思いつくまま

2002年8月17日〜21日
山口市(地学教育学会)
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目次 
●教養人:No. 1 (450) ● 2002.08.17
●高田公園:No. 2 (451) ● 2002.08.17
●山が美しい:No. 3 (452) ● 2002.08.17
●中原中也:No. 4 (453) ● 2002.08.17
●国木田独歩:No. 5 (454) ● 2002.08.17
●体調:No. 6 (455) ● 2002.08.18
●旅をするということ:No. 7 (456) ● 2002.08.18
●少し早めに:No. 8 (457) ● 2002.08.18
●山頭火の歌碑:No. 9 (458) ● 2002.08.18
●感性と理性と:No. 10 (459) ● 2002.08.18
●棚田:No. 11 (460) ● 2002.08.19
●田んぼが見えるキャンパス:No. 12 (461) ● 2002.08.19
●アカデミズム:No. 13 (462) ● 2002.08.19
●朝風呂:No. 14 (463) ● 2002.08.20
●野外巡検:No. 15 (464) ● 2002.08.20
●恩師の死:No. 16 (465) ● 2002.08.20
●思いが空回り:No. 17 (466) ● 2002.08.21
●恩師の思い出を、思いつくままに:No. 18 (467) ● 2002.08.21
●自然の涼しさ:No. 19 (468) ● 2002.08.21


●教養人:No. 1 (450) ● 2002.08.17
今日から、山口にいく。
地学教育学会である。
今まで、博物館での科学教育を考えてきた。
これからは、大学教育について考えていく。
まだ、全貌は知りえないのだが、
教養教育に関するものが大きな問題であろう。
何が問題か。
大学での教育は、
専門家養成と教養人育成にあった。
現在は、完全に教養人育成の実効性がないのである。
いつのころからか、一人の人間に、
専門性と教養の両方が求められたのだが、
あきらめられた。
さらに、現代社会では、
専門家養成に力点が置かれるようになってきた。
しかもである、大学は専門家養成を第一義としてきたにかかわらず、
「本当」の専門家は大学院で養成する
という仕組みができつつある。
それでは、大学での教養教育が必要ないかというと、
そうではない、ますます必要性が高まっている。
現代のような混迷を深めている時代、
世界が狭くなり、国際的に交流が深まる時代、
一国の問題が、即座に全世界に広がる時代、
教養人の重要性は高まっている。
また、政治、官僚、会社の中核における
「文科系」という人間の占める比率は高い。
彼ら「文系」の人間が、指導者として、
科学を理解できないまま、政策や施策、方針とすることによって、
もしかすると、取り返しのないつかない失敗が起きるかもしれません。
あるいは、「理系」人間が人文科学に対して無理解のために、
自分自身の可能性をいかに狭めているか、
その研究視野の狭さをみれば一目瞭然である。
つまり、大学での育成すべき教養人が生み出せてない
ということが問題なのである。
前置きが長くなったが、
そこで、再度、いや今だからこそ必要なのが、教養人なのである。
そんな教養人育成を、荒廃した(大学の)教養教育で
どう再現すからということがテーマである。
そこで、大学という場にこだわらず、
広く日本全国に存在する教養を求める人に対して、
「いち大学教員」が、効率よくおこなうには
どうすればいいかを、提案することである。
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●高田公園:No. 2 (451) ● 2002.08.17
山口の湯田温泉に、夕方5時ころについた。
ホテルは12階の最上階で、眺めのいい部屋である。
下を見下ろすと、公園がある。
そして、ぶらぶらするために、
ホテルのロビーで観光パンフレットを見ていると、
この公園は、高田公園といい、山頭火の句碑があるという。
菅井さんの好きな山頭火である。
山頭火は、明治15年(1882年)に
隣のす防府市で生まれ、
昭和13年(1938年)には、この湯田温泉に住んでいたそうである。
4畳一間の小屋で、「風来居」と名づけたそうである。
句碑には、山頭火の直筆を写してつくられた。
「ほろほろ酔うて木の葉ふる」
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●山が美しい:No. 3 (452) ● 2002.08.17
ホテルの窓からみる山並みがきれいである。
みると山頭火も、日記に、山口は山が美しいと書き残しているらしい。
夕焼けが移り行く色が美しい。
江別では、天気がよくないのと、
夕方には、子供が夕食で大騒ぎしている最中のせいもある。
また、江別には山がないせいもある。
遠く札幌越しに手稲、無意根の山並みが見えるだけである。
大学の食堂からはよく見える。
ふと、札幌の山並みを思いだした。
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●中原中也:No. 4 (453) ● 2002.08.17
ここ山口県山口市湯田温泉は、中原中也の生まれた地でもある。
明治40年(1907年)に生まれた。
そして、高田公園に山頭火と一緒に句碑がある。
「これが私の古里だ
さやかに風も吹いている
あヽおまへは何をしてきたのだと
吹き来る風が私にいふ」
中也の友人の小林秀雄、大岡昇平らによって選ばれた四行詩である。
そして、この町には、中也の記念館がある。
時間があれば訪れたいものだ。
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●国木田独歩:No. 5 (454) ● 2002.08.17
国木田独歩は、千葉生まれだが、
父の山口裁判所勤務の関係で、
5歳(明治9年)から16歳まで(明治20年)、
山口県内に住んだそうである。
その後上京した。
別の公園には、
「山村に自由存す」
という独歩の句碑があるそうである。
この詩は、山口を回想してつくられたといわれているそうである。
そして、そのあと、
「われ此句を吟じて血のわくを覚ゆ
嗚呼山林に自由存す
いかなればわれ山林をみすてし」
と続くのである。
「独歩吟」に収められた有名な詩である。
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●体調:No. 6 (455) ● 2002.08.18
昨夜、10時前にテレビを見ているうちに寝てしまった。
疲れだろうか、5時前におきたのだが、
7時前までうとうと寝た。
でから、比較的体調がいいのだが、
頭の奥のほうが少々違和感がある。
子供の風邪が、うつっているのかもしれない。
でも、体調はいいようだ。
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●旅をするということ:No. 7 (456) ● 2002.08.18
今日は、学会発表会だ。
せいぜい楽しんでこよう。
最近は、学会とかに出かけても、
旅をするということのほうが主眼かもしれない。
発表よりも、誰かと会うこと、
学問的刺激を受けること、
はもちろん楽しい。
知的刺激を受けうることだからだ。
さらに、
知らない地をうろうろすことも、
知的好奇心を満たすことが楽しみとなっている。
でも、これは、旅本来の楽しみだったのではないだろうか。
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●少し早めに:No. 8 (457) ● 2002.08.18
学会は10時前からはじまる。
少し時間がるので、
朝早めに出て、
山頭火と中也の碑をみてこうよう。
そして中原中也記念館にもいってこよう。
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●山頭火の歌碑:No. 9 (458) ● 2002.08.18
山頭火のもう一つの歌碑が、湯田温泉にある。
しかし、その歌碑の文句が印刷物に書かれてない。
不思議だなと思っていたら、その文句が問題であったようだ。
「ちんぽこも
おそそも
湧いて
あふれる湯」
というものである。
印刷はできないのだろうな。
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●感性と理性と:No. 10 (459) ● 2002.08.18
小さな学会は、こじんまりとして、家族的でよい。
中也もよい。
山頭火もよい。
朝、中原中也博物館をみた。
ちょっと中也にのめり込みそうになった。
しかし、子供の死が身につまされた。
それが、いやで、本を買おうかと思ったが、躊躇した。
文学というものは、
私とは全くちがった世界、
感性の世界
に訴えかける。
私は理性の国の住人。
そこで、理性を磨くために感性が必要だと思っていた。
しかし、文学、それも詩のような
研ぎ澄まされた、凝縮されたものは、
心に直に入り込んでくる。
菅井さんがのめり込んでいくのもわかる。
非常に面白い世界である。
しかし、私は、感性の世界に理性で切り込んでいくのは、できない。
感性は感性のまま。
単に鑑賞するだけでいいと思っている。
それよりも、理性の世界で、感性を閃かそう。
それが、いちばん心穏やかに住めるから。
感性の世界は、趣味のまま残しておこう。
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●棚田:No. 11 (460) ● 2002.08.19
山口市から秋芳洞へ向かう途中、
山村をいくつか通り抜けた。
田んぼの中にぼつりぼつり家が建っている。
日本の農村をみた。
非常に懐かしい気がした。
いまの田んぼをみても、懐かしさがないのは、
機械化農業をしやすく、区画が整理されているせいだろうか。
四角い田んぼは平野のもので、
山里では、棚田であったはず。
でも、通り過ぎた田んぼの、
農地改革でブルドーザーが入っているところ、
もう終わっているもあった。
でも、まだ、曲がったあぜ道の田んぼも残っていた。
それが懐かしさをかもし出したのだろうか。
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●田んぼが見えるキャンパス:No. 12 (461) ● 2002.08.19
山口大学で学会があった。
大学のキャンパスから周りをみると、
田んぼが見えた。
田んぼが見えるキャンパス。
いい。
こんなところで学生は学ぶべきである。
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●アカデミズム:No. 13 (462) ● 2002.08.19
大学で学生は、何を学ぶべきだろうか。
知識や専門家としての教育を受けることはもちろん必要だろうか、
教養人として、自分人身を培うことが一番大切ではないだろうか。
そのためには、大学は何の束縛もなく
精神の自由のもとに、学問に精進すべきであろう。
そこは、アカデメイア。
アカデメイアは、プラトンがアテネの近郊にひらいた学園である。
国民的アカデミズムではなく、
独善のアカデミズムは「象牙の塔」の批判されたが、
本来のアカデミズムを目指すべきだ。
アカデミズムとは、世俗を離れた純粋な研究態度である。
そんな純粋な学問の場として大学はあるべきではないだろうか。
しかし、いま大学は改革の嵐が吹き荒れている。
アカデミズムとして孤高であるべき大学が、
いまや、社会要請と行政の圧力に屈しようとしている。
日本の100年の計を誤ってなければいいのだが。
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●朝風呂:No. 14 (463) ● 2002.08.20
こちらに来て、はじめて6時におきられた。
背骨が少々痛む。
それに、少々けだるい。
多分、風邪の気があるのだろう。
しかし、早起きしたので、温泉にはいった。
風が強かったが、露天風呂につかっていると、
心地よかった。
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●野外巡検:No. 15 (464) ● 2002.08.20
今日は、野外巡検だ。
案内者付の学会の巡検に参加するのは、
何年ぶりだろうか。
久しくなかったような気がする。
効率よく見れるのだが、
印象に残らないもの案内者付の弱点だ。
しかし、それは、参加する側のモチーベーションしだいである。
今回の私の目的は、
典型的な地層や地質現象をみることである。
となると、学会の巡検は今後も楽しんで参加できるかもしれない。
それは、今日の感想次第だ。
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●恩師の死:No. 16 (465) ● 2002.08.20
恩師が、亡くなった。
2002年8月19日月曜日午前9時のことであった。
私への連絡は、愛媛大学の佐野君が、山口大学の永尾さん経由で
伝言をしてくれた。
昨日の午前に永尾さんは、連絡をうけ、私を探したようだが、
私は、昨日は学会にいかずに、秋吉いっていたので、
連絡がつかなかった。
それで、今朝、私に案内書の上田さんに手紙を託してくれた。
愕然とした。
やめて帰ろうかと思ったが、
伝言によると、葬儀の予定もわかっていない。
だから、動きようがない。
それで、巡検に参加した。
最初、何も考えられなかった。
予期していたことでもあった。
夕方、永尾さんと連絡がつき、
田崎さんの希望で、何もしてほしくないということだ。
6時半ころ、ホテルにつき、
自宅と佐野君に連絡をして、様子がわかった。
本人の希望によって、密葬にしたのではないかということである。
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●思いが空回り:No. 17 (466) ● 2002.08.21
眠れなくて、夜中に目が覚めた。
エアコンをつけてなかったので暑かったせいかもしれない。
窓を少し広く開けたら、涼しくなった。
でも眠れない。
恩師の死のせいか。
何をしていいのか、わからない。
思いだけが、空回りする。
自分の死にも、けじめをつけた恩師。
恩師は、形式、儀式が大嫌いだった。
もちろん、還暦も、退官記念パーティも、嫌っていた。
そして、葬式も。
生前、約束をしていた。
本の翻訳である。
恩師と、佐野君と、私で、地球科学の後進の役に立つようにと。
でも、それぞれの興味が別のところにいっていて、本が決まらなかった。
恩師は、核やその廃棄物問題に、
佐野君は、一番恩師の遺志を継いでいて、オフィオライトを。
私は、教育、哲学、そして新しい地質学を。
同じオフィオライトでつながっていたものが、
今は、それぞれ別のところへ、向いていた。
私は、恩師になにをしてもらい、なにをしてあげたのか。
そして、なにをしてあげたいのか。
恩師の偉業を語る。
それも、恩師の嫌うところではないだろうか。
私は、恩師に何をすればいいのか、
恩師に何かしてあげたい、
でも、そんなことは恩師が喜びそうもない。
という思いだけが、空回りする。
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●恩師の思い出を、思いつくままに:No. 18 (467) ● 2002.08.21
恩師との出会いは、修士課程で、岡山大学温泉研究所を選んだときであった。
北大の勝井義雄教授、新井田清信助のもとで、
卒業論文で、日高のオフィオライトをやっていた。
そして、修士論文では、地域は選ばず、オフィオライトを研究するために、
田崎先生のいた研究所にいった。
1980年4月のことである。
そして、三郡帯のオフィオライトを研究するために、
いくつかの地域を回りながら、
岡山県井原市付近のオフィオライトの研究をすることに決めた。
夏、井原市のお寺に泊まって下宿して、
自転車屋で、カブを借りて、一月あまり調査をした。
修士課程2年生とき、肝炎の検査で恩師は、大学病院に入院。
そして、私は、井原市で夏の調査を、恩師が買った車を借りて、おこなった。
今度は、民家に下宿をした。
そして、この年の春に助手で別の講座に赴任してきた高橋栄一氏に私を託し、1981年秋、カナダに在外研究に1年間いかれた。
そして、田崎和江さんと家族に合流された。
私が、博士課程にいきたいといっていたので、
「修士論文を無事、自力で書き上げ、
博士課程にいったら、カナダに来なさい、
一緒にカナダのオフィオライトを見に行こう」
と約束していた。
1982年4月、私は、北大の博士課程に進学した。
佐野君は、私と入れ替わりに田崎さんの研究室に修士課程で入ってきた。
約束どおり、夏休みに1ヵ月半ほど、
カルガリーの田崎さんのアパートに滞在して、
カナディアンロッキー、カルガリーのスタンピード、
カナダ東部(ケベック、ニューファンドランドなどの)
の岩石見学をした。
カナダ東部への旅行は家族旅行でもあった。
ただし、行きのトロントから帰りのトロントまで、
私と田崎さん、そして奥さんと娘さんは、
別行動だった。
私が帰るとき、娘さんたちは、先発して帰るため、
私と一緒に日本に帰国した。
そして、子供たちは、学校が始まるまで、しばらく親戚にいた。
博士課程では、私は、フィールドを拡大して、
舞鶴構造帯全体に広げていた。
その後、私は、年に一度か二度は
岡山大学地球内部研究所を、分析のために訪れるようになった。
そのたびに、田崎さんと相談し、
家族のいる自宅を、訪れていた。
私が博士論文を書きかげるころ
田崎さんは、愛媛大学に転勤された。
私は、博士論文提出後、
1年間、北大で研究生をしているころ、
ニュージーランドへの海外調査を、
田崎、佐野、小出でいった。
それが、縁で、佐野君はニュージーランドに1年間留学した。
後は、時々機会があるたび、顔を合わす程度であった。
田崎氏が定年されて金沢で自宅をもたれ、
和江さんと一番下の広野ちゃんと住んだでいたとき、
田崎さんの退官記念シンポジュームで、
私は、田崎宅を訪れた。
そして一泊させてもらった。
また、去年の地質学会が金沢であったとき、
半日、学会を抜け出し、
田崎さんのうちで、話し込んだ。
そのときも、励ましながら、翻訳をしましょうとはなしていた。
金沢での「思いつくまま」に恩師に関する記述が2つあった。

「●金沢にて:No.144 ● 2001.9.22
 金沢にいる。昨日から、金沢に来ている。昨夜は学会の懇親会があり、懐かしい、多くの人とあった。学部と博士過程時代の恩師にあった。今日は、朝一番の発表である。それが終われば、金沢在住の修士過程時代の恩師と、ゆっくりと話し合う予定である。
 学会に来ると、近くの観光地や地質名所を見るということを、かつてはよくやっていた。今回もすぐ近くに兼六園がある。しかし、出かける気にならない。これも、忙しさのせいだろうか。それとも、老化?」

「●恩師の気力:No.145 ● 2001.9.22
 急に涼しくなってきた。初冠雪のニュースも流れている。秋が、深まってきた。
 電話では話していたが、久しぶりに恩師に会った。恩師は、最近病気がちで、気力も低化している。昨年、手術し、今年の10月にも手術する予定だそうだ。そして、7月にアルゼンチンに行って、肺炎になり、8月はずっと寝こんでいたそうである。そして、生きることに積極的でない。
 恩師は、弟子が少なく、私と後輩の2人くらいしかいない。だから、その後輩と恩師をなんとかしたい、と相談している。
 英語文献の日本語への翻訳がいいのではないかと考えているのだが、奨めているのだが、どうも乗り気にならないようだ。でも、なにか目的を持って生きて欲しいのだが、今日は、1日その相談をするつもりである。うまくいくかどうか。あきらめずに説得しよう。」

あとは、時々、電話で、体調伺いをしながら、話したことがある程度である。
今年の1月に、私の転進が決まって手紙を書き、
その後、電話した時、ある本が借りたくてお願いしたら、
形見だという手紙がついていた。
以下、転勤ころの日記より

「2002年1月9日、新井田氏、田崎氏に転職の手紙を書く。退職願を提出する。」
「2002年1月22日、田崎氏に電話をして、転職や今後のこと話す。転職祝いに、Johanssen著のPetrography3巻を頂くことになる。」
「2002年1月29日、田崎氏よりPetrography3巻が着く。ありがたい。」

これだけの記述しかない。
もともと、あまり日記などつけないが、
転勤のときだけは、いろいろなことがあるだろうと、
半年ほど日記というかメモをつけていた。
以上が私の恩師との付き合いと、思い出の概略である。
書いてしまうとこれだけなのかという気もする。
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●自然の涼しさ:No. 19 (468) ● 2002.08.21
窓を開けていると涼しい。
朝のせいだろう。
窓を開けているので、朝の涼しさと一緒に、
町の騒音も入ってくる。
でも、涼しさの方が勝っている。
エアノンの涼しさより、自然の涼しさと騒音を選ぼう。
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