思いつくまま

No.0201 (2002年2月分)
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目次 
●自然に触れたい:No. 269● 2002.02.28
●変化:No. 268● 2002.02.27
●現金決済:No. 267● 2002.02.26
●熟睡:No. 266● 2002.02.26
●旅:No. 265● 2002.02.25
●インフルエンザ:No. 264● 2002.02.25
●五感:No. 263● 2002.02.23
●eメールの達人になる:No. 262● 2002.02.23
●立派な親父になる:No. 261● 2002.02.23
●天は人の上に人をつくらず:No. 260● 2002.02.23
●割れ鍋に壊れ蓋:No. 259● 2002.02.22
●有限:No. 258● 2002.02.19
●蕩蕩と:No. 257● 2002.02.18
●引越しモード:No. 256● 2002.02.18
●生活の垢:No. 255● 2002.02.17
●札幌行へ:No. 1〜8(No. 247〜254)●2002.02.12〜2002.2.16
●北帰行:No. 246● 2002.02.11
●真の教育:No. 245● 2002.02.10
●頑張る:No. 244● 2002.02.09
●ボニナイト:No. 243● 2002.02.08
●心は孤独な数学者:No. 242● 2002.02.07
●客観と主観:No. 241● 2002.02.06
●リンドグレン女史の死:No. 240● 2002.02.05
●ミクロ・パーク:No. 239● 2002.02.05
●水疱瘡:No. 238● 2002.02.04
●節分:No. 237● 2002.02.03
●豆まき:No. 236● 2002.02.02
●人間の成長:No. 235● 2002.02.01

●自然に触れたい:No. 269● 2002.02.28

久しぶりに雨がふった。
暖かい雨である。
駅のホームから見事な緋寒桜がみえる。
今が満開のようだ。
久しぶりに自然に触れたくなった。
今度の週末は休みだから、
梅の頃には人手が多いので行ったことがない幕山に
天気がよければ、お弁当を持って家族で、いこう。
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●変化:No. 268● 2002.02.27

私の転進という変化は、
親しくしている人ほど、
衝撃を受けるようである。

しかし、学芸員には、
どれほどのショックを与えたのであろうか。
その声は、直接、聞こえてこないので、よくわからない。
ある一人の人間の変化が、
他人に大きな衝撃を与える。
これこそ、人間関係であろう。
一つの変化から派生する変化の多寡は分からないが、
何らかの変化を、周辺に与えるものである。

望むらくは、私のささやかな変化が、
カオスのように変化が伝わり、
最終的に、より良いほうに大きく変化するといいのだが。
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●現金決済:No. 267● 2002.02.26

今日は、昼間保険所に健康診断書にとりに行く以外は、
引越しのための連絡をした。
多くの連絡は、電話一本でできる。
かたや、引越し日には、
各種の料金はその場での現金払いが可能なようである。
引越し自体の料金もその場で現金で払える。
廃車のための手続き料もその場で現金で払える。
どんなにオンライン化が進んでも、現金は強みがある。
現金の強みがなく、形式にこだわるのは、
お役所かもしれない。
私は、今までそこにいたのである。
これはから、もっと「現金決済」的な行動をしたい。
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●熟睡:No. 266● 2002.02.26

2002年2月26日:
朝まで、珍しく熟睡した。
次男が5時半頃起きだしたので、
それで目が醒めたが、
夜半に目覚めるkとはなかった。
いつもは、1度か、2度は目覚める。
それは、家族が一つの部屋に川の字になって
寝ているためかもしれない。

昨夜は、2つのベッドのある部屋で、
一つのベットに長男が、
もう一つのベッドで家内との次男が寝た。
私は、和室で一人静かに寝たのである。

ぐっすり眠る快感を久々に味わった。
そして、朝風呂にはいてきた。
今は、家内と次男が温泉にいっている。
長男はまだ、就寝中。
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●旅:No. 265● 2002.02.25

旅は、日常から離れる手段。
旅が日常では、その目的はたっせない。
でも、日常があり、そこから脱するために旅をするなら、
それは、遠距離ではなくてもよい。
車で15分ほどのところでも、
そこは、非日常の世界。
それが旅。

温泉に入って暖まり、疲れを取り、
上げ膳下げ膳でおいしいご飯を満腹食べ、
満ち足りた気分で過ごす夜。
これだから、旅がいいのだ。
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●インフルエンザ:No. 264● 2002.02.25

昨日は、腹痛がひどかった。
多分、インフルエンザによるものであろう。
数日前から腰痛がしていたので
その次ぎの症状としての腹痛であろう。
昨日は、帰宅したら、すぐに、寝こんだ。
今日は、大学で追再試があった。
採点もしてきたので、
これで、B大学に行くのも最後となった。
夕方から、熱海のコンドミニアムに来ている。
まだ、本調子ではないが、だいぶましである。
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●五感:No. 263● 2002.02.23

自分がどんなに多忙になろうとも、
季節は、決められたように移ろう。
もう、季節変化を書き留めなくなって
どれだけたつのだろう。

ふと気付くと、梅だけでなく、
早春の花がいろいろ咲いていた。
今までも、目に入っていたのだが、
花の芳しい匂いをかいで、
初めて、脳に季節の変化があったことが
インプットされた。
視覚に頼りすぎている自分に気付いた。
視覚以外の情報に、どきっとさせられた。
五感というのは大切である。
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●eメールの達人になる:No. 262● 2002.02.23

村上龍著「eメールの達人になる」
(ISBN4-07-720119-8 C0236)
を読んだ。

村上氏のeメールに対する考えを書いた書である。
eメールという条件と、
日本語と相手を大切にする考えは
共感したが、
著者は、相手への配慮をひつこく言っていたが、
どうもそれが、押し付けがましく感じた。
合い矛盾する感情を持った。
感情とは、難しいものである。
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●立派な親父になる:No. 261● 2002.02.23

林道義著「立派な親父になる」
(ISBN4-88747-022-3C0095)
を読んだ。

この本では、もはや現在の親には期待できない
だから、子供に期待しようという趣旨だろうか、
子供に向かって、誰もが納得できる
親父像を提示している。
この書は、私は永久保存である。

さて、この本でよかったところだらけだが、
一部だけ抜粋する。
「なぜこどもに立派な大人が必要なのか。
それは人間には、少しでも良くなろう、
高まろうという向上心があるからだ。
とくに子どもには向上心が強い。
立派な人間にになりたという心がある。
そのとき模範が必要になる。
その最初の模範になるのが父親なのだ。」

立派な父親とはどういう人を言うのかについて、
「家族を慈しむ父でなければならない」
「何でも教えたがる父親は、たいへんすばらしい父である」
「みなが一緒によりよい状態になる、
つまり幸せになることを目指すのが父親の「理想」である」
「正しい心を持てば、正義の道を見つけやすくなるのである」
「民族の文化を子に伝え、
民族に特有の美しい完成を伝えていかなければならない」
「父親は子どもに礼節を教えなければならない」
「規則正しい生活習慣を見につけるさせること」
「もう一つ最も基礎的で大切な「しつけ」がある。
「うそを言ってはいけない」といいう「しつけ」である」
「道徳・礼節を語らない男を、父とは呼ばない」
「子どもに感動体験を与えよ」
「立派な父になるためには、自らが男らしくなると同時に、
子どもを男らしく育てなければならない」
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●天は人の上に人をつくらず:No. 260● 2002.02.23

安野光雅著「天は人の上に人をつくらず」
(ISBN4-88747-020-7 C0095)
を読んだ。
80ページ足らずの文庫で
300円ほどの小冊子である。

しかも、漢字には全部ルビ付きで、
子供向けの本である。
私が出したいような本である。
薄い本もいいが、
しっかりした本を書きたい。
愛読者ハガキを出した。
どういう反応が、楽しみだ。

さて、この本でよかったところ。
「むかし、「進取の精神」という言葉があった。
何事によらず、自分から進んで物事に当たるという意味だが、
諭吉ほど「進取の精神」に満ちた人は少ない。」
「「その人が人間として尊敬できるかどうか」という
物差しで計ることにしたらどうだろう。
これは、きまった物差しがないから、
はっきりしたことは言えないが、
世間のどこでも通用する上下を言うなら、
「人間として・・・・」と考えるほかない。」
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●割れ鍋に壊れ蓋:No. 259● 2002.02.22

公務と引越しの準備が重なって、
大変である。
混乱しないようにするつもりだが、
家内はかなり混乱。

家内は、決断するまでが、優柔不断で、
なかなかできない。
しかし、一度決断すると、迷わない。
猪突猛進である。
不思議な性格が混在しているようだ。

私は、決断は早いのだが、
実際に行動するのが、億劫である。
動き出すと、そうでもないのだが、
動き出すまでが、ずるずるしている。

割れ鍋に壊れ蓋、であろうか。
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●有限:No. 258● 2002.02.19

蕩蕩としていたいのに、
なかなかできない。
大変さに埋没していく自分がいる。
だから、埋没してしまわないためには、
アグレッシブに、先手を取るしかない。
自分に与えられた時間は有限。
自分に与えられた能力も有限。
自分にできることも有限。
自分にできたことも有限。
有限の中で、もがくしかない。
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●蕩蕩と:No. 257● 2002.02.18

子曰、君子坦蕩蕩、小人長戚戚。
論語(ISNB4-06-158451-0 C0110)
述而(じゅつじ)第七より。

読み下し
子(し)曰(い)わく、君子(くんし)坦(たい)らかにして蕩蕩(とうとう)たり、
小人(しょうにん)は長(とこしへ)に戚戚(せきせき)たり。

意味は、
蕩蕩とは広くゆったりとしたしたさまで、
戚戚とは憂い痛んでいるさまである。

私も、坦らに蕩蕩としていたい。
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●引越しモード:No. 256● 2002.02.18

午前中は、私は、健康診断にいき、
いらない衣類、バック類を廃棄する。
家内は、引越しのために、
保険解約手続き、不動産屋に連絡、ごみ排出、
などをする。

午後、今日、不動産屋にいって、
家を売るための手続きをした。
販売価格の設定と、
手続きを聞き、
決断した。
電気屋で、DVD+ビデオデッキを購入。

一気に、引越しモードになる。
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●生活の垢:No. 255● 2002.02.17

札幌から帰ってきた。
予定通りの行動であった。
仮の住まいとして、
便利さと経済性を優先して選択した。
現在、5部屋ある住居から、
3DKそれの団地サイズの大きさである。

家内と話し合った。
一度、最小限の生活に戻ろう。
そのためには、多くの不要なものを捨てることになる。
食器、衣類、箪笥、電気製品、本、書類など、
今まで膨らみ続けていた、
生活の垢を捨て去ることを、
1ヶ月の間に実行しなければならない。

この行動は、自分自身、観察に値する。
生活に最低限必要なものは何かを
問うことの繰り返しとなるであろう。
垢の一覧をつけていこう。
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●札幌行へ:No. 1〜8(No. 247〜254)●2002.02.12〜2002.2.16


●北帰行:No. 246● 2002.02.11

さあ、明日から16日まで、休みを取って札幌にいく。
休暇といっても、
札幌に、用事を済ませに、家族で行くのである。
大学のA先生に挨拶、
大学事務での所用、
校宅をみる
借家を探す、
市役所へ行く。
という作業を、乳幼児を連れて、
午前中だけの日程でこなさなければならない。
大変である。
多分、帰ってきてからは、
親はへとへとになっているはず。
だから、17、18日の両日は休養日。

ということで、このページの更新も
19日までないはずです。
あしからず。
帰朝後は、
何らかの成果を示せるはずです。
それをお楽しみに。
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●真の教育:No. 245● 2002.02.10

日本の地学教育を考えるシンポジウムが
博物館であった。
先輩が来ていたので、義理で参加したが、
やはりつまらなかった。
教育は、施す側だけが、頑張ってもダメだし、
会議が目的と化したような組織も無駄であろう。
つくづく、そう感じた。

教育とは、施す側の信義と、
それを受け入れるあるいは施される側の信頼
によって、成立するはず。
まさに、「寺小屋」のような
Man to Manの相互作用のうえに成立するのが、
私が考える「真の教育」。
そんな真の教育像もなく、
小手先の現状分析と、
それに対する不満、
そして不満への合意。
これで、何が解決するのであろうか。

そんな不満を、
長期(10年間以上)の専門家養成のための
プロジェクト(Club Geo)で
解消したいと考えている。
「真」かどうか分からないが、
実りのある教育を実践したい。
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●頑張る:No. 244● 2002.02.09

さて、土曜日だというのに
忙しくて、ばたばたしている。
午後からは、学会の集会があるので
不本意ながら、付き合いで、参加しなければならない。
愚痴を言ってもしょうがないので、
頑張るしかない。

さて、この「頑張る」という言葉が、
最近は曲者(くせもの)に感じるようになってきた。
もともと、言葉というのは、
場や状況、文脈によって、
意味が微妙に、あるいは大幅に変わることがある。
私にとって、この「頑張る」という言葉は、
大幅に変わっている言葉だ。

「頑張る」とは、
一生懸命になること、
励ましすために口にすること、
結果はだめでもいいから何とかしたいという気持ちのこと、
失敗したときに逃げ道のこと、
一種の掛け声のこと、
諦めに似た気持ちを表明すること、
なんとでもなれ、という投げやりなこと、
など、が私の辞書には書かれている。

さて、今回の「頑張る」は、
どれに当たるのだろうか。
上の方の意味ではないことは確かなんだが・・・
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●ボニナイト:No. 243● 2002.02.08

今、不思議な石について調べている。
この石は、神奈川県大磯の海岸の調査で
見つけたものである。
昨年9月下旬、
台風で、海岸の砂がさらわれて、
普段は砂に埋もれて一部しかみえていない地層が
大規模に露出して、見つかったものである。
現地の古老が20年ぶりという現象であるった。
そこに、今回調べている変な石がみつかったのである。

変な石は、ボニナト(boninite)といいう石に似ている。
ボニナトは、1890年に、小笠原の父島で
最初に見つかった石である。
最近では、世界各地で見つかっている。

このボニナイトのような石は、
どのボニナイトとも、似ているが、
どこか違っている。

どれとでも似ているのだけれども、
どれとも似ていない。
私の知識の範疇を超えているのである。

でも、考えてみたら、
私の知識の範囲なんか知れている。
知らないことの方が多いはず。

さらに、人類の知っていることなんか、しれている。
知らないことの方が多いはず。
一人前だと思っていた自分が、
やたら小さく、ひ弱で、
そして、奢れる者であったことを痛感した。
心のどこかで、
この世には、私だけでなく、
人類がまだ知りえないことが
一杯あることを知り、
わくわくしている。
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●心は孤独な数学者:No. 242● 2002.02.07

藤原正彦著「心は孤独な数学者」
(ISBN4-10-124806-0 C0141)
を読んだ。
文庫版ではこれが最新刊である。
この本では、藤原氏が尊敬する数学者である、
イギリス人のニュートン、
アイルランド人のハミルトン、
そしてインド人のラマヌジャン
という天才たちの人間としての足跡をたどったものである。
イギリス、スコットランド、インドと大英帝国圏の
それぞれの地で、それぞれの民族として
風土の影響を受けた人間として
天才数学者が描かれている。

本の中で気になった文章をいくつか載録する。

ニュートンの墓碑銘として詩人
アレキサンダー・ポープの二行詩
「自然と自然の法則は闇に横たわっていた
神は言い給うた、『ニュートンあれ』、すべては光の中に現れた」

「イギリス人の保守性を考える時、
いつも胸をよぎるのは、
彼等の独創性である。
力学(ニュートン)、
電磁気学(マクスウェル)、
進化論(ダーウィン)はみなイギリス産である。
近代経済学(ケインズ)もビートルズもミニスカートも
イギリス産である。
ジェットエンジンもコンピュータもイギリス産である。」

恋と詩と数学に生きたハミルトンが
4元数を思いついた
興奮のあまり刻み付けた式橋の欄干の碑文
「ここにて、1843年10月16日、
ウイリアム・ハミルトンは、
天才の閃きにより、
四元数の基本式を発見し、
それをこの橋に刻んだ。
i2=j2=k2=ijk=-1」

「哲学の系譜からいっても、
イギリスは経験論の国である。
教義や論理などより、
経験を重視するのである。
厳密性や論理性などというのは、
柔軟性に欠けたドイツ人の考えることで、
つまらぬ理屈を並べ立てるのは、
口先だけのフランス人のすること、
と軽蔑していたのである。」

「先進国の人々で、
インドに魅了される者がいるのは、
中世と現在の共存する、
目の回るような多様性の中に、
文明を剥ぎ取った人間、
仮面をとった自分自身を目の当たりにするからであろう。
どこで何を見ても、
否応なしに何かを突きつけられる。
それは驚きであり、
時には憤怒や感動であり、
常に知的刺激である。
絶え間ないこの刺激も、
疲労を深める大きな一因であろう。
インド疲れは回復するのに、
帰国後三週間はたっぷりかかるのである。」

「人間も含めた広義の宇宙が、
神により美しく調和ある姿に構成されているためかもしれない。
あるいは、人間が美しいと感ずるものは、
人間の知性に最も適合するものであり、
従って道具としても利用しやすいのかもしれない。」

ラマヌジャンの独創性について
著者がランガチャリ教授に尋ねたところ、
「チャンティング(詠唱)が独創の一因と思う」
「独創との関係について述べてみましょう。
まず、詠唱により大量の知識を確実に蓄えることがでいます」
「次に一つ一つの知識が孤立した点ではなく、広がりをもって記憶されるということです」
「折にふれ口ずさむことは、
得られた知識や概念をもてあそぶということです」
という答えが帰ってきた。
含蓄のある言葉である。
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●客観と主観:No. 241● 2002.02.06

人間は、動物や他の生物の行動や社会性を記録するために、
極力、人間の関与を排除しようとする方法がある。
動物の行動学や
文化人類学におけるフィールドワークの世界では、
常に意識され、重要であるとされている。

しかし、極めて客観性が強い物理の世界、
それも最先端の量子力学で、
観察者と被観察者には、
切っても切れない関係が成立することが示された。

観察するということは、
観察者に何らかの影響を与える、
ということを意味する。
これを考えると、
第三者的観察とは不可能なのではないだろうか。
第三者の関与しない行動は、
当事者以外には預かり知らぬ世界の出来事となるのだ。
となると、当事者からの自己申告でしか、
事の実態を把握できないということになる。
当事者たちが語らぬ場合は、
実態は把握できないのではないか。
よしんば、当事者たちが、
語ったとしても、
それを第三者が、客観的に判断できるのであろうか。

ある事柄の主観的内容を、
客観的に判断しっとき、そこに客観性は生まれるのだろうか。
難しい問題である。
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●リンドグレン女史の死:No. 240● 2002.02.05

今朝、新聞を見ていたら
スウェーデンの児童文学者
アストリッド・リンドグレン女史が
1月24日に94歳で亡くなられていた
という記事を読んだ。
少し、ショックを受けた。
彼女の「名探偵カッレくん」のシリーズを愛読していて、
小学生のころから、大人になるまで
何度も読み返した記憶がある。
そのたびに、スウェーデンの子供たちの
夏休みの過ごし方が、面白くそしてあこがれたものだ。

「名探偵カッレくん」シリーズ以外にも、
「長がくつ下のピッピ」や「やかまし村」シリーズなど
多数の名作を生み出した作家である。
88冊におよび作品は、
86言語に翻訳され、
発行総数1億3000万冊にもおよぶそうである。
ここ数年、ノーベル文学賞にもノミネートされていたそうである。

作家が亡くなって、
このような衝撃を受けたのは、
小林秀雄、司馬遼太郎についで
3人目である。
その理由はよくわからないのだが、
「名探偵カッレくん」シリーズしか読んでないのに、
こんなことになるのは、
「名探偵カッレくん」シリーズが
いかに私に感動を与えていたかということに
繋がるのであろう。
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●ミクロ・パーク:No. 239● 2002.02.05

ジェイムズ・P・ホーガン著「ミクロ・パーク」
(ISBN4-488-66322-2 C0197)
を読んだ。
ハードSFの巨匠の作品である。
SFマニアというほどではないが、
まあ、時間つぶしに読むことが多い。
芸術作品だから人によって感想はそれぞれろうが、
私は、こういう緻密な描写をした作品は好きである。

この作品は、マイクロ・テクノロジーによって
生み出されたマイクロ・ロボットとそれを操る少年たちの
物語である。
面白かった。
そして、近未来、このようなマイクロ・ロボットが生み出された
起こりうる社会現象を見せてくれた。
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●水疱瘡:No. 238● 2002.02.04

節分が過ぎ、今日は立春である。
曇りだし、
長男が水疱瘡なので、
自宅でじっとしている。
私は、長男を遊ばせながら、
ちょこちょこと仕事をする。

長男は、午前中医者に行ったが
インフルエンザの子供が小児科にあふれていて、
午前の予約をキャンセルして、
午後に再度診察に行く。

水疱瘡の完治宣言が出る。
金曜日に発病し、月曜日には完治。
水疱瘡は10日前後かかるのに、
4、5日で治ってしまった。
予防接種をしているからであろう。

医学の進歩によって、
大病がちょっとした流行病程度に
肉体的負担を軽減してくれている。
子を持つ親としては、
本当にこれでいいのだろうか。
子供ころ軽くしか伝染病にからないと
大人になって同じ病気に再度かかるという。
そうなるとその病気の肉体的負担はより大きくなる。
まあ、すべて確率の話であるが、
全員が平均的に楽になるおかげで、
一部の例外者が異常な苦労を水面下で強いられるという
なんとなくどこかで聞いたような話となっていくような気がする。
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●節分:No. 237● 2002.02.03

今日は、立春の前日の節分(太陽暦の2月3日か4日)である。
もとはそれぞれの季節がおわる日、
つまり立春、立夏、立秋、立冬の前日を
節分といったそうである。

今日は、雨。
朝一番に買い物に行ったが、
子供たちは元気を余らして
大暴れである。
休日は、気の休まるものではない。
喧嘩をせずに、静かに遊んでくれるのが
せめてもの望み。
小出家では
昨日の豆も残っていることだし、
雨で外で遊べないから、
今日も豆まきである。
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●豆まき:No. 236● 2002.02.02

明日は、節分である。
長男は水疱瘡で自宅療養中。
次男は金曜日に保育園で節分をやった。
うちでは、今日、豆まきをした。
実際には、豆を食べたのである。
歳の数では納まるはずもないので、
好きなだけ食べさす。

節分に豆で邪鬼をはらう行事は
室町時代の京都でおこなわれたことが、
1425年(応永32)の記録にあり、「臥雲日件録」
1447年(文安4)ころには、
立春前夜に家ごとに豆をまき、
「鬼は外、福は内」ととなえたそうである。

小出家でも、
「鬼は外、福は内」
豆は投げずに、口の中である。
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●人間の成長:No. 235● 2002.02.01

少し前の話だが、長男のことである。
ある日突然、長男は絵を書き出した。
それまでは、絵を書いても
ぐるぐると、ただ丸を書いたり、
ぐちゃぐちゃに塗りたくったりしていたのだが、
ある日突然、意味ある絵を書き出した。
大してうまくはないが、
説明を受けると、
納得のいく絵と書いていることがわかる。
また、車で聞いている歌を
ある日突然、あるフレーズを
きれいにメロディーをつけて唄ったりする。
身体的成長を見ていても、
長男は、今が、身長が一気に伸びる時期で、
次男は、いくら食べても、肉体的成長は非常に少ない時期である。

人間の成長とは、不思議なものだ。
外部には、ある能力が、
ある日突然、開花するようにみえる。
でも、実際には、水面下、つまり表面には現れないが、
それなりの成長を遂げていたはずである。
子供の場合、それが、突然であるのであろう。
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