思いつくまま

2002年8月23日〜24日
金沢へ恩師の送別に行きました
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目次 

●別を告げに:No. 1 (469) ● 2002.08.23
●いい生き様:No. 2 (470) ● 2002.08.23
●恩師への挨拶:No. 3 (471) ● 2002.08.23
●挨拶状:No. 4 (472) ● 2002.08.23
●墓:No. 5 (473) ● 2002.08.23
●遺言:No. 6 (474) ● 2002.08.23
●思い出の石:No. 7 (475) ● 2002.08.23
●はじめまして数学 I:No. 8 (476) ● 2002.08.23
●生と死:No. 9 (477) ● 2002.08.24
オフィオライト


●別を告げに:No. 1 (469) ● 2002.08.23
これから、恩師に別を告げにいく。
師の葬式には、間に合わなかったが、
できる限り早く駆けつけることにした。
師は、華美をきらい、虚飾をきらい、儀礼をきらい、実に生きられた。
だから、葬式も嫌り、密葬を望まれた。
でも、私は、駆けつけないわけにはいかない。
師は、学問だけでなく、人生においても恩師でもあった。
私は、師から、目上の人との付き合い方を学んだ。
師は、もちろん、学問を志すときの先達として指導してくださった。
偉大な点、尊敬すべき点を多数もっておられた。
でも、私には、人間とは、多数の欠点、弱点を持っているということを
見せつけてくださった。
それが、私にとっては、目上の人との
心を開いた付き合いができることを示してくださった。
師は、礼節と親しさの境界を渾然とさせること、
そして、それが、深い付き合いができることを教えてくださった。
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●いい生き様:No. 2 (470) ● 2002.08.23
生きているということは、やがて死ぬことを意味する。
それが、自然の摂理であり、
だれも拒むことができないことである。
「如何に死ぬか」より、「如何に生きたか」が問題であろう。
そして、「いい生き方」をすれば、いい「死に方」ができるであろう。
「いい生き方」とは、他人が評価するものではない。
自分で評価するには、心の判断しかできない。
それは、多分、誰にも知ることができないものであろう。
しかし、「いい生き様」は、他人が評価できるかもしれない。
「いい生き様」はどうすればいいのか。
それは、やはり、自分の心に尋ねるしかないのだろう。
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●恩師への挨拶:No. 3 (471) ● 2002.08.23
恩師の霊前に挨拶に行った。
2時過ぎについて、6時前までいた。
墓石屋さん、田崎家を作り、田崎さんに心酔している大工さんが一緒であった。
墓予定地を見に行った。
久しぶりに、娘さんたちにあった。
みんな覚えていてくれた。
うれしいような、悲しいような気がする。
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●挨拶状:No. 4 (472) ● 2002.08.23
挨拶状に、娘さんたちの言葉があった。
抜粋する。

娘より
「父は、生前より私たちが
自分のために学び
社会のために働くこと
を喜んで応援してくれていました。」
史江 草土江 広野

私も、この言葉を心に刻もう。
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●墓:No. 5 (473) ● 2002.08.23
恩師の遺言の一つに、
墓石は、鳥取県若桜町の輝石斑レイ岩の自然石を用いること、
とあった。
そして、墓碑銘は遺族たちの案で、
「自然と共に」
としようか、考えられていました。
すばらしいことです。
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●遺言:No. 6 (474) ● 2002.08.23
遺言のメモを見せてもらった。
淡々とした、奥さんの口述筆記だった。
そして、最後にあったのは、
自分の死を知らすべき人のリストであった。
そのリストには、
「小出、佐野(教え子)、飯泉・・・・」
とあった。
リストの筆頭に自分の名前があるのを見たとき、
師の私への心遣い、
私にかけられた期待、
存命中にお見舞いにこれなかったこと、
もっと話したかったこと、
共同作業の翻訳ができなかったこと、
奥さんが、遠方を気遣って連絡をしなかったこと、
私が、すぐに駆けつけられなかったこと、
いろいろな思いが駆け巡った。
そして、心にしみた。
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●思い出の石:No. 7 (475) ● 2002.08.23
恩師の集めた石を見ていたら、
1982年にカナダに一緒に行った時の
komatiiteがあった。
私は引越しのうちに紛失してしまったものだ。
それを、遺品としていただいた。
書籍は以前にいただいてたのだが、
奥さんの勧めで、恩師らしい本として
Hess & Poldervaart edt. "Basalts"の2冊を頂くことにした。
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●はじめまして数学 I:No. 8 (476) ● 2002.08.23
吉田武著「はじめまして数学 I」
(ISBN4-344-00138-9 C0041)
を読んだ。
自然数の説明と無限、素数へとすすむ。
全ルビの本。
私が出版をしたいと考えている本と同じである。
どれほどの子供が読むかどうかより、
こんなものを与える努力が必要である。
そうすれば、どの子供かが、いつか、どこかで読んでくれて、
感動してくれるかもしれない。
そんな本を目指すべきではないだろうか。
学問とは、思わぬところが発端となるかもしれない。
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●生と死:No. 9 (477) ● 2002.08.24
生きているということ、
死ぬということ。
その意味は、私にはよくわからない。
生きているということは、
その存在が、周りの人との強い相互作用を与えるということ。
死ぬということは、その相互作用の決算でもある。
死ぬということは、人の心の中にのみに生きるということ。
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オフィオライト
 オフィオライトというものをご存知でしょうか。私の卒業論文、修士論文、そして博士論文は、オフィオライトを素材にして、書きました。その後は、いろいろな研究に興味は移りました。でも、10年近くは、オフィオライトを研究してきました。
 オフィオライト(英語でophioliteと書きます)とは、ギリシャ語の蛇をあらわす言葉、オフィス(ophis)と、石をあらわす言葉リソス(lithos)を合わせた言葉です。19世紀中ごろから使われている言葉です。なぜ、このような「蛇の石」などという言葉が使われているのでしょうか。それは、オフィオライトに伴われるカンラン岩が、蛇紋岩(じゃもんがん)と呼ばれる岩石になっているからです。日本語でも蛇紋岩といわれていることからわかるように、岩石が、蛇ような模様や色をして、岩石の表面も蛇の肌のようにてかてかと光っているためです。
 現在では、オフィオライトは、一連の岩石岩の名称となっています。その一連の岩石群とは、海洋底を構成していたものです。下から、カンラン岩、斑レイ岩、玄武岩、チャートと呼ばれる岩石が重なっています。
 それぞれの岩石を紹介しておきましょう。
 カンラン岩は、マントルを構成している岩石です。カンラン石という鉱物をおもな構成鉱物とする岩石で、比重も大きく、オリーブ色のきれいな岩石です。しかし、地表で見られる岩石は、オリーブ色でみられることはすくなく、多くは、濃緑色、緑色など色の濃い、黒っぽく見える岩石になっています。これは、カンラン石が蛇紋石に変わってしまったからです。岩石名も、カンラン岩から蛇紋岩となります。
 カンラン岩には、もともとマントルにあったものと、マントルが溶けていったんマグマになり、そのマグマからカンラン石が沈積してできたカンラン岩があります。ですから、カンラン岩にも起源の違うものがあるのです。その違いは、岩石の組織の違いで見分けられます。マグマからできたカンラン岩は、沈積したときに鉱物がつくる縞模様(層状構造といいます)ができますが、マントルにあったカンラン岩にはそのような構造はみられません。そして、岩石の種類が、マグマからできた層状カンラン岩は、鉱物の量比が変化して、多様なカンラン岩の種類ができます。一方、マントルのカンラン岩は、マグマが抜けて、ハルツバージャイトと呼ばれるカンラン岩になっています。
 斑レイ岩は、粒の粗い鉱物からできている岩石で、層状構造をもっている部分と層状構造のない部分があります。層状構造を持つ斑レイ岩は、層状のカンラン岩の上部で、斜長石が多く含まれるようになって、岩石としてカンラン岩ではなく、斑レイ岩と呼ぶべき岩石種になったものです。さらに上部では、マグマ溜まりで、マグマがそのままゆっくりと固まったものです。
 玄武岩は、斑レイ岩と同じような化学成分を持ちます。しかし、斑レイ岩がゆっくり冷え固まったのに対し、玄武岩は、急激に冷え固まったものです。ですから、玄武岩は細かい粒、あるいは鉱物が十分成長できず、マグマがそのまま固まったもの(非晶質とかガラス質といいます)になっているところもあります。
 玄武岩には、構造によって、岩脈と枕状溶岩の2つの種類があります。
 岩脈というのは、マグマが別の岩石を通り抜けるとき、つきぬけ、そのまま固まったものです。オフィオライトで見られる岩脈は、多数の岩脈が平行に貫入しているものです。非常に不思議な形態を示す岩脈群です。このような岩脈は、マグマの上部が、常に広がろうとする地域でなかければ、このような岩脈群が形成されないと考えられています。
 枕状溶岩とは、玄武岩のマグマが、水の中で噴出したときできる形態です。字の意味するところ通り、枕をいくつも積み重ねたような構造をもっています。すべてのオフィオライトの上部にある玄武岩は枕状溶岩になっていますので、オフィオライトは、常に、水底で活動していたことを意味します。
 岩脈状の玄武岩と枕状の玄武岩の関係は、連続的です。つまり、ある岩脈の上部で枕状溶岩になっているところあります。ところには、枕状溶岩を突き抜けている岩脈もあります。でもそんな岩脈もさらに上部では枕状溶岩になっています。つまり、マグマが岩脈のあるところを通り抜けて、水底で枕状溶岩として噴出したことになります。
 チャートとは、放散虫など珪質のプランクトンの遺骸からできた岩石です。ですから、チャートには、海水中に生きている生物の化石がたくさん含まれて、保存されていることもあります。その小さな化石(微化石とよびます)を調べますと、たまった年代がわかります。
 チャートのほかにも、量は少ないのですが、大陸から遠く離れたところにたまる、粘土層が含まれていることがあります。粘土は、大陸の岩石が風化してできるもので、河川や風によって海にはこばれたものです。粘土のように粒の細かいものは、陸から遠い海洋にもゆっくりと堆積します。
 カンラン岩、斑レイ岩、玄武岩の3種類の火成岩とチャートの堆積岩が、オフィオライトの構成メンバーです。オフィオライトの岩石群が示したそれぞれの性質は、かつての海洋地殻を構成していたこと意味しています。オフィオライトは、海洋地殻の「化石」のようなものです。
 オフィオライトは、大陸の各地に、さまざまな時代のものがあります。つまり、過去のいろいろな時代の海洋地殻を陸地の調査で、研究することができるのです。なおかつ、重要なことは、海底にある海洋地殻が、2億年より若いものばかりで、もっと古いものは、陸地のオフィオライトを調べるしかないのです。
 オフィオライトの重要性が再認識されだしたのは、1970年代後半のころです。プレートテクトニクスの理論が普及して、陸地の地質が、すべてプレートテクトニクスの考えで見直されたころのことです。過去の海洋地殻を調べるにはオフィオライトを調べるしかないのです。まだ、オフィオライトが海洋地殻であることが認知されないころは、オフィオライトと海洋地殻が一致する根拠が少ないと反対する人もいました。しかし、現在では、海洋地殻やオフィオライトに関する知識も増え、その類似性を否定する人はなくなりました。しかし、注意が必要なのオフィオライトとよばれる岩石群にも、海洋地殻以外でけいしえされた岩石が混じっていることあるから注意が必要です。
 こんなオフィオライトを私は研究してきました。卒業論文は、北海道日高静内川上流の西縁構造帯のオフィオライト、修士課程では、岡山県西部井原地方
、博士論文では、舞鶴構造帯のオフィオライトを研究しました。野外調査、岩石の顕微鏡観察、岩石と鉱物の化学組成、同位体組成をおこない、オフィオライトの年代決定、形成場、マグマの起源、マグマの組成変化をおこないました。
 このような研究の指導をしていただいたのは、田崎耕市先生でした。田崎先生は、修士論文の時の指導教官でしたが、博士課程や、その後の私の研究者人生において、よき相談相手になっていただいたり、家族ぐるみの付き合いをしておりました。その付き合いは、22年に及びます。2002年8月19日の朝、亡くなられました。
 田崎先生自身は、北海道の神居古潭帯のオフィオライト、房総半島嶺岡のオフィオライト、三郡帯のオフィオライトを研究されてきました。岡山大学、愛媛大学で教鞭をとられ、退官前や退官後は、核廃棄物について研究や、金沢市市民や子供たちへの科学教育をおこなわれていました。
 墓石は、三郡帯の鳥取県若桜地方の輝石斑レイ岩の自然石を使うように遺言されています。質素で、虚飾をきらう研究者としての最後の我儘が墓石に込められた思いでした。それを考えると身につまされます。ご冥福を祈ります。
(合掌)

.Letter 恩師の思い出を、思いつくままに 2002.08.21
 恩師との出会いは、修士課程で、O大学O研究所(当時)を選んだときでした。
 それまで、私は、H大学理学部のK教授(当時)、N助手(当時)のもとで、卒業論文で、日高のオフィオライトの調査研究をやっていました。そして、修士論文では、地域にはこだわらず、オフィオライトの研究したいために、田崎先生が、助教授(当時)でいたO研究所に進学しました。1980年4月のことでした。
 そして、三郡帯のオフィオライトを研究するために、いくつかの地域を回りながら、岡山県井原市付近のオフィオライトの研究をすることに決めました。
 1980年の夏、井原市の由緒正しきお寺に下宿して、自転車屋で、バイク(カブという車種)を借りて、一月あまり、野外調査をしました。
 修士課程2年生とき、C型肝炎の検査で恩師は、大学病院に入院されました。そして、私は、井原市で2度目の夏の調査を、恩師の車を借りて、おこないました。今度は、民家に下宿をしました。
 そして、この年の春に助手で別の講座に赴任してきたT氏に私を託し、1981年秋、カナダのカルガリーに在外研究に1年間、お子さんを連れて、旅立たれました。そして、カナダカルガリーで先発されていた奥さんに合流されました。
 その頃、私が、博士課程に進学したいといっていたので、「修士論文を無事、自力で書き上げ、博士課程に進学したら、カナダに来なさい。一緒にカナダのオフィオライトを見に行こう」と約束していました。
 1982年4月、私は、H大学の博士課程に進学しました。S君は、私と入れ替わりに田崎さんの研究室に修士課程で入ってきました。約束どおり、夏休みに1ヵ月半ほど、カルガリーの田崎さんのアパートに滞在して、カナディアンロッキー、カルガリーのスタンピード、カナダ東部(ケベック、ニューファンドランドなどの)の地質巡検や観光を楽しみました。カナダ東部への旅行は、家族旅行も兼ねていました。ただし、行きのトロントから帰りのトロントまで、田崎さんと私は、奥さんと娘さんたちは、別行動でした。私が帰るとき、娘さんたちは、先発して帰るため、私と一緒に日本に帰国しました。そして、子供たちは、学校が始まるまで、しばらく親戚にいました。
 博士課程では、私は、フィールドを拡大して、中国地方から近畿知地方にまたがる舞鶴構造帯全体に広げていました。その後、私は、年に一度か二度は、O大学C研究所(当時)を、分析のために訪れるようになっていました。そのたびに、田崎さんと研究上の相談し、家族のいる自宅を、訪れていました。私が博士論文を書きあげるころ、田崎さんは、E大学に転勤されました。
 私は、博士論文提出後、1年間、O大学で研究生をしているころ、ニュージーランドへの海外調査を、田崎、S君、小出でいきました。その調査が、縁で、S君はニュージーランドに1年間留学しました。
 あとは、電話やメールによる連絡や、機会があるたびに、顔を合わす程度でした。田崎氏がE大学を定年されて金沢で自宅をもたれ、奥さんと一番下の娘さんと住んでいたとき、田崎さんの退官記念シンポジュームが金沢大学でおこなわれました。そこで、私は、田崎宅を訪れ、一泊させていただきました。
 前の職場である神奈川県立博物館にもこられ、箱根に2泊していただきました。そのうち、一泊は、長男と家内も一緒に宿泊しました。長男は誕生後2ヶ月で、それが最初の外泊で、田崎先生が、長男を最初に抱いてもらった人でした。
 また、2001年9月下旬、日本地質学会が金沢であったとき、学会をぬけ出し、半日、田崎さんの家で、話し込みました。そのときも、病み上がりで気落ちされていた先生を励ましながら、翻訳をしましょうと話ていました。
 金沢での恩師に関する記述が2つあったの紹介します。

●金沢にて● 2001.9.22
金沢にいる。
昨日から、金沢に来ている。
昨夜は学会の懇親会があり、
懐かしい、多くの人とあった。
学部と博士過程時代の恩師にあった。
今日は、朝一番の発表である。
それが終われば、金沢在住の修士過程時代の恩師と、
ゆっくりと話し合う予定である。

学会に来ると、
近くの観光地や地質名所を見るということを、
かつてはよくやっていた。
今回もすぐ近くに兼六園がある。
しかし、出かける気にならない。
これも、忙しさのせいだろうか。
それとも、老化?

●恩師の気力● 2001.9.22
急に涼しくなってきた。
初冠雪のニュースも流れている。
秋が、深まってきた。

電話では話していたが、
久しぶりに恩師に会った。
恩師は、最近病気がちで、
気力も低化している。
昨年、手術した。
7月にアルゼンチンに行って、
肺炎になり、8月はずっと寝こんでいたそうである。
今年の10月にも手術する予定だそうだ。
そして、生きることに積極的でない。

恩師は、弟子が少なく、
私と後輩の2人くらいしかいない。
だから、その後輩と恩師をなんとかしたい、
と相談している。

英語文献の日本語への翻訳が
いいのではないかと考えている。
奨めているのだが、どうも乗り気にならないようだ。
でも、なにか目的を持って生きて欲しいのだが、
今日は、1日その相談をするつもりである。
うまくいくかどうか。
あきらめずに説得しよう。

この2つが、最後にあったときの記述です。あとは、時々、電話で、体調伺いをしながら、話したことがある程度です。今年の1月に、私の転進が決まって手紙を書き、その後、電話した時、ある本が借りたくてお願いしたら、形見だという手紙がついていました。
 もともと、あまり日記などつけないが、転勤のときだけは、いろいろなことがあるだろうと、半年ほど日記というかメモをつけていました。
 以下、転勤のころの日記より(抜粋)

2002年1月9日
 田崎氏に転職の手紙を書く。退職願を提出する。
2002年1月22日
 田崎氏に電話をして、転職や今後のこと話す。転職祝いに、Johanssen著のPetrography3巻を頂くことになる。
2002年1月29日
 田崎氏よりPetrography3巻が着く。ありがたい。

 私の過去の記録には、これだけの記述しかありません。少ない。でも、心に占める、空虚感は大きい。

 以上が私の恩師との付き合いと、思い出の概略であす。書いてしまうとこれだけなのかという気もします。もっともっと長い付き合いのような気がします。年数で言えば22年に及ぶ付き合いでした。
最後のもう一度、田崎先生のご冥福を祈ります。
(合掌)
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