思いつくまま

2002年7月Canada篇
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目次 
●出発:No. 1(387)● 2002.07.13
●デジタルシステム:No. 2(388)● 2002.07.13
●哲学は講義でつくる:No. 3(389)● 2002.07.13
●テーマは石:No. 4(390)● 2002.07.13
●再構築:No. 5(391)● 2002.07.13
●手違い:No. 6(392)● 2002.07.14
●怪我の巧妙:No. 7(393)● 2002.07.14
●方法序説:No. 8(394)● 2002.07.14
●過酷な一日:No. 9(395)● 2002.07.15
●ソクラテスの弁明・クリトン:No. 10(396)● 2002.07.15
●その地の歴史:No. 11(397)● 2002.07.15
●先入観:No. 12(398)● 2002.07.15
●親切:No. 13(399)● 2002.07.15
●素晴らしい景色:No. 14(400)● 2002.07.16
●大学にて:No. 15(401)● 2002.07.16
●空港の麻痺:No. 16(402)● 2002.07.16
●大丈夫?:No. 17(403)● 2002.07.16
●はじめての構造主義:No. 18(404)● 2002.07.17
●コンピュータの故障:No. 19(405)● 2002.07.18
●さあ出かけよう:No. 20(406)● 2002.07.18
●新しい地質学:No. 21(407)● 2002.07.18
●地質哲学への連携:No. 22(408)● 2002.07.18
●自然と理性と感性と:No. 23(409)● 2002.07.18
●理性、御しがたし:No. 24(410)● 2002.07.19
●天界人:No. 25(411)● 2002.07.19
●ムース:No. 26(412)● 2002.07.19
●すべては、霧中:No. 27(413)● 2002.07.19
●電柱:No. 28(414)● 2002.07.20
●雨が好き:No. 29(415)● 2002.07.20
●急げば:No. 30(416)● 2002.07.20
●パイドン:No. 31(417)● 2002.07.21
●木製電柱:No. 32(418)● 2002.07.21
●北米大陸最東端:No. 33(419)● 2002.07.21
●デジタル機器:No. 34(420)● 2002.07.22
●信頼性:No. 35(421)● 2002.07.22
●雷雨:No. 36(422)● 2002.07.22
●論理トリック:No. 37(423)● 2002.07.23


●出発:No. 1(387)● 2002.07.13
さて、いよいよ出発である。
11時30分発の予定が、10時前に到着したので、
1便早い10時30分発に変更できた。
少し成田で余裕ができた。
前回の一人旅のときもそうだったが、
出発のときは、いつもあわただしく、
別れを惜しむ暇もない。
家族で路線バスで、新札幌まできて、
そこで、分かれた。
家族は、久しぶりに、街歩き。
私は久しぶりに、一人を味わえる。
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●デジタルシステム:No. 2(388)● 2002.07.13
今回の海外調査は、新しい試みをしている。
写真を完全にデジタル化に変更した。
主カメラをNikonCoolPIX5700(500万画素)にし、
予備カメラとして今までつかっていた
Olinpus CAMEDIA(200万画素)にしている。
記憶媒体は、
マイクロドライブ(1GB)、
256MBのフラッシュメモリー
である。
これで、前画像がまかなえるかと思ったが、
少し無理のようである。
500万画素はJPEG25%圧縮で、ファイルサイズは2MBほどになる。
1GBで、約500枚記憶し、256MBで約100枚記憶できる。
あわせて600枚である。
フィルムだと、17本分である。
つまり、一回の旅行で20本前後とるので、
記憶量が不足である。
デジカメで撮影するとしだすと、
ポジフィルムのカメラより
はるかに大量に撮影することを、
前回の家族旅行で味わった。
したがって、
そのために、ノートパソコンをデータ吸収用にもっていくことになる。
そして、デジカメ、パソコンのバッテリー充電のための充電器。
いつものMoblieGearIIは、文字入力用である。
確かに、アナログカメラのセットより、荷物が半分ほど減った。
でも、文字入力装置と、データ吸収装置が
兼用できないのが面倒である。
軽く(最高でも1kgをきり)、
長時間駆動し(1バッテリーで4、5時間駆)、
20、30GBほどハードディスクを搭載したものがあれば、
1台ですべてすむ。
まだ、探してないが、まあ、今回はこのデジタルセットが
私のとって、どの程度実用的かを試してみる。
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●哲学は講義でつくる:No. 3(389)● 2002.07.13
地質学と哲学の連携。
それが、当面の目標である。
でも、最近、このうたい文句ばかり掲げて、
なかなか実態に入れない。
ひとつは、講義で、その内容を深めるという方法がある。
今年の「地学」の講義では、
その一端をおこなった。
科学的に考えるという立場で、
さまざまなキーワードを考えた。
前期の全体のテーマは、「この世」というものであった。
もちろん、その応用というべき例は、
地学的素材である。
同じような形式で、来年はもっと、
違うものを素材にしていこうと考えている。
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●テーマは石:No. 4(390)● 2002.07.13
来年の「地学」の全体テーマは「石」が、いいのではないか。
キーワードとしては、
1 観察:詳しく見ること;物性(大きさ、質量、)
2 記載:なにを記録するか;特徴、共通性、特異性
3 分類:なんのために、どうわけるか;起源、特徴
4 組織:
5 堆積岩:砕け、運ばれ、たまる
6 変成岩:どれでも、溶けず、変わる
7 火成岩:溶け、移動し、固まる
8 起源物質:マグマをもたらすもの
9 溶融:マグマの形成
10 分化:マグマの変化
11 鉱物:石をつくるもの
12 時間:記録された時間1(化石)
13 時間:記録された時間2(放射性核種)
などというのは、面白そうである。
でも、石に関しては、おもしろそうだが、
哲学はどこへいったのか。
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●再構築:No. 5(391)● 2002.07.13
デカルトの方法序説を読み始めた。
かれが、当時存在したすべての学問体系を否定し、
自分なりの方法論で再構築していった。
その方法はともかく、その心意気に感動する。
私が、地質哲学の構築を考えたとき、
すべての自然現象を再構築することは不可能である。
なぜなら、現在の自然科学は、
膨大なるデータに基づいて組み立てられており、
それを、自力で解釈し直すことは、不可能である。
可能かことがあるとすると、
ある自分なりのフレームワークを構築し、
そのフレームワークで、
基礎となるデータや法則を、見直すことである。
それも、そのデータや法則にだまされることなくである。
そうすれば、よりデカルトの精神に
近づけるのではないだろうか。
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●手違い:No. 6(392)● 2002.07.14
なんということだ、手配違いで、
CreditCardの番号が伝わってなかったので、
16時でホテルがキャンセルになっていた。
ここには部屋がもうなかったので、他を探してもらう。
明日からと、帰るときに予約を入れておく。

街の反対がわに、みつけてくれた。
150ドルふっかけられた。
近くまでいったのだが、道が入り組んでいるので、
迷ってわからなくなってしまった。
あきらめて、最初の目的に夜走って、行くことにする。
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●怪我の巧妙:No. 7(393)● 2002.07.14
夜中走って、目的地のGrand Bankまで、片道400kmもあった。
とってもじゃないが、日帰りは無理の距離である。
予定変更して、Corner Brookではなく、
Grand Bankに3泊することにする。
よかった。
これぞ、まさしく怪我の巧妙であろう。
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●方法序説:No. 8(394)● 2002.07.14
デカルトの「方法序説」
(ISBN4-00-336131-8 C0110)
を読んだ。
方法序説には、前に、
「理性を正しく導き、学問において真理を探求するための」
がついていた。
知らなかった。
この本は、もともと
「屈折光学、気象学、幾何学」
の大部の論文集のための序説だったそうだ。
しかし、多くの書籍を、自由は考えが制限されると考え、
出版をあきらめていたというのは、
現在からは信じられないことである。
そして、デカルトは、まわりをだましてまでも、
自分の思考の自由を願ったのだ。
そんな時代だったのだ、1600年代という時代は。
「以上の理由で、私は教師たちからの従属から開放されるとすぐに、
文字による学問(人文学)をまったく放棄してしまった。
そしてこれからは、私自身のうちに、
あるいは世界という大きな書物のうちに見つかるかもしれない
学問だけを探求しようと決心し、
青春の残りをつかって次のことをした。
(中略)
だがわたしは、自分の行為をはっきりと見、
確信をもってこの人生を歩むために、
真と偽を区別することを学びたいという、
何よりも強い願望を絶えず抱いていた。」
「わたしがその時までに受け入れ信じてきた諸見解すべてにたいしは、
自分の信念から一度きっぱりと取り除いてみることが最善だ、と。
後になって、おかのもっとよい見解を改めて取り入れm
前と同じものでも理性の基準に照らして正しくしてから取り入れるためである。」
「結局のところ、あれわえは、目覚めていようと眠っていようと、
理性の明証性による以外、
けっしてものごとを信じてはならないのである。」
「わあしは生きるために残っている時間を、自然についての一定の知識を得ようと努める以外には使いまいと決心した。」
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●過酷な一日:No. 9(395)● 2002.07.15
昨日は過酷であった。
7時過ぎに寝たが、2、3時間ごとに目がさめ、
2時前に1時間ほど起きていて、本を読んだが、
6時頃までよく寝た。
でも、今日は多分、まだ疲れが残っているはずだから、
市内で、資料集めをすることにしよう。
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●ソクラテスの弁明・クリトン:No. 10(396)● 2002.07.15
プラトンの「ソクラテスの弁明・クリトン」
(ISBN4-00-336011-7 C0110)
を読んだ。
内容もさることながら、
ソクラテスの行きかたに感銘した。
デカルトと通じるところがある。
すべてにではなく、
自分の信じることには、
命をもかけてもよいという心がけである。
今の私の励みになる。

訳者久保勉氏は、
「この世界史上類なく人格の、
人類の永遠の教師における最も意義深き、
最も光輝ある最後の幕を描いた三部曲とも
称すべき不朽の名篇である」
としている。
そして最後のひとつが、パイドンである。
パイドンでは、
この2作で明言していない、霊魂不死の信仰が肯定されている。

「かれは何も知らないのに、何かを知っていると信じており、
これに反して私は、何も知りもしないが、
知っているとは思っていないからである。
されば私は、少なくとも
自ら知らぬことを知っているとは思っていないかぎりにおいて、
あの男よりも智慧の上で少しばかり優っているらしく思われる。」
「死を恐れるのは、
自ら賢ならずして賢人を気取ることに外ならないからである。」
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●その地の歴史:No. 11(397)● 2002.07.15
歴史は、その地域にいってはじめて感じるものもある。
この地にくる前から、ヴァイキングが、
最初の入植者であった。
しかし、やはり西洋人としては、その歴史はあまり語らないようだ。
でも、西洋人たちは、この地から、
搾取をしているような気がする。
最初はタラ漁、
ついでアザラシ漁、
現在は、鉱物資源を自然から搾取している。
でも、これは、人類としてしょうがないかのしれない。
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●先入観:No. 12(398)● 2002.07.15
農耕民族は、大地と共存し、
狩猟民族は、大地から搾取している、
というのは、植物をどう見るかによるのかもしれない。
農耕民族だって、大地から搾取している。
狩猟民族だって、大地と共存している。
先入観持たないことである。
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●親切:No. 13(399)● 2002.07.15
ニューファンドランドの人は親切である。
政府機関の受付の陽気なおじさんに、
地図の人を紹介してもらう。
無料で、地質図2葉(Newfoundland、Labrador)と
英文の地質解説書。
彼の紹介で、地質学者にあう。
突然の訪問にも、親切に対応してくれる。
Fourtune Headの先カンブリア紀−カンブリア紀の地層境界の資料
(文献2部、巡検案内書1部、インターネットの関連資料の、それぞれのコピー)
をいやな顔ひとつせず、対応してくれた。
翻って、自分の他人に対する対応は、
よほど暇でない限り、丁寧な対応はなかなかできない。
このような対応は、私では興味のある時だけである。
彼らは非常に親切であった。
そして、私は、非常に有用な資料を得られた。
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●素晴らしい景色:No. 14(400)● 2002.07.16
地質の案内書に基づいてひとりで歩く。
堆積岩がいろいろ見れそうだったが、
たいしたものがなかった。
先カンブリア紀の6億3500万から5億4500万年前の地層である。
単調な岩層であった。
でも景色は素晴らしかった。
一部わかりにくい道もあったが、
多くの人が歩いているのには驚いた。
本当に西洋人は自然の中を歩くのが好きなのだ。
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●大学にて:No. 15(401)● 2002.07.16
大学で資料を集めに行ったのだが、
大学の書店は、ほとんど書籍はなく、
新学期のための教科書だけであった。
図書館で資料をみたのだが、
開架はリファレンス類ばかりで、
その他の専門書は、コンピュータで検索し
借り出す仕組みのようである。
インターネットに直結されたコンピュータが、
自由に使えるようになっていた。
大学は夏休みだというのに、
大学には学生が多い。
この時期、そして大学にいる学生は、
なんとなくまじめそうでいい。
街のショッピングセンターでみる、
中学生から高校生くらい学生たちは、
なんだかくずれた感じがする。
私のきのせいだろうか。
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●空港の麻痺:No. 16(402)● 2002.07.16
セント・ジョーンズの空港が
一時麻痺したというニュースを流していた。
爆発予告の電話があったらしい。
1時間ほど遅れた後、
飛行は再開したらしい。
1回だけならいいのだが。
もし何かあった、帰れなくなる。
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●大丈夫?:No. 17(403)● 2002.07.16
熱帯的圧がニューファンドランドにきているらしい。
明日は、移動日だったのでよかった。
明後日まで、天候が回復しないのまずが、
大丈夫だろうか。
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●はじめての構造主義:No. 18(404)● 2002.07.17
橋爪大三郎著「はじめての構造主義」
(ISBN4-06-148898-9 C210)
読んだ。
非常にわかりやすく書いてある。
これも、多くの重要な点があったのだが、多すぎて、省略する。
この書は、永久保存である。

構造主義のおこなうとしていることが、よくわかった。
構造主義が目指したことは、
より人間に違い部分を解析的に調べることではなかったのか。
たとえば、言語学、人類学、民族学、精神学、神話、
などなど。
そして片や崩壊しつつある自然科学への結合も可能なのかもしれない。

でも、構造主義も非常に極端な還元主義ではないかと思う。
還元主義はわかりい。
でも、還元による要素から構造をつかんだとき、
その構造が、本当に真の姿なのだろうか。
自然科学が犯した過ちを、
人文科学が犯しつつあるのではないだろうか。
構造主義の祖レヴィ・ストロースによれば、
「構造主義には三つの源泉がある。
マルクス主義、地質学、それに精神分析。
これらに共通するのは、
目に視える部分の下に、
本当の秩序(構造)が隠れている、
と想定している点だ。
あるところまで調べがすすむと、急にそれがあらわれてくる。」
という。
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●コンピュータの故障:No. 19(405)● 2002.07.18
またもやMobileGearIIが故障。
電池を換えてもだめ。
ホテルに帰って、リセットスイッチを押し続けたら、
動き出した。
どうも、サブバッテリーが漏電しているような気がする。
昨日、データを吸い出しておいたので、
最悪の被害は免れた。
このMobileGearIIには去年のカナダでも電池不足で
泣かされた。
今回は故障である。
写真のメモをコピーするのを忘れたいので、だめになった。
それと、昨夜から、今朝にかけてのメモが5個ほど消えた。
そろそろ寿命である。
また、出かけるときデジタルにするとき
どうしてもバックアップようのコンピュータが必要かもしれない。
今回は、VAIOがあったので、助かった。
このMobileGearIIはもう信用できない。
メモ代わりとしよう。
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●さあ出かけよう:No. 20(406)● 2002.07.18
今回のカナダを訪れたのは、
先カンブリア紀−カンブリア紀の境界を見ることが目的である。
きょうがその当日である。
天気はいい。
資料もそろった。
あとは、
現場の状況と
私の執念である。
さあ出かけよう。
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●新しい地質学:No. 21(407)● 2002.07.18
レヴィ・ストロースにいわせると、
構造主義の原点の一つとして地質学があるらしい。
私の原点であり、極めたいのも地質学である。
そして、この半年、今までにない地質学を目指そうと考えてきた。
それが、自然(地層)と自然科学(地質学)、そして哲学
の3つか融合した形態の体系ができないだろうか。
それが、目標である。
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●地質哲学への連携:No. 22(408)● 2002.07.18
今回持ってきた本は、現在の心境を整理するのに
非常に適切だった。
デカルト、ソクラテス、プラトン、レヴィ・ストロース
合理主義、自然哲学、構造主義
そして今回の私が目指す、
地質哲学への連携が、うまくいけばいいのだが。
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●自然と理性と感性と:No. 23(409)● 2002.07.18
先カンブリア紀−カンブリア紀の境界の地層をみること、
それは、自然と地質学の対峙である。
そして、そこには、自然と理性の競合と融合がある。
もし、哲学につながるインスピレーションが得られるなら、
そこには、理性と感性の結合がある。
自然(地層)、
理性(地質学、哲学)、
感性(インスピレーション)
が一致するか。
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●理性、御しがたし:No. 24(410)● 2002.07.19
さて、目的の露頭の前に立ったとき、
何を感じたか。
まず、貪欲にみた。
近くから、遠くから、
そして、落ち着いて、露頭の前で、座り考えた。
そのとき考えたのは、地質についてであった。
風が強く、じっとしていられないほどであった。
落ち着いて考えることができなかった。
そこにコンピュータのトラブル。
人間というのは、本当に、些細なことで心を動かされてしまうものである。
そして、意図して、心に語らせようとしても
心は答えてくれるとは限らない。
理性は、答えてくれるのに、感性は超えてくれない。
これは、父が死んだとき同じことを、身をもって学んだはずなのに、
未だに身につかない。
感性とは、御しがたい。
御せれば、それは理性の奴隷となる。
自然、理性、感性の三位一体を考えるなら、
お互い御せないもの同士であるべきである。
そして、それが、何らかの共通項で連携、融合、
あるいは統一された反目、競合、
ができれば、そこになんらかの
みんなが、あるいは少なくとも私が納得する理論、体系が
できるのではないだろうか。
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●天界人:No. 25(411)● 2002.07.19
車の通らない一本の延びる道。
そこには湿原と草原。まばらに針葉樹があるだけ。
こんな景色を、大陸を旅すると時々出くわす。
ロッキー山脈やシラネバダ山脈の高所湿原。
去年のカナディアン・ロッキーでも似たようなところがあった。
大地の中で、自分ひとりしかいない。
しかし、孤独感も、不安感もない。
異次元というか、まるで天界にきたような、
不思議な気分になる。
そして、自分も天界人になったような不思議な気分になる。
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●ムース:No. 26(412)● 2002.07.19
ムースのメスに何度がであった。
最初は、初日の夜中。
2度目が、トランス・カナダ・ハイウェイで210号線に入る手前。
そして、今日220号線沿いで、みた。
でも、TCH以外は、観光客などいないところであった。
ニューファンドランドは、観光化も遅れているところ。
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●すべては、霧中:No. 27(413)● 2002.07.19
露頭の前で、再度、考えた。でも、なにもでてこない。
一生懸命感じようとしても、何も感じなかった。
意図して感じようなどというのは、無理なのかもしれない。
でも、ふと我に返って、そこ小さな草があることに気づいた。
結局、V-C境界の前には、草が3本あった。
そして、V-C境界は霧の中であった。
そして、そこで遭難しないように霧笛がなっていた。
霧笛のとは、風向きの静だろうか、
遠く聞こえたり、近く聞こえたりした。
しかし、結局は、すべては、霧中であった。
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●電柱:No. 28(414)● 2002.07.20
子供の車の本をみていて、穴掘建柱車(あなほりけんちゅうしゃ)というものを知った。
この特殊車両は、日本固有のものものかもしれない。
電柱を立てるための車である。
穴を掘るためのドリルと、
電柱を立てるためのクレーンを兼ね備えた車である。
ニューファンドランドでは、
電柱は、穴を掘っては立てられない。
それは、土壌がなく、すぐに岩盤であるからである。
どうして電柱を立てるかというと、
電柱の足元を、四角い木の枠で囲う。
その枠の中に大きな岩石を突っ込んで、固定しているのである。
ほとんど電柱がそうして立っているので、
これで十分な強度があるのだろうが、
少し不安になるような電柱である。
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●雨が好き:No. 29(415)● 2002.07.20
私は、子供のころから、なぜか雨が好きだった。
雨が降ると、なぜか、わくわくしたものだ。
今日は、朝から激しい雨である。
丘陵を越えるときは、霧の中を走ることになる。
原野の霧の中で車を止めて、書いている。
なぜか、子供のころの雨好きを思い出した。
どうも私の一人旅とは、
さまざまなことを考えて、文章を書くことに勢力を使っているようだ。
でも、こんな旅もいいのではないかという気がしてきた。
そして、誰もいない原野の中で、好きな雨の中で、思いを綴る。
これも、旅だからできることなのかもしれない。
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●急げば:No. 30(416)● 2002.07.20
激しい雨の中を、車で時速80km前後のスピードで帰ってきた。
それでも、時速100km制限のハイウェイだから、
つぎつぎと車が追い抜いていく。
日本ならそんなに急いでどこ行くの、
といいたいところだ。
でも、アメリカ大陸はでかい。
時速で10kmの違いが、8時間も走れば、
80kmの差となる。
この差は大きいものである。
ちりも積もれば、時差となる。
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●パイドン:No. 31(417)● 2002.07.21
プラトン著「パイドン」
(ISBN4-00-336022-2 C0110)
を読む。
「ソクラテスの弁明」と「クリトン」につづく三部作の最後のものである。
面白かった。
そして、最後の最後まで、論理の追及をする姿勢は壮絶さを感じた。
そして、ここには、弁証法、構造主義、還元主義、など
すべてがあるような気がする。

「本当に哲学のうちで、人生を過ごしてきた人は、
死に臨んで恐れを抱くことなく、
死んだ後にはあの世で最大の善を得るであろうとの
希望に燃えているのだが、
それは僕には当然のことのように思えるのだ。」
「おそらく、思考がもっとも見事に働くときは、
これらの諸感覚のどんなものも、聴覚も、視覚も、苦痛も、
なんらかの快楽も魂を悩ますことなく、
魂が、肉体に別れを告げてできるだけ自分自身になり、
可能な限り肉体と交わらず接触もせずに、真実在を希求するときである」
「その人は、できるだけしいそのものによってそれぞれのものに向かい、
思惟する働きの中に視覚を付け加えることもなく、
他のいかなる感覚を引きずり込んで思考と一緒にすることもなく、
純粋な思惟それ自体のみを追及しようと努力する人である。」
「哲学者の仕事とは、魂を肉体から解放し分離することである。」
「これらすべての情念をそれと交換すべき唯一の正しい貨幣とは、
知恵であり、この知恵を基準にしてこれらすべての情念が売買されるならば、
あるいは、この知恵とともに売買されるならば、
その時、本当に、勇気、節制、正義、知恵を伴ったすべての真実の徳が
生ずるのではないか。」
「なせそれが生成し、滅亡し、存在するのかを、
この自然科学的な方法によっては、
知っているとはもはや確信できないのだ。
その代わり、僕は別の方法をおもいつくままに捏ねあげたのだが、
この自然科学的方法とは金輪際おさらばだ」
「それぞれの場合に、僕がもっとも強力であると判断する
ロゴスを前提として立てたうえで、
このロゴスと調和すると思われるものを真と定め、
調和しないと思われるものを真でないと定めるのだ。
問題が原因についてであれ、その他何についてであれ、同様である。」
「ただ、僕は美によってすべての美しいものは美しい、と主張するのである。
なぜなら、自分自身に対して答えるにせよ、他人に対して答えるにせよ、
これがもっとも安全確実な答えであるように僕には思われるからだ。」
「大地を支えるためには、
宇宙そのものがあらゆる方向において一様であること、
大地そのものが均衡していることで、充分なのだ。」
「いやしくも、その生涯において、
肉体にかかわるさまざまな快楽や装飾品を
自分自身にとってはかかわりのないものであり、
善よりは害をなすものと考えて、これに決別した者であるからには。
そして、学習に関わる快楽に熱中し、魂を異質の飾りによってではなく、
魂自身の飾りによって、
すなわち、節制、正義、勇気、自由、真理によって飾り、
このようにして、運命が呼ぶときにはいつでも旅立つつもりで、
ハデスへの旅を待っている者でかぎりは。」
訳者の解説より
「ソクラテスは一文字も書かなかったからだ。
ソクラテスの哲学のすべては対話だった。
すなわち、「哲学する」とはかれにおいては
「対話する」ということなのであった。」
「歴史的なソクラテスが常に問い続けてきたことは
「いかに生きるべきか」という問いであり、
それはまた「自分自身の魂を配慮せよ」というよびかけでもあった。
(中略)
つまり、ソクラテスは真実の自己を求め続けていたのである。」
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●木製電柱:No. 32(418)● 2002.07.21
カナダの電柱は木でできている。
もちろん、高圧線は金属だが、
普通の電柱は木製である。
私が子供のころは、電柱は木製であった。
それがいつのまにか、コンクリート製になっていた。
木だと、もし50年間で電柱の大きさに木が育つなら、
電柱として50年間もてばいいのだが、
不可能であろう。私が生きている間に、
木製の電柱がコンクリート製に変化してきたのだから。
ということは、電柱は循環型社会には、適応できないことになる。
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●北米大陸最東端:No. 33(419)● 2002.07.21
ここCape Pearというところは、北米大陸で最東端になるそうだ。
でもそれが、特別みんなの注意を集めているようでもない。
それより、観光客は、第二次世界大戦の要塞や、
古い灯台のほうが興味を引くようだ。

それは、アメリカ人やカナダ人にとっては、東にヨーロッパがあり、
そこが故郷の一つでもあるわけである。
大西洋で隔たれてはいるが、そこに境界意識は少ないのだろう。
もし、北米大陸最西端といえば、地の果ての感じがするだろう。
アラスカのどこかにあるのだろうが。

でも、地球は丸いのだから、
どこどこでという前提を置かないと、
特に東西は、難しい。
南北は、北極、南極があるので、
「最」には最後にはそこにたどり着くが、
東西には、「最」に終わりはない。
南北だって、人間が、
ここを一番北、一番南と決めただけのことである。
多分に、恣意的である。
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●デジタル機器:No. 34(420)● 2002.07.22
セキュリティのための確認は大変である。
コンピュータ2台、デジカメ2台を出して、
動くことを示さなければならない。
むこうも仕事だろうが、
いやになってしまう。
しまうのが大変だし、手伝ってもらうと、
余計に時間がかかるので、結局自分でしまうことになる。
デジタルにして物量は減ったのだが、
数が多いので大変である。
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●信頼性:No. 35(421)● 2002.07.22
デジタルの場合は、確実性が定かでないので、注意が必要だ。
その点、原始的なほど、確実性が高い。
ノートに鉛筆究極のモバイルである。
最後になるかもしれないが、
このMobileGearでメモを書くことにする。
この手軽さは、捨てがたいものがある。
単三2本で、20時間以上駆動するし、
蓋をあけたらすぐに入力できる。
こんなすばらしい装置はない。
単三ならどこでも入手可能だし
なんといっても手軽である。
しかし、前回も今回も
このMobileGearの不調で泣かされた。
この不安感だけが問題である。
十分な信頼性。
それが一番大切である。
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●雷雨:No. 36(422)● 2002.07.22
雷雨で、飛行機の出発が遅れる。
でも、たいした雨でも雷雨でもなかった。
でも、安全には代えられない。
これは、不可効力。
でも、この遅れは、カオスのようにすべての結果に、
齟齬をきたさなければいいのだが。
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●論理トリック:No. 37(423)● 2002.07.23
例えば、
「この世に、絶対に正しいということはない」
となると、上の文章は、正しいのだろうか。
論理トリックの一種だろう。
今度論理学を少々勉強しておく必要がある。
「この世」という集合を考える。
この文章は、その集合の中にあるとすると、文章は矛盾する。
意味を考えなければ、「この世」の集合の中に入れてもいいはずである。
「この世」の集合の外にいれば、
この文書は、矛盾しない。
その集合の構成物に対して、いかような評価を下しも矛盾は生じない。
共通の特徴を述べたことになる。
よくある例だが、
「この文章は、間違っている」
というような文章は、論理的に、どう考えるのだろうか。
やはり同じように考えればいいのだ。
「この文章」という集合の中に入れば、矛盾が生じる。
「この文章」という集合の中に入らなければ、矛盾は生じない。
気をつけないと、いけない。
「この世」には、もっと複雑な論理的トリックが
いっぱい隠されているはずだ。
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