思いつくまま

No.0206 (2002年6月分)
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目次 
●哲学の教科書:No. 376● 2002.06.27
●雪:No. 375● 2002.06.26
●1周年の感謝(初校):No. 374● 2002.06.26
●教育は難しい:No. 373● 2002.06.24
●大人は素直じゃない:No. 372● 2002.06.21
●知りようのない世界:No. 371● 2002.06.20
●虚数:No. 370● 2002.06.19
●西洋化:No. 369● 2002.06.15
●孤独:No. 368● 2002.06.14
●幸運でなければならない:No. 367● 2002.06.12
●はじめての哲学史講義:No. 366● 2002.06.11
●季節の移ろい:No. 365● 2002.06.11
●個性の範疇:No. 364● 2002.06.10
●評価:No. 363● 2002.06.07
●地質と哲学:No. 362● 2002.06.07
●読書時間:No. 361● 2002.06.07
●不調と快調:No. 360● 2002.06.05
●立ち止まること:No. 359● 2002.06.04
●構造主義科学論の冒険:No. 358● 2002.06.03
●夏風邪:No. 357● 2002.06.03


●哲学の教科書:No. 376● 2002.06.27

中島義道「哲学の教科書」
(ISBN4-06-159481-8)
を読んだ。
久しぶりに、本を読み終えたような気がする。

この本は、哲学することの根本的なことをあつかったものである。
非常に面白かった。
そして、私はとってもじゃないが哲学者にはなれないことがわかった。
それだけでも、この本を読んだ価値があった。
この本では、哲学の根本的問題として、
死、時間、因果、意志、私、他者、存在
などについて、そのさわりを紹介している。

抜書きをしようとおもったが余りに多いのであきらめた。
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●雪:No. 375● 2002.06.26

北海道は寒い日を迎えている。
雪が降ったというニュースもあった。
先日の日曜日、車で買い物に行ったとき、
長男が、
「なんで、あの木の下に雪があるの」
という。
見ると、ニセアカシヤの白い花びらが散って、
まるで雪が降っているようにみえる。
通勤している公園の道も、
白いニセアカシヤの花びらがたくさん散って、
舞っていて、まるで雪のように見える。
しかし、長男に雪のように見えるという指摘をされなければ、
単に花びらにしか見えなかったであろう。
ある視点をもつと、それも選択肢に加えられる。
それは、思考のパターン化を起こす可能性もあるが、
自分にない発想であれば、
思考の多様性をもたらす。
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●1周年の感謝(初校):No. 374● 2002.06.26

じつは、この「思いつくまま」を書き始めて
2001年6月2日からはじめている。
そして、今年の6月3日にはNo.357になっている。
毎日とはいかないが、
平均するとほぼ1日1回ずつ更新してきたことになる。
だから、1ヶ月遅れの
発行1周年記念である。
どこかで読んでいる誰かに向けて発信してきた。
私信めいた内容も多かったし、
日記めいた部分もあった。
これをはじめるとき、
私の転進があると、思ってもいなかった。
事実、まだ公募の話もおこってなかった。
そして、今、転進してここにいる。
不思議な気がする。

知っている人も、転進をした。
ClubGeoおよびMetamorphicの菅井さん。
ClubGeoの中村さん、前田君、小嶋さん。
ClunGeoに新しく加わった、富谷君、青木さん。
EPACSのメンバーの方々。
Dialog1の鈴木さん。
Dialog2の小原さんとその娘さん。
「話の種」の小島さん。
私が知っているだけでも
多くの人が、転進している。
メールマガジンの読者で
私とメールを何度も交換している方々。
私との交流が新しく生まれた人は、
そのことによって、ささやかではあるが
目に見えない変化しているはずである。
そして、転進や変化には、
それぞれの思いと期するものがあるはずである。

わたしは、「思いつくまま」を書くということは、
他人に向けてといいながら、
実は、自分に向けて書いていたような気がする。
そして、全部は読み返してはいないが、
その時に感じていたことを、
いまだに同じ思いでいること。
あるいは、今の思いは違っていること。
あるいは、書いた内容は忘れてしまっていること。
いろいろなものがあるだろう。

でも、ここに書いたものは、
すくなくとも記録に残り、
読む気になった人には、いつでも読めるのである。
これを読んだ人は、
読んだ時点で、過多を問わなければ、
何らかの影響を受けるのである。
それは、私の知らないところでの変化である。
そんな、面白さと同時に怖さが、
インターネットの世界にはある。
これからも、私が書きたいと思う限り続けていこう。
私と交信して下さった方々
何度も読んでくださった方々。
一度でも読んでくださった方々。
感謝申し上げます。
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●教育は難しい:No. 373● 2002.06.24

最近、哲学の本を読んでいるせいか、
非常に根本的なことに悩んでしまう。
教育は難しい。
悩みだすと、きりがない。

うちの長男は4歳で、次男は2歳である。
それに対して親である私は、
どのように育てればいいのかすら、
迷っている状態である。
かたや、大学では、
地質学とは、科学とは、
と大学生に向かって、授業をしている。
教育者として、ジレンマに陥いる。
自分自身の子供にすら、
満足できる教育ができないのに、
大学生にどのような顔をして教育すればよいのか。
サラリーマンとして、
教育も給料分として、何も考えずすればいいのだろうか。
それとも、このような感情に流される人間は、
教育現場から排除されるべきなのだろうか。

大学だけでなく、小・中・高校と多くの先生が、
世の中にはたくさんいるはずである。
そのうちの何割かは、子供を持っている親のはずだ。
彼らは、家庭で満足できる教育をしているのでだろうか。
もし、してないとしたら、
職業としての教育をどのように割り切っておこなっているのだろうか。
二重人格者のように、家庭と学校の教育は別物として、
割り切ってしまうのだろうか。
答えがあれば、教えて欲しいものである。
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●大人は素直じゃない:No. 372● 2002.06.21

大人は素直じゃないから、
自分の心を納得させるのに、
あれやこれやの理屈や論理をひねくらないといけないようである。
私が、転職するときに、多くの人に、
何故転職するのかを語ったり、
ホームページにくどくど説明文を書いたりした。
実は、他人に説明するというのは 、
自分の心に対する欺瞞で、
つまりは、自分の心に何度も理由説明をして、
納得してもらうという手続きだったのかもしれない。
本当に、心と正直に付き合うのは、
大人になるほど手間がかかる。
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●知りようのない世界:No. 371● 2002.06.20

「見える」ということは、青眼者には、当たり前のことでる。
青眼者が見えなくなると、
「見える」ということのありがたさがよくわかる。
最近は、教員免許の一環として、
福祉施設でも実習があったり、
福祉の講義を開講するところも多くなった。
その影響か、「見えない」ということを経験するためか、
一方が目隠しをして、
もう一人が目隠しをした人に手や肩を貸しながら
歩くグループを見かけることがある。
これも、「見えない」世界を経験するということであろう。
そして、「見えない」で行動することの
大変さを理解することになるわけである。

でも、見えないということは、
別の次元での困難さもある。
「見える」ことのみによって得られる性質や概念である。
色や模様が、その一番いい例かもしれない。
その他にも、
手で触れることのできない空、雲、山、景色や、
見るしかない巨大なもの、
恐竜、ビル、タワー、海、湖、船などのスケール感は、
もはや、「見る」しか得れない情報である。
でも、それが素晴らしいものであればあるほど、
視覚障害者も知りたいだろうし、味わいたいのである。

これは、青眼者が目隠ししても、
決して味わえない世界である。
途中失明者の多くは、この世界を知っている。
だから、途中失明者ですら、
これがない世界は、知りようがない。

逆に、もしかしたら、
先天視覚障害者しか知り得ない世界をもっているかもしれない。
それは、彼らも意識していない世界かも知れない。
もしそんな世界があり、
視覚障害者が、それをごく無意識に、
当たり前に利用しているのかもしれない。

そんな視覚障害者の知りようのない世界、
そんな健常者が知りようのない世界を
どのようにして知り、補うか。
これは、青眼者からのアプローチだけでは、
完成するはずがない。
視覚障害者との連携が不可欠である。
そして、そのような連携でつくられたものや考えは、
もしかすると、視覚障害者のためだけでなく、
青眼者にも役に立つ、素晴らしいものかもしれない。
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●虚数:No. 370● 2002.06.19

ある人との会話で、虚数というものができた。
虚数とは、2乗して-1になるという性質がある。
虚数に対応する数は、実数である。
実数は、なじみのある数である。

でも、虚数は、仮想世界のものではない。
現実の各種の現象を記述するのに不可欠な数の体系である。

たとえば、量子力学という小さい世界の現象は、
虚数をもちいて記述される。
つまり、量子力学があつかうような現実の自然には、
虚数をつかってのみ記述される世界があるわけである。

名前こそ虚数だが、
現実世界と対応しているのである。
虚数は、英語でimaginary numberという。
まさに人類が想像力によって創りだした数が、
自然のより深くを見る道具になったのである。
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●西洋化:No. 369● 2002.06.15

西洋化が
あたかも進歩であり、
一番良いことのように思われがちだがが、
もしかすると、
西洋化して便利になることによって、
かけがえのないものを失っているもかもしれない。
そして、形のない文化は、
一度消えていくと二度と再生できないものもあるかもしれない。
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●孤独:No. 368● 2002.06.14

でも、もしかすると、人は、さびしがり屋で、
誰かに自分を見守って欲しいのかもしれない。
それは、「この世」に人でなくてもいいのかもしれない。
「あの世」でも、
自分の心の中の亡くなった人の思い出でも
いいのかも知れない。
孤独を愛する人とは、
もしかする、
誰も見ていないという無人の視線を浴びることが好きな人、
あるいは
自分の視線の中にだけ自分をおきたい人
なのかもしれない。
ということは、やはり、孤独を愛する人ですら、
さびしがり屋なのかもしない。
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●幸運でなければならない:No. 367● 2002.06.12

生物において、絶滅は、
青天霹靂、天変地異のようなものである。
どんなに成功していても、
どんなに繁栄していても、
どんなに強力でも、
その日は、突然、来る。
そして、それは避けようもなく訪れる。
ある日、無慈悲にも、絶滅の日がくる。
栄えるものも、久しからず。
そして、そんな天変地異を生き延びるには、
強いからだけでは、ダメである。
なんと言っても、幸運でなければならない。

ワールドカップ・サッカーも
日本チームは順調に勝っている。
しかし、まだまだ予断は許されない。
前評判の高かった、フランスやナイジェリアでも、
幸運なチームにはかなわなかった。
そして、アイルランドのように特別に強くなくても、
不屈の精神で、幸運を呼び込むようなチームが生き残るのである。
そんな、どんでん返しというか天変地異が
スポーツの世界では、よく起こるようである。
まるで、生物の絶滅の縮図をみるようである。
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●はじめての哲学史講義:No. 366● 2002.06.11

鷲田小彌太著「はじめての哲学史講義」
(ISBN4-569-62171-6)
を読んだ。
わかりやすくさらりと哲学史を書いている。
読みやすく、さらりと読めた。

デカルトの「わたしは考える。ゆえに、私は存在する」
(cogito, ergo sum)は、
「第一原理。「思考」と「物質」は自立している。
思考世界も、物質世界も、他に依存することなく存在している。
第二原理。人間の思考はこの物質世界を「認識」
(くまなく理解)することができる。
第三原理。人間は平等である」

デカルトは物質世界を
「明晰・判明」(clara et distincta)という方法で認識できるとした。
デカルトの思考技術の方法(方法叙説)は、
「第一、即断や偏見を避け、疑う余地のないもの以外は、
自分の判断の中に入れない。
第二、健闘しようとするものをできるだけ、
また解決するに必要なだけ、
多数の小部分に分割する。
第三、最も単純なものから、段階を踏んで、
最も複雑なものに達するように、自分の思考を秩序だてて働かす。
第四、何一つ落とさなかったと確信するほど、広く健闘する」

ヒュームの哲学を、
知覚一元論、不可知論、感性論をまとめ、
「1、知覚に現れない外界存在(物質)については、
哲学は何もいうことができない。
2、知覚に現れた存在は、「知覚の束」である。
この「知覚」は「断片」(瞬間)である。
3、知覚の断片を集合し、知覚の束に「同一性」を与え、
ある秩序をもった存在にするのは、
反復(繰りかえし同じことが生じる)であり、習慣である。
4、それゆえ、ある「原因」と
それに続くある「結果」の間には「必然性」はない。
加工に同じことが繰りかえし起こったから、
今度も同じことが起こるという蓋然性があるにすぎない。
5、ある原因から、ある結果が生じるという推論(理性認識)は、
すでに過去になった知覚の連合にすぎない。
理性はカームパッション(calm passion熱の冷めた感情)なのだ。
6、人間と人間集団を基本で動かすのは
パッションの力(感性)である。
反復、習慣、先例、伝統という形で
個人と社会を基底で支配している衝動力、
無意識との共同の無意識である。
私が思うに、
ヒュームの考えは、「知覚の束」を集めて「同一性」を与え、
「反復」であり、習慣によってある秩序が与えられている。
そこには、原因と結果という必然性がなく、
習慣による蓋然性しかない。
というあたりは、面白い。
もし、地質学から、原因と結果という必然性がきえたら、
地質学という学問は成り立つか、
蓋然性だけで地質学が成り立つかどうか、
などというのは、面白い命題である。

「構造主義の登場によって、
ヒューマニズムか反ヒューマニズムか、
資本主義か社会主義か、
階級闘争か否か、
知か無知か、
科学か神話か、
等の「二項対立」的構図ではことがらが解決しないことが
わかるようになります」
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●季節の移ろい:No. 365● 2002.06.11

あさ、雨さえ降ってなければ、
公園の中の土の道を歩いてくる。
すると、いつもなにか土の道に落ちている。
いままでも、あっこんなものがおちている、と
気付きはしていたのだが、
今朝は、木の花びらが落ちていた。
思い越してみると、いままでもいろいろな生き物の
生活の痕跡が残されていた。
ある時は、花びら、葉、虫、ミミズ、種などなど。
これが季節の移ろいというものなのだろう。
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●個性の範疇:No. 364● 2002.06.10

生き方が、
ネガティブであろうが、ポジティブであろうが、
どうでもいいと思っている。
ネガティブやポジティブというのは、
自分の意見の表現の仕方であるから、
人からとやかく言われる筋合いのものでもないし、
その人に向かってとやかく言う筋合いのものでもない。
それは、個性の範疇である。
だから、個性を批判するのはよくない。
それより大切なのは、見方や立場のユニークさである。
そして、その考えがユニークであれば、
その人が、あまりない見方や立場を外に向かって
発信していくことが、大切である。
あとは、聞く側の問題である。
そして、より多くの人に聞いて欲しいという要求が出た時、
はじめて、ネガティブかポジティブかどちらが有効かという
表現の仕方が出てくる。
それは、そのとき自分で考えればいい。
その考え方も、出た結論も、個性の範疇である。
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●評価:No. 363● 2002.06.07

また聞だが、
グールドは、
”偶然が必然に転化する”法則を知らない
という評価が赤旗に載ったそうである。
私には、その評価の意味がよくわからない。
しかし、そんな法則を知らなくても別にいいと思う。
その法則が、評者が考えた法則だ、評価の価値があり、
素晴らしいことなのだが。。。

グールドは、
科学においても、
ものごとの考え方において、
もっと独創的なことを成し遂げたように思う。
だから、評価はそのような点ですべきでであろう。
赤旗の評価は、あまり的を得てないような気がする。
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●地質と哲学:No. 362● 2002.06.07

わたしにとって、必要な哲学とは、
哲学者が長年かかってつくり上げてきた、
多くの思考方法である。
弁証法や反証主義、構造主義などの
思考パターンである。
その手法で、なにをどう考えたのかは、
私には必要ないのである。
私は、地質学に哲学を学ぶことで、
新しい考え方が導入できないかと考えている。

私は、今、哲学史の入門書をいくつか読んでいる。
そして、原典がついている教科書をいくつか目を通している。

今、ヒュームが、少し気になっている。
ヒュームの考えは、
「知覚の束」を集めて「同一性」を与え、
「反復」であり、習慣によってある秩序が与えられている。
そこには、原因と結果という必然性がなく、
習慣による蓋然性しかない。
というあたりは、面白い。

もし、地質学から、
原因と結果という必然性がきえたら、
地質学という学問は成り立つか、
蓋然性だけで地質学が成り立つかどうか、
などというのは、面白い命題だとおもう。
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●読書時間:No. 361● 2002.06.07

3月までは、通勤時間で、
読書時間を最低限確保できた(1時間程度)のだが、
今では、30分ほど歩いて大学に通っている。
健康にはいいのだが、
読書時間を作ることができないのが、つらい。
だから、読みたい本をいつも手元において、
時間があれば、読むようにするという作戦をとることにした。
でも、絶対的に時間が少ない。
つらいところである。

まあ、社会人で、
ふんだんな自由時間をもっているというような人は
ほとんどいないだろう。
はたから見ていてひまそうに見える人も、
彼の心の中では忙しく、
何かに追われているかもしれない。
私をみた他人は、暇そうに見えるかもしれない。
だから、与えられた24時間を
いかに有効に使うかが問題である。
がんばって時間をつくりしかないのだろう。
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●不調と快調:No. 360● 2002.06.05

まだ、風邪が抜けない。
治療した歯も麻酔が切れて、少々痛む。
不調である。
考えると、ここしばらく、快調の時期が訪れてないような気がする。

もしかすると、快調などというのはなくて、
普通の状態があり、
その時、順調にことが運べば快調とかんじるのかもしれない。
あるいは、少々不調でも、
ことが順調なら、快調なのかもしれない。
あるいは、天気がよく、晴れ晴れとした気分なら
快調なのかもしれない。

快調なんて、そんなささやかな気分の変化かもしれない。
とすると、今は、順調にことが進んでないということなのだろうか。
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●立ち止まること:No. 359● 2002.06.04

学会と風邪でしばらく休んでいたので、
仕事が溜まっている。

しかし、なんとなく、忙しさの中に
少々余裕というべきものが生まれたような気がする。
それは、もしかすると、
風邪で少し休み、休養したせいかもしれない。
つまり、走り続けていると、忙しいのだが、
少し立ち止まると、余裕ができるのかもしれない。
もしそうなら、どきどき立ち止まるべきかもしれない。
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●構造主義科学論の冒険:No. 358● 2002.06.03

池田清彦著「構造主義科学論の冒険」
(ISBN4-06-159332-3 C0140)
を読んだ。
久しぶりに、しっかりしたものを読んだ。

構造主義に基づいた科学論の展開である。
面白かったが、やはり理解できない部分があった。

本文より。
「 理論(構造)というのは我々の頭の中にあるのであって、
我々とは独立にどこかにあらかじめころがっているわけではありません。
理論は外部世界の中に発見するものではなく、
我々の頭の中に発見するものです。
頭の中にある何かを発見することを発明と呼ぶとするれば、
理論は発明されるべきものなのです。
 ここで人間の脳の機能は、何らかの限界性を持つと考えれば、
人間の脳が発明し得る可能な構造(理論)は
すでにあらかじめ決定しているとも考えられます。
すなわち我々は、あらかじめわかる事しかわからないのです。」

「ダーウィンの功績は、
生物はすべて進化しうる構造(形式)をもっていること明らかにし、
その形式を記述したことにあります。
すなわちダーウィンは、生物であることと、
進化をすることは実はおんなじだと言ったわけです。」

「変異の内部形式を問わなくとも、
生物の変化(小進化)は説明できるでしょう。
しかし変異の内部形式を問わなければ、
壮大な進化史の全部を説明できっこない、
と私は考えます。」

「多元主義の原則はポジティブなものでなく、
ネガティブなものです。
他の文化や伝統を抑圧する一元論的なルールを認めない、
というのが多元主義の唯一のルールです。
人々の恣意性の権利を擁護するとは、
制度、文化、伝統自体を擁護するのではなく、
それらの無根拠なルールに対する人々の選択の自由を
保障するということです。
多元主義社会の規範(もちろんこれも無根拠なものです)は
人々の恣意性の権利(すなわち自立的な選択と拒絶)を
勘案することなく、
不可避にこれを侵害する制度を排除しよう、
ということだけです。」
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●夏風邪:No. 357● 2002.06.03

先週、28日に学会のために東京に行く日に、
突然の風邪。
激しい下痢である。
子供が先日かかった病気にそっくりの症状である。

しかし、発表があるので出かける。
必死の思いで、東京での用事を済ませる。
30日には、家内が同じ症状の風邪をひいた。
私は、金曜日には大学で講義をこなす。
しかし、土曜日からのどが痛くなり、
土曜日にはだるくなる。
日曜日には不調で、
今日は大学を休む。
これも風邪で、家族たちが先日来、
ひいていたものである。
2つの風邪を続きで引いたので、
1週間ほどほとんど何もできなかった。
おかげで、読書がはかどった。
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