思いつくまま

2003年05月
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目次 
●新しい季節:No. 850 2003.05.31
●文科系のための科学・技術入門:No. 849 2003.05.31
●自然への回帰:No. 848 2003.05.30
●石狩川の旅:No. 847 2003.05.29 ●大江戸仙界紀:No. 846 2003.05.29
●大江戸遊仙記:No. 845 2003.05.29
●上に向かうこと:No. 844 2003.05.29
●プラスアルファの行動:No. 843 2003.05.28
●心地よい疲労:No. 842 2003.05.27
●バックグランドの違う人間:No. 841 2003.05.27
●共同のありかた:No. 840 2003.05.27
●わがままな消費者:No. 839 2003.05.27 ●ステレオタイプ:No. 838 2003.05.26 ●学会:No. 837 2003.05.25 ●メモと管理:No. 836 2003.05.24 ●忙中の方法論:No. 835 2003.05.23 ●相互言及:No. 834 2003.05.22 ●学生の一言:No. 833 2003.05.21 ●人的ネットワーク:No. 832 2003.05.20 ●次なるルート:No. 831 2003.05.19 ●大江戸仙花暦:No. 830 2003.05.18 ●大江戸仙女伝:No. 829 2003.05.18 ●大江戸神仙伝:No. 828 2003.05.18 ●川原がない:No. 827 2003.05.18 ●川原へ行く:No. 826 2003.05.17 ●冬の野外調査:No. 825 2003.05.16 ●若者に説く:No. 824 2003.05.15 ●人を見る目:No. 823 2003.05.14 ●蠢く関係:No. 822 2003.05.13 ●ありのままの対処:No. 821 2003.05.12 ●端緒:No. 820 2003.05.11 ●冬を資産に:No. 819 2003.05.09 ●当たり前の気持ち:No. 818 2003.05.08 ●桜を追う:No. 817 2003.05.07 ●消えやすい心:No. 816 2003.05.06 ●よく見ること:No. 815 2003.05.03 ●安らぎ:No. 814 2003.05.02 ●書けないこと:No. 813 2003.05.02 ●大江戸仙女暦:No. 812 2003.05.01 ●生命のすばらしさ:No. 811 2003.04.29


すずらん。江別市大麻

●新しい季節:No. 850 2003.05.31

今週から来週は、学校で
運動会を行っているところが多いようだ。
北海道では、春から夏が、いちばんいい季節だ。
それを満喫するかのように、
さまざまな行事がおこなわれる。
それを、多くの人びとが行事を楽しみにし、そして参加する。
太陽を味わい、そして冷たい風も楽しむかのように
人びとは、外での行事を楽しむ。
まるで、冬の屋内で冬眠していた生活を
一気に解放するかのように、
春から夏を楽しむ。
われわれも新居で、新しい季節を楽しもう。
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●文科系のための科学・技術入門:No. 849 2003.05.31

志村史夫著「文科系のための科学・技術入門」
(ISBN4-48005986-5 C0240)
を読んだ。

ゲーテは「熟視は観察へ、観察は思考へ、思考は統合へと
かならずや移行するものであって、
だから世界を注意深く眺めているだけで、
われわれはすでに理論化をおこなっているというこおができる」

「理科系の人」は、きちんと筋道を立てて考えること
”自然”と自然科学から学ぶのです

マンフォードは、「芸術と技術」の中で、
芸術について「芸術とは、人間が単なる動物として
存続するための必要条件を超えて、意味と価値のある世界を
自分で創造しようという必要から生じます」

”科学”の本質は、自然を対象にした知的好奇心を
満足させることであり、”科学”を進める最も基本的な力は
その知的好奇心そのものなのです

”技術(=機械)”が明確なる物質的な目的と損得(経済概念)を持つ
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●自然への回帰:No. 848 2003.05.30

今日は、くじいた足の痛みがだいぶ和らいだ。
足が痛いと、やはり心になかなか余裕がない。
なにより足ものと危ないところへは痛くていけない。
そんことから、「身近な自然史」がストップしている。
木々の緑が濃くなってきてる。
私のゼミのある学生は、
北海道の自然に触れることをテーマにしているため、
外に出かけては、携帯のデジカメで写真を送ってくる。
これも、彼女にとっては、自然への回帰であろう。
木々の葉の変化、草花の移ろいを見ていると、
私ももっと近づいて、じっくりと自然を見てみたい。
明日あたりはもう、動けるだろうか。
天気がよければ、海に出かけたい。
できないときの、ないものねだり。
でも、こんな自然への強い思いも、
私が目指してきた、
自然への回帰の成果ではないだろうか。
まだまだ、自然の変化は激しい。
それを記録にとどめておきたい。
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●石狩川の旅:No. 847 2003.05.29

小檜山博著「石狩川の旅」
(ISBN4-89453258-1 C0072)
を読んだ。

石狩川の写真集とその写真に基づいたコメントである。
期待はずれであった。
やはり写真に文章が負けてはならない。
また、文章に写真が負けてはならない。
写真にミスが数点でもあれば、
写真集全体の印象を悪くする。
そんな欠陥が目立った。
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●大江戸仙界紀:No. 846 2003.05.29

石川英輔著「大江戸仙界紀」
(ISBN4-263302−7 C0193)
を読んだ。

これで、この著者の一連の著作を読んだ。
最初のよかったが、やはり小説である。
現実感、マンネリ感が6冊も続けて読むと出てくる。
しかし、著者の主張はわかりいい。
江戸時代を過去の封建社会というだけで否定すべきでなく、
学ぶ分べき点が、いろいろあるということである。

「庶民たちが服従したのは、
武士たちが腰に帯びている大刀の威力ではなく、
いかに貧しくても、
自分たちに手の届かないほど高いモラルを守り、
教養を身につける禁欲性だったのではないだろうか」

「日本も、美しい風景を破壊することではじめて成り立った
富国強兵や産業立国などという立派な政策の代わりに、
この景観にはできるだけ手をつけず、
しかも、人口がこの時代より増えないようにして、
観光を主にして生きる清貧ならぬ清富の道を選んだ方が
結果として得策だったのではないだろうかという気がしてならない」
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●大江戸遊仙記:No. 845 2003.05.29

石川英輔著「大江戸遊仙記」
(ISBN4-06185341-4 C0193)
を読んだ。
江戸時代の様子を知るのに役立った。
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●上に向かうこと:No. 844 2003.05.29

右足の痛いのが、昨日から続いている。
しばらく障害者である。
私の研究室は、4階である。
昨日はいつものように階段を使って上り下りした。
しかし、今日は痛くてだめだ。
階段やスロープで足首を曲げるのがつらい。
全施設が車椅子対応にしてあるので、
エレベーターやスロープが利用できる。
それが助かる。
しかし、ちょっとした段差、ちょっとしたスロープ
これが不自由なときには、なかなかつらい。
今まで、障害者は、このようなものは漠然と大変だな
とは思っていたが、自分自身が障害者なってみると
その思いがよくわかる。
でも、家に引きこもっていては、
前に進めない。
どんなに小さなステップだろうが、
どんなにゆるいスロープだろうが、
小さくゆるくしてくれたいることによって、
登れるのなら登ろう。
登ること、上に向かうことが大切ではないだろうか。
そこから、新しいものが生まれるかもしれない。
痛い足を引きずりながら、そんなことを思った。
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人工海岸。千葉県幕張

●プラスアルファの行動:No. 843 2003.05.28
足を知らないうちくじいていた。
昨日から右足が痛かったのだが、
今日はかなり痛く、歩くのに不自由するくらいである。
このような状態は、一時的に障害者となったのである。
すると、日常利用しているすべてのものが、
足が不自由な人間にとって、
いかに大変なことであるか身にしみて味わうことができる。
でも、社会人としてしなければならないことがある。
それをしかたなくこなすのだが、
それ以外の必要最小限の行動しかしたくなくなる。
障害というのは、こういう側面もあるのだ。
障害によって、行動が不自由になると、
行動することも必要最小限の行動となる。
しかし、このような行動からは、なかなか新しいこと
発展的なことが生まれないような気がする。
常に回りに働きかけていくこと、
最小限より、いつもより プラスアルファしていること。
これによって、新しいことが生まれるのではないだろうか。
足が不自由になって、
プラスアルファの行動の重要性がわかった。
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●心地よい疲労:No. 842 2003.05.27

あわただしい東京滞在。
いつの出かけると、あわただしく引き返していく。
でも、出かけること自体が非日常だから、
あわただしくなるのはしょうがないだろう。
このあわただしさも出かけることの非日常の一部として加味されているのだ。
でも、これだけではつまらない。
何らかのプラス、なんらかのシーディングがなければ、
つまらない非日常であろう。
新しい何かを求めること、
旧友との交歓もいいのだが、
人の近況報告、非難、愚痴ではあまりにも時間の無駄遣いであろう。
有効なる時間と労力の使用。
これが非日常から生み出されることができれば、有効であろう。
そんな非日常であれれば、あわただしくても大丈夫だ。
心地よい疲労であろう。
今は心地よい疲労を味わっている。
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●バックグランドの違う人間:No. 841 2003.05.27

いっしょにことをなすとき、
そのあり方はいろいろなあり方があるはず。
商売とすれば、そのようなコンセプト売り物にするとしたら
カスタマーの要望を満たすのが最優先である。
でも、私は金銭ではない。
私の興味や、研究の方向性にあえば、ボランティアで参加するつもりである。
最初、共同のあり方は、私の予想したものとは違った。
しかし、3時間ほど話しているうちに、
お互いの持っている特長、望むところ、不足しているところなどが、
だんだんわかってきた。
私の志向が最大限に活かされるのは、
コンセプトの展開、コンセプトの開発のときのような
なんらかのブレインストーミングの議論に
一緒に参加することがいいようだ。
そのような会議に参加して、議論するのが
いちばん私の有効な利用の仕方だし、
私自身、興味があることだ。
この会社は、すでに、多くの手を打っている。
しかし、万全とはいえないはず。
常に新しいこと、常に上を目指すこと、
このようなたゆまぬ努力が一番重要ではないだろうか。
それを続けるためには、
一時的に私のようなバックグランドの違う人間が
加わって議論することが有効になってくるであろう。
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●共同のありかた:No. 840 2003.05.27

さて、今日は、理科機器会社の後輩と会うことになっている。
なにか共同でできることはないかということを相談するためである。
この会社は、ユニバーサルデザインや環境について配慮をしている。
また、インターネットで教育のためのホームページを開いている。
でも、その目的は、教師の教育教材の開発がいちばんの目的のような気がする。
これは重要な目的である。
でも、私の考えからすると、
もっと科学とは市民に開放されてもいいのではないか。
あるいは、市民のための科学の教育を
配慮していいのではないかという気がする。
でも、その方策があまりないような気がする。
それこそ、科学教育で目指すべきではなはないか。
そこになにか新しいものがあるのではないかという気がする。
もちろん個人の努力でできること、個人の能力できることも限られている。
そこの共同の意味合いがあるのではないだろうか。
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●わがままな消費者:No. 839 2003.05.27

千葉県幕張で学会が開催されている。
幕張のホテルに宿泊している。
多分、個人で個別に泊まるなら、
けっしてこのような高級ホテルには宿泊しなかっただろう。
往復の航空券とセットでとれるホテルだった。
札幌から本州へは飛行機を使う。
そうなると、正規料金で出かけることはなくなった。
たいてい、セットされている料金で行くことになる。
ときには、ホテル分を使わなくっても、
航空券自体が安いことがある。
これは、いったいどうしたことだろう。
なかに変なような気がする。
なぜ、一つの料金体系でできないのだろう。
定価という価格はあってないよなものなのだろうか。
そのようなせいだろうか、最近電気機器では、
オープン価格というのが増えてきた。
ところが、オープン価格というのも、
いったいいくらなのか検討がつかなくて困ることもある。
消費者とは、わがままなものだ。
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●ステレオタイプ:No. 838 2003.05.26

飛行機の中で書いている。
雲のステレオ写真を撮ろうとしたが、
霞んでいて、あまりきれいでない。
それに、翼がじゃまである。
ところで、ステレオタイプという言葉がある。
国語辞典によれば、「型にはまった行動・思考様式」という意味、「現代用語の基礎知識 2002」では、「紋切型」「社会一般の人々がもっている考え方―しばしば暗黙―の固定した枠組み」とされる。
ところが、技術によって、音響装置が普及することによって、
「ステレオ」というと、音が2つ以上のスピーカーから流れること
であるかのように思っている。
だから、ステレオというと、どうも「2つ」ということに思ってしまう。
このように、言語とは、もともと意味とはかなり違った意味で、
今は使われていることがある。
このようにステレオというと、「2つ」というのは、
まさにステレオタイプである。
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花。江別市大麻

●学会:No. 837 2003.05.25

明日から1泊で東京の学会に出かける。
しかし、平日に、それも何日もわたって
おこなうというのは、やはりおかしい。
公務や本務を、みんなしていなのだろうか。
あるいは簡単に仕事を休めるのだろうか。
多くの研究者は、自分の研究分野に関連する学会に
幾つか入っているはずだ。
私は、日本の学会では、
先日いくつかやめたので、現在4学会である。
そのうち、学会に毎回出席して、発表しているのは、
2個か3個である。
あとのは論文を書く機会が多いものだ。
私は、現在必要な学会にだけに入会し、
いらなくなったら、すぐにやめることにしている。
そうしないと学会誌がたまるし、
会費だってばかにできないくらいの金額になる。
私は、だから加入学会は少ないほうだと思う。
学会では年に少なくと1回は総会や研究発表の会合ある。
それに出席できるのは、私自身は、年間2回か3回である。
公務を考えると、講義では、前期後期それぞれ、
1回くらいしか休講できないはずである。
私は、可能な休講の半分をこの学会で使った。
すると、あとは休めないことになる。
野外調査をする研究者は、
学会と調査を両立できるのだろうか。
それとも、学会をあきらめるのだろうか。
学会発表するだけではなく、
論文発表することも、
学会に加入している大きな理由でもある。
私は、その理由から、現在の4つの学会になった。
他の研究者もそうしているのだろうか。
学会に行くたびにそれを感じる。
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●メモと管理:No. 836 2003.05.24

昨日提出すべき、重要書類を紛失した。
急遽連絡して、同じ書類を送ってもらうことした。
私は家内に頼んだつもり、
家内の記憶は定かでなく、
書いてもここにしか置かない
というところを探したがなかった。
いろいろこまごましたことをこなさなければならないとき、
つまり、非常に煩雑な処理を伴う仕事をするとき、
このようなことがよく起こる。
頭の中ではもう、とっても管理し切れない。
以前にそれに気づき、ノートにメモすることを決めた。
それ以来、重要事項やスケジュールを
忘れることはなくなった。
人に頼むことは、漠然としててはだめで、
いつまでに、何ができるかどうかを聞き、
だめなら、他の人か自分がやることになる。
この連携がうまくいかないと、
必要な書類が紛失することになったり、
重要な書類ができなかったりする。
これは、複数でこなす仕事でもいえることだろう。
メンバーの連絡を密にして、
スケジュール管理をする必要性である。
大きなプロジェクトにあると、
スケジュール管理、マネージメントだけで、
専門の人や部署ができるほどである。
そこまでいかなくても、
必要事項とこなすべき時期と
担当する人を細かくメモをする必要がある。
メモする必要性と、
指示する側の的確さも求められる。
家庭内でこれだから、多人数の業務なら思いやられる。
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葉と茎。江別市野幌

●忙中の方法論:No. 835 2003.05.23

いまは忙しい。
学会の発表と、別の学会の発表要旨の締め切り、
引越し、7月の道南調査の日程決定と手配、
8月の学会と城川町への調査の日程決定とチケットの手配、
立て続けに、こなすべきことが入ったので忙しい。
講義も、もちろんおこなわければならない。
忙しさにも波があり、忙しくないときがある。
では、そんな時、今までできなかったことが
こなせるかというと、必ずしもそうでない。
気力がなかったり、別のことをしていたりする。
今年の2月から3月がそんな状態であった。
たから、いつでも、どんなときでも、少しでもいいから
続けられるような方法を考えることが大切であろう。
論文のように集中的にすべきこともあるように見えるが、
それだって、学会発表の準備で
その論文の骨子をつくっていると考えれば、
論文の第一段階はできているわけである。
細切れの時間ではできないのではなく、
細切れになってもできるようにすべきであろう。
一つのことに専念して、十分な時間をかけることは、
いまや、私にはむつかしいことである。
だから、逆にいろいろなことが、すべて私のやりたいことに
なんらからの関係があるように、
できれば、 直接その一部になるように
その方法論を考えていけばよいのである。
ようは方法論、あるいは姿勢の問題であろう。
つねにやりたいことを目指している、
そして、今やっていることは、
そのやりたいことの一部となっている、
これが理想であろう。
こんな忙中の方法論を確立したいものだ。
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花。江別市大麻

●相互言及:No. 834 2003.05.22

講義のあとに、学生から質問を受けた。
私は、講義の中で
「他人を、根拠なく批判するな」
といった。
学生の質問は、
「批判するなというのは 、批判ですよね」
という質問を受けた。
私の講義での本意は違っていたので、
別の回答をしたのだが、
これから、ある面白いことを思いついた。
相互言及のパラドックスを、
一つの文章で表すものである。
ふつう、相互言及は、二名の会話によって成り立つ。
例えば、
A:「Bさんは、正しい」
B:「Aさんは間違っている」
というようなパラドックスである。
このような相互言及のパラドックスを
ひとつの会話でつくることができる。
他人を批判する人に対して、
「他人を批判するな」
ということ。
これが、単文による相互言及パラドックスである。
つまり、他人がやっている否定的なことと
同じ方法で否定するのである。
これは多分昔から多くの人が気づいてたものである。
なぜなら、
「他人の振り見て、綿が振りなおせ」
ということわざは、
まさに、このパラドックスを避けるためのものであろう。
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桜。江別市文京台

●学生の一言:No. 833 2003.05.21

大学の売店のレジに並んでいると、
後ろの学生が挨拶してきた。
あまり見覚えがなかったが、話しかけてきた。
「先生の講義が面白」という。
「ありがとう」と礼を言うと、彼は続けて、
「大学の講義で面白いのは先生の講義だけだ」という。
「私はうれしいけれど、他の先生はかわいそうだね」
といった。
でも、本当はもっと言いたいことがあった。
それは、「君がかわいそうだ」とうことだ。
なぜなら、この大学に高い授業料をはらっていて、
面白い講義が一つしかない、とうのは、
この大学に来る意味が本当にあるのだろうか。
私の講義だけ興味があるのなら、聴講すればいい。
それがいちばん安上がりで、効率的だ。
でも、問題は他にもある。
学生が興味をもっている授業、つまり学生の要求と、
教員のおこなっている現状の授業、つまり供給が、
一致していないのではないかということ。
教員は、自分の心に真摯に問うてみて
本当に最高の学問を提供しているかということ。
なにも学生に迎合する必要はない。
面白くなくても、役に立つ授業。
今は面白くなくても、
のちのちその学問の意味がわかってくる授業。
技術、テクニックとしてつらいけれど
身につけなければならない実習、演習。
いろいろな形態のものがあるべきである。
面白いだけが授業の形態ではない。
でも、本当に面白いと思える授業が
一つもないのは、つまらないことかもしれない。
だから、くだんの学生は、もしかしたら、
学問の面白さを少なくとも一つは見つけられたという点で、
いいものを得たというべきだろうか。
教育は評価しにくい。
学生の一言からいろいろ考えさせられた。
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たたずむツタ。江別市大麻

●人的ネットワーク:No. 832 2003.05.20

20年ぶりだろうか。
昨日、高校教師をしている友人から電話があった。
また、中学校教師をしている友人からもメールがあった。
私とは、似ているが少し違う職業についている。
すると、連絡は、 お互いの職業や立場を
利用しあうことについての相談であった。
私は、もちろん了承した。
そして最大限の便宜をはかった。
限りなく人間的なやり方で、
お役所的でも、合理的でもない。
これが、人的ネットワークというべきもであろう。
こんなことは、公にはすべきでないかも知れない。
でも、依頼の多くは、なんらかの人的ネットワークを利用して
行なわれるのではないだろうか。
そのほうが、スムーズに行くからであろう。
お互いに守るべき倫理的な約束事が
そこでは成立してくるかたらだ。
たとえば、頼まれた側も、頼まれる側も、
可能な限り、努力し、お互いに可能な限り
有利な条件を提示しあうであろう。
ここには、利益や営利ではなく、
人間関係によってつくられる条件設定がある。
こんな関係は、以前には、ごく普通にあったはず。
こんな人間関係を合理的でないと、
いまや水面下に押しやられる。
もちろん、談合、闇カルテルなど、悪用する人がいるから、
悪いことだとなっているのであろうが、
その効用まで捨て去るのは、
もったいないような気もする。
私は、合理主義的人間であると自認している。
でも、最近、人間関係を重要視するようになった。
これは、年齢のせいだろうか。
それともより世間を知るようになったのだろうか。
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ふき。江別市文京台

●次なるルート:No. 831 2003.05.19

今日も天気はいいが、風が強い。
歩いてきたので、コートが必要だった。
自然を身ながら歩くと時間はかかるが、
少々時間がかかっても、面白い。
ただ、毎日となるとどうなるかはわかならない。
まして、30分の道のりではなく、
1時間の道のりとなるとどうなることやら。
でも、いままでにない、大学の農場を通るルートとなる。
多分1年間、さまざまな自然を楽しめるだろう。
自然と農業、酪農とのかかわりを
目の当たりに見ることができそうだ。
これは、願ってもないテーマではないか。
楽しみである。
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●大江戸仙花暦:No. 830 2003.05.18

石川英輔著「大江戸仙花暦」
(ISBN4-06-273614-4 C0193)
を読んだ。
江戸時代の風俗を知るのにいいものであった。
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●大江戸仙女伝:No. 829 2003.05.18

石川英輔著「大江戸仙女伝」
(ISBN4-06-263972-6 C0193)
を読んだ。
江戸時代の風俗を知るのにいいものであった。
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●大江戸神仙伝:No. 828 2003.05.18

石川英輔著「大江戸神仙伝」
(ISBN4-06-183117-8 C0193)
を読んだ。
江戸時代の風俗を知るのにいいものであった。
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タンポポ。石狩郡新篠津村

●川原がない:No. 827 2003.05.18

昨日は、快晴で、風もそれほどないので、
石狩川へ出かけた。
川原の石のあるところを探したのだが、
みあたらなかった。
昨年、対岸から石ころがあるところを見かけたのだが、
春は、雪融けの増水のせいかみあたらない。
地元の人に聞いても、石ころの広がる川原はないようだ。
しょうがないので、私たちは、
川の中州の草原で昼食を食べた。
子供たちは虫取りをして遊んでいたが、
それほど虫は多くなく、
ときどき来るちょうちょを慌てて追いかける程度である。
場所を移して花の多いところへ行ったが、
虫は多くなく、まだ虫の季節ではないようだ。
今日は、天気がよければ
石狩川の河口に行ってみようと思ったのだが、
あいにく、霧雨のような状態である。
風もあり少々寒い。
北の大地はめまぐるしく天気が変化する。
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若葉。江別市野幌

●川原へ行く:No. 826 2003.05.17

早朝は曇っていたが、朝からいい天気になった。
風がなく天気がよければ、暑くなるほどだ。
今日、風がなければ、家族で、石狩川の川原へ行こう。
私は、石をとりに、家族は川原でピクニックである。
去年から考えていた場所だ。
さて、石ころがあるだろうか。
きれいな川原だろうか。
もちろん、はずれることもある。
でも、当たれば、すごく得した気がするだろう。
昔は、こんな川原は探すまでもなく、
川のいたるところにあったろうに。
いまや、探すのも苦労する。
でも、出かけよう。
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桜の花。江別市文京台

●冬の野外調査:No. 825 2003.05.16

夏休みは、今年も忙しくなりそうである。
2月、3月頃の講義のない時期に比べ、
8月が非常に行事が多くなる。
これは、大学の行事ではなく、
私の個人的な研究に関する行事が
増える時期であるというべきだろう。
もちろん、北海道の夏休みが短いこともある。
このような実践的活動が、
私の理論への重要なケーススタディと
なってくるはずである。
例年と同じように行事であるが、
私は、去年とは違ったモチベーションで
おこなうつもりである。
そして、でかけても、そのある目的だけでなく
もうひとつ別の目的をも加味すること。
大変だけれども、これがうまくいけば、
有効に時間を使えることとなる。
もちろん、いちばんの目的を忘れることなく。
野外を研究の場とするということは、
どうしても雪のない夏に活動することになる。
これをなんとかしなければならない。
確かに夏しかできないこともある。
それは、昨年12」月下旬の野外調査で身にしみた。
でも、北海道の冬でしかできない、
地質的作業、できれば野外調査がないだろうか。
もし、それが見つけることができれば、
北海道は、断然有利な、野外調査の場となるのだ。
それについて、今年1年は、考えてみよう。
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桜の花。江別市文京台

●若者に説く:No. 824 2003.05.15

若者に向かって人生、生き方を説く。
すると、多くは、個々に対応すれば、
心が動き、感動できる学生である。
自分ひとりになったとき、彼らは何を思うのであろうか。
深く考えるのであろうか。
それとも、そんなこともあるのかと思いつつ、
時間とともに忘れ去るのであろうか。
思うことと行動することとは違うのだろうか。
それも、人生であろう。
もちろん、私が暗示した方法だけが、
いい生き方とは限らない。
私という人生を送ってきた人間が
たどりついた結論であり、方法である。
私は、大学ではこんなことを誰も教えてくれなかった
というものを教えたいと考えているだけである。
自己満足、一人よがりも知れない。
いくら熱心に説いても、
その答え、成果は見えてこないかも知れない。
では、どうするか。
この暗示を受け止めてくれる人がいる、
そうなのかもしれないと信じてくれる人がいる
という自分自身の思い込み、前提、確信
に基づいて教壇に立つしかない。
目の前の心よい反応をする人が
必ずしもこちらの思うとおりに行動するとは限らない。
そこまで私もおひとよしではないが、
でも、どこかでそんなことを信じている自分がいる。
このようなささやかなことを
どこかで心のよりどこにしている
自分も見え隠れしている。
教育とは奥深いものだ。
人間とは複雑なものだ。
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たんぽぽ。江別市大麻

●人を見る目:No. 823 2003.05.14

講義をしていると、その講義に反応する若者、
まったく反応しない若者など、
多種多様な反応をする若者がいる。
しかし、ひとりひとり接していると、
見た目にまじめそうに見える若者が、
じつは私が期待したように深く考えていなかったり、
一見不真面目そうにしている若者が、
じつは私の言葉に真剣に反応していたり、
感動していたりする。
まさにひとは見かけはよらないものであることを
何度か痛感した。
これは、私の人を見る目がないせいだろう。
人を見る目がない人間が、
教育の現場に立って教えるということは、
ある前提からはじめないといけないことが、
この1月ほどで痛感したことである。
その前提とは、見かけで判断できないのであれば、
彼ら若者をすべて一人前の大人とみなし、
私はそのつもりで彼らに接することである。
不真面目に取り組む若者もいるだろう。
そんな若者に失望するより、
ひとりでも真剣に受け止めている若者がいるはずである
という前提をたよりに、
そんな若者に話しかけるように教育をする
と考えたのである。
私は、すべての若者に均等に教育することは
できないと考えている。
まして、大学の教養教育とはそんなものであろうと思う。
このようなやり方をすれば、
少なくも若者をと見かけで判断して、
見かけとは違う若者の真剣さを
取りこぼすことがないであろう。
そんなことを、この一月余りゼミナール形式の
講義をするようになってわかってきた。
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花。江別市大麻

●蠢く関係:No. 822 2003.05.13

今日は札幌で非常勤講師をする日なので、歩いてきた。
やはり、1週間ぶりにゆっくりと歩いてくると、
自然の景色も変わっていることがよくわかる。
桜の花は、まだ咲いていたが、
咲いている木が交代していた。
そして木々の新緑がすばらしくなってきた。
緑の葉っぱもなかなかいいものである。
桜の次は、葉っぱを追ってみようか。
かくのごとく、季節は移ろう。
そして、時間の経過とともに、
さまざまな人間関係も移ろう。
古くからの友人や後輩との新たな関係。
教師と学生としての変化している関係。
もとの同僚たちとの関係。
守り育てているデジタル空間での関係。
学会の面識のない人と生まれる新たな関係。
わたしが次の目標として
定めたことによって生まれた関係。
このように、ここ1週間ほどでも、
新しい関係は生まれ、今までの関係も変化してくる。
そんな積み重ねが、今の自分へとフィードバックしてくる。
関係から生まれる、自分内部での変化。
そんなもろもろが自分を変え、
そして新たな関係へと紡がれていく。
連鎖、連動、循環、変動、変遷、変化。
さまざま見え方で、それは蠢く。
でも、これも自分が望み、
進めてきたからこと蠢くのである。
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落ちた桜の花。江別市文京台

●ありのままの対処:No. 821 2003.05.12

知人から久しぶり届く便り。
それは、私から出したメールへの返事であった。
相手も私へのメールを準備している矢先であったそうだ。
このあたりが人生の機微、妙である。
このメールは、私にとって、重かった。
自分はほとんど相変わらずなのに、
相手が大きく変わった近況を伝える内容。
そんなとき、どう対応していいのか、
あるいは、その変化の報告に対する返事に戸惑う。
しかし、自分は自分なりのやり方、
つまり思ったことを素直に伝える
しかないことに思い至る。
これは、以前から、行なっていたこと。
私が、いつもしてきたことでもある。
これ以上のこともできないし、
これ以外のこともできない。
もしかすると、相手は、私のそのような返事を期待しての
手紙かもしれない。
でも、それも考えまい。
私が私らしい対応をすること、
それが一番の連絡かもしれない。
そして、私の変わったことを、
変わらなかったなかったこと
などをただ、淡々と素直につづればいいのだ。
無理することも、背伸びすることもない。
自分の思うまま、ありのままをを伝えればいいのだ。
いずれにしても、久しぶりの友人との連絡は
うれしいものだ。
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新芽。江別市大麻

●端緒:No. 820 2003.05.11

冬を資産に変える発想について、
4時間ほど、ある人と話しあった。
なかなか有意義であった。
しかし、まだ、実現に向けては何もスタートしていない。
大所高所に立って、いかにアイディアを出し、
いかに実践し、いかにそこからノウハウを抽出するか。
それが一番大事であろう。
そのような場ができるかもしれない
という手ごたえがあった。
今後進むプロセス全体を見渡し、
そのつどプロセス全体の評価ができ、
必要があれば、修正する勇気と決断がもてるかどうか、
それが、いちばん大切であろう。
逆に言うと、それができるかどうかが、
大きなプロジェクトを成し遂げられるか、
度肝を抜くようなことができるかどうか、
その境目となるのかもしれない。
まだ始まったばかりであるが、
なかなか進まないかもしれないが、
着実に、そして、飛躍的に進展すれば面白いのだが。
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桜の花びら。江別市野幌

●冬を資産に:No. 819 2003.05.09

今朝は快晴である。
しかし、早朝は少々寒かったので、
ストーブはつけずに半天をはおった。
手稲の山並みもだいぶ雪の量が減ってきて、
青さを増してきた。
桜は盛りをすぎたけれど、
まだまだきれいに咲いているのを見ることができる。
また、木々の新緑が美しい季節でもある。
この色合いは、なかなか画像や映像には
残しにくいかもしれない。
自然には画像や映像では伝えにくい質感を
持っているような気がする。
これを感じることが、
自然の中にいき、浸る醍醐味ではないだろうか。
この臨場感を感じることなく、
間接的に自然を感じているものにとって、
自然は、他の多くのヴァーチャルな情報の
一つに過ぎなくなる。
これが自然破壊、環境破壊の背景にある
心情ではないだろうか。
今日は、北海道の冬を資産とするために
何か方法がないか、という問題を考えるために、
あるシンクタンクにいって、議論をする予定である。
それか、私の思っているような方向に
議論が行くかどうかはわからない。
でも、せっかく北海道にいるのなら、
北海道の利点を活かしたことができないだろうか。
北海道のマイナス点をプラスにする発想はないだろうか。
もしそれができれば、
北海道には非常に有望な資産を発見、発掘したことになる。
そして、そこからは、本州や温帯、熱帯地方へ
輸出可能なものも生まれるかもしれない。
そんな発想を持つべきではないだろうか。
これは、広義のユニバーサルデザインというべきものに
なるのではないだろうか。
そんな可能性が見出せればいいのだが。
私のユニバーサルデザインの構想はより広がるのである。
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桜の花びら。江別市文京台

●当たり前の気持ち:No. 818 2003.05.08

今朝は、雨で肌寒かった。
5月だというのに、朝、ストーブをたいた。
たくと熱いくらいだが、
室内では 薄着をする癖がついているため、
ついつい寒いときはストーブをつけてしまう。
これは、よくないことかもしれない。
すこし厚着をすれば過ごせることなのだ。
あるいは体を動かせばいいのだ。
エネルギー効率を考えたら、
少し厚着をしていたほうがいいはずだ。
いくら、北海道は寒いからといって、
化石燃料にむやみに頼って、薄着で過ごすのはやりすぎかもしれない。
金銭の問題ではなく、たいして必要でないのに使わないことである。
豊かな時代になって、もったいないとか、節約とか、我慢とかがしにくくなった。
このような思想を忘れ、消費することを是とした社会が
現在の社会となのである。
使わなくてもいいものは、使わないほうがいい。
こんな当たり前の気持ちが、
誰でもがもてる社会は、
もう2度と訪れることはないのだろうか。
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桜。江別市野幌

●桜を追う:No. 817 2003.05.07

1週間の留守の影響がまだ残っている。
仕事がたまりすぎて、処理しきれないのである。
予想をして、メールマガジンの原稿だけは書いていたが、
それを出す余裕も、今はまだない。
でも、これも出かけた後のことだからしょうがない。
さて、今は、花の季節である。
色とりどりの花が咲いている。
同じ花でも、日時、日差しによって変化する。
生き物であるので成長し、環境に対応して変化している。
同じ種類の花でも、いろいろに見える。
今は、桜がいちばん目に付く季節である。
桜を、ついつい見てしまう。
その色も、白に近い薄紅色から
やや濃い薄紅色まで、木によって違っている。
また、花の咲き具合も、木によって違っている。
でも、どの木の桜の花も1週間ほどで散っていく。
ぱっと咲いて、ぱっと散っていくせいだろか、
今見なければという切迫感ができる。
数日の桜を可能な限り追ってみよう。
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桜。江別市文京台

●消えやすい心:No. 816 2003.05.06

1週間、出かけていた。
すると、驚くほどの季節の変化があった。
そして驚くほど仕事がたまっていた。
このような状態は、いままで散々味わっていたことである。
しかし、季節の変化は、記憶に留めようとすると、
ほとんど他の季節の変化にまぎれて
すぐに消えゆき、わからなくなっていく。
それを、ことし1年のように
自然を記録することを目標にすると、
よりよく見ること、より感じようと心がけることによって、
よりよく季節の移ろいを感じることができる。
これが私が目指していた自然への回帰という
目標であったはずである。
このような気持ちは、継続しなければ、
意味がないような気がする。
自然を感じる心は、はかなく移ろいやすいもの。
それを常に維持するには、
自然をよく見る努力が必要なようだ、
自然は、逃げはしない。
しかし、感じる心は、すぐに消え行くものである。
大切にしなければならない。
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●よく見ること:No. 815 2003.05.03
日焼けでひりひりした肌を朝鏡で見ると、
今までと違う自分が見える。
日焼けしたというほんの少しの変化だが、
自分の変化に気づく。
それはよく見ているものだからだ。
だからといって、女性のようにどうこうしようとかいう気ははないが、
自分自身の変化だから、すぐに気づく。
これである。
よくみていれば、たとえ変化することを期待してなくても、
少々の変化は気づくのである。
この観察とまで行かなくても、「よく見る」という行為が、
ものごとの重要な点であろう。
好きなことは、「よく見ている」し、気にもしている。
だから、好きになりたいことも、「よく見れば」いいのである。
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●安らぎ:No. 814 2003.05.02
川や山。
私は、好きだ。
その中にいると、安らぐ。
今時の言葉でいうと、癒されるというのなどろうか。
癒されるというと、今の自分が病んでいるような気がする。
もしそなら、その現状は改善すべきだ。
だから、癒されるという言葉は好きではない。
都会での生活をしていると、
ときどき自然に接して、自然の精気を浴びる必要があるのかもしれない。
いわゆるリフレッシュである。
あるいは、日常をいったん中止し、
より自然に強い影響下で、環境を変えるとことである。
そんな旅を今回もしている。
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●書けないこと:No. 813 2003.05.02
最近、家族で旅行をしても、なかなかメモがかけなくなった。
それは、精神的に余裕がなくなったのか、
それとも、子供が手がかかるせいなのかわからない。
もし、前者なら精神的後退している。
書きたいことは、場所場所で思いつく。
しかし、部屋に帰るとなかなか書いている余裕がないのである。
もし、後者なら、そんな時期なのだろうか。
これから出かけることとは、疲れることである。
せめて、標本や調査にだけは、抜かりなくすることであろう。
でも、そのような言い訳は、非生産的である。
書くように心がけよう。
綴ることが重要であれば、細切れでもいいから、
時間を使おう。
最初は、大変だが、いずれは日常になるかもしれない。
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●大江戸仙女暦:No. 812 2003.05.01
石川英輔著「大江戸仙女暦」
(ISBN4-06-263972-6)
を読んだ。
面白かった。
江戸時代のよさ、悪さなど
いろいろな視点を感じられた。
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●生命のすばらしさ:No. 811 2003.04.29
北海道は曇りで、風も強かったので、いつもより寒く、
室内は暖房は要らないけれど、
外では、ジャンバーを着ても風邪があたると暑かった。
ところが、四国に着いたとたん、暖かさが襲い掛かってきた。
汗が出るほどではないが、上着を着ていると暑い。
北海道の上着をすべて脱いで、Tシャツになった。
四国は、つつじの季節になっていた。
北海道のつつじが咲き始めていたが、
桜はまだ蕾であった。
花はこれからであった。
しかし、四国はもう、春もまっさかりである。
日本という小さい島国だけれど、
これほど季節感が違う。
もしかすると、その差は小さいのだが、
その小さいさを感じる生命の敏感さが季節感を出していいるのかもしれない。
それこそ、生命の偉大さかもしれない。
そんなことを感じている人という生命もすばらしい。
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