思いつくまま

2003年03月
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目次 
●したいことのデジタル化:No. 776 2003.03.31
●待ち遠しい春:No. 775 2003.03.30
●2度目の春:No. 774 2003.03.29
●その地で生きる:No. 773 2003.03.28
●より高い到達点へ:No. 772 2003.03.27
●自然への回帰の程度:No. 771 2003.03.26
●巨人の肩に乗って:No. 770 2003.03.26
●長男にとって家庭とは:No. 769 2003.03.25
●春の味わい:No. 768 2003.03.24
●古式棟上式:No. 767 2003.03.22
●リサイクル:No. 766 2003.03.21
●はや1年:No. 765 2003.03.20
●論理学:No. 764 2003.03.19
●欲望:No. 763 2003.03.18
●居住者として:No. 762 2003.03.17
●こだわりの生産者:No. 761 2003.03.15
●初心:No. 754 2003.03.14
●仮説実験授業入門:No. 759 2003.03.14
●未来の科学教育:No. 758 2003.03.14
●仮説実験授業:No. 757 2003.03.14
●ダイヤモンド:No. 756 2003.03.14
●二つの文化と科学革命:No. 755 2003.03.14
●ゲーデルの哲学:No. 754 2003.03.14
●我が家:No. 753 2003.03.13
●やれるだけやる:No. 752 2003.03.11
●春近し:No. 751 2003.03.06
●個人のメディア:No. 750 2003.03.05
●春の気配:No. 749 2003.03.04
●急転直下:No. 748 2003.03.04
●夢に近づける:No. 747 2003.03.01
●熱とはなんだろう:No. 746 2003.03.01
●哲学者かく笑えり:No. 745 2003.03.01



冬の種。江別市大麻

●したいことのデジタル化:No. 776 2003.03.31

今朝は放射冷却で非常に冷え、車の窓がひどく凍っていた。
さて、今日で3月も終わり。
今日は、大学のサーバー工事のため、
インターネットが使えない。
それに、10時からと13時から外で用事があるために
朝の3時間ほどしか仕事ができない。
でも、やるべきことはしよう。
日々の積み重ねをおこなうのみである。
日々の積み重ねの量は、
たいしたことでないかもしれないけれど、重要なことである。
私は、それを、コンピュータとインターネットを
使っているのである。
電子機器、デジタル、電気、技術などに頼ってないと、
私のしていることが成り立たないのかと考えると、
ふと、不安になってくる。
目標が、教育、哲学、地質学という非常にアナログ的、
デジタル化しにくいものを扱っているくせに、
その媒介となる道具類がデジタルという
相反するかのようなものである。
少々矛盾を感じる。
でも、考えてみると、そんなことはどうでもいいことである。
考えをまとめるときに、データを集めるときに、
人に伝えるときに、紙や文字、図、表などを使う。
それは、手書きであろうが、印刷であろうが、
別のメディアに変更しているわけである。
そうでないと情報が伝達できないからだ。
私の現状は、その情報の伝達を
ただデジタル化しただけの話である。
そう考えれば情報の質や積み重ね、
私自身が思索を深め、
そして、その内容を人に伝えることが
いちばん重要なことである。
それさえ忘れなければ、メディアはなんでもいいのである。
いや、より使いやすいもののほうがいいのである。
私は、たまたまメディアを
デジタルなものを選んでいるだけである。
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新芽。江別市文京台

●待ち遠しい春:No. 775 2003.03.30

今朝もうっすらと雪が積もっていた。
昨日は、雪が降ったりやんだりしていた。
こんな繰り返しで春になっていくのだが、
どうも、何をするにしてもやりずらいものだ。
着る物にしても、傘にしても、靴にしても、
どれを選べばいいか迷ってしまう。
でも、これも春を迎える楽しみなのかもしれない。
もうすぐ4月。
本州では桜の便りも届く。
こちらでは、雪融けが春の頼り。
梅も桜ままだ先だ。
でも、春は待ち遠しい。
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新芽。江別市野幌

●2度目の春:No. 774 2003.03.29

朝はべちょべちょの雪が積もっていた。
この雪も日が昇るとすぐに融けるだろう。
雪と雨を繰り返しながら春が近づいてくる。
この冬は、初めての雪国での生活だった。
子供たちも、風邪をひきながらも、
ほとんど寝込むことがなく、元気だった。
子供より親が何度か寝込むような風邪をひいた。
子供の方が適応力がよく、
大人が、なかなか適応できないという
ごく当たり前の結果だった。
その地に順応していく、子供たちのたくましさを感じる。
家内が心配してた雪国の冬も、
大変だったが、過ぎてしまえばなんとなるものだという
これまた当たり前の結果となった。
北海道にきて、2度目の春が始まった。
さあ心ゆくまで春を楽しもう。
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春のしずく。江別市野幌

●その地で生きる:No. 773 2003.03.28

春めいてきた。
ほとんどの道路から雪は融けた。
今朝は、霧がすごく濃かった。
考えてみると冬の間、霧のかかっていた記憶がない。
霧がかかることそれは、春の証拠なのだろうか。
昨日は、雨が降った。
傘をさす習慣がなくなっている。
傘をさす人を時々見かけたが、
ほとんどの人が傘をさしてない。
バイクや自転車にのる人ができた。
それを見ても、春が来たんだと、
思い、自分も自転車に乗りたくなる。
知らないうちに、重いコートを薄いコートに替えていた。
その地の時間で、その地の思いを共有すること、
これが、その地で、生活するということなんだ。
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雪の落し物。江別市文京台

●より高い到達点へ:No. 772 2003.03.27

よいものを求める気持ち。
それを安く求めたい気持ち。
できる範囲でそれをさらによくしたい気持ち。
できれは、それをさらに安くし手に入れたい気持ち。
すべての製造過程を確認した気持ち。
見えないところまで、見た気持ち。
気の済むまで念を押したい気持ち。
それを長く愛着を持って維持したい気持ち。
他人がなんといおうとも、
自分だけはそれに満足したい気持ち。

すべての気持ちを満足させることなどあえりない。
でも、理想をもち、そして現実をみつめ、
妥協すべき点は妥協し、
でも、決して譲れない点は妥協しない。
最終的な決着はどうなるかわからない。
理想をもって進んでいかなければ、
到達点は低くなるはず。
早めの妥協も到達点を低めるはず。
しつこいほどの執着、そして熱意。
それがもしかすると到達点を高める
要因になるかもしれない。
求める気持ちが大きければ大きいほど、
そんな執着にも熱がこもる。
私は、そんな到達点を求めたい。
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雪の層。江別市文京台

●自然への回帰の程度:No. 771 2003.03.26

いよいよ自宅の建築がスタートした。
いろいろなことが、
引越しの6月中旬の3ヶ月の間におこるはずだ。
そして、建築現場を、朝夕2度は必ず見に行き、
撮影し、質問をする予定をしている。
100年の計を実施する場である。
手抜かりがってはいけない。
できる限り、関与したい。
そして講義が7コマなり、非常に忙しくなる。
そのために、「身近な自然史」が
あまり進まないことが心配だ。
でも、身近のところから自然を探すこと、
それが「身近な自然史」の目的だったはずである。
自然はそこにあるのだ。
だから、少し目を向けばいいだけである。
それを見るかどうかである。
それを見つけるかどうかである。
この3ヶ月ほどで、
私の自然への回帰の程度が計れるであろう。
もし、これで自然を切り取れないようだと、
私の自然回帰も本物ではないということであろう。
忙しさに負けること、それは、自分の今までの努力を
無に帰することことかもしれない。
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●巨人の肩に乗って:No. 770 2003.03.26

メルヴィン・ブラック著「巨人の肩に乗って」
(ISBN4-88135-788-3 C0045)
を読んだ。
企画としては面白いのだが、
内容が面白くなさ過ぎた。
インタビューで構成されているが、
あまり整理されていないような気がした。
過去の天才科学者と現代の有名研究者の
肩に乗って作られた企画だが、
構成が面白くないような気がした。

ウォルパート「科学の定義はうちに潜む原則を見ること、
そして、理解することです。(中略)
自然と距離を置き、自然がどのように作用するのかを
理解しようとした。 (中略)
まちがっているかもしれないが、それはどうでもいい。
やり方が問題なのです」

ウォルパート「科学は日常の思考法とはちがって、
内面的な整合性を必要とします」

デイヴィス「ガリレオの最大の業績は、
それまで別々のものとされていた三つの分野ー
数学と物理学と天文学ーを結びつけたことだと思います」

デイヴィス「科学と呼ばれるものは、
いわゆるヨーロッパ・ルネサンス期に
絶大な影響力をもっていたふたつの伝統に
よりかかっていると、わたしは考えています。
ひとつめは、人間は論理と理性を応用することによって
世界を理解することができるという、古代ギリシア哲学です。
ふたつめは、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教
といった一神教です。
つまり、われわれは立法者が理にそって定められた世界に
生きていて、自然界にも、天が定めた法ともいえる
秩序があるという考えです」

デイヴィス「科学が生まれるには非常に特殊な
世界観が必要だし、ほかの文化圏にそんな世界観が
ないことを考えると、大宇宙のどこかに
知的生命体が存在していも、
そんな世界観はもちえないのではないか、と思うのです」

デイヴィス「宗教の役割は世界のあり方を解釈すること
であって、断言することではないのです。(中略)
社会における宗教の役割を考えれば、
はっきりした役割がふたつあることに気がつきます。
ひとつは、大宇宙の創造者たる神に関することであり、
もうひとつは、どのように生きていくべきかとか、
善悪の問題とか、一個の人間としての責任であるとか、
そういったことです」

グリビン「ニュートンの研究でもっとも重要なのは、
彼が成し遂げたことではなく、やり方です。
理論や仮説を検証するために実験をおこなうという、
こんにちの科学的手法を考案したことこそ、大切なのです。
彼の前にそういうやり方をしていたのでは
ガリレオだけでした」

グリビン「三世紀かが過ぎたいま、ビックバンとか、
宇宙がどうやって生まれたのかを理解できるまでになった。
これはなずべて、もとをたどれな、複雑そうに見えることでも
単純な法則で説明できるという、
ニュートンの考えに行き着くのです」

「リース「アインシュタインの理論はニュートンの理論よりも
視野が広いのです。(中略)
ニュートンの法則が当てはまらないところでも、
当てはまるということです。
ニュートンには恣意的に見えるようなところでも、
アイシンシュタインの目には、自然に映るのです。
あるいは必然といってもいいですが。
アインシュタインがニュートンよりも深いところを見ていた
というのは、そぷいうことをいっているのです」

トマル「自然哲学という言葉は、ロイヤル・ソサエティが
使っていた言葉で、こんにちの物理学、化学、地質学などの
分野をすべてひとまとめにした呼び名です。
自然史(博物学)は植物などを扱う学問でした」

ファラディー「数学者がこういった主題で論文を書くとき、
その結果を、数学者向けの言葉だけでなく、
簡単で使いやすい言葉でも書いていただければ
すばらしいとおもうのですが、いかがでしょうか?」

グールド「自然選択の理論とは、
自然に関する三つの明白な事実に、
三段論法といってもいい推論をくわえたものにすぎません。
第一に、種および生物は生き残ることができるより
はるかに多くの子を生む。(中略)
第二に、あらゆる生物は異なる。(中略)
第三に、自然選択とは、系統樹的な理論だから、
その違いは遺伝する。
一部しか生き残れないのだから、だいたいにおいて、
生き残るのは、その土地の環境によりよく適応し、順応し、
適合するものとなるのです」

グールド「喜んだり不安に思ったりする人間に共通する
感性、すなわち人間性とも呼ばれる特性のほとんどは、
じつのところ、適応の原理にしたがって、
何らかの理由で脳が大きくなった結果、
副次的に生まれてきたのものなのです」

グールド「世界を変えるのは、ちっぽけな考えではなくて、
どのように自然が働くのかを我慢強く謙虚に
理解していくことだという主張は、ダーウィンの
基本理念にも当てはまります」

メイ「この理論(カオス理論)がいっているのは、
不確実な要素を排除した、考えうるもっとも単純な法則が、
予測不可能なくらい複雑な結果をもたらすことが
あるということなのです」

「アインシュタインの理論は、実験室での研究から
生まれたのではなく、彼のいう「思考実験」なるものから
生まれた」

グリビン「それはそれでとてもすばらしいことですが、
何の役にも立たない。
つまり、一般相対性理論の実用的な使い道は、
まだだれも思いついてないのです」

デイヴィス「わたしは、科学は真理を追い求めるもの
ではないと思います。
世界を信頼できる方法で描くことなのです」

「科学者はなぜ科学するのか?
ワトソンーどうしてものごとが起こるのかを知りたいだけで、
そういったことはずっとむかしから遺伝で
受け継いでいることだと思います」

「いままでみてきたようにー古代ギリシア人から数えて
ほんの一〇〇世代で、人間の脳にそなわった
科学的に思考が、迷信や無知の呪縛を解き、
驚くべき任務を開始したのだから。
みずからの創造主の探求とさえいえる任務を」
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●長男にとって家庭とは:No. 769 2003.03.25

長男は幼稚園が好きだ。
小さい頃から保育園にいっているためかもしれない。
あるいは、家ではしょっちゅう怒られているから、
幼稚園のほうがいいのだろうか。
なぜかわからないが、保育園に行くのが好きだ。

昨日、保育園から電話があって、
休み中だが、預かっている子がいるので、
よければ長男もきてくださいと電話があった。
そのつもりで今朝から行く予定をしていたら、
預かる予定の子供たちが誰もこないことになった、
という連絡があった。
でも、ひとりでもいいからと、長男は保育園にいった。
4時までひとりでいることになる。
ひとり遊びが好きな長男である。
次男と遊ぶと、いつもけんかになり、そして怒られる。
だから、保育園のほうがいいのかもしれない。
長男にとって、家庭はつらいところなのだろうか。
ちょっと考えさせられた。
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雪の層。江別市文京台

●春の味わい:No. 768 2003.03.24

日増しに暖かくなる。
目に見えて雪が融けていく。
夜はさすがに寒く、氷点下になり、
外ではすべてが、まだ凍り付いてしまう。
でも、昼間天気がいいと、一気に雪が融けてていく。
昼間あちこちの玄関先で雪割がおこなわれている。
日差しでやわらかくなった雪を割って砕き、
地面が出ているところにまく。
そして1時間ほどすると、硬くて割れなかった雪が、
また、融け始めてやわらかくなって割れるようになっていく。
そんな繰り返しをすると、一気に雪を融かすことができる。
みんな待ちわびたように、雪割をする。
つるはしを、雪を割るためにみんなもっている。
多分、砕かなくったって、いずれ雪は溶ける。
陽だまりでは、その差は数日もないはずだ。
でも、雪を融かしたいのだ。
待ち遠しい春。
去年春にこちらに来た時、雪融け後すぐに、
みんな競うようにして自転車を買っていた。
私たちは寒くて、自転車どころではなかった。
でも、今年は、春をまって、自転車が欲しくなった。
子供のしかなかった自転車を、
今年は、私と家内のも購入しようか。
冬を越したあとの春。
これは、つらい冬を越したものしか味わえないものである。
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朝日。江別市文京台

●古式棟上式:No. 767 2003.03.22

昨日、マイホームセンターに古式にのとった、
棟上式を見に行った。
お祝いの太鼓隊の演舞があり、
棟上の終わった屋内では、神主のお払いがあった。
その後、再度太鼓の演舞があり、
綱引きの儀式、槌の引き上げ、
そして最後に餅まきがあった。
家族で行ったの子供たちが大喜びであった。
しかし、多くの人が来ていたので、
長男には餅が頭に当たったり、
家内が他のおばさんに突き飛ばされたしたり、
いろいろあったが、これは祭りだからしょうがないのだ。
これはこれで怪我さえなければ楽しいものである。
そして餅を家族で大量に拾った。
昼食、夕食、そして今朝の朝食には
餅を食べたのはいうまでもない。
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落ちたつらら。江別市元江別

●リサイクル:No. 766 2003.03.21

昨日午後から、リサイクルセンターにいった。
ここは、リサイクルできる大型の家具類を市が引き取り、
市民に無料で提供するというものである。
火曜日に引き取りをおこなうので、
水曜日に多くの人が見に来るそうである。
水曜日の10時の開館時間には、
行列ができているそうである。
そして1日で100名も来るそうである。
そして家具も部屋に山積になるほどあるそうである。
これは、いいことである。
我が家では、スペースがないので、
今回は見に来ただけであるが、
多くの人がリサイクルをしているのはいいことだ。
さらに、ダンボールに生ゴミ処理のシステムがあることが
展示されていた。
生ゴミ尻としてコンポストが利用されているが、
北海道では、冬はコンポストは利用できない。
しかし、ダンボールであれば、室温(15℃)でおいておけば、
10kgのミカン箱程度で毎日500g程度の生ゴミが
3ヶ月間は処理でき、
総合的には30kgほどの生ゴミが
5kgほどにできるそうである。
また、その処理済の生ゴミは、一月ほど土に混ぜておくと
堆肥となるそうである。
こんないいものはないのではないか。
我が家でも、利用したいと考えている。
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春の雪。江別市文京台

●はや1年:No. 765 2003.03.20

2002年3月18日に神奈川から引越しをして、
18日熱海泊、19日横浜泊、
20日北海道入、札幌泊、
21日荷物搬入、札幌泊、
22日校宅にて生活の開始。
この町に住んで、はや1年が過ぎた訳である。
もちろん、環境が変わったから、いろいろなことが変化した。
それを望んでこのような変化をしたわけだが、
当初思いえがいていた生活とは、
ずいぶん違っていた。
予想と違ったのは、プラスとマイナスの両面があった。
そして、いろいろなことをはじめようとして四苦八苦した。
そのうちから回りに終わったものいくつもある。
その多くは、以前の延長線上で展開しようとしたことだ。
手探りではじめたことの方が、
いい方向に進んでいるような気がする。
この1年間はあれもこれもやろうとしてきた。
でも、それは、まさに試行錯誤の連続であった。
それも望むところであったわけだ。
予想通りに行かないだろうことも予想して
選んだ選択肢であったはずである。
でも、全体として、この10年間では
もっとも大変な1年であったが、
非常にプラスになっていると思える。
少なくともこの選択は間違ってなかったと思える。
これからの長い時間でみたとき、
どれくらい満足できるものがつくり上げられるか、
何が成し遂げられるか、それが問題となる。
でも、それも日々の積み重ねから生まれるような気がする。
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除雪の残り。江別市文京台

●論理学:No. 764 2003.03.19

論理学の本を読み始めた。
極簡単に思えることも、よく考えると難解なこともある。
論理的に考えることとは、もしかすると、
常識との戦いなのかもしれない。
常識という名のもとに隠された矛盾、
常識に埋もれた不合理、
常識という無意識、
などを、論理学問い直す。
そして、そこから確かなものだけを抽出するのだ。
それは、数学と同じ極度に抽象化された
概念へと昇華されていく。
一見単純で、実は難解な論理学を
少しかじってみることも必要かもしれない。
そこからゲーデルの不完全性理論もでてきたのだから。
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朝日と足跡。江別市文京台

●欲望:No. 763 2003.03.18

こだわりはこれだけ、といって、
いくつかのことにこだわってきた。
私はそれは金ではない、心も問題といってきた。
でも、これももしかすると欲望を隠す自己弁護かもしれない。
これだけといいながら、一つのおこだわりが満たされれば、
もう一つ次のこだわりへとすすむ。
そうしてこだわりの数が、だんだん増えていく。
この人間の飽くなき欲望をいかんともしがたいものだ。
善意に解釈すれば、この欲望が、
向上心へとつながるのかもしれない。
悪く解釈すれば、この欲望が、
経済性中心の世の中をつくってきたのだろう。
いずれにしても、この欲望はとどまるところをしらない。
でも、この欲望がなくなると、いったん欲望が満たされると、
新たな 意欲を生む動機も少なくなるではないか。
必要悪とまではいわないが、
あまりあっても困るし、 なくても困る。
欲望とは御し難きものである。
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春の気配。江別市大麻

●居住者として:No. 762 2003.03.17

春は、間近だ。
日中は雪解けが進んで、
道路に水溜りができて、車がはねるから注意が必要だ。
それは、歩行者としても、運転者としても、
どちらも、注意をすることによって、
かなりの被害は軽減できるだろう。
被害が起こってからは、その後に残るもは、
どんなに円満に解決をしても、
後悔、不満、痛み、不信であろう。
それは起こる前から予想される。
だから、可能な限り回避する手立てを
心がけるべきであろう。
春の心地よい季節を不愉快な思いで
過ごすのはもったいない。
心ゆくまで春を満喫したい。
昨年は、3月下旬に北海道に引っ越してきたので、
移住者としての慌しさのために、
春を味わう余裕もなく、過ぎてしまった。
今年は、居住者として、じっくり味わいたいものだ。
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●こだわりの生産者:No. 761 2003.03.15

今日は卒業式である。
その後に謝恩会がある。
出る予定をしてたのだが、体調が思わしくないのと、
明日は大切な日で、一日打ち合わせなので、
体調を崩して、不本意な結果になると
悔やみきれないからである。
いいもの、納得のできるものを、納得いく、
あるいは自分の求められる価格で手に入れれるかどうか。
これは、重要な問題だが、
なかなか満たせない要求になってるのかもしれない。
それは、ひとには、もとめるものが多種多様で、
本当に必要なものもその中に埋もれてしまっていること。
さらに、生産が大量生産、オートメーションになっているため、
手作り製品がいまや高価になっていること。
買う側の要求が多様であるため、それを満たすためには、
高価になってしまうこと。
などなどいいものが、高価になっていく。
でも、そんな不可能に挑戦する生産者は、
あまりいないのだろうか。
それとも、少ないながらもいるのだらうか。
もし、そのような生産者がいて、数はすくなくても、
日本全国に消費者がいれば、
その生産者は、なりたっていくのでは、ないだろうか。
そんな生産者が各種の商品でいれば、
少々価格が高くても、安心して消費者も
購入できるのでははいだろうか。
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春の朝日。江別市文京台

●初心:No. 760 2003.03.14

風邪と用事、数日休むと、
たまった仕事をこなすことがきつく
結局、その仕事をこなすために、
数日バタバタしたことになる。
一見、何も進んでいないように見える毎日でも、
日々、こなしていることがそれ自体が積み重ねで、
進歩となるものであることことを身に染みた。
このメモにしても、特別に何かを書くことが大変だから、
毎日少しずつ書き始めるという
きっかけつくりだったはずである。
もともとそれをノルマとしてこなすことが
忙しい時でも少しでも歩みを進めているはずの
メモであったはずである。
ついついそんな初心を忘れている。
初心とは、捕らわれる必要はないが、
忘れてはいけないものであろう。
ここ数日のドタバタであらためて感じたことである。
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●仮説実験授業入門:No. 759 2003.03.14

板倉聖宜・上廻昭編著「仮説実験授業入門」

を読んだ。
仮説実授業の似たような本を読んでいると、
同じような内容が書かれているの
どれがどれが違いがよくわからなくなってくる。
この本は、仮説実験授業のやり方を中心に書いた本である。
類書がまだ読んでないがある。
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●未来の科学教育:No. 758 2003.03.14

板倉聖宜著「未来の科学教育」
(ISBN4-337-65923-4 C3337)
を読んだ。
仮説実授業の実例を紹介している。
これは、多くの実践者の例からもよく分かっている。
教育を受けるものたちが、楽しむことは、重要なファクターである。
しかし、大人も楽しいだけの授業を望んでるのだろうか。
博物館にいたときは、それでいいと思っていた。
しかし、教養というべき、高度の知的レベルへと内容を求める時、
これだけでいいのかという気もする。
しかし、どうすればいいのかというアイデアはまだない。
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●仮説実験授業:No. 757 2003.03.14

板倉聖宜著「仮説実験授業 <ばねと力>による具体化」
を読んだ。
仮説実授業の核心にあたる部分である。
なかなかおもしろかった。
そして授業自体も面白かった。
これはこれでいいもである。
しかし、私の目指すものはこれではないことがわかってきた。
板倉氏がおこした科学教育の方法論は学ぶべき点が多くある。
非常に参考になった。
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● ダイヤモンド:No. 756 2003.03.14

マシュー・ハート著「ダイヤモンド」
(ISBN4-15-208440-5 C0022)
を読んだ。

ダイヤモンドにまつわる私の断片的知識の一部を補完してくれた。
これでも、まだまだ一部のような気がする。
しかし、完全というものは、ありえないのであろうから、
これでよしとすべき本である。
ドキュメンタリーとしては面白かった。
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●二つの文化と科学革命:No. 755 2003.03.14

C.P.スノー著「二つの文化と科学革命」
(ISBN4-622-04970-8 C1010)
を読んだ。

1959年に講演した内容で、非常に有名な本である。
私は、読むまでの印象とかなり違っていた。
やはり、原典をちゃんと読むべきである。
この本では、講演後の批判に対する反論、
そして11の批判論文も紹介されている。

「私が望んだことは、それが次の二つのことについて
新しい動きを起こす呼び水となるぐらいのことであった。
第一には教育について、
第二には富み、特権をもつ人びとが不幸な人への関心をもっと深めることにあって、
後者について講演の後半で述べたことは、私自身の心になかでいつも重要な位置を占めていた」

「われわれ進んだ西欧社会は共通の文化ということについては、
その気配さえも失ってしまっている。
われわれが知っている最高の教育を受けた人びとは、
自分が主として抱く知的関心の分野で、
すでに意思疎通ができなくなっている」
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●ゲーデルの哲学:No. 754 2003.03.14

高橋昌一郎著「ゲーデルの哲学」
(ISBN4-06-149466-x C0241)
を読んだ。

面白かった。
ゲーデルの完成性定理と不完全性定理の概略が
なんとなくわかったような気がした。
しかし、詳細は、記号論理学が理解できないと
よくわからないはずだ。

「さらに難解さを増幅させるのは、
不完全性定理そのものが進化していることある。
たとえば、ゲーデルの証明で中心となったのは「ω無矛盾性」
とよばれる概念である。
それがロッサーの証明では「単純無矛盾性」に拡張され、
タルスキーの証明では「真理性」に変わり、
チューリングの証明では「計算可能性」が用いられ、
最近のチャイティンの証明では「ランダム性」になっている」

「発言と事実が一致すれば真であり、
事実の一致しなければ偽であると考えている。
この考え方は、「真理の対応理論」と呼ばれ、
論理学で一般に適用されているものである。」

「真か偽か決定できる事実は、「命題」と呼ばれる。
命題は、発言でも文でもなく、事実そのものである」

「命題の関係を研究する学問分野を、「命題論理」と呼ぶ」

「幾つかの前提から一つの結論を導くような形式に、
命題に並べることができる。
このような形式で命題が並んだものを「推論」と呼ぶ」

「モダス・ロレンス」(化言三段論法否定式)」

「推論の研究で重要になるのは、
前提が結論を論理的に導いているか否かの問題である。
論理学では、ある推論において、
すべての前提が真ならば結論も必ず真であるとき、
その推論を「妥当」と呼ぶ。
妥当な推論においては、
すべての前提が真であるにもかからわず、
結論が偽になることは不可能である」

「彼は(アリストテレス)、思考の道筋を明確にしたかったのである」

「数学に「証明」の概念を最初に持ち込んだのが、ピタゴラスなのである」

「ユークリッドが、幾何学を総合的に体系化した。
彼は、「公理」と呼ばれる命題から出発して、
論理的な推論だけを用いて、
「定理」と呼ばれる新たな命題を導くシステムを構築した。
このようなシステムを「公理系」と呼ぶ」

「これらの命題を、理性的な人間ならば、
誰もが疑いなく受け入れる「自明の共通概念」とみなした」

「公理1 同じものに等しいものは互いに等しい。
公理2 等しいもに等しいものを加えれば、全体は等しい。
公理3 等しいものから等しいものが 惹かれれば、残りは等しい。
公理4 互いに重なり合うものは互いに等しい。
公理5 全体は部分より大きい。」

「ユークリッドは、これらの公理に加えて、「公準」とよばれる
幾何学的公理を定義し、それらを用いて、
465におよぶ数学的定理を証明した」

「ユークリッド幾何学は、自然界の真理を表す「唯一」の幾何学とみなされてきた。
17世紀のニュートンは、絶対時間・絶対空間を前提とする力学体系「プリンキピア」を構成し、
18世紀のカントは、人間の時間・空間認識を「先天的形式」とみなす哲学を打ち立てた」

「ラッセルとホワイトヘッドは、命題の主語・述語に相当する部分にも踏み込み、
量化された命題がも厳密に扱えるようにした。
これが、「述語論理」である」

「システムSのすべての証明可能な命題が真であり、
すべての反証可能な命題が真でないとき、
Sを「正常」と呼ぶ」

「証明可能あると同時に反証可能である命題がSに存在しないとき、
Sを「無矛盾」と呼び、
それ以外のときSを「矛盾」と呼ぶ」

「システムSの命題Xが証明可能か反証可能のどちらかであるとき、
XをSで「決定可能な命題」と呼び、
それ以外のときXをSで「決定不可能な命題」と呼ぶ」

「システムSが正常であるとき、真であるにもかかわらず、
Sは証明可能でない命題が存在する。
この命題を「ゲーデル命題」と呼ぶ」

「第一不完全性定理 システムSが正常である時、Sは不完全である 」

「第二不完全性定理 システムSが正常であるとき、Sは自己の無矛盾を証明できない」

自己言及から、ゲーデル命題が生じる
相互言及からもゲーデル命題が生じる

「ゲーデルは「証明可能性」はシステム内で定義できるが、
「真理性」はシステム内で定義できないことに気付いていた」

可能性・必然性を扱うのが様相論理
信念・意識について扱うのが認知論理
過去・現在・未来に対応する命題を扱うのが時制論理
判断・意見に関する命題を扱うのが義務論理

「様相論理は、古典的な命題論理あるいは述語論理に、
一個の未定義論理記号を加えるだけで、
これらの文の解釈を可能にするように公理化されたシステムである。
様相論理の意味論を変更することによって、
認知論理・時制論理・義務論理としても解釈できるようになっている」

「ヴィトゲンシュタインが導いたのは、「語りうることは明らかに語りうるのであり、
語りえないことについては沈黙しなければならない」という結論であった」

「「論理哲学論考」の基調にある「写像理論」は、
事実の総和としての世界と、命題の総和としての言語に、
真理の対応関係が存在することを前提としている」

「カントールは、「数学の本質はその自由にある」と述べたが、
直感主義は、その「自由」を数学者自ら放棄する主張とも考えられた」

ゲーデル・ロッサーの不完全性定理
 Sは、真でもあるにかかわらず決定不可能な命題Gを含む。
さらに、Sの無矛盾性は、Sにおいて証明不可能である
不完全定理の哲学的帰結
 全数学を論理学に顕現することは不可能である。
全数学を公理化することは不可能である。

ゲーデル・タルスキーの不完全性定理
 Sの真理性は、S内部では、定義不可能である。

ゲーデル・チューリングの不完全性定理
 すべての真理を証明するチューリング・マシンは、存在しない。

チャーチ・チューリングの提唱
 計算可能性は、チューリング・マシンのけいさん可能性と同等である。

人間機械論の仮説
 思考は、アルゴリズムに還元できる。
人間は、ちーリング・マシンである。

チャーチの非決定性定理
 任意のチューリング・マシンが何かを導くかを事前に決定するアルゴニズムは存在しない。

チューリングの停止定理
 任意のチューリング・マシンがいつ停止するかを事前に決定するアルゴニズムは存在しない。

反人機械論の仮説
 思考は、アルゴニズムに還元できない。
人間はチューリング・マシンを上回る存在である。

ゲーデル・チャイチンの不完全性定理
 任意のシステムSにおいて、そのランダム性を証明不可能なランダム数GがSに存在する。
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春の新雪。江別市大麻

●我が家:No. 753 2003.03.13

昨日は、一日家族で家の打ち合わせに出かけていた。
家内は大変喜んでいた。
しかし、一日なので、子供たちは疲れたようだ。
こんどはあと日曜に同じような打ち合わせが、
一日ある。
われわれはいいのだが、子供たちが退屈して、
疲れてしまうようだ。
でも、我が家でいちばん大事な買い物の
打ち合わせであるので、
なんとか我慢してもらうしかない。
わからないかもしれないが、
言い聞かせるしかないのであろう。
3月は家という買い物で振り回されっぱなしである。
忘れないように、家についてのメモをつけるようにした。
そこには、大量の写真や動画もある。
我が家のアルバムとナルであろう。
ただし、完成品はプリントアウトとCD-Rだが。
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●やれるだけやる:No. 752 2003.03.11

風邪をひいた。
木曜の昼から、昨日まで休んだ。
今日は会議があるのでできてたのだが、
まだ不調である。
インフルエンザではないのだが、
悪寒がして、寝てるしかなかった。
本がおかかげで、たくさん読めた。
しかし、メモをとることもできない。
今日の夜から、明日一日、でかけることになるので、
体調が心配である。
家族も風邪なので、心配だが、しょうがない。
一度は延ばしたことなので、
これ以上延ばすことはできない用事である。

大学に出てくると、予想通り、メールがたくさんきていた。
そして、処理をしなければならない、
メールが たくさんあったので、大変である。
まだ終わってないが、会議があるので、
しょうがない。
やれるだけやするしかない。
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春の気配。江別市大麻

●春近し:No. 751 2003.03.06

春は近い。
寒さも時々来るが、それも過ごしやすくなった。
暖房をしていると暑く感じることが度々ある。
今日は啓蟄。
北海道ではまだまだ虫は外では出てこないだろうが、
家の中では動き始めている。
クモ、ワラジムシなど部屋を徘徊し始めた。
これも春の訪れを告げるのだろう。
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●個人のメディア:No. 750 2003.03.05

大雪であった。
今朝、自宅を出ようとしたら、車が雪に埋まっている。
積雪、30から40cmほどあろうか。
駐車場、自宅から道路への道を除雪していると、
家を出る時間が、7時半になってしまった。

このような情景が北海道では当たり前なのだが、
本州や南国ひとが読むと、
実感としてわからないのであろう。
でも、その土地土地の風景、風物を伝えること、
それが、もしかすると、他地方のひとにとっては、
いちばん面白いことなのかもしれない。
自分や身の回りのリアルタイムの伝達。
それが、マスメディアの送出するライブとはちがった
何かを伝えるのではないだろうか。
それこそが、インターネットの醍醐味ではないだろうか。

このようなメディアを、マスメディアに対して
なんと言うべきなのだろうか。
パーソナルメディアのような閉じたものではないし、
かといって、個人が前面にでているメディアだし、
今までにないメディナなのであろう。
でも、メディアは有効に利用してこそ役に立つし、
そして、世代を越えて、継承されるものとなるはずである。

メディアの変遷として、文字、印刷ときて、
つぎがインターネットである。
インターネット、あるいはデジタルメディアは、
印刷以降の画像、音、動画すべてを取り込みだした。
そして、そのクオリティはアナログを越えようとしつつある。
まだまだ成長可能なメディアのような気がする。
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文様。江別市大麻

●春の気配:No. 749 2003.03.04

昨日から今朝にかけて雪である。
しかし、その雪も暖かさを反映して、
さらさの雪ではなく、
少し湿った雪である。
踏むとぎゅっぎゅっと湿った音がする。
乾いたふかふかの雪なら、きゅっきゅうっという音がする。
こんな雪にも春の気配が混じっている。

昨日は、雪が降っていたが、
暖かく、道路に積もった雪が解けて、
あちこちびちゃびちゃになっていた。
春の気配である。

今朝来る時に池をみたら、
今まで見えなかった水面少し見えていた。
白一色の湖面に、黒っぽく見える水面が2ヶ所、
まるで目玉のようにあった。
春の気配である。

大学まで30分近く歩く。
積もりたての雪の中を歩くのは、少々体力を使うようで、
大学に着く頃には体か温まっている。
しかし、今朝は、少々汗ばむほどであった。
気温がそれほど低くないのである。
春の気配である。

子供熱がりで、
夜中によっく布団を蹴飛ばす。
しかし、厳冬の頃は、すぐに寒くなって、
布団に戻るのだら、
ここ数日は布団からでたまま、すうすう寝ていた。
夜中に何度も布団掛けているが
また知らないうちに出ている。
これも春の気配である。

起きているうちは灯油のファンヒータをつけっぱなしである。
設定温度は今まで22℃であった。
しかし、数日前から20℃にしないと暑くなってきた。
春の気配である。
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●急転直下:No. 748 2003.03.04

この話しは少々長くなる。

急転直下ということだろうか。
今まで1年かけて考えてきた家族の目標が、
一日、それも数時間の間に、ばたばたと決まってきた。
そして、それに派生して、
翌日には、さらによい選択肢が転がってきた。
人生には、こんなこともあるのだ。
一度に幸運が2つも転がり込んでくるのだ。
それは、家の購入とその家を建てるための理想の土地
に関することである。
この1年間は家を建てるために、家について考えてきた。
建築会社は決めていた。
ようはその建築会社の建てた家に、
一生住むことになるとき、納得するための準備だった。
あるいは、事前に欠点を知り、
その欠点に対処しておくこと、
あるいは覚悟しておくことであった。

急転直下(建物篇)

2月中旬にも、2度その建築会社のデルハウスに宿泊した。
それ以前にも、春と夏、違う季節に宿泊している。
2月の2度目の宿泊は、地元にあるモデルハウスであった。
そのモデルハウスは、ほとんど泊まる人がいず、
1階が物置として使われていた。
そのモデルハウスとまって、この家の欠点がわかった。
そして自分家では改善すべき点もわかった。
それは、
・3階建て(これは前提)
・1階玄関(個の建築会社は、2階玄関も多い)
・1階を居住可能空間にする
(1階は多目的空間として居住空間としていない)
・1階にペチカを設置(1階のペチカで3階全部を暖めたい。
2階のペチカは予備と考える)
自分の家にはこのような要素を
必要不可欠なもとして入れる予定であった。
そんなとき、3月2日。
その建築会社から私の理想とする家が提示された。
その理想とは、リサイクルのことを考えたものだ。
地元の木で家を作るべきである。
そして家は100年持つものを立てるべきである。
100年もつ家なら、100年後には、家に使った木は、
成長して次の世代の家の材料となるからである。
そのポリシーの象徴として、
北海道産の木材100%で家を立てること希望していた。
その建築会社は、そんな家を春過ぎから
売り出す予定だった。
だから建築決定は夏こと、完成が1月、2月頃で、
大分先のことと考えていた。
まずは、理想の場所での、土地探しを優先していた。
ところが、その建築会社がモデルハウスで
北海道産の木材100%、
それも桂の木だけでつくった家があった。
それが売りに出たのである。
我が家の予定は、20坪×3階建てで60坪の家であった。
ところがその家は、29坪×3階建てで87坪の家であった。
1.5倍もの広さである。
予算を大幅に越えるもので問題と思っていた。
しかし、その価格が私の予算とぴったり一致した。
そのモデルハウスは一気の理想の物件となった。
私の要求が入れられるがどうかによって、
購入を決定するので、まだ保留であった。
3月2日半日その交渉があった。
私の要求とは、上の3点である。
これは、モデルハウスにはない点であった。
そのためには、
・1階玄関に変えること
・1階の天井高を30cm上げること
・1階に断熱加工を施すこと
が必要であった。
それがプラスの価格として跳ね返ってきた。
その価格では、購入不可能であった。
しかし、その改善は譲れないものであった。
私の営業関係者の努力で、少々のプラスはあったが、
ほとんどが、予定通りにいった。

急転直下(土地篇)

家を建てるためには、土地が必要だ。
その土地は、理想の土地にしたかったが
まだ3月2日の時点では見つかっていなかった。
でも、なければここにしようという土地があった。
そこに決心して、
3月3日いつも通っている不動産屋にいった。
その物件の購入の話を進めるためであった。
でも、一応希望の地域に
売り出しの物件がないかを聞いてみた。
するとその日に出た情報として、理想の土地が売りに出た。
南東と北東に道路がある角地である。
その前を何度か走っていたが、
そのあたりは立てこんでいたので、
不可能と思っていた地域であった。
北東道路のその向こうは掘り込まれた自動車道路がある。騒音は気にならないし、広々としている。
そして他家に対する日照もほとんども問題ないはずである。
問題は、そのモデルハウスが、 西玄関であることである。
この土地は南玄関でないとたてられない。
むりすれば、北玄関でも車を入られるだけの
スペースは確保できる。
ちなみにこの3階建て家には、1階に車用の駐車場が
設置されている。
それは、北海道は理想の駐車場である。
駐車場も西向き予定であった。
だから、このモデルハウスをたてるには、
西道路が必要条件であった。
でも、1階部分は少々の変更は可能である。
なぜならモデルハウスでも、1階はコンクリート土台なので
新たに作りなおすことになるからである。
だから、急遽、南玄関でも大丈夫が検討してもらった。
そして、OKがでた。
駐車場も、玄関もそして少々の設計の変更があった。
そして玄関かんから階段へのルートが
以前の設計では不満があったが、
価格のことを考えるしょうがないと
諦めていたことであったが、
その欠点が今回の改造でなくなり、
1階が格段に使いやすい空間となった。
ただ、価格に反映されるかどうかが問題だ。
これは、今後の交渉ごとである。
でも、そこは、私が住むならベストと思っていた
土地の一つであった。
もちろん現在その土地を押さえ、価格交渉中である。

こんな家や土地という大きな買い物、
それも、私の人生で最大の買い物が、
ほんの1日、2日で決まったわけである。
それも、私が理想とする以上のものとなりつつある。
考えてみると、家にしても土地にしても、
この地に定住すると決めて引越してきたわけである。
1年間考え、そして関係の業者に接触してきたのである。
このために1年間努力してきた結果である。
あるいは、人生設計でこのような人生を送りたいと思って、
長いあいだ考えてきて、そしてそれに向けてこつこつと
積み上げてきた、その結果かもしれない。
決して、棚からぼた餅のように、何もせず、
この幸運を手に得いれたわけではない。
不動産屋にも、1月からは、ずっと連絡をとってきた。
1週間に一度は情報をもらい、しょっちゅう店に行ったり、
電話をして、連絡も密にしていた。
そのようは集大成であろう。
今は、満足感に浸っているが、
これから、まだまだ実行しなければならないこともある。
そして、今の結果に満足せず、よりよい夢の実現に向けて、
もっと努力していこう。
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●夢に近づける:No. 747 2003.03.01

今日は、6時前におきて食事をして、出かけようと思ったが、
子供が起きてきたので、中止した。
最近、朝5時になかなか起きられなくなってきた。
夜中に目が覚めて、本を読むことが多いからだろうか。
本は少し読めるようになってきたが、
朝が遅くなったのがどうも、あまり気持ちよくない。
食堂のテーブルでいつものごとく細切れの仕事をはじめた。
自宅では、子供がいて、騒ぐのでなかなか集中できない。
以前は少々の騒音のなかでも集中できたのだが、
今はだめだ。
これは、以前も書いたのだが、家族の騒音だと、
無視して自分のことに集中できないからであろう。
でも、それでもすれば少しは進める。
そして進めば、夢に近づける。
これの繰り返ししかない。
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●熱とはなんだろう:No. 746 2003.03.01

竹内薫著「熱とはなんだろう」
(ISBN4-06-257390-3 C0242)
を読んだ。

エントロピーの詳細をわかりやすく説明した本である。
なかでは、黒体放射からブラックホールのホーキング放射まで
扱われている。
非常にわかりやすい本であった。
中に、冗長な会話があったが、読む人によっては、
この会話がいいという思う人もいるかもしれない。
しかし、パターンとしては、
全編を会話でとおすか、
平文で通すか、
この書のように会話を織り交ぜるか
のどれかにしかならない。
この会話では、質問を投げかけている構成だが、
結構重要な質問である。
本文がくだけた文章としているので、
本文で十分容易さが伝わっている。
非常にわかりやすかった。
こういう本は重要であろう。
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●哲学者かく笑えり:No. 745 2003.03.01

土屋賢二著「哲学者かく笑えり」
(ISBN4-06-273321-8 C0195)
を読んだ。

現在、イギリスの大学について興味があるので読んでみた。
本書の中に、「滞英往復書簡録」があったからだ。
独特のユーモアのエッセイであった。
今、このようなエッセイを読む余裕がない。
ただし、面白いことは面白い。
文庫本を2冊注文したが、もう一冊はいつ読めるかわからない。

土屋賢二著「哲学者かく笑えり」
(ISBN4-06-273321-8 C0195)
を読んだ。

現在、イギリスの大学について興味があるので読んでみた。
本書の中に、「滞英往復書簡録」があったからだ。
独特のユーモアのエッセイであった。
今、このようなエッセイを読む余裕がない。
ただし、面白いことは面白い。
文庫本を2冊注文したが、もう一冊はいつ読めるかわからない。
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