思いつくまま

2003年01月
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目次 
●今日一日だけは:No. 710 2003.01.31
●つれづれなくままに:No. 709 2003.01.30
●人生設計:No. 708 2003.01.29
●科学の大発見はなぜ生まれたか:No. 707 2003.01.29
●カシミール3D GPS応用編:No. 706 2003.01.29
●雨:No. 705 2003.01.28
●区切り:No. 704 2003.01.27
●週末:No. 703 2003.01.24
●最小限と余裕:No. 702 2003.01.23
●耐える・耐えられない:No. 701 2003.01.22
●争う生き物:No. 700 2003.01.21
●慣れ:No. 699 2003.01.20
●三位一体:No. 698 2003.01.19
●高度の思考:No. 697 2003.01.18
●ダ・ヴィンチの二枚貝上:No. 696 2003.01.18
●親として:No. 695 2003.01.17
●ささやかな一言:No. 694 2003.01.16
●水族館へ:No. 693 2003.01.15
●度量:No. 692 2003.01.14
●擬態語:No. 691 2003.01.13
●「無限」に魅入られた天才数学者たち:No. 690 2003.01.13
●To Do List:No. 689 2003.01.11
●脳の方程式 ぷらす・あるふぁ:No. 688 2003.01.11
●現代倫理学入門:No. 687 2003.01.11
●粉雪と粉砂糖:No. 686 2003.01.10
●天職:No. 685 2003.01.09
●神について:No. 684 2003.01.08
●科学を楽しもう:No. 683 2003.01.07
●データベース:No. 682 2003.01.06
●休息:No. 681 2003.01.05
●迷言:No. 680 2003.01.04
●年始メール:No. 679 2003.01.03
●今年の目的:No. 678 2003.01.02
●読書:No. 677 2003.01.01
●ブッダ:No. 676 2003.01.01


●今日一日だけは:No. 710 2003.01.31

今朝は、いつものように5時前に目が覚めた。
比較的体調はよくなっている。
朝起きてもすっきりしてきた。

さて1月も終わりだ。
大学の講義の関する主な行事である、
試験と採点、成績提出も終わり、
あとは、追再試と入試だけだ。

できれば、この2月から3月にかけて、
まとまった仕事をしたい。
論文、もしくは本の執筆がいいのだが、
そのためには気力を充実しなければならない。
まだ、気力がわいてこない。
申請書を2月中に2件書かなければならない。
ああ、考えると、つぎつぎと仕事が増えてきそうだ。
やめておこう。
まずは、2ヶ月間でしたいことや夢を
今日一日だけは考えていよう。
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●つれづれなるままに:No. 709 2003.01.30

今朝は、6時半頃であった。
かなり寝過ごした。
昨夜は、2回目が覚めて、本を30分ほど読んだ。
そのせいだけではない。
最近は、目覚まし時計が鳴っても、
なかなか起きられない。
どうも疲れているようである。

7時頃自宅をでると、
雪がかなり積もっていた。
でも、いつもの雪と同じで、
踏みつけると、きゅっきゅっと音のする乾いた雪だ。

7時過ぎのせいだろうか、
駅に向かう通勤客がたくさんいた。
駅前では、街頭演説もおこなわれていた。
こんな光景をみるのも久しぶりだ。
時間帯が違うと、街の風景も一変するのだ。

今日は卒論発表会だ。
20数年前の自分の時を思い出す。
必死になって、そして上がって、
そして一世一代の勇気を持って人前で話す。
こんな経験が、将来に何度も出くわすだろうが、
これが、最初の試練となるのであろう。
健闘を祈る。
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●人生設計:No. 708 2003.01.29

人生設計をやろうと考えている。
とりあえずは、10年間の予定を考える。
そのためには、4年後の海外研修先をどこにするかが
重要となる。
その人選をしているのだが、なかなか
適任者がいない。
サイエンスライターでは何人かいるのだが、
研究者となるとなかなかいない。
できれば地質学者がいいのだが、
なかなかいない。

悩みが多いのだが、これを探すことも
重要な人生設計であるはずだ。
残りの人生を左右するもののはずだからである。
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●科学の大発見はなぜ生まれたか:No. 707 2003.01.29

ヨセフ・アガシ著「科学の大発見はなぜ生まれたか」
(ISBN4-06-257395-4 C0240)
を読んだ。

1週間ほど前に読んだのだが、
記入している暇がなかった。
8歳の子供も向けに書かれた、
科学哲学の本で、
なかなか面白本だが、
翻訳と内容に問題があった。

翻訳は、学生が講義でやったものを使っている。
そのせいか、子供向けなのむつかしい表現は、
いかにも直訳的な部分があって、
読みづらかった。
内容については、もっとわかりやすく書くべきである。
いい太古とがなんとなくわかるのだが、
これで、8歳の子供がわかったとは思えない。
したがって、この本は脚色しすぎである。
そうなら、大人向けのわかりやすい本を書くべできあろう。
これが、いい内容なの残念な点だ。

いかなる科学的成功も、
それが教育を受けた一般の人々に
届かない限り、 全面的なものとはなりません。
残念なことに、 ほとんどの専門家は、
ポップ・サイエンスのほうが、
それを模倣する完全な構造を持つ
科学以上に大きな利点を持っていることに気づきません。

科学の活動は、
問題およびその解決の試みからなる
果てしない対話であり、
相した解決の試みは、不明瞭だとか、
満足のいくものでないだとか、
あるいは偽であるとして、
批判されていくのである。

ただ科学者であるというだけで、
科学者をしんじてしまうのはとても非科学的なことだ。

ルネサンス科学やコペルニクス革命の中で
もっとも重要な発見はおろらく、
ギリシャ人がすべて同じ意見をもっていたわけではない
ということだろう。

「われわれが正しいのかまちがているのはか関係ない。
もし、われわれに話をきいてほしいならば、
あなたの正しさをわれわれに
証明してみせなければならない」

ガリレオをケプラーは一つののことで一致していた。
まちがいはどんなに小さくても、重大問題だと。

この実験の重要な点は、
実際にそれを実行することではなく、
その実験が明晰に考える手助けをしてくれることにある。

ベーコンは、次のようなやり方のほうが
ずっと安全だと主張した。
それは、考えることをまったくせずに、・・・・
より多くの事実を探すことから始めるやり方である。
十分な事実を得れれば、われわれは正しくなれるだろう。

ベーコンは・・・・
まずなすべきことは、
あらゆる迷信を忘れ去ることである。
次に、人々はできるかぎり多くの事実、
観察と理解が十分にできる単純で明晰な事実
を集めるべきである。

ガリレオとベーコン・・・・
迷信は時には正しいこともありうるが、
ふつうはまちがっており、
他方、科学はつねに正しいと、
二人は信じていた。
これが、二人のまちがっていた点だ。
彼らは、科学者はまちがいをおかさないと考えていたが、
それが大きなまちがいであった。

学校で教わったことsにしたがう人々は、
伝統主義者(traditionalist)とよばれる。・・・・
まったく新たに出発し、自分自身で考えようとする人々は、
根本主義者(radicalist)とよばれる。

ベーコンは科学者たちに、
だれでも理解できるような事実、
より多くの事実、単純な事実を注意深く提供するように、
警告した。
そうすれば、それらの事実から真なる理論が
現れたときには、みんながそれを信じるだろう。
そこようにすれば、科学者たちのあいだの口論や
意見の不一致は避けることができ、
科学はまちがいから免れるようになるだろう。

人々はデカルトの主知主義、
すなわち、われわれが何を信じればよいのかを
自分の精神に語らせるべきだというかれの考えを放棄し、
その代わりとして、ニュートンやベーコンにしたがった。
科学者は観察に観察を重ねるべきだ、
とかれらは主張した。

ニュートンの理論では、重力は遠くはなれたところに
作用する(遠隔作用)。
アインシュタインは、これはまったっく正しくなく、
重力は物体から外に向かって光速で進み
直接作用するのだ(遠隔作用)、と主張した。

ポアンカレは、仮説の中には危険なものがあると言った。
「とりわけ危険なものは、
暗黙で無意識のものである。
われわれは知らず知らずのうちに
それをもちいているので、
それから免れることはできない」と。

ファラデーは、エールステッドの数少ない追従者の一人で、
大きな自己不信に陥った。
「全世界を相手に戦っている私はだれなのか」
とファラデーは自問した。

ファラデーは、科学は信念の問題ではなく、
批判的吟味・検討の問題だと感じていた。

ファラデーの時代以降、科学の進歩を望むならば、
子供たちにどのようにしたら科学的になれるのかとか、
開かれた精神をもつことができるようになれるのかを
教えなければならない、
と多く人が気づくようになったからである。
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●カシミール3D GPS応用編:No. 706 2003.01.29

杉本智彦著「カシミール3D GPS応用編」
(ISBN4-408-00777-3 C2026)
を斜め読みした。

GPSを中心に書かれた本で、
将来GPSを使うようになったら必要だろうが、
今はいらない。
この本をかったのは、
西日本の5万地形図が収録されているからだ。
これで、東北地方を除く、
5万地形が使えるようになった。
今まではインターネット経由だったので、
まどろっこしかったが、
これで少しは砂データベースの
使用環境が改善されるであろう。
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●雨:No. 705 2003.01.28

夜中に雨だれのような音がする。
変だなと思っていた。
朝起きたら、べちょべちょの雪が
たくさん積もっていた。
まるで、春の雪のようだ。
べちょべちょの雪は始末に困る。
重いし、水溜りができるし、濡れるし、
車のはねが飛ぶし、
寒くなれば、がりがりに凍ってしまう。

歩いていると、雪が降ってないのに
さらさらと音がする。
雪なら目で見えるのだが、見えない。
変だなと思っていると、なんと雨であった。
あわてて傘をさしたが、
服がぐしょぐしょになっていた。
道を歩く人の大半は傘をさしてなかった。
乾いた雪は濡れないのである。

1月下旬に雪とは驚きである。
たぶん、多くの人とはこれで、異常気象、
温暖化などの話題が出るのだろうな。
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●区切り:No. 704 2003.01.27

今朝は、曇りであった。
さて、1週間の始まりである。
でも、なぜかすっきりしない。
30分ほど寝過ごした。
夜中に目が覚めて、
1時間ほど本を読んだせいもある。

もしかすると、わたしが
あまり曜日を区別した生活を
していないせいからかもしれない。
でも、土曜、日曜は、家族サービスで家にいる。
これは、生活時間上の大きな区切りである。
今は試験期間中なので、
そんな区切りがはっきりしないのかもしれない。

1週間の区切りはともかく、
なんらかの区切り必要であろう。
非常に息の長い仕事では、
特にそうであろう。
なんらかの区切りが必要であろう。
私のような研究職は、
大学の行事が区切りというより、
研究の区切りをつくるほうがいいのであろう。
去年は、論文を1篇しか書かなかった。
現在投稿中のもの1篇を加えても、
2篇しか書いていない。
だから、あまり区切りを感じなかったのかもしれない。
そろそろ大学での長期の人生設計をしよう。
そして、区切りをつくっていこう。
それが励みになり、目標になるのである。
この職場は、共同研究者もライバルもいない。
だから、自分自身で、自分の人生設計をし、
それに基づいたコントロールが必要である。
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●週末:No. 703 2003.01.24

今朝は、曇りであった。
1時間ほど、寝過ごし、
30分ほど遅く家をでた。
疲れがたまってきた。
行事が多い週末は、
当たり前だが、疲れがたまる。
そとは、曇りであったが、
なのに明るかった。
しかし、曇りのせいで、
朝の明るさがなかった。
写真を撮ったのをみると、
青白く映っていた。
それはそれで、味があった。
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●最小限と余裕:No. 702 2003.01.23

朝、曇りだと暗い。
しかし、南西の空だけが、
いつもオレンジ色にそまっている。
街の明かりである。
まさに不夜城である。
そして、ふと、思った。
無駄だなと。
人がほとんど歩かない、歩道の街灯。
車の通りの少ない道の車道の灯。
人と通らない横断歩道の明かり。
街の明かりだけ考えただけでも、
無駄がある。
そべての明かりを考えると、
もっともっと無駄がある。
寝ているときの家の明かり。
待機電気。
人がいるところだけ、
自分専用の明かりを持って歩けば、
いいではないか。
もっと、いえば、自分の必要とする電気が
自分の身近で発電、充電できれば、
最小限のエネルギーですむのではないか。
設備投資は、各個人、あるいは各家庭の
エネルギー発生装置だけですむのである。
大きな発電所は、いらなくなる。
すると、ライフラインは簡単に復旧できる。
代替も簡単に調達できる。

しかし、考えてみると、
現代の文化、科学技術は、
もしかすると、このような無駄や余裕が
生み出したものがかも知れない。
食うに困る人が、芸術を生み出せ、
愛好できるのか。
食うに困る人が、先端技術を学び、
開発し 、利用できるのか。
余裕がないと、できないであろう。

困った問題である。
両極端である。
最小限、食うこと。
文化的であること、 科学的であること。
つまりは、余裕。
どこで、折り合いがつくのであろうか。
どこで、折り合いをつけるべきなのだろうか。
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●耐える・耐えられない:No. 701 2003.01.22

朝いつもどおり出てきた。
晴れているせいか、寒い。
歩いていると、
膝まである羽毛のジャケットを着ているので、
体は寒くない。
頭も毛糸の帽子とジャケットのフードを
かぶるので寒くない。
靴も防寒用で寒くない。
手袋もしている。
しかし、顔と脛は冷たい。
大学につく頃にはしびれたようになっている。
若者は、薄着である。
見てて寒くなるような格好を平気でしている。
私は、ただただ寒さに震えている。
そして、可能な限り寒さ対策をしている。
しかし、今のところこのあたりが限界だ。
耐えることも、見習わなければならない。
耐えれば、限界も広がるかもしれない。
しかし、ほどほどにしておこう。
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●争う生き物:No. 700 2003.01.21

昨日夕方、家内から
気分がすぐれないと連絡があった。
それで、4時半頃に、帰った。
家内は、昼食に、脂っこいものを食べたせいで
胃が持たれ、気分が悪いと床についていた。
子供の世話をして、大忙しであった。
しかし、次男が7時頃に、
家内と一緒に、寝てしまったので、
長男とのんびりとした時間をすごした。
長男も次男がいないと、落ち着いている。

二人になると、子供の世界ができ、
ばたばた、どたどたにぎやかになり、
喧嘩をして、どちらかが泣く。
これの繰り返しだ。
子供同士の関係が生まれると、
対抗意識や遊びという別の人間関係ができ、
複雑な相互作用ができる。
それがいい方向に向いていればいいのだが、
どうも、我が家では、どたばたの
騒々しいほうになるようだ。
家内曰く、次男の最大のライバルは長男であると。
倍ほど年の離れたものがライバルとは、
大人には考えられない思考である。
しかし、現実に次男は長男を
しょっちゅう泣かすのである。
それは、徹底的にやるからである。
長男は常識や親の目があるため、
手心を加えたり、我慢している。
次男にはそれがないので、
勝つことがあるのだ。

小さい子供の頃から、人間は、
争うことを望むの動物なのだろうか。
もしそうなら、暗澹たる気分になる。
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●慣れ:No. 699 2003.01.20

今朝は、1時間ほど寝過ごし、
30分ほど遅く家を出た。
すると、空が、だいぶ明るくなっていた。
満月が西の空に残っていた。
そして、カラスは、出勤時間であった。

疲れている。
しかし、肉体的な疲れではない。
なぜなら、そんなに体を使うことはなからだ。
せいぜい雪かきをする程度だ。
ということは、精神的な疲れである。
一方、除雪を生業とする人は、
夜中に肉体を酷使している。
大変な仕事である。
自分で雪かきをしてみると、実感できる。

今朝は、4時前に目が覚め、
本読んでいたら30分ほどで眠くなった。
そこで、寝たら、今度、おきたら、6時前であった。
まあ急ぐことはないので、
のんびりと支度をはじめる。
公共の交通機関使わない出勤と、
早朝出勤のおかげである。
したがって、出勤までのあわただしさ、
せわしなさ、あせりなどとは、無縁である。
これは、精神的に非常にリラックスできる。
しかし、これが、日常となると、
そのリラックスも特別にリラックスとは
思えなくなる。
慣れというものであろう。
逆にあせらなくてはいけないときに、
すごいストレスになるのかもしれない。
どちらがいいかわからなくなってくる。
定常的なリラックスと一時的強いストレスか、
定常的なストレスと特別時の定常ストレスか
という選択かもしれない。
これは、
定常的精神疲労と一時的肉体疲労か、
定常的肉体疲労と一時的精神疲労か
という選択に通じるものかもしれない。
でも、すべては、馴れが解決するのかもしれない。
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●三位一体:No. 698 2003.01.19

今日はセンター入試の試験監督である。
早朝から、構内を除雪車が動いていた。

これから、リモートセンシングの勉強を
始めることにした。
それは、ERSDACというところで、
衛星画像を使った、エッセイを書き始めたからだ。
しかし、私は、このエッセイでは、
まず、衛星画像ありきではなく、
衛星画像も、文章も、そして地上からとった写真も
それぞれ、独立した存在としたいと考えている。
つまり、文章だけでも、充分用をたしており、、
数枚の写真と説明だけで、充分、物語があり、
衛星画像とその説明だけで、充分役に立つ。
そんな3つが独立していながら、
なおかつ、三位一体のようなもの。
そんなものが、このエッセイでできれば、
と考えてはじめた。

さらに、目指すのは、
衛星からの視点は、天の道を意味し、
地上からは、地の道を意味し、
そして私の見方はは、人の道を意味する、
というような視点の変化がだせればと思っている。

なかなか到達は大変だが、
できれば、面白いものであろう。
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●高度の思考:No. 697 2003.01.18

高度の思考。
それは、周到なる準備と凝縮された集中力
とによってなされるのであろう。
しかし、そこから紡ぎ出される結論は、
必ずしも万人が理解あるいは了解しうるものとは
限らないのである。
では、高度の思考とは、
その思考するという行為に意義あるのこなのか、
それとも、結論に意義があることなのだろうか。
もし、後者なら、そのプロセスは問われないのである。
思考が高度であろうが、低度であろうが、
結果さえよければ、思考の深さは問題ではない。
となると、知的作業の本質とは、
いなかるものをいうのか、
どんなに高度の思考プロセスを踏まえても、
くだらない結論しか出てこないとしたら、
その思考は、無駄である。
また、結論がどんなに素晴らしくても、
深い思考プロセスがないと、
その結論あるいはその論理の周辺に
深まりはないであろう。
例えば、その結論に対する
疑問や反論にどの程度耐えれるか。
それが、その思考の深さに依存するであろう。
結論という表層しか見ないのでは、
その結論に至る思考の深さという真実が見えてこない。
思考の職人は、そんなところにこだわるのである。
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●ダ・ヴィンチの二枚貝上:No. 696 2003.01.18

S. J. グールド著「ダ・ヴィンチの二枚貝上」
(ISBN4-15-208396-4 C0045)
を、やっと読み終えた。

やはり、グールドはすごい。

私は、根っからのヒューマニスト(人文主義者)であり、
何をさておいても、芸術と自然の微妙にして
知的な結びつきを愛している。
この結びつきは、どちらか一方が勝ってもいけない。
すばらしく多様な世界に生きているわれわれは、
ほとんど100パーセントに近い大自然から
ほとんど100パーセントに近い人工物までもが
醸し出す相互作用の全容を必要としている。

歴史上の大思想家たちが書き残した原典にあたると、
無限とも思えるほど新しいアイデアや発見が
たくさん得られるというものである。

ここに収めたすべてのエッセイは、
モンテーニュ以来の伝統として
エッセイというジャンルをもっともよく定義する
貴重なパラドックスを土台としてる。
良質なエッセイの根幹をなす
身近で正確な細事を持ってして、
それ自体としてのおもしろさを醸し出せると同時に、
もっと視野の広い一般性へと脱線するための
踏み台として機能せしむるというしだいである。

一篇のエッセイを成り立たせるほどの一般性をそなえた
統一的な枠組みに細事を昇格させるにあたっては、
自分が基本的に四つの戦略を採用してることに気づいた。
一、場合によっては、原典を調べまくることで、
新発見が得られる。
・・・・・・
二、たいていの場合、私が報告する観察は
決して未発表のものというわけではないのだが、
あまりおなじみでない話
(よく知られている話の場合もある)を、
これまで関係があるとは見られていなかった
別の話題と対置させることで目新しい文脈のなかに
位置づけることを心がけている。
・・・・・・・・

三、異質な細事を合体させることで、
私の第二のカテゴリーが機能するようなら、
第三の戦略は細心の発掘作業によって遂行される。
合体による解説ではなく、
掘り下げによる解説を目指すのだ。
・・・・・・・・
四、エッセイへの「昇格」は、
細事を報告するに値する一般的テーマへと
統合できるかどうかしだいである。
しかし、場合によって、細事それ自体がその独自の
価値によって単独で取り上げられるほど
魅力的に仕立てられる。

二つを対置させるというやり方が、
人間の精神活動の一般的なあり方
なのかもしれない。

「観察が何かの役に立つとしたらm
それはある見解を裏付けるか否定するかだということが、
どうしてわかってもらえないのでしょうか」。
これはこれまで何度もエッセイで引用している
ダーウィンの言葉である。

われら無知蒙昧の哀れな種族は、
自我を意識して哲学と芸術にふけるという、
進化史上他に類を見ない発明をもてあそぶことになった
最初の生物であるが、
その歩みはじつにのろい、
考え方や描写法としては
もっとも「明白」で「自然」な様式でさえ、
歴史の束縛を受けねばならず、
それを打ち破るのは並大抵のことでhないのだ。
そういうわけで、社会的な文脈からはずれた
解決策が浮上することはなく、
出てくる解決策は、
人間が向上する可能性を規定する、
心と環境の複雑な相互作用を反映したものとなる。

すべての人間は単一のもろい種に属している。
それは一つの生物的単位なのに、
誰の心にもある邪悪極まりない情動により、
細かすぎるくらいに区分されている。

ダーウィンは、デーナに・・・・・
1863年2月20日に返事を書いた。
・・・・・「地質学の記録が
これほどに不完全なものでなければ、
私もそう考えるところです。」

ハクスリーの行動をみたマーシュの言葉
「彼は、まさに偉大な人物の寛大さを発揮し、
はじめて目にした真実を前にして時節を捨て、
私の結論を採用した。」

科学における事実と理論の関係と、
理由は間違っているけれど
答えは正しいという現象である。
理論と事実は同じくらい強力で、
完全に相互依存の関係にある。

理論とは、外部の複雑な暗示に助長されることで
生じる心的構造物である
(理想的な場合は、経験的な実態からの
要請によって生じることもある)。
しかしその暗示は、夢だったり気まぐれだったり
勘違いだったりすることもしばしばである。

ダーウィンの言葉。
「誤った事実は科学の進展にとってきわめて有害である。
往々にして、長く生きながらえるからだ。
しかし誤った見解は、
裏づけとなる証拠があるにしても、
ほとんど害をなさない。
それは、その虚偽を暴くことに、
誰もが有益な喜びを感じるからである」

この構造主義は、
自然の実態を記録している部分も多いが、
大半は脳の基本的な作用様式を反映した
二項対立に基づいて、
時間を変えて統合されたテーマを探し求める。

知られている最初の旧石器時代のアーティストと
自分たちはいささかもちがわない同胞であることに
大いなる満足を覚えようではないか。

私にとって流用の原理はきわめてたいせつなものであり、
些末な事実から大きな一般性を引き出すのが
本エッセイシリーズのトレードマークではある

「ミッシング・リンク」という色あせた決まり文句は、
直線的な進化を前提とした概念である。
・・・・・
それに対して進化の潅木とという見方には、
化石記録が貧弱なせいで空隙とはやふやさだらけ
という点あるにしても、
潅木にただの一つの決定的な「ミッシング・リンク」
というものはありえない。

「斉一主義」というものは複数の意味を含む
複雑な語であり、
そのなかには正当な意味もあるが、
偽りかもしれない意味とものの考え方に対する
制約も含んでいる。
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●親として:No. 695 2003.01.17

今日は,月に一度の医者行くため,
車で大学に来た.
昨日来の雪で,車に雪が積もり,
凍っていた.
氷が溶けやらぬ前に,いつもスタートする.
今日もそんな一日のスタートだった.

定時制高校の先生から,
メールマガジンの感想として,
親としての感想を述べられた.
それに対して,私は以下のメールを書いた.

定時制は,教員も生徒も大変ですね.
でも,ひとりでも,まじめに,熱心に聞いてくれる生徒がいると,
その講義はやる価値があると思います.
私のメールマガジンも,
まじめな」購読者がいるはず
という信念のもとに成り立っています.
そうでなければ,報われません.
実際の講義の強みは,
その教師の熱意が生徒に伝わり,生徒の熱意が教師に伝わるという点です.
インターネットでは,これが,直ではなく,タイムラグがあります.
ですから,お互い信じているしかないのです.

自分の子供の場合,親は,ついつい
「子供のため」という自己弁護のものとに
親として責任,親の理想,などという荷物を,
こどもに背負わせています.
もっと,親は,子供を,ただ,新津さんのおっしゃるように
「後ろから応援する」
「子どもは親とは違う人格をもった他者であるんだなー」
という立場に立つのがいちばんなのかもしれません.
でも,親として,ついつい・・・
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●ささやかな一言:No. 694 2003.01.16

今日は、雪は降っていなかったが、
昨朝同様、寒かった。
公園沿い道を久しぶりにあるいた。
すると、前に比べて、だいぶ明るさを増していた。
日の出が早くなってきたのだ。
季節は、確実に移ろう。
人の気持ち、出来事、事情などは、
時の移ろいに比べれば、
不確実で、それこそ、移ろいやすいものである。
でも、そんな移ろいやすい人の生活で
確実に、心に刻まれるものも、
実は、心や言葉という限りなく、
移ろいやすいものである。

記憶に刻まれることが、
一つ増えた。
長男が、寝る前にトイレに行くのに、
付き合ったとき、
一言言った。
「お父さん、今日の水族館、面白かったね」
一日の苦労が、そして何ヶ月も苦労が
この一言で、報われた気になる。
家内も、時々、長男が発する
「おかあさんのご飯は、おいしいね」と、
次男の「おいちぃーい」という言葉だ。
ささやかな、一言に過ぎないのに。
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●水族館へ:No. 693 2003.01.15

今日は、長男の5歳の誕生日である。
1月15日は、以前は祝日だったのが、
今では、平日になっている。
しかし、北海道の教育機関は
冬休みなので
祝日と同じである。
先日の道南旅行で、
入ろうとした水族館が冬季のためしまっていたので、
近くの町の水族館に行くことにした。
冗談で、水族館の水が、
凍っているかもしれないよ
というと、ワカサギつりを思い浮かべて、
氷に穴を開けて、見るという。
信じることのすばらしさ、
そして、機転の自由さは、
子供にまさるものはない。
さてさて、
今日はどんな一日になるのやら。
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●度量:No. 692 2003.01.14

今日は、少し暖かった。
雪が少し降っていた。
道、木々や欄干など、すべてものに、
2、3cmほど積もっていた。
これくらいの雪なら、
少々の雪といえるようになってきた。

議論。
それは、喧嘩ではない。
だが、楽しい議論と、嫌な議論がある。
楽しい議論は、同じ大変さでも、
いくらでも、ついつい議論していたくなる。
そして、よりよくしようとこちらも努力する。
多分、相手も、同じように思っているから、
楽しい議論となっているのだろう。
こんな議論なら、終わらせず、
ついつい長く続けたくなる。
疲労感もすくなく、充実感がある。

嫌な議論は、何度も話しても、
あるいはメールだと書き直しても、
それほどいいものにならない。
でも、しなければいけないこともある。
これが、社会生活のつらいところだ。
好きなことだけすればいいのであれば、
楽でいいのだが、
嫌なこともしなければならない。

いやな議論すらも、
楽しめるほどの度量が欲しい。
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●擬態語:No. 691 2003.01.13

昨日、次男が寝違えたのか、首を痛めた。
顔が右を向いたまま戻らない。
仕方がないので、そのまま寝かせていた。
動かすと痛がるの、しょうがない。
食事も寝たままであった。
それが、今朝は、なおって、けろりとしている。
回復力があるので、驚かされる。

ところで、子供はおもしろい。
次男は、わらうとき、
「カーカッカッカッカ」
と文字通りに笑うことがある。
怒っているときに、これをされると
思わず、笑ってしまう。

子供が小さいときは、擬態語の意味が
わからないようだ。
うがいのとき、親が、擬態語として、
「ガラガラッペとしない」
というと、本当に、
「ガラガラッペ」と発音する。
擬態語の意味するところは、
まだ、2歳児には難しいようだ。
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●「無限」に魅入られた天才数学者たち:No. 690 2003.01.13

アミール・D・アクセル著
「「無限」に魅入られた天才数学者たち」
(ISBN4-15-208402-2 C0041)
を読んだ。

アクセルは統計学の研究者である。
無限の面白さを感じ、
無限にとりつかれた数学者であるカントール
を中心に語られている。
本書を通じて、ゲーデルの不完全性定理の意義が
はじめてわかった。
すごいのは、大学の教員でありなが、
このような本を書いているということである。
数学への造詣は深いので、
数学の、それも連続体仮説の研究者か、
かつてそれを専門に研究した
サイエンスライターが、書いたものだ思ったが、
統計学の専門家だった。
アメリカの知識人の実力のすごさを知らされた。

「一と多の問題」は、
「複数の対象がひとつのものである
とはどういうことか?
個々の対象すべてを含む
ひとつの集合を考えることはできるのか?」

極限操作によって得られる可能無限だ
ということを発見したのガリレオである。

代数学は、整数や有理数など、
数えたり、表にしたりできる
”離散的”なものを対象にする。
それに対して解析学は、
関数や、数と数との距離、無理数などの
”連続的”なものを対象とする。

集合論というものは、実はその性質上、
不可避的にパラドックスを抱えた
理論なのである。

デカルトは幾何学のなかに
代数学を持ち込むことに成功し、
幾何学的な図形を数によって
表せることに気づいたのだ。

無限に関する限り、
次元というものには意味がない。
連続空間なら何であれ、
連続体と同じだけの点をもつ。
不加算無限の点をもつのである。

カントールが「我見るも、我信ぜず」と書いたのは、
このときのことである。

数学と哲学は自由であるべきであり、
アイディアの導くところ、
どこにでも自由に向かわなくてなならない
というのがカントールの信念だった。

カントールは、言葉では表現不可能な絶対者
という無限を唯一の例外として、
それ以外の無限を”超越数”、
すなわち「有限を超えた数」と呼ぶことにした。

集合の基数とは、
その集合に含まれる要素を計るものである。
有限集合の場合であれば、
基数はその集合に含まれる要素の
個数に他ならない。

カントールは、自分の見出した無限
−超限基数−に、
ヘブライ文字を使ってアレフと
名づけることにしたのである。

カントールは高い階層の無限に対応する
アレフの系列が存在する
ということ仮定を立てた。

クレタ人エピメニデスの作とされるパラドックスがある。
「私は嘘をついている」。

ワニのジレンマ

ラッセルのパラドックス
「セヴィリアの理髪師」
「グレリングのパラドックス」

ゲーデルはその哲学的資質を発揮して、
本質的な問いかけをするようになっていた。
証明とは何か?

証明と真実とは同じことか?
真である事柄は、常に証明可能なのか?
有限な系は、その系を超えたものに対して
証明を与えうるか?

彼が導いた結論は、
「任意の系が与えられたとき、
その系の内部では証明できない命題が
常に存在する」
というものだ。
つまり、ある命題がたとえ真であったとしても、
それを証明できるとは限らないということだ。
これが、有名なゲーデルの不完全性定理の
エッセンスである。

最大のマトリューシュカというべき全体集合は
存在しないことをかんがえるなら、
そして、決して到達できない絶対者に
思いを致すなら、
ゲーデルの不完全性定理も理解できる
気がするので刃にだろうか。
それは、今いる系の外側にあるもの、
与えられた系より大きなものが常に存在する
という主張なのだから。

与えれた系の内部にいたでは
捉えられない概念や性質が存在し、
それらを理解するためには、
より高いレベルに移らなければならない。
一方、カントールが示したように、
最高のレベルというものは存在しないのだから、
いかなる系の内部にも、
把握できないアイデアや性質が
必ず存在することになる。

数は実在するのだろうか?
連続体は実在するのか?
カントールはその答えが
二つともイエスであると信じていた。

ハレの住宅地区に、
ゲオルク・カントールのブロンズ銘板があり、
一文が刻まれている。
数学の本質は、その自由性にある
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●To Do List:No. 689 2003.01.11


暮れから正月の間にすべき
To Do List8個のうち、
5個までこなせた。
日々の作業が、講義がなくなったせいで、
順調にこなせているためであろう。
懸案の仕事が少しずつ、片付いていく。
つらいものが残っているのが、
その一つ一つが、こなせるたびに、
ほっとし、ささやかな達成感を味わう。
そして、やはり懸案でも
大物が残っていく。
それをほっとしているのつかの間で、
また、気力をふるいたたさなければならない。
でも、これは、人生そのものだ。
つらいことに常に立ち向かう。
それから、逃げてしまうと、
あとは、後退だけがつづく。
つらいけど、立ち向かうこと、
そして、中途半端な結果かもしれないけれど、
立ち向かって
自分ながらの決着をみること、
それが必要だ。
でも、Listを毎日ながめては、
ため息をつきながら、
少しずつ歩んでいる。
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●脳の方程式 ぷらす・あるふぁ:No. 688 2003.01.11

中田力著「脳の方程式 ぷらす・あるふぁ」
(ISBN4−314−00923−3 C0040)
を読んだ。
感動した前著「脳の方程式 いち・たす・いち」
の続編である。
前著に比べて、専門的過ぎる部分が多く、
理解しづらいところがいくつかあった。
しかし、面白かった。

「意思を持つということは、
脳の規格が画一化されていないことを意味する。」

「自然界には「全能の神」は存在せず、
目的を持ったデザインは作れない。
(中略)
母なる自然はその偉業を、
二つの基本的技術を駆使することによって達成している。
(1)恒常状態、と
(2)形態
である。
つまり、母なる自然は、
特定環境を驚くべき正確さで保つことと、
機能のための特異的な形態を形成すること、
すべてを成し遂げているのである。」

「DNAには「何を作るか」は書かれておらず、
「どのようにして作るのかの法則」が
書かれているのである。」

「簡単に言ってしまえは、
脳とはどのようにでも使えるのである。」

「その人は、その機能を他の人よりも早く覚え、
かつ、早くこなす。
人はそれを才能と呼ぶ。
(中略)
しばらく同じようなことを繰り返しているうちに、
脳の情報処理の仕方に個体差が生まれる。
人はこれを個性と呼ぶ。」

「ヒトは二足歩行を始めたことで岩後を獲得し、
鳥類は飛行を始めたことで、音楽を獲得した。」

「情報である。
ヒトの運動能力の成熟には
情報の存在が必須なのである。」
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●現代倫理学入門:No. 687 2003.01.11

1月8日に神について書いたし、
環境問題について何度か書いた。
このようなことをを考える学問として、
倫理学がある。
そして、現代の倫理に役に立つ教科書として、
ミルの「自由論」がある。
見るの倫理は、
「判断力のある大人なら、
自分の生命、身体、財産などあらゆる、
<自分もの>にかんして、
他人に危害を及ぼさない限り、
たとえその決定が当人にとって不利益なことでも、
自己決定の権限をもつ」
というものである。
問題が発生したときのために、
可決策を用意ておくことを、
倫理学では、決疑論(casuistry)という。
神に関しては個人的決疑論であり、
環境については社会的決疑論といえる。

社会的決疑論としては、
・人を助ける嘘は許されるか
・10人ために1人を犠牲にできるか
・1人分の薬を10人の誰に患者に渡すか
・正直者が損をしないようにするには
・他人へ迷惑をかけなければ何をしてもよいか
・貧しい人を助けるのは豊かな人の義務か
・現在の人間は未来の人間への義務があるのか
・正義は時代によって変わるのか
・科学に限界があるのか
がある。
また、個人的決疑論としては、
・エゴイズムはすべて道徳に反するか
・幸福の計算法
・判断能力の判断
また、このような決疑論に答えを出す考え方にも
決疑論を用意しておく必要がある。
メタ決疑論というべきものである。
・「〜である」から「〜べきである」を導けるか
・正義の原理はどうして決めるか
・思いやりが道徳の原理か
などがある。
このような考え方の指針を与えれくれる本として、
加藤尚武著「現代倫理学入門」
(ISBN4-06-159267 C0112)
である。
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●粉雪と粉砂糖:No. 686 2003.01.10

今朝は、雪がうっすらと積もっていて、
粉雪が舞っていた。
一度落ちて葉の表面が見えるようになっていた。
そんな葉の上にも、
うっすらと雪が積もっていた。
まるで、至ることろが粉砂糖を
まぶしたように見えて、面白かった。

しかし、粉砂糖をまぶしたよなというのは、
主客転倒かもしれない。
なぜなら、粉砂糖は、
粉雪がかかったような演出を
するためのものではないか。
もし、そうなら、粉雪が粉砂糖に似ていると
いうのは、おかしいことになる。
例えれば、
似せてつくられた分家、類似品、贋物に、
本家の本物が似てるという評価を
受けることになるのである。

どちらがどれほど馴染みがあるか、
どちら普及しているか
どちらが知名度があるかで、
分家でも、本家を越えることができるのである。
まして、本家より分家の方が、
便利、きれい、安い、などの利点があれば、
一層、その傾向に拍車がかかる。
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●天職:No. 685 2003.01.09

今日は、比較的暖かかった。
しかし、もちろん厳冬用の防寒装備をしている。
しかし、寒い時期に少し寒さが緩むと
暖かく感じる。
生命とは、あるいは馴れとはすばらしいものだ。

ある人に天職について、以下のメールを送った。

私にとって、現在の職が
天職かどうかは、わかりません。
去年の4月からに転職して、
いまの職に就きました。
以前は、博物館の学芸員でした。

大学教員と博物館の学芸員は、
地質学の研究をするという点においては、
似たような職ではありますが、
やはり違いもあります。
その違いを私は区別して、転職しました。
これが、天職になるかどうかわかりませんが、
天職となることを望んでいます。

私は、思い起こすと、
住居も職業も私の気持ちと関わりなく
転々としてきました。
でも、去年の春の転職だけは、
自分から望んだものでした。

「科学、教育、哲学の結合」というライフワークを
実現するには、博物館という場より、
大学の場のほうがいいと考えたのです。
なによりも、私自身が新しい環境という刺激を
求めたいました。

「科学、教育、哲学の結合」は、既存の地質学、
あるいは自然史という学問体系ではなく、
新しい体系として構築したいと考えています。
現在、孤軍奮闘中でありますが、
これは、現代社会でいちばん大切な視座である
と考えられますし、
私にとって、面白いテーマであります。
なおかつ、世界で誰も、
まだおこなっていないことでもあります。

これを完成することは、
自己満足でもありますが、
そんな自分のやりたいことが、
多くの人とはいいませんが、
少なくとも「不特定一人」に、
つたわればいいと考えています。
「不特定一人」が、
地球や自然への理解できる「こころ」、
つまりリテラシーをもつことができれば、
私のやったことが、
人類にとって貢献できたことになると信じています。
そして、これが、天職いえることを願っています。
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●神について:No. 684 2003.01.08

今日は、今年初めて、
公園を通り抜ける道と、
図書館横の遠回りの道を歩いた。
散歩道で生活道路ではないのだが、
除雪が行き届いている。
しかし、公園は雪のため、入ることはできない。
定点的に撮影していた、
12月は水漏れでツララができていた地下道が、
寒さのせいか、ツララがなくなっていた。
同じ寒さの中でも、強弱があるようだ。
北海道の冬にも、いろいろあるということだ。
そんな寒さを自然史として感じることができる。
しかし、なかなか寒さを映像化するのは難しい。

ある人から、神に関する話があった。
それに答える返事を書いた。

「地質学者仲間で、
哲学的なことをくどくどと語っていると、
「宗教じみている」とか、
「それは、小出教ですか」とか、
「教祖様」などと茶化されることもあります。
あるいは、内容にあまりに深いりてしまって、
周囲がついてこれないとき、
自分自身でも茶化して、
宗教じみた落ちをつけることがあります。
一種の照れ隠しでもありました。

深く考えることは、どんなときでも、
どんなものについても、必要です。
そして、哲学することと、宗教的とは、
紙一重、あるいは境界はないのかもしれません。
ですから、宗教や神に対しても、
自分自身の答えを用意しておく必要が
あるかもしれません。

「神の存在」という命題は、難しいものです。
私としては、宗教的に信じる対象としての
「神の存在」は否定します。
しかし、自然のなかに普遍的に存在するものへの
敬意、あるいは畏怖の念の象徴として
「神の存在」は、是認します。

と、このように言葉に発すると、
原始的な自然崇拝にみえることを恐れます。
また、「神の存在」という言葉を発したとたん、
どうも、私が考える「神」というものとは、
違ったものになってしまいます。
ですから、「神」や「神の存在」というものは、
うまく表現できません。

それは、私の表現能力や考えかたの
不足に由来するのか、
それとも、「神」を語ること自体が
そのような作用をもたらすのか、
はたまた「神」とはそのような存在なのか、
その理由はわかりません。
私にとって、うまく語れない「神」あるいは、
「神の存在」という命題は、
当面、避けていくべき鬼門と考えています。

でも、いつかは、自分自身が納得できる
宗教観や神観(?)が語れれば
とおもっています。
でも、多くの哲人たちも、
神と宗教にはてこずったようですから、
私には大きすぎる命題かもしれません。
でも、心のどこかに、解決したい欲求として
残っている命題でもあります。」
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●科学を楽しもう:No. 683 2003.01.07

結局、暮れも正月も
休むもつもりではなかったのに、
3日の午後から、6日一杯、
正月休みとなった。
考えてみると、家族だけで、正月をすごすのは、
これが初めてかもしれない。
正月気分が抜けやらぬまま、
仕事を始めた。やはり、メールから。
正月の挨拶は、1通。
それ以外の7通は、重たいものであった。
なんと、7時から1時までかかってしまった。
でも、これも、私の大きな野望の一環の
市民への科学教育と考えるのである。

以下は、科学することへの
ある人へのメールである。

「教科書より、私は、
興味を持ったことを深く追求すること
のほうが面白いと思います。
そして、それを核として学んでいくと、
おのずからその各周辺の知識についても
裾野が広がっていくはずです。
そんなこだわりのテーマを
一つずつ増やしていけば、
科学全体を広く浅くより、
もっとおもしろい科学の世界が
見えるのではないでしょうか。

たとえば、私が、いい例です。
私の専門は、地質学です。
でも、もっと、広く知りたいと、
地質学の範疇をこえて、
自分が好きだった
物理や宇宙、惑星などに興味を広げ、
広がった視点で、地質学を見直しています。
すると、今まで地質学者が
だれも見たことのないような世界が、
そこには広がっていました。
それを知るためには、
教育学や哲学が、
非常に重要な視点であるということがわかり、
現在、それを学んでいます。
この「Terraの科学」も
そんな広げた視点から生まれたものなのです。
そして、質問に一所懸命に答えることは、
私の勉強にもなり、
そして、議論できる人が一人でも増えれば、
私のよき師ともなるのです。
質問と回答という一方通行の付き合いではなく、
相互作用ある付き合いをしたいのです。
そしてインターネットではそれが、
可能であると考えています。

○○さんも、自分のスタイルでいいですから、
ぜひ、こだわりの、
自分の科学の世界を作りあげてください。
教科書がすべてではありません。
知りたいことのつまみ食いでも、いいのです。
もっと、科学を楽しもうではありませんか。」
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●データベース:No. 682 2003.01.06

今日も自宅からである。
昨夜、臨時ニュースで、
暴風雪警報が出ていた。
そして、夜も風が強かった。
雪のため、今日は歩いて
でかけるのかと考えていた。
そして、朝起きたのが、
6時半であった。
確かに、雪は降っていた。
しかし、風で強くて、
雪はさほどでもなかった。
だから車で出かけられたのだが、
遅いから、出けかけるを断念した。
そして、数日来続いている、
自宅での仕事と相成った。

現在おこなっているのは、
今までの画像データを
デジタル化し、データベース化することである。
GeoTravelとしているページである。
とりあえずは、
現在デジタル化されているもの中心に
インデックスとなる、HTMLファイルを
つくっている。
これが、なかなか大変である。
でも、こつこつとやっていく予定である。
しかし、無限に続けるつもりはない。
あくまでも、これは、データベースをつくって
新しい使い方を続けるための
見本である。
データベースは、見本でも、
使い物になる見本でないと意味がない。
だから、この1年ほどで見本のデータベースは
完成させる予定である。

次は、データベースを何のためにつくるのか
という目的の鮮明なものに力を注ぐ。
それが、「川と火山の自然史」 である。
これは、3年計画で進めるつもりである。
また、「身近な自然史」もその一つである。
これは、私の気持ちが続く限り、
継続したいものである。
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●休息:No. 681 2003.01.05

研究室が冷え切っているので、
今日は、自宅で仕事をする。
昨日の予報では、大雪となっていたので、
あまり当てにはしていないが、
一応、雪かきもしなければならない。
作業時間は、子供が起きるまでの
2時間ほどであるが、
寒くない分快適で、効率的であろう。
メールのチェックはしない。

さて、昨日は、次男が温泉旅館で
早朝に起きて、暴れだしたので、
長男も起き、寝不足。
私と家内は、雪かきで疲れて、
昨日は、みんな疲れていた。
今日は、図書館と買い物だけで、
午前中で、午後はのんびりしよう。
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●迷言:No. 680 2003.01.04

我が家では、正月らしいことを何もしない。
やったことといえば、
元旦に近所の神社へ初詣。
子供にレゴのブロックをお年玉としてあげたこと。
これでも、結構、正月ぽいかもしれない。
しかし、いつもは京都の実家に帰っているから、
典型的な田舎の正月である。
でも、自宅で迎える正月では、
御節料理もつくらなかったし、
改まったことしなかった。
私は、いつものように研究室にでかけた。

だから、せめておせち料理くらいは、
と思って、無謀にも正月の旅館をとった。
公共の宿だったが、
通常の倍の料金をとった。
しかし、全くの期待はずれだった。
これなら、スーパーで
おせち料理を買ったほうがよかった。
ただ、広い中二階付の部屋が取れたので、
子供、大いに走り回れたので、
それだけがよかった。
それと、次男の迷言。
夕食後のデザートでアイスクリームを食べて、
頭がキィーンと痛くなったとき
「アイスが、頭に入った」
と表現。
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●年始メール:No. 679 2003.01.03

さて、メールでも、年始の挨拶がきている。
それも、儀礼的なものでなく、
私宛に、きっちりとした内容のものである。
そうなると、これに返事を書くのにも
なかなか大変となる。
6通書いた。
2時間ほどかかった。

正月には1年の初頭として、
この1年に何をすべきか
じっくり考えたいと思っていた。
だが、メールを書いているうちに、
少しずつ、それがわかってきた。
それは、「地質学、教育、哲学の融合」 である。
私のライフワークとしてそれを、
完成させることである。
そのために、実践的試みを
次々と行うことである。
実践には対象となる人が重要である。
年始の挨拶が
メールマガジンの読者から来るというのは、
この実践が役立っているからであろう。

少しずつの積み重ねが、重要である。
そして、その少しの積み重ねは、
継続によって結実するのであろう。

そんことを年始メールを書きながら、
悟ってきた。
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●今年の目的:No. 678 2003.01.02

昨日、元旦は、寝坊して、6時まで寝ていた。
研究室には出ずに、
自宅で、家族が起きるまで
ノートパソコンに向かいながら、
昨年1年のこと、今年の1年のことを
考えていた。
1年のはじめに、
パソコンのファイルを整理していた。

今朝は、いつものように5時に起たので、
6時過ぎには大学の研究室に出てきた。
暖房をつけているのだが、
冷え切っていて寒く、
手がかじかんでいる。
そして、昼前くらいにやっと
ジャンバーが脱げるほどに温まる。
しかし、その頃には帰ってしまう。

さて、正月の時間がゆっくり取れるとき
1年の初めとして、
画像データベースの作成を
しようと考えている。
これが、作業量が多く、
自動的できるようにソフトを探している。
それが、見つかれば、少しは、
楽になるはずである。
今年の新しい、目的としているものである。
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●読書:No. 677 2003.01.01

さっき、今朝の明け方読み終わった本の
読書メモを入力した。
1年間読んだ本の数は、
79冊であった。
研究のための本は入っていない。
まあ、研究のために、1冊の本を
精読していくことは、最近はなくなった。
もしかしたら、
教科書あるいは読むべき本として
1冊の本を読みきるというのは、
若い頃のとにこそできることなのかもしれない。
忙しさ、そして、時間が細切れになる
という大人特有の理由によって、
読書する時間が削られている。
ないよりも、精読する体力、
それと、読みきるぞという強い意思
など、なくなっているのかもしれない。
これを、老化というべきなのかもしれない。
そんな老人には、
要領で逃れるしかない。
流し読み、つまみ読みである。
でも、専門のところはそれですむが、
専門外のものはそうは行かない。
それを、自分自身に付け加えるために、
私は、趣味の読書を大分減らした。
でも、振り返ってみると、
半分以上は、趣味の部分なっている。
さて、今年1年はどんな本が、
どれくらい読めるだろうか。
本との出会いは、素晴らしいものがある。
そんなすばらしい出会いを求めて、
読書を細々とながら続けよう。
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●ブッダ:No. 676 2003.01.01

手塚治虫著「ブッダ」
(ISBN4-267-01301-2 C-179): 2002.12.15
(ISBN4-267-01302-0 C-179): 2002.12.15
(ISBN4-267-01303-9 C-179): 2002.12.16
(ISBN4-267-01304-7 C-179): 2002.12.17
(ISBN4-267-01305-5 C-179): 2002.12.17
(ISBN4-267-01306-3 C-179): 2002.12.19
(ISBN4-267-01307-7 C-179): 2002.12.21
(ISBN4-267-01308-X C-179): 2002.12.22
(ISBN4-267-01309-8 C-179): 2002.12.29
(ISBN4-267-01310-1 C-179): 2002.12.30
(ISBN4-267-01311-X C-179): 2002.12.31
(ISBN4-267-01312-8 C-179): 2003.01.01
を読んだ。

半月かけて読んだことになる。
一冊読むのに1時間弱ほどかかる。
だから全12巻読むのに、
10時間弱必要となる。
漫画であるから、いつでも、
気軽に読めるから、
自宅でのあき時間を
この漫画の読書に使った。
その結果が、10時間を作り出すのに
半月必要であったということである。
時間とは、貴重である。
そして、こつこつとした積み重ねが必要で、
そして有効であることを
いまさらながら気づかされた。

さて、肝心の内容であるが、
前半は面白く読んだのだが、
後半があまり面白くなかった。
なぜかはわからない。
聖人というものを表現する難しさだろうか。
それとも、万人に適応できる
聖人像はどないからであろうか。
しかし、これまでつづいた
手塚治虫とのつきあいもやっと終わった。
長い付き合いだったが、堪能した。
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