読書日記 (2002年2002年6月〜9月)

2002年に読んだものをすべて、
「思いつくまま」に入力するようにした。
ここでは、それをまとめした。

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目次 

9月 
50 アインシュタインをトランクに乗せて: 2002.09.21
49 脳の方程式 いち・たす・いち: 2002.09.16
48 海馬: 2002.09.16
47 はじめまして数学 3: 2002.09.16
46 大学で何を学ぶか: 2002.09.16
45 ロゼッタストーン解読: 2002.09.07

8月 
44 はじめまして数学 2: 2002.08.27
43 暦と数の話: 2002.08.26
42 はじめまして数学 I: 2002.08.23
41 古風堂々数学者: 2002.08.15
40 干し草の中の恐竜 下: 2002.08.14
39 カシミール3D入門: 2002.08.14
38 プロも知らない「新築」のコワサ教えます: 2002.08.11

7月 
37 手塚治虫: 2002.07.29
36 パイドン: 2002.07.21
35 はじめての構造主義: 2002.07.17
34 ソクラテスの弁明・クリトン: 2002.07.15
33 方法序説: 2002.07.14
32 虚数の情緒: 2002.07.0

6月 
31 哲学の教科書: 2002.06.27
30 はじめての哲学史講義: 2002.06.11
29 構造主義科学論の冒険: 2002.06.03


9月 
50 アインシュタインをトランクに乗せて: 2002.09.21

マイケル・パタニティ著「アインシュタインをトランクに乗せて」
(ISBN4-7879-1885-9 C0097)
を読んだ。

実話だが、小説のような不思議な本であった。
1955年4月18日、アルバート・アインシュタインは、
アメリカ、プリンストン病院で息を引き取った。
遺体の解剖を担当したのは
プリンストン大学のトマス・ハーヴェイであった。
ハーヴェイは、アインシュタインの脳をホルマリン漬けにして、
40年近く自宅に保存していた。
世間の非難を受けたが、研究目的としていたが、
彼自身は研究しなかった。
脳を何人かの研究者に分配はした。
そして、40年後、彼は脳を遺族である
アインシュタインの孫娘エヴァリンに返すために
アメリカの東から西に移動することになった。
その道中をドライバーとして同行したのが著者である。
状況が面白すぎる。
でも、あとは書く側の力量の問題であろう。
私は、あまり好まない書き方であった。

アインシュタインの死ぬ少し前の言葉。
「この世界での仕事は終わった」

友人ミケーレ・ベッソを失ったときのアインシュタインの言葉。
「彼は私よりひと足早く、この奇妙な世界に別れを告げた。
だがそんなことは、全く無意味だ。
我々確信に満ちた物理学者にとって、
過去、現在、未来の境目など、
しつこい幻影くらいのものでしかない」

アインシュタインの言葉。
「宗教のない科学は不具であり、科学を伴わない宗教は盲目だ」

アインシュタインの雑誌編集者への手紙。
「私の平和主義は本能的な感覚です。
人殺しは忌まわしいことであるがゆえに、
平和を望む感覚が私をとらえて離さないのです。
私のこうした姿勢は、理論か導きだされたものではなく、
あらゆる残虐と憎しみに対する
私の深い反感を下敷きにしているのです」

アインシュタインの1953年、ベルギー皇太后への手紙。
「齢を重ねてはじめて感じるのは、
自分がいまいる時間や場所へのはっきりとし手ごたえが、
少しずつ失われていくことです」
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49 脳の方程式 いち・たす・いち: 2002.09.16

中田力著「脳の方程式 いち・たす・いち」
(ISBN4-314-00900-4 C0040)
を読んだ。
非常に面白かった。
永久保存である。

「熱力学第二法則とは、
「放って置くと、
物事はすべて確率の高い状態に向かって進んでゆく」
という万物の基本原則
(中略)
これはまた、われわれの存在する宇宙が、
ある操作を何度も何度も繰り返しながら
存在する系であることを意味している」

「太陽のみが地球に富をもたらすエネルギーを
与えてくれる存在であり、
人間はその富を奪い合っているにすぎない」

「昼。太陽からの光が地球に到達する・
これは、エントロピーの低いエネルギーの獲得である。
夜。地球から、熱が宇宙に 逃げていく。
これは、エントロピーの高いエネルギーの放出である」

「地球に昼と夜が存在するからこそ、
人類は誕生したのである」

「シャノンは「ある系の持つ不秩序の程度をもって
その系の持つ情報量」と定めたのである。
これが、シャノンのエントロピーである。
情報革命が静かにその幕を開けた瞬間であった」

「何もしなければ時間とともに情報量が減少し、
内容が不確定なものへおt変化するのである」

「これは「目に見えるものがすぐに実体とは限らない」
という、21世紀の科学に共通した概念を示す良い例である。
そこには、脳がどう働くかも内在されている」

「科学界は数学界と法曹界との中間に位置する。
より基本数学に近い分野では、
数学同様に公理から順番に証明された事実を扱うこととなる 。
物理学などはそのよい例であある。
より法律に近い分野では法律に似通った手段を取る。
つまり、「憲法の制定」である。
医学はどちらかといえばこちらに近い」

「ヒトという種が他の哺乳類とは違った存在であるためには、
前頭前野の機能をを発揮しなければならないことである」

「フィネアル・ゲイジはこの「人間としての条件」が
どのようなものであると教えてくれたのだろうか?
「理性を持ち、感情を抑え、他人を敬い、
優しさを持った、責任感のある、
決断力に富んだ、思考能力を持つ哺乳類」である」

「人間は特別な教育を受けなくとも
自然と音声言語を獲得する。
サルは調音器官をもつがこの「言語獲得機能」を持たず、
歌を歌う鳥は調音器官も獲得能力も備えているが、
思考機能の発達が未熟なために高度な言語機能を持たない」

「一般的にいって、「母なる自然に逆らった人間の行為」は
悪い結果を招くことが多い」

「人間の叡智の集約は「人がどのように生きるべきか」
かに答えを出すべきための過程であり、
その最終目標は「人間の方程式」の完成ということができる」

「人類は量子哲学の感性をもって
その英知の集大成となすのである」

「「実存の科学をバックグランドに持たない哲学」と
「目標を与える哲学が欠如した物理学」とが
派生してくる結果をなった。
哲学が理論の学問である以上、
実存の資本理論たる物理学から離れることは許されない。
掃除に人間の叡智の最終目標が「人間の方程式」である以上、
哲学を忘れた物理学に意味をもたすことはできない」

「法律に憲法が存在するように、
科学にも憲法が存在する。
それは、母なる自然の基本法則である。
実在の物理学も脳の方程式も、
母なる自然の基本法則に違反する形では存在できない」

「「操作の反復性」は複雑系が複雑系であるための
重要な要素である」

「自然界に現れる形態のほとんどは自己形成により生まれてくる」

「ユニバーサリティとは「普遍性」と言う意味である。
「臨界点を示す系はすべてひとつの基礎理論で記述可能である」
というこの理論の基本概念を示すものとして名づけられた。
その最も重要な応用は「系の示す行動は、
系の微細単位 が示す行動の繰り返しである」
との記載である」

「脳理論は「すべての学問に精通した人たちだけに理解されること」
だけでは受け入れられない。
「すべての人に理解されること」を要求されている。
これが、進みすぎてしまった科学と人類の英知のが
最後に到達した学際性の条件でもある。
ある意味で、民主主義の結果でもある 」
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48 海馬: 2002.09.16

池谷祐二・糸井重里著「海馬」
(ISBN4-255-00154-5 C0095)
を読んだ。

これは、非常に勇気付けられる本であった。
それは、脳は一杯使っても大丈夫、
30歳過ぎても脳は成長するなどのと書かれているからである。

各章のまとめから
・新鮮な始点で世界をみることを意識すること
・脳の本質は、ものとものとをむすびつけること
・すっとパーをはずすと成長できる
・30歳過ぎてから頭はよくなる
・脳は疲れない
・脳は刺激がないことに耐えられない
・脳は見たいものしか見えない
・脳の成長は非常に早い
・海馬は増やせる
・旅は海馬を鍛える
・脳に逆らうことがクリエイティブ
・やり始めないと、やる気が出ない
・寝ることで記憶が整理される
・生命の危機が脳をはたらかせる
・センスは学べる
・予想以上に脳は伸びていく

「脳の能力とは、煎じ詰めれば情報の保存と情報の処理なんだ」

「脳が経験メモリーどうしの似た点を探すと、
「つながりの発見」が起こって、
急に爆発的に頭の働きがよくなっていく」

「脳の記憶の仕方にとって、
とっても大切な特色は「可塑性」のんです」

「海馬にとっていちばんの刺激になるのが、
まさに「空間の情報」のです」

「認識を豊富にしてネットワークを密にしていく」ということが
クリエイティブな仕事というものに近づいてくヒント」

「人生においてやりかけのことだけが募ってくると、
当然、誇りは生まれないだろうと思います。
誇りを生むには、
ちょっとでも完成したものを残しておく」
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47 はじめまして数学 3: 2002.09.16

吉田武著「はじめまして数学 3」
(ISBN4-344-00222-9 C0041)
を読んだ。

大分こなれてきた感じがする。
しかし、そのせいか、インパクトがだんだん少なくなってきた。
このような本は、何冊にも分けず
厚くても一冊にすべきなのだろう。
営利目的とは相反するかもしれないが、
学習するためには、
そのような決断も必要だろう。
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46 大学で何を学ぶか: 2002.09.16

加藤諦三著「大学で何を学ぶか」
(ISBN4-334-70132-9 C0137)
を読んだ。

昔読んだ本だ。
今は、この内容を、学生に教える立場だ。
さすがにいい言葉が、ちりばめられている。

「「泳げるようになるまでは水に入らない」という者は、
永久に泳げるようになれない」
まずは、やること。

「大学の時代は、与えられる時代ではなく、
獲得の時代だということを忘れてはいけない」

ケネディの言葉を引いている。
「アメリカの同胞諸君。
諸君の国が諸君のために何をなしうるかを問いたもうな。
諸君らが 国のために何をなしうるかを問いたまえ」
つまりは、大学で自分が何をするかを考えるべきである。

毛沢東の言葉。
「何かを成そうとする人間は、
金が無く、若くて、 かつ無名で無ければならない」
そして加藤氏はいう。
「もともと人生とは何もない。
人生を使って何をするか、
それによって、人生が大きくもなり、 小さくもなる。
もともと人生に意味があるわけでもなく、
無意味なわけでもない。
どう生かによって人生は無意味にもなるし、意味も持つ」

「すべての人は、自分の人生をただの一度も
あやまちをおかさないで生きて死ねるものではない」
「人間にできることはどこで立ち直るか、
それともさらに進路を歪めるかの選択だろう」
「人間の価値が問われるのそこなのだ。
創造性とか発想力とかを問題にする前に、
自分の心の中の反省を明日の生活に生かせるかどうか、
それができる人間こそ、価値あると思う」

「もし自分に価値があると思っているとしたら、
その、のぼせ上がった気持ちを素直に改め、
また、自分に価値がないと思っているならば、
その劣等感を捨てないかぎり、
そこか、ぎくしゃくした人生になるだろう」

「人間の価値観がかたよるということの恐ろしさを知ってほしい。
だからこそ、大学で、立ち止まって、
いままでとはちがった動機にもとづいて
行動してみることをすすめすのである 。
ほんとうの自分を見つけるために。」

「大学で学ぶうちにつかみとるものの一つとして、
僕は人生の正しい姿勢をあげておきたい。
自分は何をめざして生き、
どう生きていけば真の生き甲斐が得られるのか。
それを四年間問いつづけて行動しつづけてほしい」

ニーチェの言葉。
「ほとんどいかなる苦しみにも、
それに意味があれば耐えられる」
「よし!人生が無意味なら私はそれに一つの意味を与えよう。
自分の手で、生き甲斐ある人生を創ろう。
もう一度! と喜び迎えるような人生をつくろう」
加藤氏はいう
「自由とは自分にとって価値のあることに
自分をささげることができるということではないだろうか。
禁欲を学ぶこと、
それも自由への道であころことを知ってほしいのである」

「自ら最終的なものとして選択した結果にあやまりがあったら、
選択をしなおせばいいのである。
そのときははっきりと自分の失敗を認めて
選択し直す、ということである」

「見栄にふるまわされず、
かえってそれをふり捨てている人間は、
他人に対して点をかせきどうなどはほとんど思わず、
ただ自分の良心に対してだけ点をかせごうと思うものだ」

「必然性は教わることであるが、
可能性は学ぶことである」
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45 ロゼッタストーン解読: 2002.09.07
レスリー・アドキンズ、ロイ・アドキンズ著「ロゼッタストーン解読」
(ISBN4-10-541601-4 C0020)
を読む。
今回イギリスで見るつもりのロゼッタストーンに書かれた文字の
解読にまつわる話である。
フランス人のジャン=フランソワ・シャンポリオンが解き明かしたのであるが、
そのライバルたちからの誹謗、中傷、妨害にあいながらも、
病気と貧困に打ち勝って、
1822年、31歳のとき、ヒエログリフの解読に成功した。
彼の熱意、彼の努力、そして弱音、人間としてのシャンポリオンがわかった。
そして、彼のエジプト学に対する情熱も伝わった。

ロゼッタストーン発見の経緯は、以下のようであった。
1979年7月19日、エジプトに遠征していたナポレオンは、
上エジプトの古代遺跡の科学的研究と正確な記録のために、2つの委員会をつくった。
その日、ロゼッタの北西数kmで、荒れ果てたラシッド要塞を
フランス軍が補強をしているとき、
「崩れかけた壁を取こわしているとき、
ドプールという名の兵士が、片面に碑文のある暗緑色の石版を発見した。
作業を監督していたピエール・フランソワ・ザビエル・ブシャール中尉は、
これは何か重要なものにちがいないと考え、
上官のミッシェル=アンジュ・ランクルに報告した。
ランクルが調べたところ、
三つの異なった文字で記された三つの碑文があることがわかった。
その一つがギリシア語であることは彼にもわかった。
もうひとつはヒエログリフで、残りは未知の文字だった。
ギリシア語の碑文を訳すと、
紀元前二〇四から一八〇年までエジプトを支配した
プトレマイオス五世エピファネスをたたえる、
紀元前一九六年三月二十七日という日付のある、
神官の布告であることがわかった。
三つの碑文は同一の内容を三つの異なる文字で記したものであって、
ヒエログリフ解読の鍵になるものと思われた。」
ロゼッタストーンは、高さ1.2m、重さ750kg。
23年の歳月をかけて、解読の競争がおこなわれた。

ロゼッタストーンが大英博物館にあるのは、次のような経緯からである。
ナポレオンが急遽フランスに戻り、全権を委任されたクレベール将軍は、
「イギリス軍とエジプトからのフランス軍の撤兵について交渉し、
合意が成立し、協定が調印された。」
18ヶ月におよぶ交渉で、
「学者たちはすべての記録と大部分の収集品を持ち帰ってよいことになったが、
しかし、イギリス側は貴重なロゼッタストーンをはじめ
重要なものを没収した。」
「ロゼッタストーンは最終的に、
一八〇二年末、大英博物館に保管された」

「質素な家や宮殿は生きているあいだしか使わないが、
墓は『永遠の家』だった。」

「古代エジプト人の書記が
自分たちの言葉は永遠に消えないと確信していたように、
シャンポリオンは古代エジプト人の格言、
「未来に向けて語るべし、
それは必ず聞かれん」
を信じていたのである。」
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8月 

44 はじめまして数学 2: 2002.08.27

吉田武著
「はじめまして数学 2」
(ISBN4344-00139-7 C0041)
を読んだ。
「はじめまして数学 1」 と連続している。
総ルビの面白い本である。
この本の魅力は、挿絵にもあるのかもしれない。
絵は大高郁子さんが書かれている。
また、前著の「虚数の情緒」は、
「中学生からの全方位独学法」という副題があった。
今回のキャッチコピーは、
「大人には無理でも
子供には分かる」
「子供に帰れば大名も分かる!
家族で楽しい!」
であった。
いい本である。
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43 暦と数の話: 2002.08.26

スティーブン・ジェイ・グールド著
「暦と数の話 グールド教授の2000年問題」
(ISBN4-15-208195-3 C0045)
を読んだ。
この本は、グールドが暦の2000年問題に関して 述べたものだが、
なぜ関心を持ったのかが、よくわかった。
サヴァンで日付曜日計算家の次男ジェシィが
いたからかもしれない。
ちなみに次男のイーサンは、ジャズギターリストである。
この問題は、決着のつけようがないとしている。
しかし、この本には、暦を越えた何かが存在する。

この本の献辞は
「当代随一の情熱的合理主義者にして
今千年紀最高の科学の代弁者
わが友カール・セーガンのすてきな思い出に本書を捧げる」

「1980年代半ばに癌で死んでいくはずだったところを生還したとき、
私は、今の世で生きる数ある喜びのうち二つだけをあげた。
『私はいろいろなことを考えた。
二人のわが子の成長をじっと見守るためだけにも
生きねばならないし、
来るべき新千年紀を目前にして
去らねばならないなんてむごすぎる』」

「当時の人々には、自分たちがあくせく働きながら生きている年が
0年なのか1ねんなのかなどかんがえたことも なかったわけだし、
10年代が9年か10年か、1世紀が99年か100年かなんてことにも
頓着していなかったのだ。
紀元前/紀元後という年代表記システムが発明されたのは
6世紀のことだったし、
ヨーロッパに普及したのはそれよりずっと後のことである。」

「私が暦の問題を愛してやまないのは、
人間が抱える癖のずべてが、
そこに縮図として表れているからである。」
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42 はじめまして数学 I: 2002.08.23
吉田武著「はじめまして数学 I」
(ISBN4-344-00138-9 C0041)
を読んだ。
自然数の説明と無限、素数へとすすむ。
全ルビの本。
私が出版をしたいと考えている本と同じである。
どれほどの子供が読むかどうかより、
こんなものを与える努力が必要である。
そうすれば、どの子供かが、いつか、どこかで読んでくれて、
感動してくれるかもしれない。
そんな本を目指すべきではないだろうか。
学問とは、思わぬところが発端となるかもしれない。
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41 古風堂々数学者: 2002.08.15

藤原正彦著「古風堂々数学者」
(ISBN4-06-210186-6 C0095)
を読んだ。
彼の最近の文章を集めたものだ。
彼が、重んじる武士道の精神、
国語の重要性、合理的でないが守るべきこと、
などなど、日本人が、日本が
失いつつあるものを、彼は孤軍奮闘をして
取り戻せと叫んでいる。
私も、大いに共感するところがある。

「千年後の 中学生用世界史年表の二十世紀欄にかかれるのは、
「二度の世界大戦が起こり核爆弾が投下された」
くらいのもので、
ひどい時代との印象 は免れ得ないであろう」

「少子化自体は、急激でない限り祝うべきことと思う。
問題は少子化をもたらしている原因のほうであろう」

「大学は産業界のためにあるのではない。
学問を守り抜くには
産業界などむしろ眼中にあってはならないとさえ言える。
そんな気概がないと産業に役に立たない多くの分野は
早晩切り捨てられてしまう」
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40 干し草の中の恐竜 下: 2002.08.14

スチーヴン・ジェイ・グールド著「干し草の中の恐竜 下」
(ISBN4-15-208299-2 C0045)
を読んだ。
やはり、グールドは面白い。
そして、一徹に、同じことでも、何度も
間違っている人、社会に
警告や意見を発する。
それは、どんな権威や個人に対しても同じようにおこなう。
そして、教養とユーモアが彼の身上である。
抜書きしたいところが多数あったが、
多いので、省略する。
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39 カシミール3D入門: 2002.08.14

杉本智彦著「カシミール3D入門」
(ISBN4-408-00776-5 C2026)
を読んだ。
地図を3次元的に表示する機能をもっている。
そのほかにも各種の機能を持ている。
私のパソコンにもインストールしているのだが、
遅くて使いものにならない。
たぶん、何らの調整が必要なのだろうが、
今は、おこなっている余裕がない。
暇な時か、必要に迫られた時かに挑戦してみよう。
しかし、このような高機能ソフトが無料であること、
そして、国土地理院の数値地図が無料で添付されていることに驚く。
善意と趣味というのことだけで、ここまで達成できるのである。
素晴らしいことである。
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38 プロも知らない「新築」のコワサ教えます: 2002.08.11

船瀬俊介著「プロも知らない「新築」のコワサ教えます」
(ISBN4-8067-4537-5 C0077)
を読んだ。
配慮されてない、新築は怖い。
これは、前から気づいていたのが、
ここまで、データを示されると、その恐ろしさがよくわかる。
しかし、一方、ここまで、個人が気を配るのは、
不可能な気がする。
これを、職業とする人が必要である。
本当は、それが、建築のプロであるはずである。
でも、営利に走りすぎた企業は、そんなことを配慮しない。
これが、問題である。
わたしが、「木の城たいせつ」にひかれるは、
そこの配慮している、少ない企業であるかだ。

それと、この本で、ソーラーシステムについて書いてあったが、
これが、西壁で実用的で、採算が取れるという記述があった。
これは、北海道でも検討してみる価値はある。
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7月 

37 手塚治虫: 2002.07.29

大下英次著「手塚治虫−ロマン大宇宙」
(ISBN4-06-273425-7 C0195)
を読んだ。
実は、カナダに出かけているときに読みきっていた。
しかし、入力が遅れていた。

手塚治の伝記である。
彼の殺人的創作活動と
そして尽きぬアイデアと創作意欲、
そして常に最前線で漫画を書きたいという意欲。
これは、常人をはるかに凌ぐ情熱のものとになされた。
「ブッダ」を書くときの話である。

手塚は、さらにつづけた。
「仏といいう概念が、なかなかつかみにくいんですよね。
神とは、ちがうんでしょうかね」
竹尾は、自分の意見を述べた。
「仏というのは、人間の中の”命”と理解したらどうでしょうか。
”おろかな命””あらそいの命””おだやなかな命”・・・・
さまざまな”命”のなかで、清らかで力強い、
もっとも尊いものとしてあるのが仏ではないでしょうか」
手塚は、
「うーん、わたしには、信仰心がないから、
よくわからないんでしょうか」

手塚は、死については、こうブッダに語らせていた。
「死ぬということは、人間の肉体という殻から、
生命が、ただ飛び出していくだけだと思うがよい。
だから、死はなにも恐れることはない。
ほんの一瞬、とおりぬけるだけじゃ」
(中略)
ブッダが悟りを語る場面で、手塚はブッダに叫ばせていた。
「人間の心の中にこそ・・・・神がいる・・・・神が宿っているんだ!!」
竹尾は、”神”という言葉をみて手塚らしいなとおもった。
<”仏”が、”神”になっている。
でも、これが手塚先生の解釈なんだろう。
”仏性”とか”仏の生命”では、よしとしなかったんだ。
・・・きっと、手塚先生の”神”は、”仏”という概念もひっくるめた、
もっともっとおおきなものかもしれない、
あらゆる”命”、あらゆる”宇宙”をひっくるめた、
”大宇宙の生命”なんだ>
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36 パイドン: 2002.07.21
プラトン著「パイドン」
(ISBN4-00-336022-2 C0110)
を読む。
「ソクラテスの弁明」と「クリトン」につづく三部作の最後のものである。
面白かった。
そして、最後の最後まで、論理の追及をする姿勢は壮絶さを感じた。
そして、ここには、弁証法、構造主義、還元主義、など
すべてがあるような気がする。

「本当に哲学のうちで、人生を過ごしてきた人は、
死に臨んで恐れを抱くことなく、
死んだ後にはあの世で最大の善を得るであろうとの
希望に燃えているのだが、
それは僕には当然のことのように思えるのだ。」
「おそらく、思考がもっとも見事に働くときは、
これらの諸感覚のどんなものも、聴覚も、視覚も、苦痛も、
なんらかの快楽も魂を悩ますことなく、
魂が、肉体に別れを告げてできるだけ自分自身になり、
可能な限り肉体と交わらず接触もせずに、真実在を希求するときである」
「その人は、できるだけしいそのものによってそれぞれのものに向かい、
思惟する働きの中に視覚を付け加えることもなく、
他のいかなる感覚を引きずり込んで思考と一緒にすることもなく、
純粋な思惟それ自体のみを追及しようと努力する人である。」
「哲学者の仕事とは、魂を肉体から解放し分離することである。」
「これらすべての情念をそれと交換すべき唯一の正しい貨幣とは、
知恵であり、この知恵を基準にしてこれらすべての情念が売買されるならば、
あるいは、この知恵とともに売買されるならば、
その時、本当に、勇気、節制、正義、知恵を伴ったすべての真実の徳が
生ずるのではないか。」
「なせそれが生成し、滅亡し、存在するのかを、
この自然科学的な方法によっては、
知っているとはもはや確信できないのだ。
その代わり、僕は別の方法をおもいつくままに捏ねあげたのだが、
この自然科学的方法とは金輪際おさらばだ」
「それぞれの場合に、僕がもっとも強力であると判断する
ロゴスを前提として立てたうえで、
このロゴスと調和すると思われるものを真と定め、
調和しないと思われるものを真でないと定めるのだ。
問題が原因についてであれ、その他何についてであれ、同様である。」
「ただ、僕は美によってすべての美しいものは美しい、と主張するのである。
なぜなら、自分自身に対して答えるにせよ、他人に対して答えるにせよ、
これがもっとも安全確実な答えであるように僕には思われるからだ。」
「大地を支えるためには、
宇宙そのものがあらゆる方向において一様であること、
大地そのものが均衡していることで、充分なのだ。」
「いやしくも、その生涯において、
肉体にかかわるさまざまな快楽や装飾品を
自分自身にとってはかかわりのないものであり、
善よりは害をなすものと考えて、これに決別した者であるからには。
そして、学習に関わる快楽に熱中し、魂を異質の飾りによってではなく、
魂自身の飾りによって、
すなわち、節制、正義、勇気、自由、真理によって飾り、
このようにして、運命が呼ぶときにはいつでも旅立つつもりで、
ハデスへの旅を待っている者でかぎりは。」
訳者の解説より
「ソクラテスは一文字も書かなかったからだ。
ソクラテスの哲学のすべては対話だった。
すなわち、「哲学する」とはかれにおいては
「対話する」ということなのであった。」
「歴史的なソクラテスが常に問い続けてきたことは
「いかに生きるべきか」という問いであり、
それはまた「自分自身の魂を配慮せよ」というよびかけでもあった。
(中略)
つまり、ソクラテスは真実の自己を求め続けていたのである。」
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35 はじめての構造主義: 2002.07.17
橋爪大三郎著「はじめての構造主義」
(ISBN4-06-148898-9 C210)
読んだ。
非常にわかりやすく書いてある。
これも、多くの重要な点があったのだが、多すぎて、省略する。
この書は、永久保存である。

構造主義のおこなうとしていることが、よくわかった。
構造主義が目指したことは、
より人間に違い部分を解析的に調べることではなかったのか。
たとえば、言語学、人類学、民族学、精神学、神話、
などなど。
そして片や崩壊しつつある自然科学への結合も可能なのかもしれない。

でも、構造主義も非常に極端な還元主義ではないかと思う。
還元主義はわかりい。
でも、還元による要素から構造をつかんだとき、
その構造が、本当に真の姿なのだろうか。
自然科学が犯した過ちを、
人文科学が犯しつつあるのではないだろうか。
構造主義の祖レヴィ・ストロースによれば、
「構造主義には三つの源泉がある。
マルクス主義、地質学、それに精神分析。
これらに共通するのは、
目に視える部分の下に、
本当の秩序(構造)が隠れている、
と想定している点だ。
あるところまで調べがすすむと、急にそれがあらわれてくる。」
という。

(以下、本文よりメモ)
ソシュール「一般言語学講義」
 ことばが持つ意味(言語として機能する)のに、歴史は関係ない。
 ある時点で、ある範囲の人々に規則がわけもたれていれば、それで十分である。
 言語の機能を知るのに、その歴史を捨象する(わざと考えないようにする)ことができる。
共時態:歴史を捨象したある時点の言語の秩序
通時態:共時態からつぎの共時態へ変化していく言語の姿
ラング:共時態の中でも人々に共通に分けもたれている規則的な部分
パロール:個々人にゆだねられている部分
 言語学はまず、共時態のラングを研究対象にすべきである。
 言語は、物理現象ではない。
物理現象として2つの面
言語名称目録説という面:言語の指し示す対照が物質的な存在である
 言語が異なれば世界の区切り方も当然異なる。
 言語の恣意性:言語が示すのは世界の実物ではなく、世界から勝手に切り取ったものである。
物理的な音声によってなりたっているという面:
 言語が異なれば、どこにどういう区別を立てているかはことなってくる。区分の立て方が恣意的である。
「言語は差異のシステム」とか「対立のシステム」と表現される。
言語の恣意性を支えるのはメカニズムである。
シニフィアン:記号表現、意味するもの、能記
シニフィエ:記号内容、意味されるもの、所記
記号(シーニュ)=シニフィアン+シニフィエ
ここの言葉や記号がいかなるものかは、記号システムの内部の論理だけによって決まるので、それより外部の現象(実態)には左右されない。

音素
言語学にとって大切なのは、音を人びとがどう区別しているかである。
恣意的であるから、一種の文化、もしくは社会制度であるので、自然科学の方法ではだめである。
ヤーコブソンは、音素を弁別特性のの束と考え、音素の対立は、二項対立の組み合わせで表現できるとして。

機能主義
 歴史主義、伝播主義に反対。構造主義もおなじ。
 機能のみで説明する点が問題。
 目的と手段の連鎖が循環論になる。
 機能では説明できないことがある

理論とは、ややこしい問題に取り組むとき、思考の手助けになってくれるもの。

社会の基本的な形は、交換のシステムである。
純粋な動機(交換のための交換)にもとづくものである。

神話学の研究の手順
神話の集合:似た神話をひと束にして考える。
神話素に分割:神話の一番小さい単位に分割
対立軸の発見:神話素を貫くもの
表の作成と解釈:神話素を対立軸で並べて表にする。そこからプラスαを見出す。
レビ・ストロースの構造主義の影響
 神話分析が、テキストを破壊してしま無神論の学問
 テキストは表層にすぎず、本当の「構造」はその下に隠されている、とみる。
 ヨーロッパの知のシステムを支える部分品
テキスト:構造主義は、テキストを読む態度を重視。同じテキストも、筋さえ通っていれば、自分流に読んでかまわない。
主体:知のシステムは主体を前提にしている。構造主義は、「構造」のような主体を超えた無意識的・集合的な現象が重要だとする。
真理:構造主義では、真理は制度だと考える。制度は、人間がかってにこしらえたものだから、時代や文化によって別物になる。唯一の真理などない。

 変換(置換)によっても不変に保たれているのが、<構造>だからである。変換がつきとめられれば、<構造>もつきとめられたことになる。

 神話と数学。見かけこそ似ていないが、両方とも同じ秩序を隠している。二つの制度なのだ。
 「主体不関与」の文体を創始した。
 主体の思考(ひとりひとりが責任をもつ、理性的で自覚的な思考)を包む集合的な思考(大勢の人びとをとらえる無自覚な思考)の領域が存在することをしめした。
 神話は、一定の秩序(個々の神話の間の変換関係にともなう<構造>)をもっている。この<構造>は、主体の思考によって直接とらえられないもの、「不可視」のものなのだ。

証明の発見:ギリシア人による人類史上画期的な大発明。
証明(論証)によって、知を組織できることがわかった。
ユークリッド幾何学とアリストテレスの三段論法お論理学は2000年間、適用されてきた。
何が「正しい」かは、公理(前提)をどう置くかによって決まる。

 視点が移動すると、図形は別なかたちに変化する(投影変換される)。そのときでも変化しない性質(投影変換に関しても不変な性質)を、その図形の一群に共通する「骨組み」のようなものといういみで、<構造>とよぶ。<構造>と変換とは、いつでも、裏腹の関係にある。<構造>は、それらの図形の「本質」みたいなものだ。が、<構造>だけでできている図形など、どこにもない。<構造>は、目に見えない。

ゲーデルの不完全性定理
数学が完全であることを、その数学自身によって示すことができない

 構造主義は、文芸批判の理念として、これまで現れたもののなかでいちばん進んだもののひとつだ。しかsh、構造主義的批判は、「作者の主体性」や「作者の言いたいこと」は括弧のなかとなる。
 方法としてもパターン化されている。

 レビ・ストロースによれば、
「構造主義には三つの源泉がある。マルクス主義、地質学、それに精神分析。これらに共通するのは、目に見える部分の下に、本当の秩序(構造)が隠れている、と想定している点だ。あるところまで調べが進むと、急にそれがあらわれてきる。
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34 ソクラテスの弁明・クリトン: 2002.07.15
プラトンの「ソクラテスの弁明・クリトン」
(ISBN4-00-336011-7 C0110)
を読んだ。
内容もさることながら、
ソクラテスの行きかたに感銘した。
デカルトと通じるところがある。
すべてにではなく、
自分の信じることには、
命をもかけてもよいという心がけである。
今の私の励みになる。

訳者久保勉氏は、
「この世界史上類なく人格の、
人類の永遠の教師における最も意義深き、
最も光輝ある最後の幕を描いた三部曲とも
称すべき不朽の名篇である」
としている。
そして最後のひとつが、パイドンである。
パイドンでは、
この2作で明言していない、霊魂不死の信仰が肯定されている。

「かれは何も知らないのに、何かを知っていると信じており、
これに反して私は、何も知りもしないが、
知っているとは思っていないからである。
されば私は、少なくとも
自ら知らぬことを知っているとは思っていないかぎりにおいて、
あの男よりも智慧の上で少しばかり優っているらしく思われる。」
「死を恐れるのは、
自ら賢ならずして賢人を気取ることに外ならないからである。」
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33 方法序説: 2002.07.14
デカルトの「方法序説」
(ISBN4-00-336131-8 C0110)
を読んだ。
方法序説には、前に、
「理性を正しく導き、学問において真理を探求するための」
がついていた。
知らなかった。
この本は、もともと
「屈折光学、気象学、幾何学」
の大部の論文集のための序説だったそうだ。
しかし、多くの書籍を、自由は考えが制限されると考え、
出版をあきらめていたというのは、
現在からは信じられないことである。
そして、デカルトは、まわりをだましてまでも、
自分の思考の自由を願ったのだ。
そんな時代だったのだ、1600年代という時代は。
「以上の理由で、私は教師たちからの従属から開放されるとすぐに、
文字による学問(人文学)をまったく放棄してしまった。
そしてこれからは、私自身のうちに、
あるいは世界という大きな書物のうちに見つかるかもしれない
学問だけを探求しようと決心し、
青春の残りをつかって次のことをした。
(中略)
だがわたしは、自分の行為をはっきりと見、
確信をもってこの人生を歩むために、
真と偽を区別することを学びたいという、
何よりも強い願望を絶えず抱いていた。」
「わたしがその時までに受け入れ信じてきた諸見解すべてにたいしは、
自分の信念から一度きっぱりと取り除いてみることが最善だ、と。
後になって、おかのもっとよい見解を改めて取り入れm
前と同じものでも理性の基準に照らして正しくしてから取り入れるためである。」
「結局のところ、あれわえは、目覚めていようと眠っていようと、
理性の明証性による以外、
けっしてものごとを信じてはならないのである。」
「わあしは生きるために残っている時間を、自然についての一定の知識を得ようと努める以外には使いまいと決心した。」
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32 虚数の情緒: 2002.07.08

吉田武「虚数の情緒 中学生からの全方位独学法」
(ISBN4-486-01485-5)
を読んだ。
やっと、読めたといったほうがいいかもしれない。

去年2001年の9月、金沢の地質学会で、
書店でたまたま見つけた本である。
この本は、いつから読みはじめただろうか。
トイレに置いておいて、
毎日少しずつ読んでいった。
読むのに、半年近くかかかったのだろうか、
それほどかけて味わう値打ちのある本だと思う。
大変いい本であった。
そして、渾身の力をいれて書かれたもの
であることがよくわかった。
そして、印刷、製本以外は、
すべて、自力でおこなわれたという、
著者の執念が込められている本である。

執念ではなく、この本は、良い本である。
そして、私が、目指したい、地質学の普及書も
このようなタイプのものを目指したたい。
今回は抜書きはなしである。
永久保存の書とする。
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6月 

31 哲学の教科書: 2002.06.27

中島義道「哲学の教科書」
(ISBN4-06-159481-8)
を読んだ。
久しぶりに、本を読み終えたような気がする。

この本は、哲学することの根本的なことをあつかったものである。
非常に面白かった。
そして、私はとってもじゃないが哲学者にはなれないことがわかった。
それだけでも、この本を読んだ価値があった。
この本では、哲学の根本的問題として、
死、時間、因果、意志、私、他者、存在
などについて、そのさわりを紹介している。

抜書きをしようとおもったが余りに多いのであきらめた。
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30 はじめての哲学史講義: 2002.06.11

 鷲田小彌太著「はじめての哲学史講義」(ISBN4-569-62171-6)を読んだ。わかりやすくさらりと哲学史を書いている。読みやすく、さらりと読めた。
 デカルトの「わたしは考える。ゆえに、私は存在する」(cogito, ergo sum)は、
「第一原理。「思考」と「物質」は自立している。思考世界も、物質世界も、他に依存することなく存在している。第二原理。人間の思考はこの物質世界を「認識」(くまなく理解)することができる。第三原理。人間は平等である」
 デカルトは物質世界を「明晰・判明」(clara et distincta)という方法で認識できるとした。デカルトの思考技術の方法(方法叙説)は、
「第一、即断や偏見を避け、疑う余地のないもの以外は、自分の判断の中に入れない。
第二、健闘しようとするものをできるだけ、また解決するに必要なだけ、多数の小部分に分割する。
第三、最も単純なものから、段階を踏んで、最も複雑なものに達するように、自分の思考を秩序だてて働かす。
第四、何一つ落とさなかったと確信するほど、広く健闘する」
 ヒュームの哲学を、知覚一元論、不可知論、感性論をまとめ、
「1、知覚に現れない外界存在(物質)については、哲学は何もいうことができない。
2、知覚に現れた存在は、「知覚の束」である。この「知覚」は「断片」(瞬間)である。
3、知覚の断片を集合し、知覚の束に「同一性」を与え、ある秩序をもった存在にするのは、反復(繰りかえし同じことが生じる)であり、習慣である。
4、それゆえ、ある「原因」とそれに続くある「結果」の間には「必然性」はない。加工に同じことが繰りかえし起こったから、今度も同じことが起こるという蓋然性があるにすぎない。
5、ある原因から、ある結果が生じるという推論(理性認識)は、すでに過去になった知覚の連合にすぎない。理性はカームパッション(calm passion熱の冷めた感情)なのだ。
6、人間と人間集団を基本で動かすのはパッションの力(感性)である。反復、習慣、先例、伝統という形で個人と社会を基底で支配している衝動力、無意識との共同の無意識である。
 私が思うに、ヒュームの考えは、「知覚の束」を集めて「同一性」を与え、「反復」であり、習慣によってある秩序が与えられている。そこには、原因と結果という必然性がなく、習慣による蓋然性しかない。というあたりは、面白い。もし、地質学から、原因と結果という必然性がきえたら、地質学という学問は成り立つか、蓋然性だけで地質学が成り立つかどうか、などというのは、面白い命題である。
 「構造主義の登場によって、ヒューマニズムか反ヒューマニズムか、資本主義か社会主義か、階級闘争か否か、知か無知か、科学か神話か、等の「二項対立」的構図ではことがらが解決しないことがわかるようになります」

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29 構造主義科学論の冒険: 2002.06.03

 池田清彦著「構造主義科学論の冒険」(ISBN4-06-159332-3 C0140)を読んだ。久しぶりに、しっかりしたものを読んだ。
 構造主義に基づいた科学論の展開である。面白かったが、やはり理解できない部分があった。
 本文より。
「 理論(構造)というのは我々の頭の中にあるのであって、我々とは独立にどこかにあらかじめころがっているわけではありません。理論は外部世界の中に発見するものではなく、我々の頭の中に発見するものです。頭の中にある何かを発見することを発明と呼ぶとするれば、理論は発明されるべきものなのです。
 ここで人間の脳の機能は、何らかの限界性を持つと考えれば、人間の脳が発明し得る可能な構造(理論)はすでにあらかじめ決定しているとも考えられます。すなわち我々は、あらかじめわかる事しかわからないのです。」
「ダーウィンの功績は、生物はすべて進化しうる構造(形式)をもっていること明らかにし、その形式を記述したことにあります。すなわちダーウィンは、生物であることと、進化をすることは実はおんなじだと言ったわけです。」
「変異の内部形式を問わなくとも、生物の変化(小進化)は説明できるでしょう。しかし変異の内部形式を問わなければ、壮大な進化史の全部を説明できっこない、と私は考えます。」
「多元主義の原則はポジティブなものでなく、ネガティブなものです。他の文化や伝統を抑圧する一元論的なルールを認めない、というのが多元主義の唯一のルールです。人々の恣意性の権利を擁護するとは、制度、文化、伝統自体を擁護するのではなく、それらの無根拠なルールに対する人々の選択の自由を保障するということです。多元主義社会の規範(もちろんこれも無根拠なものです)は人々の恣意性の権利(すなわち自立的な選択と拒絶)を勘案することなく、不可避にこれを侵害する制度を排除しよう、ということだけです。」
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