読書日記
(2003年1月〜3月)

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目次 

3月 
26(104) 巨人の肩に乗って: 2003.03.26
25(103) 仮説実験授業入門:2003.03.14
24(102) 未来の科学教育:2003.03.14
23(101) 仮説実験授業:2003.03.14
22(100) ダイヤモンド:2003.03.14
21(99) 二つの文化と科学革命:2003.03.14
20(98) ゲーデルの哲学:2003.03.14
19(97) 熱とはなんだろう: 2003.03.01
18(96) 哲学者かく笑えり: 2003.03.01

2月 
17(95) 五〇代、大学で教養する: 2003.02.28
16(94) 科学と科学教育の源流: 2003.02.27
15(93) ぼくらはガリレオ: 2003.02.20
14(92) ヨーロッパ科学史の旅: 2003.02.18
13(91) 新哲学入門: 2003.02.18
12(90) 白亜紀に夜が来る: 2003.02.10
11(89) 天才数学者たちが挑んだ最大の難問: 2003.02.10
10(88) 天才は冬に生まれる: 2003.02.09
9(87) はじめての仮説実験授業: 2003.02.08
8(86) 科学者の熱い心: 2003.02.03

1月 
7(85) 科学の大発見はなぜ生まれたか: 2003.01.29
6(84) カシミール3D GPS応用編: 2003.01.29
5(83) ダ・ヴィンチの二枚貝上: 2003.01.18
4(82) 「無限」に魅入られた天才数学者たち: 2003.01.13
3(81) 脳の方程式 ぷらす・あるふぁ: 2003.01.11
2(80) 現代倫理学入門: 2003.01.11
1(79) ブッダ: 2003.01.01


3月 
26(104) 巨人の肩に乗って: 2003.03.26

メルヴィン・ブラック著「巨人の肩に乗って」
(ISBN4-88135-788-3 C0045)
を読んだ。
企画としては面白いのだが、
内容が面白くなさ過ぎた。
インタビューで構成されているが、
あまり整理されていないような気がした。
過去の天才科学者と現代の有名研究者の
肩に乗って作られた企画だが、
構成が面白くないような気がした。

ウォルパート「科学の定義はうちに潜む原則を見ること、
そして、理解することです。(中略)
自然と距離を置き、自然がどのように作用するのかを
理解しようとした。 (中略)
まちがっているかもしれないが、それはどうでもいい。
やり方が問題なのです」

ウォルパート「科学は日常の思考法とはちがって、
内面的な整合性を必要とします」

デイヴィス「ガリレオの最大の業績は、
それまで別々のものとされていた三つの分野ー
数学と物理学と天文学ーを結びつけたことだと思います」

デイヴィス「科学と呼ばれるものは、
いわゆるヨーロッパ・ルネサンス期に
絶大な影響力をもっていたふたつの伝統に
よりかかっていると、わたしは考えています。
ひとつめは、人間は論理と理性を応用することによって
世界を理解することができるという、古代ギリシア哲学です。
ふたつめは、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教
といった一神教です。
つまり、われわれは立法者が理にそって定められた世界に
生きていて、自然界にも、天が定めた法ともいえる
秩序があるという考えです」

デイヴィス「科学が生まれるには非常に特殊な
世界観が必要だし、ほかの文化圏にそんな世界観が
ないことを考えると、大宇宙のどこかに
知的生命体が存在していも、
そんな世界観はもちえないのではないか、と思うのです」

デイヴィス「宗教の役割は世界のあり方を解釈すること
であって、断言することではないのです。(中略)
社会における宗教の役割を考えれば、
はっきりした役割がふたつあることに気がつきます。
ひとつは、大宇宙の創造者たる神に関することであり、
もうひとつは、どのように生きていくべきかとか、
善悪の問題とか、一個の人間としての責任であるとか、
そういったことです」

グリビン「ニュートンの研究でもっとも重要なのは、
彼が成し遂げたことではなく、やり方です。
理論や仮説を検証するために実験をおこなうという、
こんにちの科学的手法を考案したことこそ、大切なのです。
彼の前にそういうやり方をしていたのでは
ガリレオだけでした」

グリビン「三世紀かが過ぎたいま、ビックバンとか、
宇宙がどうやって生まれたのかを理解できるまでになった。
これはなずべて、もとをたどれな、複雑そうに見えることでも
単純な法則で説明できるという、
ニュートンの考えに行き着くのです」

「リース「アインシュタインの理論はニュートンの理論よりも
視野が広いのです。(中略)
ニュートンの法則が当てはまらないところでも、
当てはまるということです。
ニュートンには恣意的に見えるようなところでも、
アイシンシュタインの目には、自然に映るのです。
あるいは必然といってもいいですが。
アインシュタインがニュートンよりも深いところを見ていた
というのは、そぷいうことをいっているのです」

トマル「自然哲学という言葉は、ロイヤル・ソサエティが
使っていた言葉で、こんにちの物理学、化学、地質学などの
分野をすべてひとまとめにした呼び名です。
自然史(博物学)は植物などを扱う学問でした」

ファラディー「数学者がこういった主題で論文を書くとき、
その結果を、数学者向けの言葉だけでなく、
簡単で使いやすい言葉でも書いていただければ
すばらしいとおもうのですが、いかがでしょうか?」

グールド「自然選択の理論とは、
自然に関する三つの明白な事実に、
三段論法といってもいい推論をくわえたものにすぎません。
第一に、種および生物は生き残ることができるより
はるかに多くの子を生む。(中略)
第二に、あらゆる生物は異なる。(中略)
第三に、自然選択とは、系統樹的な理論だから、
その違いは遺伝する。
一部しか生き残れないのだから、だいたいにおいて、
生き残るのは、その土地の環境によりよく適応し、順応し、
適合するものとなるのです」

グールド「喜んだり不安に思ったりする人間に共通する
感性、すなわち人間性とも呼ばれる特性のほとんどは、
じつのところ、適応の原理にしたがって、
何らかの理由で脳が大きくなった結果、
副次的に生まれてきたのものなのです」

グールド「世界を変えるのは、ちっぽけな考えではなくて、
どのように自然が働くのかを我慢強く謙虚に
理解していくことだという主張は、ダーウィンの
基本理念にも当てはまります」

メイ「この理論(カオス理論)がいっているのは、
不確実な要素を排除した、考えうるもっとも単純な法則が、
予測不可能なくらい複雑な結果をもたらすことが
あるということなのです」

「アインシュタインの理論は、実験室での研究から
生まれたのではなく、彼のいう「思考実験」なるものから
生まれた」

グリビン「それはそれでとてもすばらしいことですが、
何の役にも立たない。
つまり、一般相対性理論の実用的な使い道は、
まだだれも思いついてないのです」

デイヴィス「わたしは、科学は真理を追い求めるもの
ではないと思います。
世界を信頼できる方法で描くことなのです」

「科学者はなぜ科学するのか?
ワトソンーどうしてものごとが起こるのかを知りたいだけで、
そういったことはずっとむかしから遺伝で
受け継いでいることだと思います」

「いままでみてきたようにー古代ギリシア人から数えて
ほんの一〇〇世代で、人間の脳にそなわった
科学的に思考が、迷信や無知の呪縛を解き、
驚くべき任務を開始したのだから。
みずからの創造主の探求とさえいえる任務を」
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25(103) 仮説実験授業入門:2003.03.14

板倉聖宜・上廻昭編著「仮説実験授業入門」

を読んだ。
仮説実授業の似たような本を読んでいると、
同じような内容が書かれているの
どれがどれが違いがよくわからなくなってくる。
この本は、仮説実験授業のやり方を中心に書いた本である。
類書がまだ読んでないがある。
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24(102) 未来の科学教育:2003.03.14

板倉聖宜著「未来の科学教育」
(ISBN4-337-65923-4 C3337)
を読んだ。
仮説実授業の実例を紹介している。
これは、多くの実践者の例からもよく分かっている。
教育を受けるものたちが、楽しむことは、重要なファクターである。
しかし、大人も楽しいだけの授業を望んでるのだろうか。
博物館にいたときは、それでいいと思っていた。
しかし、教養というべき、高度の知的レベルへと内容を求める時、
これだけでいいのかという気もする。
しかし、どうすればいいのかというアイデアはまだない。
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23(101) 仮説実験授業:2003.03.14

板倉聖宜著「仮説実験授業 <ばねと力>による具体化」
を読んだ。
仮説実授業の核心にあたる部分である。
なかなかおもしろかった。
そして授業自体も面白かった。
これはこれでいいもである。
しかし、私の目指すものはこれではないことがわかってきた。
板倉氏がおこした科学教育の方法論は学ぶべき点が多くある。
非常に参考になった。
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22(100) ダイヤモンド:2003.03.14

マシュー・ハート著「ダイヤモンド」
(ISBN4-15-208440-5 C0022)
を読んだ。

ダイヤモンドにまつわる私の断片的知識の一部を補完してくれた。
これでも、まだまだ一部のような気がする。
しかし、完全というものは、ありえないのであろうから、
これでよしとすべき本である。
ドキュメンタリーとしては面白かった。
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21(99) 二つの文化と科学革命:2003.03.14

C.P.スノー著「二つの文化と科学革命」
(ISBN4-622-04970-8 C1010)
を読んだ。

1959年に講演した内容で、非常に有名な本である。
私は、読むまでの印象とかなり違っていた。
やはり、原典をちゃんと読むべきである。
この本では、講演後の批判に対する反論、
そして11の批判論文も紹介されている。

「私が望んだことは、それが次の二つのことについて
新しい動きを起こす呼び水となるぐらいのことであった。
第一には教育について、
第二には富み、特権をもつ人びとが不幸な人への関心をもっと深めることにあって、
後者について講演の後半で述べたことは、私自身の心になかでいつも重要な位置を占めていた」

「われわれ進んだ西欧社会は共通の文化ということについては、
その気配さえも失ってしまっている。
われわれが知っている最高の教育を受けた人びとは、
自分が主として抱く知的関心の分野で、
すでに意思疎通ができなくなっている」
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20(98) ゲーデルの哲学:2003.03.14

高橋昌一郎著「ゲーデルの哲学」
(ISBN4-06-149466-x C0241)
を読んだ。

面白かった。
ゲーデルの完成性定理と不完全性定理の概略が
なんとなくわかったような気がした。
しかし、詳細は、記号論理学が理解できないと
よくわからないはずだ。

「さらに難解さを増幅させるのは、
不完全性定理そのものが進化していることある。
たとえば、ゲーデルの証明で中心となったのは「ω無矛盾性」
とよばれる概念である。
それがロッサーの証明では「単純無矛盾性」に拡張され、
タルスキーの証明では「真理性」に変わり、
チューリングの証明では「計算可能性」が用いられ、
最近のチャイティンの証明では「ランダム性」になっている」

「発言と事実が一致すれば真であり、
事実の一致しなければ偽であると考えている。
この考え方は、「真理の対応理論」と呼ばれ、
論理学で一般に適用されているものである。」

「真か偽か決定できる事実は、「命題」と呼ばれる。
命題は、発言でも文でもなく、事実そのものである」

「命題の関係を研究する学問分野を、「命題論理」と呼ぶ」

「幾つかの前提から一つの結論を導くような形式に、
命題に並べることができる。
このような形式で命題が並んだものを「推論」と呼ぶ」

「モダス・ロレンス」(化言三段論法否定式)」

「推論の研究で重要になるのは、
前提が結論を論理的に導いているか否かの問題である。
論理学では、ある推論において、
すべての前提が真ならば結論も必ず真であるとき、
その推論を「妥当」と呼ぶ。
妥当な推論においては、
すべての前提が真であるにもかからわず、
結論が偽になることは不可能である」

「彼は(アリストテレス)、思考の道筋を明確にしたかったのである」

「数学に「証明」の概念を最初に持ち込んだのが、ピタゴラスなのである」

「ユークリッドが、幾何学を総合的に体系化した。
彼は、「公理」と呼ばれる命題から出発して、
論理的な推論だけを用いて、
「定理」と呼ばれる新たな命題を導くシステムを構築した。
このようなシステムを「公理系」と呼ぶ」

「これらの命題を、理性的な人間ならば、
誰もが疑いなく受け入れる「自明の共通概念」とみなした」

「公理1 同じものに等しいものは互いに等しい。
公理2 等しいもに等しいものを加えれば、全体は等しい。
公理3 等しいものから等しいものが 惹かれれば、残りは等しい。
公理4 互いに重なり合うものは互いに等しい。
公理5 全体は部分より大きい。」

「ユークリッドは、これらの公理に加えて、「公準」とよばれる
幾何学的公理を定義し、それらを用いて、
465におよぶ数学的定理を証明した」

「ユークリッド幾何学は、自然界の真理を表す「唯一」の幾何学とみなされてきた。
17世紀のニュートンは、絶対時間・絶対空間を前提とする力学体系「プリンキピア」を構成し、
18世紀のカントは、人間の時間・空間認識を「先天的形式」とみなす哲学を打ち立てた」

「ラッセルとホワイトヘッドは、命題の主語・述語に相当する部分にも踏み込み、
量化された命題がも厳密に扱えるようにした。
これが、「述語論理」である」

「システムSのすべての証明可能な命題が真であり、
すべての反証可能な命題が真でないとき、
Sを「正常」と呼ぶ」

「証明可能あると同時に反証可能である命題がSに存在しないとき、
Sを「無矛盾」と呼び、
それ以外のときSを「矛盾」と呼ぶ」

「システムSの命題Xが証明可能か反証可能のどちらかであるとき、
XをSで「決定可能な命題」と呼び、
それ以外のときXをSで「決定不可能な命題」と呼ぶ」

「システムSが正常であるとき、真であるにもかかわらず、
Sは証明可能でない命題が存在する。
この命題を「ゲーデル命題」と呼ぶ」

「第一不完全性定理 システムSが正常である時、Sは不完全である 」

「第二不完全性定理 システムSが正常であるとき、Sは自己の無矛盾を証明できない」

自己言及から、ゲーデル命題が生じる
相互言及からもゲーデル命題が生じる

「ゲーデルは「証明可能性」はシステム内で定義できるが、
「真理性」はシステム内で定義できないことに気付いていた」

可能性・必然性を扱うのが様相論理
信念・意識について扱うのが認知論理
過去・現在・未来に対応する命題を扱うのが時制論理
判断・意見に関する命題を扱うのが義務論理

「様相論理は、古典的な命題論理あるいは述語論理に、
一個の未定義論理記号を加えるだけで、
これらの文の解釈を可能にするように公理化されたシステムである。
様相論理の意味論を変更することによって、
認知論理・時制論理・義務論理としても解釈できるようになっている」

「ヴィトゲンシュタインが導いたのは、「語りうることは明らかに語りうるのであり、
語りえないことについては沈黙しなければならない」という結論であった」

「「論理哲学論考」の基調にある「写像理論」は、
事実の総和としての世界と、命題の総和としての言語に、
真理の対応関係が存在することを前提としている」

「カントールは、「数学の本質はその自由にある」と述べたが、
直感主義は、その「自由」を数学者自ら放棄する主張とも考えられた」

ゲーデル・ロッサーの不完全性定理
 Sは、真でもあるにかかわらず決定不可能な命題Gを含む。
さらに、Sの無矛盾性は、Sにおいて証明不可能である
不完全定理の哲学的帰結
 全数学を論理学に顕現することは不可能である。
全数学を公理化することは不可能である。

ゲーデル・タルスキーの不完全性定理
 Sの真理性は、S内部では、定義不可能である。

ゲーデル・チューリングの不完全性定理
 すべての真理を証明するチューリング・マシンは、存在しない。

チャーチ・チューリングの提唱
 計算可能性は、チューリング・マシンのけいさん可能性と同等である。

人間機械論の仮説
 思考は、アルゴリズムに還元できる。
人間は、ちーリング・マシンである。

チャーチの非決定性定理
 任意のチューリング・マシンが何かを導くかを事前に決定するアルゴニズムは存在しない。

チューリングの停止定理
 任意のチューリング・マシンがいつ停止するかを事前に決定するアルゴニズムは存在しない。

反人機械論の仮説
 思考は、アルゴニズムに還元できない。
人間はチューリング・マシンを上回る存在である。

ゲーデル・チャイチンの不完全性定理
 任意のシステムSにおいて、そのランダム性を証明不可能なランダム数GがSに存在する。
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19(97) 熱とはなんだろう: 2003.03.01

竹内薫著「熱とはなんだろう」
(ISBN4-06-257390-3 C0242)
を読んだ。

エントロピーの詳細をわかりやすく説明した本である。
なかでは、黒体放射からブラックホールのホーキング放射まで
扱われている。
非常にわかりやすい本であった。
中に、冗長な会話があったが、読む人によっては、
この会話がいいという思う人もいるかもしれない。
しかし、パターンとしては、
全編を会話でとおすか、
平文で通すか、
この書のように会話を織り交ぜるか
のどれかにしかならない。
この会話では、質問を投げかけている構成だが、
結構重要な質問である。
本文がくだけた文章としているので、
本文で十分容易さが伝わっている。
非常にわかりやすかった。
こういう本は重要であろう。
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18(96) 哲学者かく笑えり: 2003.03.01

土屋賢二著「哲学者かく笑えり」
(ISBN4-06-273321-8 C0195)
を読んだ。

現在、イギリスの大学について興味があるので読んでみた。
本書の中に、「滞英往復書簡録」があったからだ。
独特のユーモアのエッセイであった。
今、このようなエッセイを読む余裕がない。
ただし、面白いことは面白い。
文庫本を2冊注文したが、もう一冊はいつ読めるかわからない。
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2月 

17(95) 五〇代、大学で教養する: 2003.02.28

清水三喜雄著「五〇代、大学で教養する」
を斜め読みした。

私が在籍する大学に50歳になって
社会人入学をしたひとが書いた本である。
道庁を50歳で退職して、大学にきたのである。
共感を覚えるものがある。
なぜうちの大学を選んだかは不明である。
しかし、教養をしたいということはよく理解できた。
そして、大学の講義や試験を最大限に利用して、
教養を広げている感じがした。
では、この教養をどうするのだろうか。
あるいはどう発展させるのだろうか。
その点が気になるのだが、
それは、成果をもとめるのは性急すぎるのだろうか。
教養とはそんなものではないのだろうか。
では、なぜ、50台で、仕事をやめてまで、
まるで隠遁をするかのようにしてまで、
教養に執着するのだろうか。
私も、旧制高校時代の教養人にあこがれる。
そして隠遁者のような教養人にもあこがれる。
しかし、それは、望んでも詮無きことである。
現在の自分のおかれた立場で、
できる限り高みを目指して 教養人になること。
その方が価値があるのではないだろうか。
あるいは、それが現在の教養人の
あり方ではないのだろうか。
隠遁者のような教養人は、
現代社会でどう振舞えばいいのだろうか。
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16(94) 科学と科学教育の源流: 2003.02.27

板倉聖宜著「科学と科学教育の源流」
(ISBN4-7735-0146-4 C0040)
を読んだ。

今まで読んだ板倉氏の著書の中では、
「磁石の話」 とこれがおもしろかった。
近代科学の源流をイギリスの科学者の歴史から探る
という視点は面白かった。
これは、多分自分が現在、
イギリスの科学史に興味を持っているからだろう。
しかし、私は、やはり科学史を研究するタイプではない
ことがよくわかってきた。
しかし、化学の歴史から発想や教訓を
得ることは大いにありえることだとも思った。

「科学というのは、その研究活動の性格そのものからして、
教育活動と不可分に結びついている」

「「世界の学者たちに読んでもらうことよりも、
自分のまわりにい実験哲学愛好者たちに理解してほしい」
と思って、自分の本を自国語で書くことにしたのです。」

「科学者たちの学会でも、集まりが悪くなれば、
科学の楽しい伝統に立ち返って、楽しい実験を見せながら
科学の話を楽しむ会を企画する。
王認学会がそうやって楽しい科学を
守ろうとした故事に習えば、
私たちも楽しい科学の授業を
実現できるようになるに違いない」

「問題は解くことよりも、明確に問題提起をすることのほうに
大きな創造性を必要とする」

「彼(ニュートン)の力学の数学的諸原理から、
<他のすべての自然現象が解明されるのではないか>
というのです。」

「科学は天才が支えるものではなく て、
社会が支えるものである」

「ガリレオは、大多数の人々が
いまなお<自明だ>と考えているその法則の誤りを
指摘して近代力学の基礎を築くことになったのだ」

「自然の法則の中には、そのまま観察さえすれば容易に
その法則がわかるものもあります。
しかし、多くのびとが長いあいだ
考え違いをするような事柄は、
そのまま実験したからといって、
その法則を発見しうるものではありません。」

「「遺伝的には、どんなに優れた資質をもっていても、
活躍の場を得なければ、その資質が開花しない」
とも言えるし、
「活気のある時代には、そんな資質の有無は
大した問題ではない」
ともいえるのです。」

「すぐれた科学者というのは視野が広くて、
多方面に関心をもち、豊かな物質観・自然観・科学観を
持っていたから、多方面の分野で
創造的な仕事ができたのだ」

「「法則」というものは、実験によってその真偽が
決められるものだが、
「原理」というものは、個々の実験には関係なく
「疑い得ない真理」と見されるものだ、ということです。」
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15(93) ぼくらはガリレオ: 2003.02.20

板倉聖宣著「ぼくらはガリレオ」
(岩波科学の本4)
を読んだ。

板倉氏の書かれるの本にしては、
面白くなく感じた。
また、 私が読んだいくつかの子供向けの本としては
それほど面白い部類に入らなかった。
また、板倉氏が事実に基づき、
忠実に話や実験を構成している。
でも、面白くないのだが。
それは、多分、実験を中心としているからだ。
実験とは、自分ですること、自分で考えることが
楽しいはずだ。
それを実践しているのが仮説実験授業のはずだ。
それを本にすると必ずしも面白くない。
これは、いいことを示してくれた。
これは大いに示唆に富んでいる。
一種の反面教師としていい 。
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14(92) ヨーロッパ科学史の旅: 2003.02.18

高野義郎著「ヨーロッパ科学史の旅」
(ISBN44-14-003036-4 C1322)
を斜め読みした。

今度イギリスにいくので、
そのとき訪ねることができるところがあれば、
行こうと考えている。
そのためにイギリスのところだけ読んだ。
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13(91) 新哲学入門: 2003.02.18

板倉聖宣著「新哲学入門」
(ISBN4−7735−0099−9 C0330)
を読んだ。
仮説実験という考えを自分の哲学として
わかりやすく解いた本であった。
内容的には、示唆に富んだ本であった。
しかし、わかりやすく書きすぎて、
深みがないように感じた。

「英国では、
「自然現象の中でもっとも自然観に関わるような
理論的に興味のある事柄を扱う学問」が
<natural phyolosophy>と呼ばれたのです。
だから、同じ自然科学でも、
科学や生物学や地質学など、
事実の記述が中心だった学問は
<natural phyolosophy>と呼ばれることは
ありませんでした。 」

「流行の後を追う生きからがいやなら、
大科学者の生きかたを真似したほうがいいと思うのです。」

「「必ずしも実験的手続きを経ずに、
すべての問題に答える学問」
−それは哲学の特徴でした。
哲学の魅力はそこにあったのですが、
また、その弱点もそこにあったのことを
忘れることはできません。」

「実験の本質は、自然であれ社会であれ、
対象に対する 正しい認識を得るために、
対象に対して、予想・仮説をもって目的意識的に
問いかけることにある」

「いつしか「エクスペリメント(experiment)=試験」と
「実験道具の操作法(manipulation)=実験」とが
混同されてしまった。」

「自然や社会の認識をふかめるためには、
自分自身が行動を起こすことが重要なのではなく、
結果がわかる以前に、自分たちの予想・仮説を
はっきり提起しておくことが決定的に大切なのだ」

「「実験と実践の違い」は、
「実験」は、「審理が確定していないからうあるもの」
であるのに対して、
「実践」は、「ほぼ間違いのない真理として確信している
理論に基づいてやるもの」という違いがあります。」

「実験は真理の基準ですから、
「実験が間違う」などということはあるはずがないのです。
間違えるのは、人々の予想か理論か、
実験操作だけなのです。」

「いくらたくさんの経験的事実を集めた理論でも、
それは<もっともらいしい解釈>つまり<仮説>に過ぎない。」

「一見馬鹿らしそうに見える理論も<ひとつの仮説>として、
今後の経験=実験によって確かめて見なければならない。」

「科学者たちは、「いくつかの仮説のうち、
どれが<すでに知られている事実に
もっともそうに説明したか>ではなく、
どの理論が<これまで知られていなかった事実>
とよく合うか」によって真理かどうか
判定しなければならない、
ということに気づいたのです。」

「経験事実というのは、
「いろいろな事実や空想をもとにして仮説を立てるときに
<すでに知られているいる事実>」を言い、
実験事実というのは、
「その仮説の正しさを検証するための行為の結果
初めて知られた事実のことで、仮説を立てた段階では
<まだ知られていない事実>」のことをいう、
と整理して考えるのです。」

「新しい理論はそれが革命的なものであればあるほど、
その承認の前に多くの抵抗があるのがふつうです。
いや、多くの抵抗がある発見こそが「革命的な理論」と
いえるのかも知れません。
理論の中ではどんなに重要なことでも、
はじめからすんなり認められたよなものは、
革命的な理論とはみなされないのです。」

「現実の生きた科学は党派的で階級性を帯びていることも
少なくありません。しかし、科学上の真理は
実験のみによって決まるので、
党派的・か危急的には決まらないものです。」

「科学はいつも最終的な真理を実験によって決めたいと
願っていても、実際にはなかなか
党派性や階級性を脱しえない」

「「物事を哲学的に考える」というのは、一口に言うと、
「ものごとを根底から考え直すことだ」
ということができます。」

「科学は、すてに解決できたことだけについてにしか
教えてくれませんが、<森羅万象の学>であるところの
哲学は、「百パーセント確か」ということを
教えてくれない代わりに、どんな難問でも、
解決するための考え方だけは提供してくれるのです。」

「「自由に考える」とは、「新しい原理に囚われて考える」こと」

「ある考えに行き詰ったら、
もっと普遍的な原理にもどって考える」
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12(90) 白亜紀に夜が来る: 2003.02.10

ジェームズ・ローレンス・パウエル著
「白亜紀に夜が来る」
(ISBN4-7917-5907-9 C1040)
を読んだ。

この本はよかった。
永久保存版だ。
地質学者が地質学のパラダイム転換にまとめるとすると
このようなやり方が必要である。
以前はやれたかもしれないが、
いまは、体力気力がない。
ネタとしては、私も2つほど思いつく。
しかし、それをおこなうには、大量の文献収集と
その読破が必要である。
今での状況では不可能である。
私の進む道がまだ混沌としている。
一時は、パウエルのところの留学研究を考えたが
少し違うようで判断できない。
しかし、この本は、地質学レヴューの見本のようだ。
よかった。
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11(89) 天才数学者たちが挑んだ最大の難問: 2003.02.10

アミール・D・アグセル著
「天才数学者たちが挑んだ最大の難問」
(ISBN4-15-208224-0 C0041)
を読んだ。

短いからあっという間に読めた。
しかし、数学の歴史が述べられている。
ドキュメンタリーとしては、
サイモン・シン著「フェルマーの最終定理」
の方が面白かった。
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10(88) 天才は冬に生まれる: 2003.02.09

中田力著「天才は冬に生まれる」
(ISBN4-334-03171-4 C0240)
を読んだ。

細切れを集めたような本だ。
著者としては、日本語の本がこれで3冊目だが、
だんだん質が低下している。
残念なことだ。
中田氏は一線級の研究者なのだから、多作する必要はない。
いいものをじっくりと書いてほしい。

コペルニクスは、・・・それまで
「世の常識に反することは正しくない」とされたいたことが、
「常識に外れても正しいことは正しい」
という概念を生み出したのである。

哲学とは「哲学すること」、つまりは、
正確な論理過程を持った思考を意味し、
科学とはその論理過程の普遍化を求めて行われる
「現象の数学化」である。
ともに、「過程」の正確さを求めたものであり、
結果は必然的に生まれる。
論理の過程が正しければ、
与えられた条件に従った「正解」が出る。

科学的真実が世の常識として認められるまでには、
心有る科学者の絶え間ない努力と、
地道な教育とが不可欠なのである。

科学的記載が総て真実であるとは限らず、
飽くまでもその時点で真実と思われるものの記載であることも、
忘れてはならない。

アイシンシュタインが人類に残してくれた最大の業績は、
「時」が個々のものであり、
決して総ての実存に共有されたものでないことを、
教えてくれたことである。

「数学が単純なものであることを信じないとすれば、
それは、人生がいかに複雑なものであるかに
気づいてないからに違いない」
ノイマンの残した言葉である。
"If people do not belive that mathematics is simple,
it is ony because they do not realize
how complicated life is."

人の心を打つ芸術家は、その分野の人であれ、
皆、優しい心を持った哲学者である。
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9(87)●はじめての仮説実験授業: 2003.02.08

板倉聖宣編「はじめての仮説実験授業」
(国土社、1974)
を読んだ。

最近、科学教育の手法として
仮説実験授業という方法に興味がある。
これは、まず、子供たちが、この手法に非常に興味を持ち、さして最終的に科学に興味を持つということが、
いちばんの魅了である。
さらに、理論があるということもある。

関連の文献が大量にある。
しかも、この中心人物が板倉聖宣という個人が
作り上げたことがすごい。
しかも、板倉氏は国立教育研究所という、
文部省の組織にありながら、
あたらしい教育法を目指すという、
一種の謀反のようなことをおこないながら、
この方法論を広めたという強みがある。
現在、板倉さんに接触中である。
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8(86) 科学者の熱い心: 2003.02.03

スイズ・ウォルパート、アリスン・リチャーズ著
「科学者の熱い心」
(ISBN4-06-2572574-5 C0240)
を斜め読みした。

23名の有名な科学者の
インタビューで構成されている。
もしかしたら、自分の新しく始めようとしている
師となる人がいないかと思ったのだが、
いなかった。
しかし、ここに掲載されている人は、
ほとんどリタイヤした人ばかりで、
若い人が少なかった。
それが残念だ。
現役の研究者のインタビューが欲しかった。
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1月 
7(85) 科学の大発見はなぜ生まれたか: 2003.01.29

ヨセフ・アガシ著「科学の大発見はなぜ生まれたか」
(ISBN4-06-257395-4 C0240)
を読んだ。

1週間ほど前に読んだのだが、
記入している暇がなかった。
8歳の子供も向けに書かれた、
科学哲学の本で、
なかなか面白本だが、
翻訳と内容に問題があった。

翻訳は、学生が講義でやったものを使っている。
そのせいか、子供向けなのむつかしい表現は、
いかにも直訳的な部分があって、
読みづらかった。
内容については、もっとわかりやすく書くべきである。
いい太古とがなんとなくわかるのだが、
これで、8歳の子供がわかったとは思えない。
したがって、この本は脚色しすぎである。
そうなら、大人向けのわかりやすい本を書くべできあろう。
これが、いい内容なの残念な点だ。

いかなる科学的成功も、
それが教育を受けた一般の人々に
届かない限り、 全面的なものとはなりません。
残念なことに、 ほとんどの専門家は、
ポップ・サイエンスのほうが、
それを模倣する完全な構造を持つ
科学以上に大きな利点を持っていることに気づきません。

科学の活動は、
問題およびその解決の試みからなる
果てしない対話であり、
相した解決の試みは、不明瞭だとか、
満足のいくものでないだとか、
あるいは偽であるとして、
批判されていくのである。

ただ科学者であるというだけで、
科学者をしんじてしまうのはとても非科学的なことだ。

ルネサンス科学やコペルニクス革命の中で
もっとも重要な発見はおろらく、
ギリシャ人がすべて同じ意見をもっていたわけではない
ということだろう。

「われわれが正しいのかまちがているのはか関係ない。
もし、われわれに話をきいてほしいならば、
あなたの正しさをわれわれに
証明してみせなければならない」

ガリレオをケプラーは一つののことで一致していた。
まちがいはどんなに小さくても、重大問題だと。

この実験の重要な点は、
実際にそれを実行することではなく、
その実験が明晰に考える手助けをしてくれることにある。

ベーコンは、次のようなやり方のほうが
ずっと安全だと主張した。
それは、考えることをまったくせずに、・・・・
より多くの事実を探すことから始めるやり方である。
十分な事実を得れれば、われわれは正しくなれるだろう。

ベーコンは・・・・
まずなすべきことは、
あらゆる迷信を忘れ去ることである。
次に、人々はできるかぎり多くの事実、
観察と理解が十分にできる単純で明晰な事実
を集めるべきである。

ガリレオとベーコン・・・・
迷信は時には正しいこともありうるが、
ふつうはまちがっており、
他方、科学はつねに正しいと、
二人は信じていた。
これが、二人のまちがっていた点だ。
彼らは、科学者はまちがいをおかさないと考えていたが、
それが大きなまちがいであった。

学校で教わったことsにしたがう人々は、
伝統主義者(traditionalist)とよばれる。・・・・
まったく新たに出発し、自分自身で考えようとする人々は、
根本主義者(radicalist)とよばれる。

ベーコンは科学者たちに、
だれでも理解できるような事実、
より多くの事実、単純な事実を注意深く提供するように、
警告した。
そうすれば、それらの事実から真なる理論が
現れたときには、みんながそれを信じるだろう。
そこようにすれば、科学者たちのあいだの口論や
意見の不一致は避けることができ、
科学はまちがいから免れるようになるだろう。

人々はデカルトの主知主義、
すなわち、われわれが何を信じればよいのかを
自分の精神に語らせるべきだというかれの考えを放棄し、
その代わりとして、ニュートンやベーコンにしたがった。
科学者は観察に観察を重ねるべきだ、
とかれらは主張した。

ニュートンの理論では、重力は遠くはなれたところに
作用する(遠隔作用)。
アインシュタインは、これはまったっく正しくなく、
重力は物体から外に向かって光速で進み
直接作用するのだ(遠隔作用)、と主張した。

ポアンカレは、仮説の中には危険なものがあると言った。
「とりわけ危険なものは、
暗黙で無意識のものである。
われわれは知らず知らずのうちに
それをもちいているので、
それから免れることはできない」と。

ファラデーは、エールステッドの数少ない追従者の一人で、
大きな自己不信に陥った。
「全世界を相手に戦っている私はだれなのか」
とファラデーは自問した。

ファラデーは、科学は信念の問題ではなく、
批判的吟味・検討の問題だと感じていた。

ファラデーの時代以降、科学の進歩を望むならば、
子供たちにどのようにしたら科学的になれるのかとか、
開かれた精神をもつことができるようになれるのかを
教えなければならない、
と多く人が気づくようになったからである。
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6(84) カシミール3D GPS応用編: 2003.01.29

杉本智彦著「カシミール3D GPS応用編」
(ISBN4-408-00777-3 C2026)
を斜め読みした。

GPSを中心に書かれた本で、
将来GPSを使うようになったら必要だろうが、
今はいらない。
この本をかったのは、
西日本の5万地形図が収録されているからだ。
これで、東北地方を除く、
5万地形が使えるようになった。
今まではインターネット経由だったので、
まどろっこしかったが、
これで少しは砂データベースの
使用環境が改善されるであろう。
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5(83) ダ・ヴィンチの二枚貝上: 2003.01.18

S. J. グールド著「ダ・ヴィンチの二枚貝上」
(ISBN4-15-208396-4 C0045)
を、やっと読み終えた。

やはり、グールドはすごい。

私は、根っからのヒューマニスト(人文主義者)であり、
何をさておいても、芸術と自然の微妙にして
知的な結びつきを愛している。
この結びつきは、どちらか一方が勝ってもいけない。
すばらしく多様な世界に生きているわれわれは、
ほとんど100パーセントに近い大自然から
ほとんど100パーセントに近い人工物までもが
醸し出す相互作用の全容を必要としている。

歴史上の大思想家たちが書き残した原典にあたると、
無限とも思えるほど新しいアイデアや発見が
たくさん得られるというものである。

ここに収めたすべてのエッセイは、
モンテーニュ以来の伝統として
エッセイというジャンルをもっともよく定義する
貴重なパラドックスを土台としてる。
良質なエッセイの根幹をなす
身近で正確な細事を持ってして、
それ自体としてのおもしろさを醸し出せると同時に、
もっと視野の広い一般性へと脱線するための
踏み台として機能せしむるというしだいである。

一篇のエッセイを成り立たせるほどの一般性をそなえた
統一的な枠組みに細事を昇格させるにあたっては、
自分が基本的に四つの戦略を採用してることに気づいた。
一、場合によっては、原典を調べまくることで、
新発見が得られる。
・・・・・・
二、たいていの場合、私が報告する観察は
決して未発表のものというわけではないのだが、
あまりおなじみでない話
(よく知られている話の場合もある)を、
これまで関係があるとは見られていなかった
別の話題と対置させることで目新しい文脈のなかに
位置づけることを心がけている。
・・・・・・・・

三、異質な細事を合体させることで、
私の第二のカテゴリーが機能するようなら、
第三の戦略は細心の発掘作業によって遂行される。
合体による解説ではなく、
掘り下げによる解説を目指すのだ。
・・・・・・・・
四、エッセイへの「昇格」は、
細事を報告するに値する一般的テーマへと
統合できるかどうかしだいである。
しかし、場合によって、細事それ自体がその独自の
価値によって単独で取り上げられるほど
魅力的に仕立てられる。

二つを対置させるというやり方が、
人間の精神活動の一般的なあり方
なのかもしれない。

「観察が何かの役に立つとしたらm
それはある見解を裏付けるか否定するかだということが、
どうしてわかってもらえないのでしょうか」。
これはこれまで何度もエッセイで引用している
ダーウィンの言葉である。

われら無知蒙昧の哀れな種族は、
自我を意識して哲学と芸術にふけるという、
進化史上他に類を見ない発明をもてあそぶことになった
最初の生物であるが、
その歩みはじつにのろい、
考え方や描写法としては
もっとも「明白」で「自然」な様式でさえ、
歴史の束縛を受けねばならず、
それを打ち破るのは並大抵のことでhないのだ。
そういうわけで、社会的な文脈からはずれた
解決策が浮上することはなく、
出てくる解決策は、
人間が向上する可能性を規定する、
心と環境の複雑な相互作用を反映したものとなる。

すべての人間は単一のもろい種に属している。
それは一つの生物的単位なのに、
誰の心にもある邪悪極まりない情動により、
細かすぎるくらいに区分されている。

ダーウィンは、デーナに・・・・・
1863年2月20日に返事を書いた。
・・・・・「地質学の記録が
これほどに不完全なものでなければ、
私もそう考えるところです。」

ハクスリーの行動をみたマーシュの言葉
「彼は、まさに偉大な人物の寛大さを発揮し、
はじめて目にした真実を前にして時節を捨て、
私の結論を採用した。」

科学における事実と理論の関係と、
理由は間違っているけれど
答えは正しいという現象である。
理論と事実は同じくらい強力で、
完全に相互依存の関係にある。

理論とは、外部の複雑な暗示に助長されることで
生じる心的構造物である
(理想的な場合は、経験的な実態からの
要請によって生じることもある)。
しかしその暗示は、夢だったり気まぐれだったり
勘違いだったりすることもしばしばである。

ダーウィンの言葉。
「誤った事実は科学の進展にとってきわめて有害である。
往々にして、長く生きながらえるからだ。
しかし誤った見解は、
裏づけとなる証拠があるにしても、
ほとんど害をなさない。
それは、その虚偽を暴くことに、
誰もが有益な喜びを感じるからである」

この構造主義は、
自然の実態を記録している部分も多いが、
大半は脳の基本的な作用様式を反映した
二項対立に基づいて、
時間を変えて統合されたテーマを探し求める。

知られている最初の旧石器時代のアーティストと
自分たちはいささかもちがわない同胞であることに
大いなる満足を覚えようではないか。

私にとって流用の原理はきわめてたいせつなものであり、
些末な事実から大きな一般性を引き出すのが
本エッセイシリーズのトレードマークではある

「ミッシング・リンク」という色あせた決まり文句は、
直線的な進化を前提とした概念である。
・・・・・
それに対して進化の潅木とという見方には、
化石記録が貧弱なせいで空隙とはやふやさだらけ
という点あるにしても、
潅木にただの一つの決定的な「ミッシング・リンク」
というものはありえない。

「斉一主義」というものは複数の意味を含む
複雑な語であり、
そのなかには正当な意味もあるが、
偽りかもしれない意味とものの考え方に対する
制約も含んでいる。
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4(82) 「無限」に魅入られた天才数学者たち: 2003.01.13

アミール・D・アクセル著
「「無限」に魅入られた天才数学者たち」
(ISBN4-15-208402-2 C0041)
を読んだ。

アクセルは統計学の研究者である。
無限の面白さを感じ、
無限にとりつかれた数学者であるカントール
を中心に語られている。
本書を通じて、ゲーデルの不完全性定理の意義が
はじめてわかった。
すごいのは、大学の教員でありなが、
このような本を書いているということである。
数学への造詣は深いので、
数学の、それも連続体仮説の研究者か、
かつてそれを専門に研究した
サイエンスライターが、書いたものだ思ったが、
統計学の専門家だった。
アメリカの知識人の実力のすごさを知らされた。

「一と多の問題」は、
「複数の対象がひとつのものである
とはどういうことか?
個々の対象すべてを含む
ひとつの集合を考えることはできるのか?」

極限操作によって得られる可能無限だ
ということを発見したのガリレオである。

代数学は、整数や有理数など、
数えたり、表にしたりできる
”離散的”なものを対象にする。
それに対して解析学は、
関数や、数と数との距離、無理数などの
”連続的”なものを対象とする。

集合論というものは、実はその性質上、
不可避的にパラドックスを抱えた
理論なのである。

デカルトは幾何学のなかに
代数学を持ち込むことに成功し、
幾何学的な図形を数によって
表せることに気づいたのだ。

無限に関する限り、
次元というものには意味がない。
連続空間なら何であれ、
連続体と同じだけの点をもつ。
不加算無限の点をもつのである。

カントールが「我見るも、我信ぜず」と書いたのは、
このときのことである。

数学と哲学は自由であるべきであり、
アイディアの導くところ、
どこにでも自由に向かわなくてなならない
というのがカントールの信念だった。

カントールは、言葉では表現不可能な絶対者
という無限を唯一の例外として、
それ以外の無限を”超越数”、
すなわち「有限を超えた数」と呼ぶことにした。

集合の基数とは、
その集合に含まれる要素を計るものである。
有限集合の場合であれば、
基数はその集合に含まれる要素の
個数に他ならない。

カントールは、自分の見出した無限
−超限基数−に、
ヘブライ文字を使ってアレフと
名づけることにしたのである。

カントールは高い階層の無限に対応する
アレフの系列が存在する
ということ仮定を立てた。

クレタ人エピメニデスの作とされるパラドックスがある。
「私は嘘をついている」。

ワニのジレンマ

ラッセルのパラドックス
「セヴィリアの理髪師」
「グレリングのパラドックス」

ゲーデルはその哲学的資質を発揮して、
本質的な問いかけをするようになっていた。
証明とは何か?

証明と真実とは同じことか?
真である事柄は、常に証明可能なのか?
有限な系は、その系を超えたものに対して
証明を与えうるか?

彼が導いた結論は、
「任意の系が与えられたとき、
その系の内部では証明できない命題が
常に存在する」
というものだ。
つまり、ある命題がたとえ真であったとしても、
それを証明できるとは限らないということだ。
これが、有名なゲーデルの不完全性定理の
エッセンスである。

最大のマトリューシュカというべき全体集合は
存在しないことをかんがえるなら、
そして、決して到達できない絶対者に
思いを致すなら、
ゲーデルの不完全性定理も理解できる
気がするので刃にだろうか。
それは、今いる系の外側にあるもの、
与えられた系より大きなものが常に存在する
という主張なのだから。

与えれた系の内部にいたでは
捉えられない概念や性質が存在し、
それらを理解するためには、
より高いレベルに移らなければならない。
一方、カントールが示したように、
最高のレベルというものは存在しないのだから、
いかなる系の内部にも、
把握できないアイデアや性質が
必ず存在することになる。

数は実在するのだろうか?
連続体は実在するのか?
カントールはその答えが
二つともイエスであると信じていた。

ハレの住宅地区に、
ゲオルク・カントールのブロンズ銘板があり、
一文が刻まれている。
数学の本質は、その自由性にある
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3(81) 脳の方程式 ぷらす・あるふぁ: 2003.01.11

中田力著「脳の方程式 ぷらす・あるふぁ」
(ISBN4−314−00923−3 C0040)
を読んだ。
感動した前著「脳の方程式 いち・たす・いち」
の続編である。
前著に比べて、専門的過ぎる部分が多く、
理解しづらいところがいくつかあった。
しかし、面白かった。

「意思を持つということは、
脳の規格が画一化されていないことを意味する。」

「自然界には「全能の神」は存在せず、
目的を持ったデザインは作れない。
(中略)
母なる自然はその偉業を、
二つの基本的技術を駆使することによって達成している。
(1)恒常状態、と
(2)形態
である。
つまり、母なる自然は、
特定環境を驚くべき正確さで保つことと、
機能のための特異的な形態を形成すること、
すべてを成し遂げているのである。」

「DNAには「何を作るか」は書かれておらず、
「どのようにして作るのかの法則」が
書かれているのである。」

「簡単に言ってしまえは、
脳とはどのようにでも使えるのである。」

「その人は、その機能を他の人よりも早く覚え、
かつ、早くこなす。
人はそれを才能と呼ぶ。
(中略)
しばらく同じようなことを繰り返しているうちに、
脳の情報処理の仕方に個体差が生まれる。
人はこれを個性と呼ぶ。」

「ヒトは二足歩行を始めたことで岩後を獲得し、
鳥類は飛行を始めたことで、音楽を獲得した。」

「情報である。
ヒトの運動能力の成熟には
情報の存在が必須なのである。」
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2(80) 現代倫理学入門: 2003.01.11

1月8日に神について書いたし、
環境問題について何度か書いた。
このようなことをを考える学問として、
倫理学がある。
そして、現代の倫理に役に立つ教科書として、
ミルの「自由論」がある。
見るの倫理は、
「判断力のある大人なら、
自分の生命、身体、財産などあらゆる、
<自分もの>にかんして、
他人に危害を及ぼさない限り、
たとえその決定が当人にとって不利益なことでも、
自己決定の権限をもつ」
というものである。
問題が発生したときのために、
可決策を用意ておくことを、
倫理学では、決疑論(casuistry)という。
神に関しては個人的決疑論であり、
環境については社会的決疑論といえる。

社会的決疑論としては、
・人を助ける嘘は許されるか
・10人ために1人を犠牲にできるか
・1人分の薬を10人の誰に患者に渡すか
・正直者が損をしないようにするには
・他人へ迷惑をかけなければ何をしてもよいか
・貧しい人を助けるのは豊かな人の義務か
・現在の人間は未来の人間への義務があるのか
・正義は時代によって変わるのか
・科学に限界があるのか
がある。
また、個人的決疑論としては、
・エゴイズムはすべて道徳に反するか
・幸福の計算法
・判断能力の判断
また、このような決疑論に答えを出す考え方にも
決疑論を用意しておく必要がある。
メタ決疑論というべきものである。
・「〜である」から「〜べきである」を導けるか
・正義の原理はどうして決めるか
・思いやりが道徳の原理か
などがある。
このような考え方の指針を与えれくれる本として、
加藤尚武著「現代倫理学入門」
(ISBN4-06-159267 C0112)
である。
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1 (79) ブッダ: 2003.01.01

手塚治虫著「ブッダ」
(ISBN4-267-01301-2 C-179): 2002.12.15
(ISBN4-267-01302-0 C-179): 2002.12.15
(ISBN4-267-01303-9 C-179): 2002.12.16
(ISBN4-267-01304-7 C-179): 2002.12.17
(ISBN4-267-01305-5 C-179): 2002.12.17
(ISBN4-267-01306-3 C-179): 2002.12.19
(ISBN4-267-01307-7 C-179): 2002.12.21
(ISBN4-267-01308-X C-179): 2002.12.22
(ISBN4-267-01309-8 C-179): 2002.12.29
(ISBN4-267-01310-1 C-179): 2002.12.30
(ISBN4-267-01311-X C-179): 2002.12.31
(ISBN4-267-01312-8 C-179): 2003.01.01
を読んだ。

半月かけて読んだことになる。
一冊読むのに1時間弱ほどかかる。
だから全12巻読むのに、
10時間弱必要となる。
漫画であるから、いつでも、
気軽に読めるから、
自宅でのあき時間を
この漫画の読書に使った。
その結果が、10時間を作り出すのに
半月必要であったということである。
時間とは、貴重である。
そして、こつこつとした積み重ねが必要で、
そして有効であることを
いまさらながら気づかされた。

さて、肝心の内容であるが、
前半は面白く読んだのだが、
後半があまり面白くなかった。
なぜかはわからない。
聖人というものを表現する難しさだろうか。
それとも、万人に適応できる
聖人像はどないからであろうか。
しかし、これまでつづいた
手塚治虫とのつきあいもやっと終わった。
長い付き合いだったが、堪能した。
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