私自身も行動するときではないかという想いは強くなりました。
私は「農ある暮らし」への準備を始めていました。」

「私の発想が、日本が豊かであることに規定されているのは確かです。
お金は大切だけれど全てでない、といいきれるほど豊かです」

「なぜ農なのかを語るのに、少し多弁になりすぎたかもしれません。
用は個人の暮らしのあり方を「自給」と「精神の自在性」という方向から見直し、
「地球危機」という自分の状況認識と生き方のつじつまをあわせたいということです。
自分にとって「農ある暮らし」は無理のない選択であり、
手応えは予想以上でした」

「アメリカの農業は、もともと「家族経営」として発展したものでした。(中略)
その自由を保障するものが「食料の自給」であり、
その単位が「家族」でした」

「一般的に専門家といわれる人々が社会的責任をとることはあるでしょうか。
過去「安全」と言われたたくさんの農薬が現在では使用し禁止になっていることについて、
かつて「安全」と 判断した「専門家」は、どのよう責任を取ったでしょうか」

「地球の資源が有限であるという認識は、
20世紀の指導原理であった「生産性」「経済成長」といった概念が
歴史的に限定された、いわは普遍性に欠ける概念でしかなかったことの確認につなかがります」

「私たちがお金に換算されない価値について、
これが実はこれから求めるべき「豊かさ」の中身であると気づけば、
食卓の準備を種まきから始めることも「豊かさ」であることがわかるでしょう。
歴史は確実に、そうした「豊かさ」に向かって歩を進めています」

「独自の技術力は、競争社会にあっては「力」です。
他に依存しなくとも、独自に開発できる能力を持つことが、
交渉する場合に力になるわけです。(中略)
自給する力があるからこそ、自立が可能のです。
経済的にも、技術的にも、独自の力を持つことが無理な場合は、
当面あきらめるほかありません。
しかし、可能であるにもかかわらず、みすみす可能性を放棄することは
”自主”の力を弱めることになります」
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●ぐれる!:No. 872 2003.06.22

中島義道著「ぐれる!」
(ISBN4-10-610009-6 C0210)
を読んだ。

この本は強烈である。
ストイックで真摯な哲学者中島氏の本である。
ありとあらゆる妥協を拒否して、
自分自身の信じることを貫くための生き方を書いている。
私には、到底できない生き方である。

人がぐれる理由をあげている。
(1)もうじく、どうせ死んでしまうこと。
(2)ひとは不平等に生まれついていること。
(3)人生は偶然に翻弄されること
(4)それにもかかわらず、「明るい顔」をすることがようきゅうされること。
(5)犯罪をなして社会から葬り去られれるだけのゆうきがないこと。
なかなか意味深な言葉である。
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さくらんぼ。江別市文京台

●いい先生:No. 871 2003.06.21

曇りで時々小雨が降り、風も強く、やや肌寒い。
今日は、会議があるので、
昼過ぎまで、大学にいることになる。
教師とは、品行方正であるべきあろう。
そのためには、かなりつらい思いをしなければならない。
ふと行なってしまう不正、
セクシャルハラスメント、著作権侵害。
たとえば、道路交通法違反。
女性を見るとき、学生と教師という力関係を
無意識に利用すること。
教育用を逸脱したコピー、
WEBでの学生のレポート、作品、アイディアの公開。
今悩んでいるのが、ソフトの購入資金である。
コンピュータを買い足すたびにソフトが必要となる。
それの資金がなかなかつらい。
最低でも、4、5万円が必要である。
自宅用のパソコンを買ったから、
これにインストールするものが必要となる。
ソフトによっては、個人に対して販売しているものがある。
これはありがたい。
個人が自分のパソコンにインストールする場合
何台でも可能だからである。
このようなソフトだと、バージョンアップも
まめにする気になる。
しかし、同じソフトをコンピュータの数だけ必要になると、
バージョンアップもついついしたくなくなる。
すると、新しいパソコンでのソフトと互換性がなくなる。
こうなると、そのソフト自体が使わなくなる。
あるいは特別高価なソフトもそうだ。
正当な権利の内で行ないたいのに、
不正使用防止をするために、
正式ユーザーが使いづらい思いをする。
これは、正直者が馬鹿を見るということだ。
でも、教師は正直者にならなければならないのだ。
人の範として、馬鹿正直に生きるしかないのだ。
そうでないと、人に注意などできないではないか。
でも、私は、どこかで品行を落としているようで
自分に自信がなく、なかなか人を注意できないのだ。
どうどうと人を注意している人を見ると
いい先生だと思ってしまう。
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さくらんぼ。江別市文京台

●私のいる場所:No. 870 2003.06.20

昨日から、かなり暖かくなってきた。
上着を着ていると暑いくらいだ。
今日も室内は蒸し暑い。
梅雨のような蒸し暑さだ。
もちろん本州のような蒸し暑さではない。
外の気温はそれほどでもないので、
窓を開ければ涼しくなる。
今日は、自宅に光ファイバーが引けるかどうかの
コンサルティングがある。
午後になるようなら立ちあうつもりだ。
その結果しだいだが、Bフレッツという
高速のインターネット環境にする予定だ。
これで、重い画像もかなり楽に送受信できるはずだ。
大学のLANには小出の管理者権限をもって
入れないのだろうな。
それをやれると自宅でも研究室と同じことができる。
しかし、研究する環境しては、
大学の研究室がいちばん適切である。
自宅では、子供部屋はつくったが、
自分の居場所がまだない。
食卓でパソコンを置いているに過ぎない。
以前はどこもで研究などできるのだとおもっていたが、
広い家なのに、なぜ食卓の片隅で
仕事をしなければならないのかという疑問も起きる。
今までは狭い家だったので、
食卓が私の居場所だった。
しかし、今でも私にとって、そこがいちばん快適な場所
であるのかもしれない。
家族が全員見渡せ、会話もでき、
一人になることもできるからだ。
まあ、騒々しくはあるけれども。
ところで、主のいる場所としては、
家のどこがふさわしいのだろうか。
書斎という個室。
テレビを見て酒を飲むためにソファ、あるいは食卓。
ガレージ、ベランダ、車の中、トイレ、階段脇のスペース。
自分がいる場所が決まるまでは落ち着かないものだ。
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つた。江別市文京台

●子供から教わる:No. 869 2003.06.19

長男が、体操教室に通い始めて最初であったので、
かなり疲れていたので、8時頃には布団に入った。
いつものように本を読んでいると、
長男がカタカナを知らないうちに覚えていた。
ひらかなは教え、書く練習をさせたことがあったのだが、
根気が続かないようだから、
「嫌だったら練習はしなくてもいいよ」というと、
ほとんど字を書く練習はしていなかった。
でも、ひらかなは、つまりながらも
だいぶ読めるようになってきていた。
ときどきカタカナがあると
「まだ、カタカナは知らないから読めないよ」っていいながら
読んで聞かせると、一部おほえているようだった。
しかし、突然カタカナを読み出したのだ。
家内が、車で長男を幼稚園まで迎えに行ったら、
前に止まっている車のカタカナで書かれた文字を
今日突然、読んだのだ。
その理由を家内が突き止めた。
ひらかなを覚えるために、
冷蔵庫にひらかなの絵付の表がはってある。
シールが一杯張っていたり、端っこを次男が破ったりで、
もうぼろぼろだが、テープやシールで補修して、
かろうじてすべての文字が読める状態のものだ。
長男がしょっちゅうそこで声を上げて文字を読んでいた。
てっきりひらかなの読む練習をしていたと思っていたが、
よく見ると、その表には
小さな字でカタカナも書いてあったことを家内が気づいた。
ひらかなと絵を頼りにカタカナを覚えたようだ。
人間は興味をもつと、
知らず知らずのうちに独習できるのだ。
へたに覚えさせようとすると、
反発してやらないが、まだ読めないよといっていると、
それに反発してだろうか、独習してたのだ。
親ばかではなく、人間の能力のすごさには驚かされる。
大人も見習わなければならない。
大人はついつい、条件や環境を重視する。
道具がないと始められないとか、
指導者いなとできなとか、
教科書がないと何からしていいかわからないとか、
みんなが見ていると恥ずかしいとか、
あれやこれや理由をつけ、
はじめもしないことがいかに多いことか。
好奇心、興味に任せて、
こつこつと好きなところからはじめればいいではないか。
それがいちばんの上達の道かもしれない。
子供から学ぶことの基本を教わった。
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さくらんぼ。江別市文京台

●備えあれば憂いなし:No. 868 2003.06.18

今日は曇りでやや肌寒かった。
昨日の午後は、札幌の大学へ出かけていたので、
ブレザーを着ていると汗ばんで来た。
しかし、江別に戻ってくると、それほど熱くはなかった。
札幌がヒートアイランドのせいなのか、
江別が風の強い街だからなのか、
自転車に乗っていたためなのか、
理由はわからないが、帰ってきてホッとできた。
朝夕は寒く、昼は暑いから、
私のような朝型の人間は、こんな天気には困る。
寒さ対策と暑さ対策の両方をしなければならないからだ。
でも、北海道ではこれが、普通なのかもしれない。
暑いときでも、冷房が効いた部屋では、
寒すぎることもある。
そんなのとき寒さ対策ができていれば
困らないですむ。
私は、常に傘をかばんに入れている。
それはいつどこで雨にあっても困らないための対策だ。
このような備えあれば憂いなしという対策を
するしかないであろう。
その備えがあれば大半が不要のときでも、
生死や病気の元となるような事態を回避できれば、
少々の日々の苦労は報われるのである。
それより日ごろの、傘をどうしよう、
上着をどうしようなどと悩む必要がなくなる。
常に持っているのだから。
まさに日ごろの憂いを解いてくれることが
常備することの意義かもしれない。
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イチイの木。江別市文京台

●自然の意思:No. 867 2003.06.17

早朝は曇って風が少しあったが、
温かで気持ちい天気だった。
早朝、酪農学園を通り抜けると、
田園風景のミニチュア版を味わうことができる。
木の刈り取ったばかりの牧草の匂い。
今、刈り取り中の牧草の匂い。
ヒバリ、赤ゲラの声。
馬術部の学生が練習する声。
回る風力発電の風車。
温室、牧舎、雑草を刈り取りとられた芝生。
牛舎で牧草をあげ、糞の世話をする学生たち。
牛乳を運ぶ学生たち。
早朝から学生たち、作業員たちが働いている。
自然の中で働くこと、これほど絵になる景色はない。
そして人間が自然と共存するということ、
それは、人間に快適な環境を
自然に強いることかもしれないが、
したたかな自然はそれを許してくれる。
しかし、都会のような場では、
自然とは、人工的に造られたものになっている。
これは共存ではなく、人工の擬似的自然であろう。
酪農や農業、林業などの制御された自然には、
まだ自然には、自然としての意思が残っいる。
そんな自然の意思と人間が
台頭であるような気がする。
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ハルニレの葉。江別市文京台

●社会への貢献:No. 866 2003.06.16

朝は風が強く曇っていたが、今は快晴である。
しかし、風は残っているが、心地よい天気だ。
さて、一軒の家が建つには、
じつにいろいろな職業、そして多くの人が
関わっていることがわかる。
人は一人では決して生きていけないのだ。
その象徴として家の建築があるのだろう。
考えてみると、衣食住すべてが
多くの人の手を経て成り立っている。
これが人間の社会だというと実も蓋もない。
多くの人の貢献にたいして、
私はもちろんお金を払う。
しかし、社会というものに対して、
私の貢献が問われるのである。
目に見えるものづくりをする人は、
それだけで存在価値、存在理由がある。
しかし、私は、目に見える社会貢献をしているのだろうか。
大学の研究はいいとしても、
大学の教育の社会貢献はいかほどものであろうか。
大学の教育は行なう熱意と受ける熱意があるもの同士で
はじめて効果が生まれる。
しかし、どちらかに熱意のないと、
単に金銭のやり取りのようなもの、
単位のやり取り、
資格のやりとしかないものとなりさがるような気がする。
それは非常にむなしいものだ。
そのような教育を行なうもの、
そのような人へ教育を行なうことは、
はたして社会への貢献度はどの程度のものだろう
少々不安になる。
そんな人にも学問のすばらしさが
伝わればいいのというのは簡単だ。
現実にできるのか不安になってくる。
それでもめげずに行なうこと
それが、 給料という金銭で縛る必要性かもしれない。
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●新築:No. 865 2003.06.16

新しい家に越して、1週間がたつ。
まだ、何をどこに入れるか、
何がどこにあるかわからないこともあるが、
少しずつ落ち着いてきた。
3月2日からはじめた、新築の記録を昨日、終了した。
これは、まったく個人的な記録であったが、
大量の写真と文章を残した。
これは、私の記録であるとともに、
家族の記録となればいいと思っている。
CD5枚分、3455枚におよぶ撮影をした。
テキストも6万字以上、134KBに達した。
数や量がすべてではないが、
私の新居に対する気持ちが
このような多くの記録となったのである。
そして引越しから1週間たった日曜日に
この記録を終えることにした。
日々の記録は少しでも、継続すること、
そして常に熱意、好奇心をもって望むこと
これがまさに、膨大な量と質を生むのではないだろうか。
身をもって体験したし、
その重要を知っていたはずだ。
あっというま3ヶ月のではあったが、
記録を見ると実にさまざまなことがおこった。
そしてメーカとのやり取りに一喜一憂していた。
しかし、メーカー側の人は非常に紳士的に対処してくれた。
親切のありがたさを感じた3ヶ月間であった。
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●考えるより慣れろ:No. 864 2003.06.14

昨日の午後から今日一日、外溝工事で車がつかえない。
研究室から荷物を運ぶつもりだったができなかった。
朝研究室に行くつもりだったが、雨なので、自転車が使えない。
自宅で仕事をすることにした。
家族がおきてからは、自宅の片付けをするつもりだ。
まだ、何がどこにあるかわかならない。
私が片付けたあとで、家内が整理するから、
着替えや上着がどこにあるかわからず、
いたるところを探し回ることになる。
これがなかなか大変である。
探し物が見つからないとき、それも急いでいるとき、
これほどいらいらすることはない。
でも、慣れるまでしょうがない。
家内はしょっちゅう片付けている。
わかるように張り紙をしてあっても、
結局、中身が違ってしまうことがよくある。
長袖ワイシャツと書いたところに、ズボンがある。
ズボンと書いたところに、長袖ワイシャツとズボンがある。
これが、数ヵ月ごとと衣替えごとに一部動くのである。
この入れ替えの法則がわからない。
だから余計に混乱する。
考えても無駄である。
慣れるしかないのです。
考えるより慣れろである。
これは、あらゆることに通用するのかもしれない。
どんな不便なことでも、慣れれば不便とは感じないだろうし、
どんな便利なことでも、慣れれば便利さを感じることもない。
これは人に与えられた重要な能力かもしれない。
どんな環境でも慣れれば当たり前ということにできるのだから。
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雨のもみじの葉。江別市文京台

●歩く楽しみ:No. 863 2003.06.13

今朝は雨が降っていたので、
歩いて大学まで来た。
初めて歩くことになる。
雨のせいもあるだろうが、
景色がだいぶ違って見える。
そして、なんといっても、よく景色を見ることができて、
新鮮な気持ちで歩いた。
酪農学園を通り抜けるまで、20分かかった。
そして大学にたどり着くまで、全部で40分かかる。
3キロメートルほどの道のりだろう。
車だと4キロメートルの道のりであった。
今までは、30分弱の道を歩いていたのである。
回り道をしてくると30分以上かかって歩いてきたのである。
だから、今までより、
10分ほど、1キロメートルほど多く歩くに過ぎない。
しかし、地図を見て遠いと先入観をもっているので、
歩くことに不安や躊躇をもっていた。
今回は、雨で、いやのうなく歩いたので、
もう、不安はなくなった。
冬の早朝や、雪の激しいときは心配だが、
それは、まだ半年も先のこと。
そのとき考えればいい。
今が歩くのにいちばんいい季節である。
せいぜい歩くことを楽しもう。
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霧の白樺並木。江別市文京台

●若者たち:No. 862 2003.06.12

今日は朝は霧だった。
酪農学園大学のキャンパスは霧の中にたたずんでいた。
昨日まで見ていた景色がまったく違っていた。
霧という成分が景色に薄くばら撒かれると、
見慣れた景色が、こんなにも一変していくのだ。
不思議なものだ。
人間とは、見慣れたものには違和感を感じないが、
そこに薄いベールがかかるだけで
すぐに違和感をもたらす。

先日、ゼミの学生がCDをだしたというので購入した。
6名のストリートミュージシャンの曲が
2つずつ入ったオムニバス形式のものだ。
彼の曲も2つ入っていた。
CDから聴く曲には、
若者たちの野心、緊張、興奮、
自信、プライド、ツッパリ、ひたむきさ、
純粋さ、繊細さなど、若さを感じる。
私にはもうなくなってしまった雰囲気が
そこにはかもし出されている。
まさに人生に一度しかない時代を生きているということが、
ひしひしと伝わる。
そして、彼らの生き様が明瞭に見えている。
ゼミの学生にもそんないい活き方を
しているものが何人かいる。
真剣に活きている若者は見ているといいものだ。
私が望んでいた教員の生活とは、
実はこんな充実感や出会いなのかもしれない。
こんな若者たちと教師とのいい出会いは
なかなかむつかしいのだろう。
しかし、少ないからこそ、それが貴重で、
大切にしたいものである。
いい曲を聴いた。
いい若者をみた。
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初夏の牧舎。江別市文京台

●順番に:No. 861 2003.06.11

今日は晴れで風もなく、心地より日である。
自転車できたが、爽快であった。
同じ道でも、天気や気分によって、
かなり違って見える。
それに、酪農学園大学の中を通るので、
早朝から、さまざまな作業をしている。
牧草刈り、牛の世話、
それに、学生寮の朝食用の牛乳
を取りに来るのだろうか、
数人の学生がリヤカーにミルクのタンクを乗せて
眠そうに運んでいる。
これも、早朝の景色だ。

まだまだ、自宅の整理がつかない。
いったい、いつ整理できるのか。
家内はゆっくやるつもりだ。
広いから、とりあえず生活に支障がないため、
ついつずるずるしてしまうようだ。
今日ここを整理したという。
しかし、荷物の山が減ったように見えない。
家内は、整理しながら、掃除しながらというが、
いったいいつ終わることやら。
私は、さっさとやりたいタイプである。
今週末におもいきってやってみよう。
それより問題はインターネット環境、
IP電話、自宅パソコンを早く決定して、
自宅でも仕事ができるようにしよう。
いろいろしなければならないことがあるが、
まあ、落ち着いて進めていこう。
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ツタのからまる木。江別市文京台

●プラスとしての解決策:No. 860 2003.06.10

昨日から自転車で通うようにした。
今のところ雨は降ってないので、
自転車通勤ができる。
雨が降ると歩いて通うことになる。
まあ、冬も歩いて通うのだから同じだ。
自転車だと、20分前後かかる。
急げば、15分ほどでつくだろう。
写真をとりながらいくと、
昨日は30分ほどかかった。
でも、自転車だと、写真を撮るというともりでいないと、
写真をついつい撮り逃してしまう。
つまり、写真をとる余裕がないのである。
自然を観察するのには、
のんびりと歩くのがいちばん適しているようである。
このスタイルを解決できるかどうかが、
今後の問題である。
環境や、生活スタイルが変わると、
いままでの方法ではうまくいかなところが出てくるのは、
あたりまえだろう。
それをどのように解決するか。
できれば、いいように解決できれば、
大きなメリットなる。
今回の引越しで、そんな解決を次々と
おこなっていかなければならないだろう。
逆に、このような変化がない、
あるいはこのような変化を
取り合えずととしてすましながら
ずるずるとそのまますごしていくのが
いちばんひどい解決方法だ。
プラスとしての解決策。
それがいちばん重要だ。
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木漏れ日。江別市文京台

●要不要:No. 859 2003.06.09

新居に移って、まだ落ち着かない。
そこで問題が発生した。
YahooBBが光ハイバー地域で、
なおかつメタル回線がもう残っていなうようで、
ADSLが使用できなくなった。
だから、現在のメールボックスをYahhoBBにしていたが、
早急に変更しなければならない。
ブロードバンドとしては、
Bフレッツという100MBという高速回線がある。
それにしようかと考えている。
すうすれば、IP電話も使用可能だ。
現在、キャンペー中で初期費用とか、
2、3ヶ月の使用料の無料キャンペーンをやっている。
それを利用すれば、導入しやすくなっている。
それに、自宅用のパソコンを導入する予定である。
家内が希望のテレビが見れるものにすると、
テレビを別に買ったほうが差額より安い気がする。
贅沢が身についているのだ。
どうしようもない性質だ。

と、このように、人間はよりよいもの
より便利なもの、より高機能なものを
ついつい目指してしまう。
本当に必要なもの。
商売道具として、趣味として、
必要、不要を熟考すべきである。
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●悩まなければ時間短縮:No. 858 2003.06.08

とうとう新居に引っ越した。
昨日一日、荷物を自分たちで開梱をしたが、
まだ、半分しか終わらなかった。
どこに何を入れるかを考えながらだから
余計に時間がかかる。
家内がやるべきことが多く、
さらに悩む時間が多くなる。
自分たちで片づけをすると、やたら時間がかかる。
人に手伝ってもらうと、労力が増える効果より、
悩む時間がなくなるから効率が上がるのだ。
昨日の引越しも、8時半からはじめて、
12時ころには終わった。
時間のかかるはずの荷造りも、
2時間半少々で終わった。
女性の手伝い4名、男性4名で作業であった。
私たちは、ほとんど何もしなかった。
指示をしただけである。
梱包のときは、私が外で子供を遊ばせ、
家内だけが指示をした。
つまり、私は何もしていなかった。
最初の指示通りことが進めば、
非常に短時間で終わるのだ。
悩まないこと、それが
最大の時間短縮方法かもしれない。
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●自分流の生活スタイル:No. 857 2003.06.07

新居ではじめて寝た。
寒かった。
今まで人が住んでいなかったせいだろうか。
家が冷え切っている。
上着を持ってこなかったので、寒かったので、
早速ストーブをたいて寝た。
動けばそれほどではないのだが、
じっとしていると涼しい。
朝には、1階があたたまったので、
2階のストーブをつけた。
家具が今日の夕方に入るので、
机も椅子もない。
この入力は、ダンボールの上でしている。
ふと懐かしさを感じた。
でも、考えてみると、日本人はほんの百年前まで、
畳の上で直接生活していたのである。
書見台や卓が使われたのは、字を書くときで、
あとは、畳の上での生活をしていたのである。
それを、いまや、机と椅子がないと
生活できないようになってしまっている。
私は、子供のころは、畳の上で
お膳でご飯を食べていた時代がある。
ほんの4、50年ほどで、文化や生活習慣というものは、
消え去っていくのだ。
私は、かろうじて子供ころの体験として
畳だけの生活が記憶にある。
しかし、私の子供たちは、
畳だけの生活は考えられないだろう。
トイレだって、和式が使えないかもしれない。
まだ日本には和式トイレがたくさん残っているのにだ。
公衆トイレは、洋式より和式のほうがいい。
何が何でも和風がいいという気はない。
洋風のいいところ、和風のいいところを取り入れればいいのだ。
日本全体でなくても、自分たちだけの和洋折衷、
あるいは自分流でいいではないか。
なにも家具やトイレだけでない。
総ての生活スタイルを自分流でいいではないか。
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さくらんぼ。江別市文京台

●コミュニティへの参入:No. 856 2003.06.06

今日の午後から、いよいよ引越しである。
引越し自体は、明日だが、
今日が家の引渡しである。
今日の夜から、新居に泊まることになる。
1年少々の間、今の校宅に住んでいた。
予想していたより、快適な生活であった。
しかし、狭さゆえの近状への気兼ねがあった。
子供がいると、どうしてもうるさくなる。
それで、以前も引っ越したことがある。
しかし、今度の住処からは、逃げることはできない。
なんとか溶け込んで暮らすしかない。
外からあるコミュニティに、新参者として入るとき、
そのコミュニティが固定化しているところへ入るのは、
むつかしいような気がする。
例えば、田舎の農村地帯がそうである。
私の母の実家もそうである。
そのコミュニティの人間で仲間として認めてくれる人がいて、
自分が加わる気になれば、そのコミュニティに参加できる。
母も近所の人に対してそのようなことをしている。
いまや、その家族が
母のいちばん親しい人にまでなっている。
このような仲介者がいないと、なかなかむつかしい。
こんどのところはどうだろうか。
住んでみるまでわからない。
暮らしていくということは、
いろいろな困難さを乗り越えていくことでもあるのだろう。
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柏の葉。江別市文京台

●定常的状態:No. 855 2003.06.05

6月は、大学では何の行事もなく
いちばん落ち着いている定常的時期である。
こんなときにこそ、じっくり考え事をすべきである。
あるいは、クリエイティブな作業をすべきである。
こんなときこそ、懸案であった論文を草稿を書こう。
それは、今の職場にきてはじめた仕事に関する
最初の仕事なるはずだ。
いくつかのプロジェクトをスタートし始めたが、
まだ成果としてなにも出していない。
それがいちばん気がかりであった。
その一番の気がかりをこなすこと、
それが、いちばん有益な定常状態の利用の仕方であろう。
今日はどこまでできるかわからないが、
できるだけ進めよう。
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葉。江別市大麻

●人としてあるべき姿:No. 854 2003.06.04

昨日は、いい天気であった。
外に出たら汗ばむほどであった。
夕方、公園わきを歩いていたら、
木々からはセミ(エゾハルゼミ?)の声。
池からはカエルの声。
今朝は、キャンパスで、カッコウの声を聞いた。
夏である。
こんな季節に、我が家は、
引越しの準備であわただしくなってきた。
6月6日に新居の引渡し、そしてその夜は新居で寝る。
6月7日に引越しである。
対外的には住む場所の変更がするが、
その他のことは変わりない。
子供の幼稚園も、私の職場も、
その他の届出も、手続きだけですむ。
人が移住するのには、ものを動かすことが、
こんなに大変なのに、
市役所、職場、水道、電気、ガス、電話、新聞など
すべてが、 電話一本、書類一つで
引越しができるのである。
一見非常に身軽、手軽に見える。
でも、自分自身の住処を、
自分の気持ちで変えたいのに、
回りには何の変化も与えないのに、
これほど手続きが必要なのだ。
煩わしさ、理不尽さも一方で感じる。
いちばん大切なのは、家族の安心、苦痛を
なくすことだろう。
ついで大切なのは、今まで近所であった人たち、
これから近所としてなる人たちへの
感謝、挨拶ではないだろうか。
人と人とのかかわりの密度が強い順に、
これからの移動を行なうべきだ。
そして、その報告を、心をこめて
伝えるべきではないだろうか。
それが、人としてあるべき姿ではないか。
ふとそんなことを考えた。
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花。江別市大麻

●もう夏:No. 853 2003.06.03

いい天気である。
快晴で、風少し強し。
遠くでは、雨で延期になった運動会の開催を告げる
花火の音がする。
遠く手稲の山並みはまだ残雪がある。
風にそよぐ新緑よりも濃くなった緑。
いい季節である。
春が始まったと思っていたが、
もう夏の気配である。
昨日、母親が虫嫌いなので、
子供がアパートの土台の換気口を空けるために、
草むらにはいった。
そのため、自宅に帰ると、玄関で草いきれがしている。
強い香りがしていたので驚いた。
子供の靴についた草の香りであった。
草も子供の背丈ほどになっている。
もう夏の気配が漂いだした。
若者たちは、半袖の服やTシャツの薄着である。
そして夏のゼミ旅行は、海でのキャンプや水泳の話。
季節は一気に夏になっている。
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すずらん。江別市野幌

●白いスケジュール表:No. 852 2003.06.02

やはり、毎日講義があると、
それ以外の仕事の予定がつまってくる。
学校行事以外の仕事が入ってくると
スケジュールは、非常にきつくなる。
そうして、土日曜日、あるいは、夏休みに
そのような仕事がまわる。
あいている時間は早い者勝ちで、
予定が入ってくる。
どれも、それぞれ大切あることはわかる。
でも、本当に大切なことは、
自分のやりたいことが、できることである。
もし、そのやりたいことができているのなら、
スケジュールが一杯はいっているということは、
やりたいことが一杯できているということである。
それならばめでたいことであろう。
もしそうでないのなら、注意が必要だ。
やりたいことが最優先である。
スケジュール表を黒々といっぱい埋めることが
大切なのではなく、
自分のために使える時間を確保するために、
スケジュール表をあけておくことも大切であろう。
忙しくなると、いつもこのようなことを思ってしまう。
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●6月は:No. 851 2003.06.01

6月がはじまった。
6月の一月が過ぎると、1年の半分を終えることになる。
しかし、4月からはじまる行事、区切りも多いので、
どうしても8月の終わりあたりを1年の半分と思ってしまう。
そのため、1月から3月の3ヶ月が不思議な季節となる。
学校では、3学期と位置づけ、
その時期の異常さを学期の特徴にしてしまっている。
あるいは、お役所も、3月の区切りに向かって、
整理を始める時期でもある。
いってみれば、1月から3月は終わりを準備する時期である。
4月から5月の「新しい年」の順応期間とすると、
6月は、夏休みに向けての準備期間だろうか。
それでは、6月の過ごし方としては、
あまりにももったいない、気がする。
なぜなら、北海道の6月はいちばんいい季節だからである。
もう寒い日はない。
これからは暖かい日ばかりが続くのである。
もう、暖房具も防寒着もいらない。
梅雨もない、花盛りの季節である。
こんなときに、ボーっと次の季節のために
ため息をつくのは、もったいない。
6月という夏の始まりを謳歌しよう。
これが、北海道の6月の過ごし方だ。
私は、6月から移転して、新しい生活環境にする。
また、新しい環境では、順応するために、
いろいろなことがおこるだろうが、
こんな環境変化もこれからしばらくはないはず。
最後の大変動を楽しもうではないか。
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