思いつくまま

2003年04月
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目次 
●それぞれの思い:No. 810 2003.04.28
●出発前:No. 809 2003.04.27
●私が考えるユニバーサル・デザイン:No. 808 2003.04.26
●プラスの記憶に転化:No. 807 2003.04.26
●記録:No. 806 2003.04.25
●相対論がもたらした時空の奇妙な幾何学:No. 805 2003.04.24
●現場:No. 804 2003.04.24
●自分にあった場:No. 803 2003.04.23
●有意義な時間を:No. 802 2003.04.22
●思いやり:No. 801 2003.04.21
●結果:No. 800 2003.04.20
●備えあれば憂いは軽減:No. 799 2003.04.19
●移り行く季節:No. 798 2003.04.18
●春が終わるころになれば:No. 797 2003.04.17
●学問とは:No. 796 2003.04.16
●母校にて:No. 795 2003.04.16
●夢を忘すべからず:No. 794 2003.04.15
●安全とは買うもの:No. 793 2003.04.14
●小さな環境保護:No. 792 2003.04.13
●ゼロエミッションと日本経済:No. 791 2003.04.13
●北の木と語る:No. 790 2003.04.13
●情報量の管理:No. 789 2003.04.11
●学問を活かす:No. 788 2003.04.10
●春の息吹:No. 787 2003.04.10
●流れ去るものへの意識:No. 786 2003.04.09
●日々変化:No. 785 2003.04.07
●母の中の私:No. 784 2003.04.06
●春爛漫:No. 783 2003.04.05
●行動範囲の拡大:No. 782 2003.04.03
●北海道でいちばん住みたい家:No. 781 2003.04.02
●立花隆秘書日記:No. 780 2003.04.02
●インプットとアウトプット:No. 779 2003.04.02
●最高の学問:No. 778 2003.04.02
●素直な心への回帰:No. 777 2003.04.01



開花。江別市野幌

●それぞれの思い:No. 810 2003.04.28

今日から四国に出かける。
次の更新は5月6日になりそうである。
でも、たっぷり四国四万十川の自然を味わってこよう。
昨日は、ゼミが長引いたので、
出かける準備が間に合わず、
今朝もいつものように研究室に出てきた。
若い人と話すとそれなりに彼らの思いが伝わってくる。
野望を抱く人。
やりたいことがある人。
好きなものがある人。
いやっというほど自然に接する人。
自然にチャレンジする人。
自然と音楽を愛する人。
自然を解明したい人。
それぞれが個性を持っている。
そんな彼らに、今まで我慢してできなかったこと、
隠れて思い抱いていたこと、
好きだけれどなかなか思い切れなっかったこと、
それを私のゼミでは枠に囚われず、
思いっきりさせてあげたい。
それこそが、若さを謳歌することだと私は思う。
自分ができなかったことを、
彼らにはチャンスとして与えら上げたい。
それを活かすも無駄にするも彼らしだい。
これも、めぐり合いの一つに過ぎないのだから。
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新芽。江別市野幌

●出発前:No. 809 2003.04.27

あすから、四国に出かける。
私は、四万十川、および肱川の河川流域の調査だが、
家族はもちろん旅行である。
しかし、我が家はゴールデンウイークや夏休みに
あまり出かけないので、その混雑はよくわからない。
でも、子供が学校へいくようになったら、どうなるであろう。
そんな頃に出かけなければならないのだろうな。
でも、北海道の自然に浸るものいいのではないだろうか。
今日は出発まで忙しい。
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●私が考えるユニバーサル・デザイン:No. 808 2003.04.26

ユニバーサル・デザインのページをつくった。
そこの趣旨説明を以下のように書いた。

ユニバーサル・デザインとは、
多くの専門化が
いろいろな定義をしていることでしょう。
でも、わたしは、こう考えます。

ユニバーサル・デザインとは、
ほんの少しアイディアで、
今まで不便だと思われていたことや、
不便に感じていた人が、
より便利に、より使いやすくなること。
そして、そのものや、工夫、考えは、
特別なものとせず、
ごく普通に、より多くの人が使えるものとして、
さりげなく存在するべきである、と。

今までの不便だったものが、
知らず知らすよりよいものへと変わっていく。
それが、ユニバーサル・デザインの
本来あるべき姿ではないでしょうか。
私は、声高に、バリアフリーをいうのは
あまり好きではありません。
単にこのみというわけではありません。

社会的弱者を意図的に守るという姿勢は、
もしかすると、
「逆差別」をしていることになりはしないでしょうか。
障害者を含む社会的弱者とは、
だれでも経験しているし、
将来なるし、現在なっていると思います。
私は、その弱さも個性の一部だと考えています。
そんな弱い部分は、
ある人は、目の弱さをメガネで補います。
ある人は、足の遅さを補って乗り物にたよります。
でもどうしても補えないものもあります。
だれでも、弱々しい子供の頃があったはずです。
子供を生むときは、妊婦として
行動が不自由になります。
そんな母から私たちは生まれました。
怪我をすれば、動けなくなったり、
ギブスをつけたり、松葉つえをついたりします。
だれでも、肉体的衰える老年を迎えます。
それをそれぞれの「個性」として
素直に受け入れましょう。

多くのいろいろな「個性」をもった人たちが、
一緒に住むことが、当たり前ではないでしょうか。
そして、できればより多くのものや、考え 、姿勢が、
少しでも多くの個性を持つ人たちに使えるように、
使いやすいように考えること、
が大切ではないでしょうか。
これこそが、ユニバーサル・デザインの
いちばん大切な本質でないでしょうか。


使う人は、ユニバーサル・デザインなど
気にしなくていいと思います。
しかし、つくる側、設置する側が
その考えを持つことが大切です。
同じ機能なら、
ユニバーサル・デザインとして開発しましょう。
同じ機能なら、
ユニバーサル・デザインのものを設置しましょう。
そのようなさりげない心が、大切だと思います。

そんなユニバーサル・デザインを支えるのは、
実は「こころ」 だと思います。
なんと呼べばいいかわかりません。
思いやり、いくつしみ、愛、親切、
感謝、礼儀、倫理、道徳などなど。
その場、そのときによって違ってくるかもしれませんが、
そんな「こころ」が
ユニバーサル・デザインには必要です。
そんな「こころ」注ぎ込むのは、使う側です。

ユニバーサル・デザインとは、
これを意識したときに、
すでにはじまっていくのではないでしょうか。

私は、このようにユニバーサル・デザインを
考えています。

私は、街で見かけるユニバーサル・デザインを
探していこうと思います。
そこに意図があろうと、なかろうと、
便利なものと思えば、
そこにはユニバーサル・デザインが
あるのではないでしょうか。
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新芽と春雨。江別市野幌

●プラスの記憶に転化:No. 807 2003.04.26

雨である。
ここひと月ほど天気を気にしていると、
やたら雨が多いような気がする。
しかし、多分、特別に雨量が多かったり、
雨天の日が多いわけではないと思う。
これは、晴れて欲しいという願望が強いとき、
その反対の結果がでるため、
記憶に残りやすいだけであろう。
あるいは、雨の日が強く記憶されてのだろう。
印象の強さが回数に誤解されて記憶されているのだろう。
人の記憶は、非常に主観的である。
同じ地域で、この1ヶ月の間、
反対に雨を望んでいる人にとって、
快晴の日は少ないのに
なぜか、雨が少ないように感じているかもしれない。
同じ現象でも、心の持ちようで
プラスやマイナスの情報として処理され、
記憶として保存される。
ということは、何事もプラスとして記憶する
あるいは重要なことはプラスとして記憶するほうが、
ずっと幸せであろう。
でも、こんなことは意図せずとも、
もしかすると、頭の中で自動的に
そのように処理がされているのかもしれない。
どんなにつらい思いでも、時間がたてば、
懐かしい思い出となる。
ごく普通の思いでも、美化されて、
都合のいいプラスの記憶に転化されることだってある。
これも自己防衛の一種なのだろうか。
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新芽。江別市野幌

●記録:No. 806 2003.04.25

過去の記録しか残っていない時代を
その記録からたどるとき、
実体はほとんど断片しか残されてない。
記録に残るのは、幸運であったものか、
特別なもの、あるい特異なものである。
いずれにしても、過去がそのまま残ることはありえない。
過去とは、記録という特殊なフィルターを
通してしか見れないのである。
また、その記録が読み取りにくいものであったら、
それ解読できる一部の人たちが読みとることにある。
彼らが解読した結果は、
彼らの考えのものとに表現される。
そして、その解読結果が専門的であるなら、
わかりやすく解説できる人によって、解説されたもの、
それは、教科書、参考書、普及書、新聞、テレビ、雑誌
などの庶民の目に触れやすい、
読みやすいメディアとなったものから読み取ることになる。
もし、どこかのフィルターに個性や特異性があると、
過去の事実、真実よりも、そのフィルター自身を
過去として読み取っていることもあるかもしれない。
いや大部分の過去は、そうかもしれない。
フィルターの集積が私たちの知っている過去かもしれない。
私たちは、過去を読んでいるつもりが、
実は、フィルターを読んでいるにすぎないのかもしれない。
ということは、過去を知ることとは、
過去の記録を直接読み取ることが、
いちばんの醍醐味かもしれない。
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●相対論がもたらした時空の奇妙な幾何学:No. 805 2003.04.24

アミール・D・アクゼル著
「相対論がもたらした時空の奇妙な幾何学」
(ISBN4-15-208446-4 C0042)
を読んだ。
彼の本は面白い。
大学の統計学の教員が、このような本を書くとは
アメリカの研究者のすばらしさを感じる。
また、彼が書くような数学的な内容を受け入れられる
アメリカの知的階級の多さに驚かされる。
いい本であった。

「宇宙は、膨張を加速している」

アインシュタインは、
「若い研究者に対し、創造的な科学者にとって
理想的な状況は何か、ということを話したことがある。
それは、学生の教授義務や大学機構に関わる職務、
あるいはキャンパスにおける政治的配慮がつきものの
伝統的な大学の地位にあることではなく、
むしろ研究のためにあるていど
自由な時間をもつことがきる、
卑しい、もしくは「知的ではない」仕事をもつことだ、
というものであった」

「ユークリッドは彼の幾何学を構成する要素を
点、直線、面と定義した(中略)
(1)任意の点から任意の直線を引くこと。
(2)直線を連続して延長すること
(3)任意の点と距離(半径)とをもって円を描くこと。
(3)すべての直角は互いに等しいこと。
(5)ある直線が2つの直線に交わり同じ側に作る内角の
側が二直角(180度)よりも小さければ、
この二直線をどこまでも延ばせば、
それらは二直角より小さい直角のある側で交わること。」

「第5公準は、奇妙である。
他の4つが簡潔で明白であるのに対し、
5番めは長ったらしい。
多くの数学者にはの目には、第5公準は自明というより、
証明されるべき定理のようにみえた」

「彼は重力(あるいは場)が存在しているところでは、
空間の幾何学は非ユークリッド的であることを導いたのだ」

「ここで彼は計量テンソルgμνに
ギリシア文字λで表される簡単な定数を
掛けた項を加えている。
この修正は、有効な方程式であれば
取りこぼしてはならない、
重要な物理上の性質が保たれるよう、
慎重に考え抜かれたものである。
アインシュタインがこの方程式に加えた変更は、
惑星の運動などの局所的な現象には
些細な影響しか与えないが、
宇宙規模のスケールの大きな現象については
多大な効果が生じるように企まれていた。
じつに巧妙な手際
−アインシュタインならではのものであった」

「このモデルはでは、宇宙は静的であり、
膨張もしなければ、収縮もしない。
その形状は球であって、限りがあって、一定の曲率をもつ」

「宇宙定数の導入を通じて、
アインシュタインは科学に寄与する数学的手法を
新たに想像した−そして、彼本人でさえ、
それを世界から取り上げることはできなかった。
この手法が宇宙の理論を説明しようとする
物理学者と工夫研究者にとって有用であるかどうかは、
いまや重要な問題となっていた」

「宇宙には質量にもとづいたどの理論を
成り立たせるにも十分な質量がなく、
目に見えない力があらゆるものを
より速くより速くと押しのけているのだ、と」

「ネタ・バーコールは、宇宙の質量密度は、
膨張と最終的な崩壊を遅らせるのに必要な密度の
20パーセントにしかならない、と結論した」

「近代宇宙論における数々の謎を解くかもしれない、
この重要な問題の解決策として
当然浮かび上がってくるのは、”宇宙定数を宇宙変数
−アインシュタインの方程式に含まれる時間、
あるいはその他の変数関数−
に変えてしまう” というものだろう。
しかし、そのすべてを知る者がどこにもいない。
アインシュタインは40年以上前になくなっており、
彼が宇宙定数を導入したときにもっていた、
自分の方程式のをつくり変えようとする勇気、洞察、知識を
持ち合わせた者は、だれひとりいなかったらしい」

「クエーサーはすべてわれわれから時間的空間的に
非常に離れたものだが、
ほとんどがほど同時期に創造されたことになる」

「アインシュタインは、わが手に入る
数学的手法の不足ゆえに、
自分の努力に限界があること理解していた」

「すべての学問領域が他の領域の発展による
助力を得られるようになってはじめて、
われわれは自然の究極的法則を理解し、
人間なりに見積もった神の方程式を
定式化できるようになるのかもしれない」
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●現場:No. 804 2003.04.24

朝、6時30分、大工の棟梁と話した。
彼は、まじめで、仕事熱心である。
今日は休みであるが、
昨夜の雨が心配で現場を見に来たのである。
まじめな人が、金のためではなく、
仕事へのまじめさ、会社への忠誠心、
それが、会社を支えているのではないだろうか。
そんな会社はいい会社だろうか。
会社には、大きな組織としての対面、風評、評価、業績など
現場にはない大変さをもっている。
それは、組織だからしょうがないのであろうか。
棟梁が憂えるのは、次世代の成長である。
会社の仕事が休みがなく、きつく、
若い人がやめていく。
そのため、なかなか若い人が育たないという。
それは、現場の人間として切実な思いであろう。
そしてそれは、会社の存亡に関わることでもある。
その会社の現場の関係者を見ていると、
素朴でまじめな人たちが多い気がする。
そんな現場の思いを受け入れられない現状。
それが、悪循環にならなければいいのだが。
現場の苦労を汲めない会社には、将来の不安を感じる。
いい会社だら、もっと社員を大切にして欲しいものだ。
そして、現場の現状を知らないトップの人の度量こそ、
会社の存亡の鍵とを握るのではないだろうか。
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朝日と新芽。江別市文京台

●自分にあった場:No. 803 2003.04.23

ゼミを2つやった。
そして感じたことがある。
意欲、意思を示せない人は、つらいし、かわいそうでもある。
何かのきっかけで、自分自身を
発揮させられるようにできればいいのだが、
こればかりは、意図してできないこともある。
多くの偶然がなせる業かもしれない。
長い時間があれば、意思、意欲を見せることができ、
解決できることかもしれないが、
少しの時間では、なかなかそうはいかない。
対面すれば、人間同士であるから、
会話をして、それぞれの個性は感じることができる。
しかし、それを全体としてみたとき、
全体へ自分の個性を反映をするのは
別のステップが必要であろう。
むつかしいものだ。
でも、それも個性なのだから、
無理じいすることはないのかもしれない。
自分で自分らしく振舞っていればいいのかもしれない。
そして、意欲、意思があっても表に出せない、
という意思表示があってもいいのかもしれない。
そしてそのような自分を認めてくれる社会、
世界を見つけることができればいいいのだ。
あるいは、自分のもっている才能を
開花させる場が見つかればいいのだ。
そちらのほうが、重要かもしれない。
自分を無理に社会に合わせるのではなく、
自分の個性にあった社会、場を見るける能力、
探す能力を身につけることの方がたいせつかもしれない。
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朝日の跡。江別市文京台

●有意義な時間を:No. 802 2003.04.22

昨日は、ゼミがあった。
志願してこの科目を履修した学生ばかりである。
欠席者、ゼロであった。
単位がもらえなくても参加したいという学生が、
2、3人入っている。
このゼミでは、彼らのやりたいことを自由にさせてあげたい。
そしてできれば、この大学、この講義が、
彼らにとって役に立ったと
思えるようなものになればいいと思っている。
ひとは、いろいろな場でチャンスや出会いがある。
しかし、性格や要領の悪さ、経験不足などによって
チャンスを逃す人もいる。
それは、非常に残念なことである。
だが、人生において、学生時代は、
失敗は許される時代である。
しかし、学生時代は2度と帰ってこない。
だから、この許容範囲の大きい時代を、
有意義に過ごしてもらえれば、
教員として、本望といえよう。
講義の内容、教員の氏名、顔など
学生の記憶から消え去ってもいいのだ。
大切なのは、学生たちの一度しかない大切な時間を
有効に使ってもらうことだ。
それに貢献したいのである。
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みみず。江別市野幌

●思いやり:No. 801 2003.04.21

朝、6時、自宅を出たとき、雨だった。
1キロメートルほど北東では、雪であった。
ほんの少しの距離の違いが、天候の違いとなったようだ。
そんなことから、思いやりについて考えた。
少しずつの変化が、つもり積もって、
その地域の気候、風土、
そして自然や人の生活までつくりあげる。
沖縄と北海道の四季や生活スタイルをくらべてみれば、
その違いの大きさに驚くだろう。
そこまで広げなくても、と考えるかもしれないが、
地球規模で見たとき、日本列島はちっぽけな島だ。
それでも、よく見るとこれほど違うのである。
部分を軽く見るべきでない。
部分の積み重ねが、総体となるのである。
ほんのちょっと離れていたとしても、
自然には違いが生まれるのである。
気づくか気づかないかの違いだけかもしれない。
そんな小さな違いの積分値が、
その地域固有の自然といえる。
還元主義的に解明せよというのではない。
特徴としてよく理解すべきだというのである。
そして、個性を知り、個性を活かすべきだというのである。
地域や自分たちの個性を活かすということは、
他人に自分たちの個性を認めてもらうことである。
そして裏返せば、他地域や他人の個性を認め、
正当に評価することにもつながる。
自己を見ててもらうことは他を認めるということにつながる。
そのような相互理解、あるいは思いやり大切ではないか。
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エゾエンゴサク。江別市文京台

●結果:No. 800 2003.04.20

科研費の内定がきた。
私が出していた基盤Bが落ちていた。
萌芽研究が今年で最後なので、
できれば、基盤Bをとりたかった。
研究テーマは内容には非常に自信があり、
これは非常に面白いものだと思ったのだが、
採択されなかった。
客観的評価がそうならしかたない。
再度練り直そう。
しかし、今まで博物館にいたときは、
自信があるものを1、2年出せば、通っていたのである。
なのに今回はかなりの自信があったのに、
採択されなかった。
その結果を知人に伝えたメールである。

「私は、継続の萌芽だけで、基盤Bはだめでした。
絶対通ると自信があったのですが、
やはり私大というネームバリューの低さでしょうか。
もしそうだったら、残念です。
でも、細々とですが、
個人でできる研究を続けていくつもりです。
現在はだんだん内容が整理されてきました。
・ 科学教育:
  インターネットを利用したもの、大学教育との連携
・ 生涯教育:
  インターネット、大学教育と連携したもの
・ 情報教育:
  高精細画像を伴う自然史データベースの構築と
  運用と方法論の開発
・ 地質哲学:
  大学の講義でとりあえず展開中で、
  そろそろ成果を出しはじめます。
多角的ですが、私の中では、
だんだん一つにまとまりそうです。
まだ、発表や論文というものにはなっていませんが、
数年のうちに体系だったものになりそうです。
科研費では、上の3つを組み合わせてテーマとしました。」

という内容である。
もし、肩書きや、組織、立場が採択の時に
勘案されていたらそれは、残念なことである。
書類審査なのだから、
申請内容で評価して欲しいものである。
それで採択されなかったのなら、しかたない。
実績をだして、再度チャレンジである。
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春芽。江別市文京台

●備えあれば憂いは軽減:No. 799 2003.04.19

雨である。
暖かい雨です。
1年に1度が2度、
絶対雨が降らないで欲しいと思う日がある。
今日がそうだったのだが、
天候とは思うに任せない。
これが、強い記憶として刻み込まれる。
後に思いおこすと、
雨はいちばん降ってもらいたくないときに限って降る
という経験則めいたものが作り上げられる。
それも人間だからしょうがないのかも知れない。
いまや、当たる率は100%ではないが、
かなりの高い確率で当てる天気予報がある。
それを利用すれば、翌日の天気は予想がつく。
降ってもらいたくないときの雨。
それは、あきらめるでは、あまりに無力である。
All or Nothingではなく、
雨でも、できる限り失うものを少なくなるようにすること、
それが、人に残されたすべきことであろう。
まさに人知を尽くすのである。
そして、予想外の晴れや曇りが得られたら、
それは逆に儲けものの思えるのではないか。
これこそが、逆転の発想である。
もしかすると、気休めかもしれないが、
しょせん天気に思いをはせ、一喜一憂することも、
人の自然への儚いあがきかもしれない。
となれば、せめて気持ちだけでも、
プラスになればいいのではないか。
備えあれば憂いは軽減。
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エゾエンゴサク。江別市文京台

●移り行く季節:No. 798 2003.04.18

手稲の山並みには、まだ雪は残っているが、
街の中の雪は、ほとんど融けた。
空き地には、春の花が咲き始めた。
ちょっと探すと、街の中にも空き地はたくさんある。
大都会ではなかなかない空き地、ここにはある。
手入れされてない空き地は、雑草たちの天国だ。
いろいろな春の花や芽が一気に伸びていく。
生き物すべてが、待ちわびた春だ。
今年の春は、どれほど記録できるだろうか。
去年からはじめた自然の記録は、
結局夏ごろからである。
だから、去年の春は、記録に残してない。
記憶にしか残してない。
人間の記憶はいい加減なものだから、
時間や場所が正確でないことが多い。
特に季節の移り変わりは、不正確だ。
だから、毎年楽しませてもらえるのかもしれない。
でも、この年、この天気、この気持ちでの
この季節は一度しかないはず。
移り行く季節を楽しもう。
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ふきのとう。江別市大麻

●春が終わるころになれば:No. 797 2003.04.17

今日は、朝起きても暖かく、
車で来たので、上着を着てこなかった。
すると気温はさほど低くなかったのだが、
風が強く寒かった。
江別は風の町である。
冬の風はそれほどでもないが、
春から秋にかけては、風が強い。
だから、江別での風力発電に適した地ではないだろうか。
こんど、実験をしてみたい。
実用としては個人の力では大変かもしれないが、
少しの灯り、非常用としては利用できるかもしれない。
問題は、冬を如何にするかである。
個人の実験用なら、冬は取り外しておけばよい。
考え、実行すること、それが、なによりも大切。
その方法論は、私が科学教育で目指してきたことでもある。
そして、そのような実践体験から、
新しいアイディアも生まれるであろう。
6月の春が終わるころになれば、であるが。
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●学問とは:No. 796 2003.04.16

学長の入学式での言葉。

「大学は、ひたすらに学問の場であります。
それは、曖昧な中に本当のことを割り出し、
真実を明らかにする場所であります」

「学問というものは、大学で知識として教わる中において
御自身が主体的に働いて初めて創りあげらるものです。
それは、運動競技でも、音楽でも、アルバイトでも、
その中に物事の理を見出す。
そして問題解決を図る。
私たちの生命体としての人間が
これまで世界の中において、適用を計ってきた
問題決の基本がエッセンスにこめられたものが学問である、
そう考えて、これから先のきわめて不透明な
世界の中における大学を体験していただきたい」

すばらしい言葉であった。
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春の池。江別市大麻

●母校にて:No. 795 2003.04.16

昨日は、母校で、はじめての講義をした。
理系学生への全学共通教育の非常勤講師として、
私が現在目指しているものをテーマにした。
深く地球を探る−地質学と科学と哲学と−
というテーマである。
地質学と哲学、
そしてそれをよりよく伝えるための科学教育、
これらが融合したものである。
教育とは、最終的に私が伝えようとしたことが、
相手に伝わるかどうかである。
そのために、私が学問を目指す姿勢を素直に示すこと、
そこで自分自身が得た最高のものを与えること、
そして、学生への熱意と誠意が重要である。
ごく当たり前のことである。
それをただただ実践するだけである。
母校の学生たちへの反応はよかった。
我が校の学生とは少し違った。
でも、その反応をみながら、しゃべると、
なかなかしゃべりやすかった。
いくつかの大学で講義をしてきたが、
今回が、いちばんやりよい気がした。
理由は不明であるが、
私が、そのような心持であったせいかもしれない。
母校というノスタルジー、何らかの共鳴、
愛校心、同族意識などもろもろがからみあった、
えも言われるものなのだろう。
こんな気持ちが続けばいいのだが。
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ふきのとう。江別市文京台

●夢を忘すべからず:No. 794 2003.04.15

今日は薄く雲がかかっているが晴れた。
風が少しあり、肌寒かった。
地面にミミズがいっぱいできてきいた。
北海道の啓蟄だ。
暖かい雨が何度か降ると、虫たちの活動も活発になる。
もちろん人間も。
天気がいい日には、外に洗濯物が干される。
今日は、久しぶりに、公園の西側の道を歩いてきた。
冬は、西側の道を除雪しないので、歩けなかった。
東側の道だけ除雪されていたので、
いつもは、そちらを歩いていた。
半年振りに歩いたら、その道は、新鮮だった。
この道は、昨年、転居してきたばかりの頃、
よく通勤で歩いた道だった。
今、その頃の気持ちを思い出している。
成果があった部分、成長した部分、新たな挑戦をした部分、
手抜きをしている部分、成長してない部分、
後退している部分、惰性となっている部分、
私は、どれほど変化したのだろうか。
今のところ見えない。
それは、すべての積分がマイナスで成長がないのか、
あるいは、見えないほどの成長なのか、
それとも、啓蟄のごとく、一気に変貌するのか、わからない。
その結果がいつでるのかさえ、わからない。
でも、結果すべてでない。
その目指すものに向かうこと、
つまりは夢を目指すことに生きがいを見出しているからだ。
夢を忘すべからず、だ。
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ふきのとう。江別市野幌

●安全とは買うもの:No. 793 2003.04.14

今朝も小雨が降っていた。
いつもの習慣でストーブをつけたが、暖かいので消した。
ストーブをつける時間が、日に日に短くなってくる。
春である。
昨日は、安全について考えた。
日本は治安のよい国である。
しかし、イラクの混乱をみると、
非常事態になると略奪がおこる。
病院からも、博物館からも略奪をする。
むき出しのエゴが現れる。
そして、それによって金儲けをたくらむひともいる。
弱者は自分自身で守るしかない。
しかし、あまりに強固に守ると、
暴力によって自分自身が傷つくか、死を招く。
安全として最終的に守るべきもの、
それは、自分と家族の身の安全。
次が、そのような略奪あるいは
犯罪の対象となりにくいものへ
自分たちが変わること、
あるいはゆるい防御をすることである。
この両極端の中間の段階は、ないような気がする。
新居では、セキュリティとしてSECOMを導入することにした。
犯罪者を捕まえるより、SECOMの名によって、
犯罪を未然に防ぎ、
犯罪者への心理的バリアを張り巡らすことを
いちばんの目的とする。
高いものにつくが、安全とは買うものであると考えたのだ。
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春と冬。江別市文京台

●小さな環境保護:No. 792 2003.04.13

今朝は暖かかったが、昨日からの雨が降っていた。
そういえば、暖かい雨は久しぶりだ。
これでますます雪が融けていくだろう。
いまや、街中の残雪はぽつりぽつり残っているだけだ。
春である。
環境について考えている。
環境を守る、自然を守る、と唱えるのたやすいことである。
でも、今は、行動すべきときだろう。
我が家でも、環境への負担を少しでも減らすために、
紙の使用を減らそう。
そんな少しの努力からはじめていこう。
生ごみの堆肥化、リサイクルの徹底。
過剰包装の拒否など、少しずつはじめていこうと思う。
まだ、気持ちだけだが、
紙の使用に関しては、現在、習慣化しつつ努力中である。
まずは、小さな一歩から。
でも、これで、続ければ、木を一本使わずに住むのである。
我々動物は、植物なしには生きていけないのである。
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●ゼロエミッションと日本経済:No. 791 2003.04.13

三橋規宏著「ゼロエミッションと日本経済」
(ISBN4-00-430491-1 C0236)
を読んだ。

「日本人には、昔から自然と共生してきた
長い伝統があります。」

「政府がリーダーシップを取らないのが悪い、
企業の責任がある、などと評論家的な言辞を弄していては、
時代を前に進めることはできません。
政府が悪ければそれを改めさせればよい、
企業行動に問題があれば、具体的にそれを指摘し、
改善を求めればよい。
民主主義国家では、国民が主役であり、
国民の行動力こそが時代を変えるエネルギーに
ならなければなりません。」

「百の説法より、ひとつの実行です」

「ゼロエミッションとは、廃棄物ゼロといういみです。
廃棄物をゼロにすることで、
資源を100%有効に利用し、同時に環境負荷を
まったく伴わない社会を目指すための「キーワード」です。」

「10世紀を支えた経済思想は、「劣化しない、無限の自然(地球)」が前提だった」

「今日の我々は「劣化する、有限の自然(地球)」を前提に物事を考えていかなければならないことを知っている。」

「山口さんは言う。
私は金儲けだけが目的で事業を起こしたのではない。
・北海道の自然を守るためには、
何が大切で、何が無駄なのか
・北海道の人間を守るためには、
何が大切で、何が無駄なのか
・北海道の地域を守るためには、
何が大切で、何が無駄なのか
北海道の自然、人間、地域を守るために、
残された生涯をかける覚悟であると。」

「ISO14000シリーズは、(中略)
環境分野の国際規格のための番号である。」

「この時代(江戸時代)を支えた経済システムは、
自然の生態系と似て、無駄がなく、
環境保全型の「クローズドシステム」になっていた。
正確環境も清潔で、人間と自然がうまく調和していた。
自然を構成する一員としての人間が
十分に認識されていた。
循環型の経済社会を支えたのは、地元を住みよい、
持続可能な地域として維持していこうとする地域住民の
「コミュニティ・スピリット(愛郷精神)」にほかならなかった。
それぞれが持つ能力や労働力を提供して地域のために
奉仕する精神が、地域の環境を守るうえで
大きな成果をあげてきたのである。」

北九州方式
「第一は、市民の一人一人が
草の根のレベルで参加すること。
第二は、行政や企業を批判しているだけでは、
問題解決にならないという共通認識があること。
第三は、市民と行政、企業が情報を持ち寄り、
協力して問題可決にあたること。」

新しい常識の提案
・有限で、劣化する地球
・植物あっての動物
・人類だけが増え続けることはできない
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●北の木と語る:No. 789 2003.04.13

西川栄明著「北の木と語る」
(ISBN4-89453-248-4 C0072)
を一部読んだ。
この本を買ったのは、
「桂」という木に興味があったからだ。
我が家は道産の桂を30%つかった
特徴的な家だからである。
この本によれば、西洋には桂という木がなく
英語でも"Katsura"というそうである。
カツラ(桂)は、
カツラ科の落葉広葉樹で、
学名は、Cercidiphyllum japonicum Sieb. et Zucc.
となる。
別名、コウノキ、オコウノキ、ショウユギがある。
日本全国にあるが、
日本の固有種に近い。
いまや北海道でも、天然のカツラ林はあまりないようである。
でも、北海道のカツラは、
「カツラといえば、日高のヒガツラ(緋桂)」
と呼ばれるほど良材とされているようだ。
緋桂とは、日のように濃く明るい赤紅色になるかである。
我が家も時間がたった部分は、
非常のいい色の木となっている。
そんなところは、ぜひ残して欲しいものだ。
ハート型とかわいい葉の桂を、
近所の原生林へ探しにいこう。
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ふきのとう。江別市野幌

●情報量の管理:No. 789 2003.04.11

この職場に来て新しいインターネット接続環境になり、
11月には自宅の電話とインターネット環境を
ADSLに変更したためプロバイダーも変えた。
このような状況変化が、
インターネットという側面だけでもおこっている。
今日、メールの数を数えた。
2002年4月1日から2003年3月31日まで、
受信総数は、 4,282通。
送信総数は、1,757通であった。
この数が多いのか少ないのかはわからない。
でも、確実にいえることは、
メールを書く数は、手紙やはがきのときより、
格段に増えてきているということである。
また、メールによる返答のために、
手紙やはがきを書いたのは、思い出しても、
数えるほどしかない。
このような状態は、いいとも悪いともいえないが、
これが現状、現実である。
ひとりの人間が処理できる量は、限られている。
今回は、メディア変更によって、交信数は増えた。
しかし、多分、これが、上限に違いであろう。
これ以上の交信数は、私の能力からいって、限界であろう。
あるいは、現在の交信数は、
明らかに能力以上の数であるといえる。
これからは、情報量を制限し、
管理することも必要であろう。
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●学問を活かす:No. 788 2003.04.10

学長が卒業式で言った言葉に感銘を受けた。
「大学を出て実社会で自分の問題に出会うとき、
大学の割り切れて約束事に従った解決で、
しかも学ぶ者が受動的であるとき、
そこでえた経験は、
実社会の問題解決にはほとんど役に立ちません。
それを卒業にあたって覚悟をしていただきたい。
しかし、これから皆さんが
現実に如何にぶつかるかによって、
それらは活きてくる。(中略)
なしうる最善は、
全力を持って自分の問題として受けるということであります。
あらゆる力を駆使して事に当たる気迫だけが
おそらく問題を問題として、何らかの解決を、
悪戦苦闘、五里霧中の中で自分で作り上げることができる。
そのときに才能の有無などたいした問題ではありません。
どういう大学を出たかなど、
本来の仕事をやっている場合にはほとんど問題にならない。
如何に正直にものにぶつかって、
自分のあらゆる力を振り絞って
それを能動的に解決するかにある。
そして、そこにこそ学問が活きる。」
いい言葉ではないか。
すべての努力をしている人に、励みになる言葉だと思う。
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ふきのとう。江別市野幌

●春の息吹:No. 787 2003.04.10

朝6時にいつものように自宅を出た。
数日間、出かけていたのと、
昨日、一昨日が天気が悪かったので、
晴れた朝のこの時間に、出るのは1週間ぶりとなる。
そのため、この時間に朝日がさんさんと降りそぐ天気は
久ぶりに味わう。
すがすがしい大気とまぶしい太陽であった。
放射冷却で車の窓が凍っていた。
しかし、この寒さは、以前ほどではない。
日々、季節が変わっていくのだ。
その移り変わりは、毎日の変化だと見分けにくいが、
1週間も間を置くとよくわかる。
北海道は、これからいい季節を迎える。
この喜びは、厳しい冬を迎えたものだけが味わえる
特権であろう。
家の隙間の荒地にふきのとうを見つけた。
あちこちに春の息吹が見かけられるようになった。
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春の池。江別市大麻

●流れ去るものへの意識:No. 786 2003.04.09

4月に雪が降った。
すぐに融けそうな、べちょべちょの雪だ。
久しぶりに、歩いてきた。
曇り空の雪の中だった。
春の雪を歩いて味わうと、
今まで何度も歩いてきた道が、
非常に新鮮に感じた。
季節は移ろい、また春が来たのである。
北海道での2度目の春である。
一度目は、昨年、来たばかりだったので、
十分春を味わうことが、できなかったと思っていた。
だから、今年こそは、春を十分味わおうと思っている。
しかし、それは、間違っていると思うようになった。
なぜなら、似た春はあっても、同じ春は二度とこないからだ。
それは売るという季節だけでなく、
自分の心も、環境も、条件も違っているからだ。
今年の春は、今年だけしかないのだ。
今年の春を味わう気持ちは、今年だけのものだ。
当たり前のことだが、それに気づいた。
今の時間、今の季節は、今しか味わえないのである。
それを、堪能するには、
その時間の流れ、季節の移ろいを
意識することではないだろうか。
そんな流れ去るものへの意識、
いつも無意識にやり過ごしているものへの慈しみ、
それが、重要なことではないだろうか。
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●日々変化:No. 785 2003.04.07

日々変化するものを毎日追いかけていると、
変化の感じ方は、変化がどんなに激しいものでも、
最初は戸惑いはあるかもしれないが、
理解可能の範疇である。
それは、その過程を理解して、
なおかつ変化を逐一追いかけていると、
激しい変化する、なれてくるからであろう。
そころが、その変化を数日追いかけられないと、
とんでもなく変化の大きさが感じられる。
頭でわかっていても、その変化に驚きを覚える。
これが、日々の積み重ねの威力なのだ。
変化は激しくなくても、
少しずつ、努力して見えようが見えまいが、
変化しようと努力すること。
これが、実はいちばんの変化手法ではないだろうか。
背伸びせず、倦まず、あきらめず、手を抜かず、
でも着実に日々変化すること。
これが、変化を望むものがとるべき姿ではないだろうか。
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●母の中の私:No. 784 2003.04.06
8ヶ月ぶりで母に会った。
ふけ方はそれほどでもないが、足が弱っていた。
将来、弟と同居できることが、はっきりしたから、
一安心したであろう。
母から、頭が薄くなったといわれ、
それが以前からだといった。
それどころが老眼もでているといったら、驚いていた。
母の心の中の私は、若いときのままの私が留まっているのだろか。
それを思ったら、もっとコミュニケーションをとらなければと思った。
家内の両親とも、もっと連絡をするようにしなければと思った。
親と離れて過ごすこと、
それは、親のありがたみをかみしめることかもしれない。
親と同居すること、それはありがたみより、
嫌な面をかみしめることかもしれない。
でも、同居にまさるコミュニケーションにはかなわない。
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●春爛漫:No. 783 2003.04.05

京都の実家に、昨日から里帰りをしている。
1年前の正月に里帰りして以来だから、
1年半振りである。
母は昨年の夏に我が家に来ているし、
電話でもしょっちゅう話しているし、
久しぶりという気はしない。
さて、久しぶりの京都である。
関西は春爛漫で、桜が咲いているというニュースを聞いていた。
ところが、空港をでてすぐ、雨と肌寒い天気に驚いた。
傘を持って出かけるいう癖が、
北海道に冬にはないので、持ってこなかった。
また、北海道より関西は暖かいものだという思い込みがあった。
聞くと、昨日までは暖かく、昨日だけが、こんなに寒いという。
でも、今日も寒い。
日本も広く、地域によっていろいろな天候があるのだ。
一般論と各論が違うように、
天候もその土地のその日によっても違うのだ。
そんな単純なことも忘れていた。
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残雪。江別市文京台

●行動範囲の拡大:No. 782 2003.04.03

春のうららかな日が続いている。
しかし、まだ、朝夕は冷たいし、風が吹くと肌寒い。
もちろん、まだ街のいたるところに残雪が残る。
でも、日に日に春の深まりを感じる。
昨日、家内用の自転車を買った。
後ろに子供を乗せる台も一緒に買った。
これで、家内の行動範囲も広がるであろう。
行動範囲が広がるということは、
もちろんいいことではあるが、
それに伴うメリットだけでなく、デメリットもある。
メリットは接する実物の量の増大、
あるいは情報量の増大と言い換えてもいい。
情報量が増えれば、選択肢も増え、
自分にあったよりよい選択が可能になる。
デメリットは、情報量の増大によって、
必要以上のものをインプットしてしまうことである。
つまり、ついつい安いからとか、便利だからと、
買ってしまうというような行動をとることがある。
もちろん、これは、自分自身の考え方で
いかようにもコントロールできるものである。
もし、コントロールできるという前提があれば、
情報量の増大のメリットだけが残るのだが、
現実はそうもいかない。
欲望があるかぎり、なかなか不必要な
インプットはなくならないものである。
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●北海道でいちばん住みたい家:No. 781 2003.04.02

山口昭・岩瀬孝子著「北海道でいちばん住みたい家」
(ISBN4-7979-8513-5 C0079)
を読んだ。
「世界でいちばん住みたい家」の北海道版である。
まあ、わかりやすかった。
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●立花隆秘書日記:No. 780 2003.04.02

佐々木千賀子著「立花隆秘書日記」
(ISBN4-591-07659-8 C0095)
を読んだ。
立花隆の裏話がわかって面白かった。
しかし、最後の解雇のところがいただけなっかた。
いうべきでない、佐々木氏の評価が
これで下がるような気がする。
それまでは、有能な秘書であったのに、興ざめした。
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●インプットとアウトプット:No. 779 2003.04.02

今年の1月から3月までの3ヶ月間のメールを整理した。
私は、3ヵ月後との送受信したメールをテキストにして、
バックアップを取っている。
受け取ったメールをテキストにして保存したら、
なんと55Mbもあった。
送ったメールは、3.2Mbでった。
そして、受け取ったメールのファイルがあまりに大きいので、
添付ファイルの画像をなどを削除して整理したら、
大学・公官庁関係の添付ファイル、
そして衛星画像の添付ファイルが多いことがわかった。
衛星画像は、1月から連載をはじめたエッセイのために、
画像を加工してもらって、その確認のために、
送られてくるものである。
実際に印刷した画像を郵送で送ることを考えたら、
格段の進歩であるが、それにしても大きい。
また、大学・公官庁関係者は、高速のインターネットを
非常に手軽に、使い放題で利用できるので、
大きな画像やアプリケーションファイルを
お構いなしに送ってくる。
これは、恵まれた環境を、意識的にか、
無意識にかはわからないが、享受している結果でもある。
まだ、全部を整理していないが、
大学関係の私のアドレスに送られてくる
添付ファイルを削除しただけで、
55Mbから9.8Mbに減少した。
これくらいだと、ほっとする量である。
ただし、自分がアウトプットしている量の3.2と比べると、
それでも、インプットしている情報のほうが、
3倍もあるということである。
インプットとアウトプットのバランスは、
こんなものであろうか。
まだ、ファイルを全部整理していないので、
確かなことはわからないが、
インプットとアウトプットの比率は
みんなどの程度なのだろうか。
整理が終わったら少し、考えてみよう。
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春の木肌。江別市文京台

●最高の学問:No. 778 2003.04.02

古きよき時代の教授、
と我が大学の学長に対していった人がいる。
それに対して、学長は不快な顔をしていた。
多分、学長は、
「自分は過去の人間ではなく、
現在を生きる人間である」
と思っているからであろう。
学長の話したある言葉に感銘を受けた。
学生のレベルが年々低下して問題をかもしているが、
「学生たちに対して最高の学問の教授を」
という趣旨のことを教員全員に対して望んだ。
すばらしいことである。
その言葉の意味することは、
わかりやすく講義をするところと、
教授内容のレベルを下げることとは
違うということだ。
そして、自分がいちばん興味を持っていることを、
現在の研究テーマとしていることを、
直に学生にぶつけていいのだと思った。
そう考えると、自分は最高の学問を教授しているか、
と問われたら、まだまだ足りないと感じた。
まだ自分の学問は、中途半端で、体系だっていないと思う。
それを歯がゆく思っているのは、自分自身である。
最高の学問とは、「自分自身が一流たれ」
ということなのである。
自分はまだまだ、ライフワークのテーマすら定まってない。
それを模索している段階である。
時間不足を勉強不足の言い訳にしていないか。
アウトプットの少なさを、
環境の変化、テーマの変更のせいにしていないか。
自己弁護ばかりしていないか。
2年前の努力している自分と比べて、
現在の自分は進歩しているのか。
単に環境が変わっただけではないのか。
そんな疑問がわいてくる。
反省がつのる。
なんとか「最高の学問」を目指したい。
それにしても、学長の言葉は含蓄がある。
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冬の層。江別市文京台

●素直な心への回帰:No. 777 2003.04.01

さて、いよいよ4月となった。
今日は、心なしか暖かい気がする。
自宅を立ててくれる建設会社の社長と、
昨日、打ち合わせをした。
社長は、私たちの希望を受け入れてくれ、
誠心誠意で答えてくれている。
当初、これが不思議だった。
なぜ、これほど尽くしてくれるのか、と昨日、尋ねた。
それは、私の気持ちがわかり、それに応えるためである
との回答があった。
今まで、私は、金銭的な取引で、
サービスとか値引きがされるときは、
なにか裏があるのでは、
あるいはなにか下心があるときだと、思っていた。
多分、今でも多くの商談には
そのような心が蠢いている筈だ。
しかし、人対人には、やはり心が存在するのだ。
自分自身がそれを唱えていたはずなのに、
それが、大金が絡む場面では、
ついつい下心を考えてしまう。
そんな心の持ち主になってしまっている自分に
気づいてドキッとした。
現代社会にでは、下心のある人たちはうじゃうじゃいる。
誠意を持って接している人を見抜けなくなるほど、
自分の心をすさんでいるのは、自然への回帰だけでなく、
誠意を見抜く心、素直な心への回帰も
目指すべきなのかもしれない。
社長のそんな気持ちを聞いて、うれしかった。
これなのだ。
誠意が伝わるとき、心が感動するのであろう。
そして、そんな誠意に応えるには、誠意しかないであろう。
これからも、誠意を示して、付き合っていこう。
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