思いつくまま

2002年10月
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目次 
●北海道は冬:No. 586● 2002.10.31
●原子とつきあう本:No. 585● 2002.10.31
●もしも原子がみえたら:No. 584● 2002.10.31
●初雪:No. 583● 2002.10.30
●山に雪が:No. 582● 2002.10.29
●新しい道具:No. 581● 2002.10.29
●人間付き合いの原点:No. 580● 2002.10.29
●経験を盗め:No. 579● 2002.10.29
●ふしぎな石 ― じしゃく:No. 578● 2002.10.29
●ぼくがあるくと 月もあるく:No. 577● 2002.10.29
●広い視点:No. 576● 2002.10.28
●目的を持った休み:No. 575● 2002.10.27
●生活のパターン:No. 574● 2002.10.26
●さあいこう 川はともだち:No. 573● 2002.10.26
●砂鉄とじしゃくのなぞ:No. 572● 2002.10.26
●優先順位:No. 571● 2002.10.25
●虹を見た:No. 570● 2002.10.24
●身近な自然の目的:No. 569● 2002.10.23
●秋から冬へ:No. 568● 2002.10.22
●河原の石の観察と実験:No. 566● 2002.10.21
●河原の石ころ図鑑:No. 565● 2002.10.20
●川をのぼろう 石のふるさとさがし:No. 564● 2002.10.20
●自然物:No. 563● 2002.10.20
●尊敬すべき人:No. 562● 2002.10.19
●データベース:No. 561● 2002.10.18
●回り道:No. 560● 2002.10.17
●身近な自然:No. 559● 2002.10.16
●作り話:No. 558● 2002.10.15
●宗教:No. 557● 2002.10.13
●理想の河原:No. 556● 2002.10.12
●田園風景:No. 555● 2002.10.12
●川の石:No. 554● 2002.10.11
●忙しさと粗雑さ:No. 553● 2002.10.10
●絵で分かる進化論:No. 552● 2002.10.10
●紅葉と霧:No. 551● 2002.10.09
●衛星画像:No. 550● 2002.10.08
●講演にて:No. 549● 2002.10.05
●こちらのせい:No. 548● 2002.10.02
●マイペース:No. 547● 2002.10.02
●9月は:No. 546● 2002.10.01
●お大事に:No. 545● 2002.10.01


●北海道は冬:No. 586● 2002.10.31

とうとう完全な冬支度である。
神奈川で真冬にきていた服装になった。
手袋もした、ハンバーも着た。
フードもつけた。
しかし、 雪が本格的に降ると、
この服では、湿ってダメである。
防水性のジャンバーでないとダメだ。

朝から小雨が降っていた。
雲も低く曇りである。
しかし、西の山並が見えた。
そこは、白い雪化粧をした山であった。
ところどころ朝日が当たって見える ところは、
白く輝いている。
北海道は冬である。
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●原子とつきあう本:No. 585● 2002.10.31

板倉聖宣著「原子とつきあう本」
を読んだ。
原子に対して、さまざなま視点でかかれた本である。
原子をひろく浅く知るためにはいい本であろう。
誰のための本だろうか。
高校生くらいなら理解できる。
子どもにはむつかしすぎる。
もしかしたら、理科教師用の本かもしれない。
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●もしも原子がみえたら:No. 584● 2002.10.31

板倉聖宣著「いたずらはかせきのかがくの本7
もしも原子がみえたら」
を読んだ。
かみ砕いて書いてある。
ただし、子どもに原子のことが
どの程度、理解できるだろうか。
原子は、実在するのだが、
非常に抽象的な概念でもある。
想像力の中でつくり上げなければならない
ものでもある。
それを、どこまで子どもにできるか、
興味あるところでもある。
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●初雪:No. 583● 2002.10.30

昨日は寒かったので、
ジャンバーもインナーをはずしていたのをつけた。
朝、外に出たら、うっすらと雪が積もっている。
もう、秋は終わろうとしている。
やはり、雲間から見える手稲の山並みも
白くなっていた。
新聞でも、ニュースでも、雪の話題を聞かなかった。
単にニュースを見てないだけかもしれないが、
北海道だと当たり前のニュースなのかもしれない。
しかし、冬がはじめての小出家では戦々恐々としながら、
かたや期待もしながら、冬を待ち受けている。
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●山に雪が:No. 582● 2002.10.29

今朝は、寒いので、
ジャンバーを来て出てきた。
すると、朝から、
とうとう霰まじりの氷雨が降ってきた。
そして、西に雲の切れ間に見える手稲山は、
白く雪化粧をしている。
そろそろ里にも雪が降りそうである。
北海道の秋は、駆け足で通り過ぎようとしている。
まだ、雪の降る前にしたいことがあったのに。
なんとかこなしたいものである。
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●新しい道具:No. 581● 2002.10.29

先日の日曜日に、
インターネット電話に変えた。
実際には3週間ほど先に装置が送ってきて
接続できてつながることになる。

この電話はインターネットを経由して、
電話をかけることになる。
従って、市内通話しかしないのである。
長距離(京都、横浜)によく電話する
我が家では、役にたつのである。

そのとき、インターネットも
ADSL(12M)に同時に変えることにした。
家ではほとんど繋ぐことがないのだが、
今加入しているプロバーダの料金と
500円ほどプラスなので
安いと思ったからである。

新しい道具に常にチャレンジすること
これが、私の意欲の現れである。
そしてこの意欲がなくなったとき
私は、現役を退くことがいいのではないだろうか。
そんな話を、昨日わざわざ札幌まで、訪れてくれた
エンカルタの編集部の人と話した。
自分自身の存在証明、
あるいは自分自身のモティベーションの
高さの確認のために、
新しいことにチャレンジすることに意欲的でありたい。
つぎのチャレンジは、
博士論文の完成と
サーバーを大学の研究室内で立ち上げる
ことである。
大変だけれども、
面白いと思えているうちは大丈夫だろう。
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●人間付き合いの原点:No. 580● 2002.10.29

朝、小雨が降っていた。
6時前に家を出ると
まだ暗く、ストロボで写真をとることになった。
これはこれで趣があって面白い。

でも、こんな天気の日でも、
毎日ウォーキングしている人に出会う。
同じ時間帯に、同じコースを歩いていると
同じ人に、2、3人出会う。
なんとなっく挨拶を交わしていく。
不思議なことである。
身も知らない人同士が、
定期的に顔を合わせること、
これが日常的にあることが、
もしかしたら、
それが、人間付き合いの
原点の一つかもしれない。
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●経験を盗め:No. 579● 2002.10.29

糸井重里著「経験を盗め」
(ISBN4-12-003301-5 C0095)
を読んだ。

まあ、対談だから、
いろいろなことが書いてあり、
軽く楽しかった。
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●ふしぎな石 ― じしゃく:No. 578● 2002.10.29

板倉聖宣著「いたずらはかせのかがくの本2
ふしぎな石 ― じしゃく 」
(ISBNなし)
を読んだ。

子供向けの本だが、
面白かった。

「いたずらに断片的な知識をはやく教えすぎると、
好奇心をおしつぶしてしまうのです」

「子どもたち自身が、自然のなかなか、
おもしろいことことがらを見つけだせるように、
自然をみるときの、
目のつけどころを教えることをねらっているのです」

「子どもたちが、自然について
いろいろななぞをもって、
しらべていく
― いわば、科学の精神を養うことを
ねらっているのです」

この本に砂鉄の産地が載っていた。
噴火湾沿いの海岸に
蘭東、花岡、胆振、日鉄八雲、国縫、
高周波鹿部、函館
である。
一度、サンプルを取ってみたいものである。
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●ぼくがあるくと 月もあるく:No. 577● 2002.10.29

板倉聖宣著「ぼくがあるくと 月もあるく」
(ISBNなし)
を読んだ。
子供向けの本だが、
なんとなく不思議なことを、
答えを教えるのではなく、
自分で考えて答えを導く方法である。
もちろん、親や教師用に
詳しい説明は後ろに載せてある。
なかなか面白いほう方法論である。
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●広い視点:No. 576● 2002.10.28

今朝は寒かった。
そろそろ上着を着たほうがいいようだ。
紅葉はますます進む。
カラマツの葉も落ち始めた。
雪が降る前に、石の採集に
2ヶ所行きたいのだが、
なかなかいけない。

ものも考え方にふと思ったことがある。
例えば、岩石一個、テーブルの上にあるとする。

その岩石が標本として有効であるためには、
まず、その石が、何らかの重要な情報を
持っていることが一番重要である。
そして、さらに標本ラベルがあること。
そのラベルには、細かく産地が書かれていること。
この2点がないと、標本として価値がないとされる。
さらには、岩石名、採集日、採集者
などが書かれていることが望ましい。
これは、博物館の資料や研究用の試料
としての場合である。

しかし、これは、非常に片寄った見方かもしれない。
なぜなら、その石が 価値があるかどうかは、
その見方によるものである。
形が面白い、色が綺麗、思い出がある、
テーブルの飾りにいい、重しとしていい、
など、その石に対する価値観は
見方によって変わっている。
私は、あまにり研究や教育という視点で、
自然を見すぎていないか。
そんな気がしてきた。

その石を離れて眺めれば、
もっともっと深い多様な世界が広がる。
科学的に見てその地の代表する石でなくても、
産地がわからなくても、いいではないか。
その石自体の存在がまずあり、
その石の現在の存在を
評価すればいいのではないか。
さらに、一歩離れれば、
その石は、自然の一部であったし、
今も自然の一部であるし、
石に中にも自然は奥深く埋もれているはずだし、
そしてなにより、この石は、
地球の営みにより創造されたものである。

さらに離れが考えれば、
その石がAという岩石名になることの意味、
地球のどのような営みで創造されたか、
なぜ形成されたか、
われわれは、その石がなぜ分類できるのか、
なぜ、価値判断をしてしまうのか、
なぜ、石を認識できるのか、
なぜ存在するのか、
などを考えるとき、
そこには、地質学の本質、科学の本質、
認知の本質、哲学の本質などが
隠れているのではないだろうか 。

さらに別の見方をすれば、
その石に美を見出し、絵画にすること、
インスピレーションをえて、音楽や詩をつくること、
想像力で、小説を書くこと、
など、より人間的で、芸術的な視点で、
眺めることができるはずである。

広い視点。
そして、その視点に、論理性、納得すること、
あるいは感動することがあれば、
その視点は、充分重要であると
評価できるのではないだろうか。
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●目的を持った休み:No. 575● 2002.10.27

昨日は、風邪で、体調が悪かった。
夕方、1時間ほど寝たら、
今朝はだいぶ楽である。
しかし、大学に出るのは、
やめて、自宅で過ごした。
でも、5時過ぎには起きたので、
仕事を少しした。

土・日曜日は、
家族サービスの日である。
できれは、外に出かけて、
海と、河原で石と砂を
取りに行きたいのだが。
家族が風邪なので、
なかなか出かけられない。
今日は天気が悪いので、
図書館と買いものに行くくらいだ。
それに、今日は午前中に
昨日予約したテレビが配達される。
じっと自宅で過ごすことになるようだ。
休みでも、何かをしたいという気持ちがある。
それに、休むときも、
今日は休む日だからという休み方をしたい。
何の目的もなく、グーたらしたくはない。
毎日を目的を持って生きていきたい。
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●生活のパターン:No. 574● 2002.10.26

今日は朝は少し雲があったが、
晴れている。
少し、今日の寒さは、一段落。
でも、ここ数日の冷え込みのせいだろうか、
紅葉が一段と進んだ。
大学のキャンパスの木々が
紅葉の度合いを増した。
落ち葉の量も多くなった。

今朝は、車で大学にきた。
土日のパターンだ。
このごろ、土日は、たいてい朝10時頃まで
大学にいることが多くなった。
朝の2、3時間が集中できる。
その時間を有効に使えるのはいれしい。
ほとんど毎日大学に出ているが、
これはこれで、生活のパターンとしていいようだ。
好きなことをしているのだから。
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●さあいこう 川はともだち:No. 573● 2002.10.26

地学団体研究会編
「シリーズ・自然にチャレンジ4
さあいこう 川はともだち」
(ISBN4-272-44014 C8340)
をよんだ。

川を素材にして、
石の調べ方がきっちりと書かれていて、
非常にわかりやすい本であった。
そして、使いやすい気がした。
学校先生が中心になってかかれた本である。
だから、学校の副読本として、最適である。

この本は、板倉氏の著書とは、対照的な気がした。
こちらは、いかにも教科書的である。
これはこれで面白いし、
多分、子供には分かりやすいし
教師も使いやすいだろう。
でも、面白さの点では、
板倉氏の本に及ばない。
やはり本は面白くなければならない。
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●砂鉄とじしゃくのなぞ:No. 572● 2002.10.26

板倉聖宣著「砂鉄とじしゃくのなぞ」
(ISBN4-7735-0154-5 C0340)
をよんだ。

面白かった。
子供向けの本はこのように
書くべきだと思った。
また、どんな本でも、
面白くなければいけないと思った。
砂鉄をめぐる、さまざなま考えや
知識、実験、経験、失敗。
どれをどう組み合わせるかは、
著者の裁量だが、
面白くなくてはいけない。
これは、一番の鉄則。
そして、ただ面白いだけでは
面白くない。
なんらかの科学する心や
科学とは面白という気持ちが
残らねばならない。
当たり前だが、
なかなかできない難しいことである。
それをこの本は思い知らせてくれた。
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●優先順位:No. 571● 2002.10.25

きりりと寒い朝。
快晴である。
研究室からふと、西の空を見ると
遠くの山並が、白くなっていた。
とうとう冬がきた。
雪が里にするものもうすぐだ。

動物たちは冬ごもりの準備に
いそしんでいるはずだ。
私は、10月中に仕上げたい大仕事を
何とか終わりたい。
これも、冬の準備である。

人は締め切りのあるものや
人や社会との関係を
ついつい優先してしまう。
しかし、本当はもっと大切な
優先順位があると思うのだが、
そんな優先順位はついつい後回し。

そんな大切な優先順位。
自分の心。
自分の体の悲鳴。
人への思いやり、やさしさ。
普通の生活、生き方、考え方・・・。
考えれば限りなく、捨て去っている。
あるいは、後回しにしている。
そんな生活が本当の生活なのか。
ついつい考えてしまう。
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●虹を見た:No. 570● 2002.10.24

虹が丸く見えるのは知っていた。
そして、観測者から見て
太陽と反対の方に見えるのも知っていた。
大気中の水分が
光を回折させている現象
というのも知っていた。
でも、自然現象は、理屈ではない。

見たとき、素直に感動するのである。
自然現象には、
人を感動させるものがある。
そして、その感動を
冷静に見ていけるようになると、
なぜ、という好奇心が湧いてくる。
まずは、感動、そして好奇心。
これが、自然に対する接し方であろう。

直に自然に接しないと、
まずは、論理。
論理に現代人は、
毒されているかもしれない。
まずは、感動を直に出すべきであろう。
心にたいして素直ではない。
素直さを取り戻すのには、
自然に接するのが一番である 。

今朝の虹を見たとき、
それは予想もしていない現象であった。
まずは、感動した。
この単純な プロセスが必要なのである。
論理は、感情に勝てないのである。
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●身近な自然の目的:No. 569● 2002.10.23

昨日、石北峠で雪が降った
というニュースが流れた。
毎年、新しい季節の訪れとともに
繰り返される四季折々のニュース。
そんな季節のニュースは、
日々、メディアから流される。
私たちは、それを、「身近」だけれども
ついつい聞き流がしてしまう。
そんな繰り返しが、
自分自身を知らず知らずに
自然から遠ざけているのかもしれない。

季節の移ろいは、
自分の五感で感じるもののはず。
自分の肌身を通じて感じること、
それが、日々繰り返されること、
それが、自然に接する
一番、普通で、まっとうな方法であろう。

日々の季節の移ろいは、
毎年の繰り返しなのだけれど、
その積もり積もったものが、
その地の風土となり、
その地域で育まれる人の情緒と
なるはずである。

移住してきた者には、
そんな風土、情緒が、
真新しく、新鮮に感じる。
最初の感動は、
一度きりしかないのである。

私の北海道への移転は、3度目である。
私は、この風土、情緒が好きで、
この地を選んでわけである。
今や、最初の感動ないけれど、
季節の移ろいを、新鮮に感じる。
この感動を逃すことなく、
その季節の移ろい、風土、情緒を
可能な限り記録しておこう。

最初は、身近な情報発信
のつもりではじめた「身近な自然」だった。
でも、今や「身近な自然」の目的は、
「自分自身の自然への回帰」
となってきた。
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●秋から冬へ:No. 568● 2002.10.22

もう秋を通り越して、
冬のような寒さである。
特に天気が悪い日は、
雪でも降りそうな気配である。
先日、気の早いユキムシが飛んでいた。
でも、手稲の山に雪が降って、
1週間ほどしてユキムシが飛び、
そして雪が降るという。
しかし、木々は、まだ、秋真っ盛りで、
ゆく夏を惜しむかのように、
まだまだ秋の景色である。

ここ数日、石や砂のデータベース作りを
おこなってきた。
もっとやらなければいけないが、
大仕事で、今月中に
仕上げなければならないことがある。
それを、最優先しよう。
しかし、公務、講義 、メールマガジンが
定期的にある。
これをこなしながらの最優先です。
これを最優先というのだろうか。
でも、データベースつくりは
ほぼ方針が決まったので、
あとは、根気よくやっていくことである。
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●河原の石の観察と実験:No. 566● 2002.10.21

馬場勝良著「河原の石の観察と実験」
(ISNB4-378-03890-0 C8344)
石の調べ方を書いた本である。
調べかたの内容の少なくとも一部は、
別の本(例えば、
自然にチャレンジ4「さあいこう 川がともだち」)
で見た内容である。
でも、馬場氏は、小学校の先生で、
わかりやすい内容となっている。
それに、実践的におこなってきた内容が
書かれているので、 説得力がある。
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●河原の石ころ図鑑:No. 565● 2002.10.20

渡辺一夫著「河原の石ころ図鑑」
(ISBN4-591-07321-1 C0644)を見た。
大分前に買った本だが、
面白くて、取り出しては眺めていた。
日本全国の代表的な川について、
石ころを集めている。
これは、やっている本人が
一番面白いのだろうなという気がした。
わたしは、北海道の川で
似たようなことをやるつもりである。

写真は綺麗だし、
石ころも結構よく集まっている。
でも、どこか不満が残る。
それがどこかわからない。
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●川をのぼろう 石のふるさとさがし:No. 564● 2002.10.20

渡辺一夫著「川をのぼろう 石のふるさとさがし」
(ISBN4-447-00894-5)を読んだ。
酒匂川が素材に使われているが、
なかなか面白い本である。
石の話だけでなく、
川にまつわる話がいろいろ書かれている。
「酒匂川の地学散歩」を書くときには、
知らなかった。
地質学的にみると、不満が残る点もあるが、
面白い本である。
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●自然物:No. 563● 2002.10.20

朝、6時過ぎ。
快晴。
放射冷却で寒かった。
車の窓が凍っていた。
とうとう、北海道の冬がきた。
まだ、秋だが、
冬が訪れた。

ここ数日、石と砂の撮影をしている。
自然物に触れていると、
なんとなく、心休まる。

もしかすると、これは、
取ってきた時の感触も
一緒に味わっているのかもしれない。
自然物とは、自然から切り取られたもの。
だから、自然物に接することとは、
その自然物から、
原自然に接することかもしれない。
だから、自然物から、
何かを感じるのかもしれない。
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●尊敬すべき人:No. 562● 2002.10.19

札幌で開かれていた
障害者インターナショナル(DPI)が 終わった。
中国の障害者雑技団の公演を見たかったが
日程的に不可能で見れなかった。
残念である。

昨日、北海道新聞のコラム「卓上四季」で、
DPIの内容の一端が紹介されていた。

札幌の佐藤きみよさんが、
「街で振り向く人の数では、
女優ジュリア・ロバーツさんに負けません」
という話をしたらしい。
佐藤さんは、
進行性脊髄性筋萎縮症で、
寝台式車椅子に乗って、
街に積極的に出られている人である。

彼女は、
「ロバーツさんは、人を振り向かせるのが仕事。
でも、私は見飽きさせるのが仕事です」
といったそうだ。
勇気があり、立派である。

こんな境地に私はいつ達するのだろうか。
こんな境地は、私に訪れるのだろうか。
尊敬すべき人である。
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●データベース:No. 561● 2002.10.18

きりりと引き締まった朝。
今日も回り道をしてきた。
公園の道は面白い。
日々違ったものがみえる。

昨日から石の撮影を開始した。
現在まだ、手探りの状態だが、
システムを構築しつつある。
北海道の1級河川の川原の石と
火山の石のデータベースを作ろうとしている。
そのモデルとして、石狩川の石を使っている。

今後、これは、自然史教育の素材として
利用する予定である。
このデータベースは、
大型の画像を利用することが前提なので、
大学のようなLANスピードの
速い環境でないと利用できない。
画像データを主流とした
データベースの構築をし、
それを自然史教育に利用しようと考えている。

このよな淡々としたデータベースが、
量が質を生むということを示したい。
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●回り道:No. 560● 2002.10.17

今朝は、少し回り道をしてきた。
公園をかなり遠回りしてきた。
すると、全く違った景色に出会えた。
当たり前のことだ。
違う道を来ているのだから。

でも、そんなことが新鮮に感じるのである。
じつは、それを、新鮮に感じるいうことは、
自分が、日々の日常の中に埋没し、
陳腐化してしまっているということかもしれない。
ということは、少し違ったコース、
少し違ったことを時々してみることで
陳腐化した日常がレフレッシュできるのある。
そうすれば、日常にすずに刺激を与えられる。

日々歩く道をかえるだけで、
それができるのである。
安上がりである。
そして、即効性がある。
これからも、時々、別の道を歩いてみよう。
そんなに急ぐ道でもないのだから。
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●身近な自然:No. 559● 2002.10.16

ツリフネソウがまだ咲いている。
コスモスだって、夏から咲いている。
タンポポだってつい最近まで咲いていた。
本州とは違う季節感。
10年間も住んでいたのに、
おぼろげにしか思えていない季節感。
季節感とは、体験してみるものなのだ。

わたしがやろうとしている自然への回帰とは、
こんな素直な感情を
思い起こすことだったのだ。
季節や自然をじかに感じること。
そんな単純なこと、
忙しさにかまけて 忘れ去っている人が、
いかに多いか。
私が歩くほんの2キロメートルほどの自然だが、
がんばって、感じてみよう。
人に自然への回帰を求めるなら、
自分自身が、まずは、回帰すること。
そのためには、この身近な自然を
可能な限り続けていこう。
同じコースで、自然や季節は、
日々こんなに移ろうということ
体験し、記録しておこう。
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●作り話:No. 558● 2002.10.15

昨夜も、長男と寝る前に話をした。
長男に自分でつくって物語を話すようにいった。
すると、私が話したものをそのまま話したり、
桃太郎を話したりして、
最後にやっと、自分で物語を少し創作した。
創作することは、なかなか難しいようである。
作り話をすることは、通常の話とは、
大きな飛躍があるようだ。
でも、訓練だろうが、人間はそれをこなし、
人を感動させられるほどの
作り話までつくれてしまう。
素晴らしいことである。
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●宗教:No. 557● 2002.10.13

昨夜、長男と寝る時、しばらく話した。
寝る前に読んだ本にお化けが出ていた。
夢にお化けが出るというので怖がっている。
大丈夫だといっても、だめである。
いつも怖い夢をみるという。
いろいろなだめたが、どうもダメらしい。

突然、神様に頼もうといって、お祈りをはじめた。
「怖い夢を見ないように。・・・・・」
・・・・はクリスチャンの祈りの言葉が続く。
そして、こう尋ねた。
「おとうさん、小さい声だったけど、
神様は聞こえたかな。」
私は、「聞こえたよ」と答えるしかなかった。
「そうだよね。
僕んっち、幼稚園から近いから聞こえたよね」

長男は、クリスチャンの幼稚園に行ってる。
たまたま一番近くで、
長男がここがいいといったからだ。
私が無心論者なので、
最初は、宗教や神を否定しようと思ったが、
子供の心に素直に入り込んだものだから、
無碍に否定することもないと思った。

宗教心は、情操教育に悪いことはない。
それに、今の日本では、
大きくなってからでも、
宗教を選ぶこと、捨てることも自由にできる。
だから、認めればいいとおもっている。

私には対処ができなかったことが、
長男自分で見つけた解決策であった。
そして、昨夜は怖い夢を見なかったようだ。
それに、長男自身、小学校にいったら
どう変わるかもしれない。
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●理想の河原:No. 556● 2002.10.12

今日は、晴れ時々曇り。
曇っていると寒いけれど、
晴れていると暑いくらいである。

石や砂がある普通の河原が少ない。
護岸されていたり、
草ぼうぼうで近づけなかたっりと、
なかなか理想的な河原がない。
でも、深川で、地元の人に、
石狩川の本流に
石の河原があるとこを教えてもらった。
そこは、理想ではなかったが、
いい河原だった。

いい河原と何か。
それは、私の好みによるものであるが、
石がきれいな河原である。
最近の川は、ダムや治水のせいで、
石ころがほとんど動かなく、
石ころの表面に
白く埃がついてものが多いのである。
自然に川が時々増水して、
石が動くような河原。
そんな河原がいい。

4WDが踏み固めたような河原。
キャンプで黒くなった河原。
ごみだらけの河原。
そんな河原が多く興ざめする。
北海道は比較的ましだが、
なかなか理想の河原には出会わない。
今日出会ったは河原は、
比較的いいもので、もう一度行きたいものだった。
明日も、もう一度いい河原を探そう。
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●田園風景:No. 555● 2002.10.12

秩父別というところに来ている。
深川の西のほうである。
道央自動車道で1時間ほど走れば、
江別から着いてしまう。
近いところである。

目の前には広くひろがる田んぼと牧草地である。
このような景色は、心を落ち着かせる。
人によっては、町並みや人の波が
見えたほうがいいという人もいる。
しかし、私は、このような田園風景や自然の緑が
心和む。

天気が曇りでよくないが雨でないのを幸いとしよう。
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●川の石:No. 554● 2002.10.11

今日は快晴である。
朝の冷え込みが一段と強くなる。
しかし、きりりとして気持ちがいい。

さて、今日の夕方から、
神居古潭に出かける。
川の石の調査法の検証である。
川からどのようにして石を採集し、
その石をどのようにデータ保存するかを
実験的に検証してみることを目的とする。
砂に関しては、だいたい、方法は確立しつつある。
来年からは、この方法で、
北海道の1級河川、13に対して
同じ方法でおこなう予定である。
あとは、北海道の火山についても考えている。
代表的な地学素材。
それを、研究と教育でどう両立していくか。
これを私の新しい地質学と教育の
境界分野への足がかりにするつもりである。
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●忙しさと粗雑さ:No. 553● 2002.10.10

やっぱり秋には青空がにあう。
朝来る時しとしとと雨が降っていた。
これはこれでしっとりとしていいのだが、
やはり、秋は青空に紅葉だろう。
キャンパスの木々も紅葉が進んできた。

さて、今日は、
申請書類を終わらせること、
でも講義の準備をしレジメの印刷を依頼、
会議もあって、
すべてをこなすことが可能だろうか。
毎日が、こんな連続である。
一つ一つに全力を尽くしているが、
粗雑になっていく気がする。
それが、心配である。
さらに、それが日常化するに大きな不安を覚える。
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●絵で分かる進化論:No. 552● 2002.10.10

徳永幸彦著「絵で分かる進化論」
(ISBN4-06-153429-7 C3045)
を読んだ。
面白かった。
でも、市民はつらいかもしれない。
なぜなら、集団遺伝学や 遺伝的アルゴニズムの核心部が、
数式で展開されているからである。
でも、非常に分かりやすく最近の進化の一分野が理解できた。

R.C. Lewontinのいう進化の起こる条件
「Variation in heritable fitiness(VHF)」
「適応度に変異があり、かつその適応度が遺伝するとき」

「「進化」とは、「VHF」が満たされて集団にたいして
「選択」が起こる様子であると表現されます」

「「適応度」とは、「次の世代に、
どれだけ自分のコピーを残すことができるか」
を表す尺度のことです」

「遺伝する」とは、「生物のもつさまざまな性質(形質と呼びます)が、
世代を超えて伝わっていくことです」

ダーウィンの進化のプロセスは、
「「分岐」と「絶滅」 、これが基本メカニズムです」

ダーウィンは、斉一説が生物の進化にも働いていると考えた。
「このような見方を漸進進化説(gradualism)と呼びます」

ダーウィンは「人為選択(artificial selection)」のアナロジーとして
「絶滅を起こさせる力を「自然選択(natural selection)」として
提案したのです」

自然選択は、「適者生存(suvival of the fittest)」と表現されるが、
これはトートロジー(同義反復、tautology)である。

適者生存の命題の擁護
・R.N. Brandonのテンプレート説は、
「それが正しいかどうか吟味できる代物ではない」
・「この問題は、「自己参照(self-reference)」の問題で、
今日、生物だけでなく 、数理、物理、化学を含めて
科学全体を貫く中心課題」

ネオダーウィニズムは、
「遺伝機構としてメンデル遺伝を採用し、
そして変異の源としては、
無方向性の突然変異を採用したものです」

「進化は弁証法である」
その二つの理由
・「分類は、本来は相反する「分ける」という操作と
「まとめる」という操作を統合する作業です。
この「分ける」ことと「まとめる」ことの
つじつまを合わせる論法として、進化論がある」
・「メンデル遺伝学とダーウィン流の進化論の間の確執を
解消するすべだった」
「メンデル遺伝学は、基本的に不連続な形質の遺伝様式
を記述する営み」
「当時のダーウィン流の進化論者たちは、
ライエルの斉一説に準拠しながら、
進化は連続な変化であるという立場をとっていたました」
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●紅葉と霧:No. 551● 2002.10.09

霧の朝。
幻想的である。
しかし、その中を歩くと、肌寒いし、
湿っぽくなるし、霧雨さえ降っている。
見た目と、現実の違い。
これは、よくある話。
遠くや、テレビ、画像、映画で綺麗に見えても、
現実には、そこに生活している人もいるし、
風が吹けば寒いし、
太陽が出れば厚いし、
蒸すこともあるし、
現実の体感は、
視覚だけでは感じないことも一杯ある。
それは、マイナスにも働くし、
プラスにも働く。
いずれにしても、
百聞は一見にしかず、である。

霧は、寒くて、しっとり濡れてしまうが、
それを差し引いても、
やはり、なんとなく心を落ち着かせる。
紅葉と霧はよくあう。
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●衛星画像:No. 550● 2002.10.08

もう秋である。
木々が色づいている。

私の忙しさはかわらず。
しかし、さらに新しい挑戦をはじめることにした。
衛星画像を用いて、教育に利用すること、である。
ERSDACというところが管理している
ASTER衛星の画像を利用して、
子供から大人まで理解しやすい、
科学エッセイを書くことである。
このエッセイを月一回書いて、
ERSDACのホームページに連載することである。
できれば、そのエッセイを
メールマガジン「Terra Incognita」に加えていきたい、
と考えている。
ただし、著作権が問題である。
それは、これから解決していくべきことである。
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●講演にて:No. 549● 2002.10.05

帯広にきている。
昨夜、講演会がったので、 来た。
講演会は博物館時代にも何度もやったが、
OHPかパソコンを使っていやっていたので、
スライドだけの発表は久しぶりである。
だから、十分意図が伝わらなかったかもしれない。
でも、いろいろな視点でものごとはみるべきである、
という主張であった。
あとの懇親会では、聞いていた人の感想で
「そんな見方もあるのか」 というのがあった。
そんな反応を聞くとうれしくなる。

講演をしていても、
講義をしていても、
動作や表情による反応はあるが、
言葉を交わすことがない
でも、あとでこのような感想を聞けるとうれしい。
そして、反応から、議論が始まれば、
望むところである。
それこそ、この講演で伝えたかったことである。
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●こちらのせい:No. 548● 2002.10.02

「頑張れ」とか「お大事に」という言葉は、単純で、便利である。
だから、常套句として使われているのだろう。
頑張れしか思いつかないとき、
頑張れを使うと一言ですむことを、
別の言葉にすると、長々とした言葉になる。
そんな長々とした言葉を、
身内でもない人、師匠でもない人から
いわれるのはたまらないことだ。
病院でも、すべての看護婦さんから、
「お大事に」という言葉のかわりに
病状を聞かれて、ひとりひとりアドバイスされたらたまらないし、
する方だってたまらない。
だから「お大事に」、「頑張れ」なのだろう。

ただ、受け取るがわが、それを許せない状況があるのだろう。
あるいは、聞き流す余裕がないのだろう。
だから、挨拶の言葉に目くじらをたてるのだろう。
そんなときは、どんな言葉をかけられても、
引っかかるのだろう。
相手のせいではなく、こちらのせいなのだろう。
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●マイペース:No. 547● 2002.10.02

「つらい時は神様がくれた時間と思い、
調子の良い時は神様なんて忘れればどうですか?」
ということをいわれた。
でも、人生で、なかなか調子のいい時は、少ない。
残りは、つらい時か、つらくはないが調子もよくない時である。
これじゃ、神様も忙しくなってしまいそうだ。
だから、焦らず、マイペースで、
できることだけをしていこう。
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●9月は:No. 546● 2002.10.01

私の9月は、ほんとうにあっという間に過ぎた。
できたこともあるが、
やらねばならないという気持ちと裏腹に、
できたことが少なすぎるような気がする。
「今」は、もう2度と返ってこない。
「今」は、今しかないでのある。
悔いのない「今」を過ごすしかないのだろう。

そのためには、
その時の最善を尽くすこと。
されが、一番悔いのないやり方なのかもしれない。
私には、9月という時の流れを意識しないうちに
9月が過ぎ去った。
だから悔いが残こる。
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●お大事に:No. 545● 2002.10.01

病院にいくと、
あいさつは、いつも「おだいじに」である。
ここ言葉、どうも、なれなくて気になる。
病院に来るくらいだから、大事にいたってるわけである。
あるいは、体を大事にしたいから来ている訳である。

これは、 頑張っている人に、
頑張れというようなものである。
頑張っている人からすると、
「ありがたい」という気持ちと
「頑張っているのが、わかるだろう」という気持ち
が生じるのではないだろうか。
それに、病気や怪我は、
元気な人からみれば、やはり他人事で、
自分の身は、自分で守るしかないのである。
だから、自愛という言葉がいいのかもしれない。
ですから、皆様、ご自愛ください。
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