目次
●トラブル:No. 356● 2002.05.27
●巨星、逝く:No. 355● 2002.05.24
●雨:No. 354● 2002.05.23
●仲間たち:No. 353● 2002.05.22
●研究のリズム:No. 352● 2002.05.21
●新しい習慣:No. 351● 2002.05.20
●ネンアンデルタール:No. 350● 2002.5.18
●ハリーポッター:No. 349● 2002.5.19
●さよなら古い講義:No. 348● 2002.05.17
●有益な事:No. 347● 2002.05.17
●ミステリー:No. 346● 2002.05.16
●リンク:No. 345● 2002.05.15
●労働:No. 344● 2002.05.14
●訃報:No. 343● 2002.05.10
●春の爽快感:No. 342● 2002.05.09
●時間感覚:No. 341● 2002.05.08
●君子:No. 340● 2002.05.07
●金で買うサービス:No. 339● 2002.05.05
●死を抱く氷原:No. 338● 2002.05.04
●弁証法をどう学ぶか:No. 337● 2002.05.01
忙しい時限ってトラブルが起きる。
カラープリンターの調子が悪い。
学会発表に行くためのOHPが打てない。
間違いのはじまり。
1. 純正のOHPシートではなかった。
これは、生協に確認し購入した。
純正品と生協はあわてて取り寄せ、交換してくれた。
2. つぎに、OHPをいれたら、いれたOHPが巻きついて
おくにはさっまていたのがとれない。
熱いので冷まさないとだめ。
2度やったがダメ。
3. よく見ると中にOHPシートが1枚巻きついていた。
それをとったので、今度は再度調整して打ち出す。
サービスエンジニアが来るまでに打てるかもしれない。
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グールドが死んだ。
スティーブン・ジェイ・グールドが、
20日、ニューヨーク市内の自宅でがんのため死んだ。
享年60歳。
若いとはいわないが、
早すぎる死である。
世の中には、
60歳前でも、定年してもらいたい人がいるかと思えば、
70歳でも80歳でも現役でいて欲しい
グールドような人もいる。
私がいる大学は、5年間在籍すると、
1年間海外でも国内でも、研修にでることが許される。
そのとき(5年後)には、私は、
できればグールドの所に行きたいなと考えていた。
専門は、彼が古生物学、
私が、地球化学や岩石学で、ちがうのだが、
グールドが長年おこなってきた、
地質学を深く考え、そこに哲学的考察を加えるという研究手法は、
私が、今後、進めたいと思っているものであった。
そんな大先達であるグールド氏が逝ってしまた。
目標としようとしていた矢先の死である。
残念である。
非常に残念である。
読売新聞死亡記事より
ニューヨーク出身。
1967年にコロンビア大で博士号(地質学)取得、
1973年からハーバード大教授。
生物進化論や古生物学などの分野で、
自然の謎を解き明かした一般向けの書物やエッセーを多数発表、
世界的に著名となった。
進化に関しては、生物は徐々に進化したのではなく
急激に進化したとする「断続平衡説」を提唱した。
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天候が、目まぐるしく変わる。
晴れの日には、半袖でいいくらいだが、
曇りや雨の日は、肌寒く、コートが欲しいくらいである。
昨日は、晴れで、
抜けるような、吸い込まれそうな青空であった。
今朝は、湿気が多く曇りだった。
池にも朝霧が漂っていた。
多分、涼しく湿気も多かったからであろう。
その後も暖かくならず、雨となった。
まあ、こんな日があるから、
快晴の日がありがたく感じるのであろう。
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昨日は、大学の寮の仲間と飲んだ。
寮の先輩がすすきので飲み屋をやっている。
カキとワインの店である。
大学の講師をやめて、
現在は夜は飲み屋、
昼間は、臨床心理治療師としてカウンセリングをしている。
どちらも好きなことで、満足しているそうである。
素晴らしいことである。
自分の一番やりたいことに、自分の人生を捧げられるのは。
同級生は、専門学校の新任講師。
最近ワインを好きで飲み始めて、
それが昂じて、ソムリエの資格をとったらそうだ。
道庁の職員。
日高の横断道路の厳しい状況を伝える。
それに対し、北海道新聞の記者2名。
突っ込む。
でも、同じ釜の飯を食ったもの同士。
記者会見では決して聞けない
本音が出し合える。
そんな共通項をもっているのが仲間であろう。
そして、最後には、昔の思い出話や、
他の仲間の話。
心は20数年前にワープしていく。
楽しい酒であった。
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私の、生活のパターンはだんだんできた。
しかし、研究のリズムというか、やり方がまだ定まっていない。
いつもなにかにおわれていて、
自分意志というより、
時間が来るから、
次はこれ、その次はあれというように、
次々と、何かが、押し寄せくる。
まだ、研究のリズムというか、パターンがつかめない。
ふと気付くと、1週間、2週間があっという間に過ぎていっく。
この環境になって、2月近く立っている。
でも、未だに、リズムやパターンがつくれない。
いったい、いつになったらリズムやパターンができるのか。
あるいは、リズムやパターンのようなものが、
できるかどうかも不安になってきた。
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新しい習慣をはじめるつもりである。
実は、この言葉は、おかしい。
習慣というのは、すでにある行動に対してつけられるもので、
新しくはじめるものではない。
もし、新しくはじめるのなら、
それは、定着してから、習慣と呼ぶべきだし、
あるいは、単に「習慣にしたい」という
願望の意思表示にすぎないのである。
はなしはそれたが、
「習慣にしたい」こととは、
ある人のところで、3時にはお茶を飲むこと。
それだけのこと。
ティータイムを一緒にである。
先日飲んだ時に、欧米でのはなし、
わたしが博物館でおこなっていたことから、
この習慣は、無駄も多いが、益も多い。
はじめてみて、無用であれば、消えてしまえばいい。
習慣にならなくてもいい。
なったとしたら、そこには何らかの必要性があるからだろう。
今日はもらいもののクッキーをもってきた。
今日の3時には学部長室でお茶を飲もう。
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●ネンアンデルタール:No. 350● 2002.5.18
ジェン・ダーントン著「ネアンデルタール」(ISBN4-7897-1530-2 C0197)
を読んだ。
古人類学者が、その絶滅の説を考え、
ネンアンデルタール人を発見して、彼らの絶滅の原因について考える。
その中の一節。
「新種はいつだって発見されているんだ。
その肉が地元の市場で売られていたり、
現地人が奇妙な模様のある毛皮を胸に飾っていたりすることさえある。
前世紀には、地元にさまざまな逸話が伝えられているにもかかわらず、
マウンテン・ゴリラの存在を信じる者なんかいなかった。
誰も見たことがなかったからだ。
ほんの3000人ばかりのアフリカ人を除いて」
「地球の表面から海を差し引き、
砂漠と高山と極地を差し引いたら、
あとに残るのはどのくらいだと思う?
およそ20%だ。
おれたちは地表の5分の1だけを占拠して、
人間はどこにでもいる、
ほかの者のための場所なんか残っていないと考えているにすぎない。
競争相手の存在なんか想像さえしないんだ。
だがな、この地球に棲んでいる人間が自分たちだけだなんて考えるのは
、この宇宙に生物の存在する惑星は地球しかないと考えるの、同じくらい不合理なことじゃないのか」
「脅威がさほどでないものは珍説って扱いになる。
学術誌では不利な扱いを受け、
ほかの研究者にあざけられ、
マスメディアはそれを面白おかしく取り上げる。
だがこいつみたいに本当に革命的なものだと、
向こうも全力を上げて阻止しにかかるんだ。
昇進の道は絶たれ、町からは逐われ、
波一つ表には出ない。
誰だって間抜けに見られたくはないからな」
「予期しない逆境にもすぐに順応してしまうのが人類の特質だ。
人類が生き延びてきた秘密は、意外とそんなところにあるのではないか」
遺伝的浮動とは、「基本的には遺伝に適用される統計だよ。
小さな孤立した集合においては、
ランダムな出来事の影響が拡大されて現れることがある。
遺伝子に生じた突然変異が、
あっというまに永久性を獲得してしまうのだ。
より大きな集団で生じた場合に比べて影響力が大きく、
劇的な変化が短時間のうちに成し遂げられることもある。」
「人間がジャングルの獣と違うのは道徳を持っている点、
そして自分が確実に死ぬと知っている点だ。
道徳と死、それが文明の二本の柱なのだ。
それはほかのあらゆるものに優先するのだろうか
−言語、学習、発明、科学的発見、医療、プトレマイオス、ガリレオ、ニュートン、パスツール、アインシュタイン。
人類最初の発明である車輪のことを考える。」
「人間の耐久力というものを象徴しているように感じたのだ。
絶対にあきらめないというこの態度、
分の悪い賭けさえひっくり返してしまうことの忍耐力によって、
人類はここまで生き延びてきたのだ。
進化の中で選ばれた種となったのは、
人類が進化というものに選択をまかせてしまわなかったからなのだろう。
人類がつねに計画し、期待し、策をめぐらしてきた−歴史の中を抜け目なく渡ってきたのだ。」
同時期に共存していたネアンデルタールとホモ・サピエンスで、
「なぜわたしたちであって、彼らではなかったのか?
彼らが死に絶えたのに、なぜわれわれは生き延びたのか。
知性はどちらも同じようなものだけど、向こうは体力に優れ、
たぶん数も多くて、少なくとも百万を超える個体がいたはず。(中略)
彼らはどんな重要な特性を欠いていたのか(中略)欺瞞よ。
他人を騙す能力」
「ある面で、欺瞞と知性の関係は切っても切れないものなのよ(中略)
それがあるから世界を操作することができる。
人間は脳によって知性を得、狡猾さによって知恵を得たのよ」
「幻想と驚きをもたらす能力と思えばいいのだ(中略)
それがあったから、芸術と魔法と音楽と物語が生まれた。
それは、人間の持つ心の目であり、人類は想像力によって自身を外部に投影しているんだ」
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●ハリーポッター:No. 349● 2002.5.19
昨日の午後、
先日購入したDVDの「ハリーポッター 賢者の石」
を家族でみた。
長男(4歳)は、
面白がったり、怖がったりしながら、最後までみていた。
しかし、夜中、うなされながら何度もおきて、
ねぼけなから「ハリーポッター怖い」といっていた。
小・中学生や大人には、面白いものが、幼児には怖い。
長男には、恐怖と面白さが、別々の存在としてあったのかもしれない。
そのうち、恐怖だけが、強い印象として残ったのであろう。
「恐怖」が、「面白さ」と別々の存在ではなく、
「恐怖」が、恐怖が面白さへ、
いつ、どうのように転化、転換されるのだろう。
4歳児、まだ心の発展途上である。
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田中一著「さよなら古い講義」
(ISBN4-8329-3261-6 C1037)
を読んだ。
この本では、「質問書方式」というやり方で、
講義をされた結果をまとめられ、
それは、誰にでも適用可能で、効果もあるはずと示されている。
しかし、私は、考えさせられたの同時に、
不思議な本でもあった。
この本は、学部の研究会に田中氏が来られて、頂いた本である。
著者の教育に取り組む熱意には心打たれるものがある。
それと、常に前向きに物事に取り組まれている姿勢にも
感動するものがある。
では、自分がこの教育方式を取り入れるかどうか、
判断に迷うところである。
私は私なりの方法論で、教育に取りくんでいる。
また、もし、この方式を学校の全教員が取り入れたら、
もはや革新的でなくなる。
また、多様化を考えるのであれば
他の手法も、常に工夫しておくべきであろう。
たしかし、面白い試みだし、充分な時間をとれば、
それに対応することも可能であろう。
自分の場合は、
今年は不可能である。
来年は、今年の様子と、自分の教育観を考えて
再考する必要があろう。
確かに、面白い方法である。
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メールマガジンへのレポートして、
ある人から、
「人間がいるから『この世』が”有る”」
そして、
「『この世』に存在する他のモノにとっては」、
「もしかすると『この世』は”無く”でも良いのではないか」
という内容があった。。
それに対する私のコメントが以下のものである。
「この世」を「無くす」前に、少し考えましょう。
「この世」に存在する、すべてとはいかなくても、多くのものにとって
「有益な事」があれば、「この世」はあっていいわけです。
そんな最大公約数のような「有益な事」はあるのでしょうか。
もし、「有益な事」があったとしたとき、
その多数の中に、人類は「有益」ではなく、「無益」なものとなったら、
人類は自滅する勇気があるでしょうか。
多分ないでしょう。
その背景には、以下のような思いがあるからではないでしょうか。
別のエッセイでも書いたのですが、
人類を種として考えると、生命全体の種の中で、
さまざまな面で多数決をとると負ける可能性が高いのです。
例えば、種の生存時間、種の中の個体数、繁殖力、
生命力、飛ぶ能力、泳ぐ能力、走る能力、腕力、など、
どれをとっても、他の種の方が勝ります。
ただ、勝てそうな点は、1つだけあります。
それは、よく言えば「知性」、
悪く言えば「ずるがしこさ」のようなものです。
人類は、弱い種ですが、
この知性を使って生き延びて、現在に至っています。
知性を、どう生存競争に使うか。
それは、今までの人類が取ってきた歴史のすべて(総体)が
答えとなっているような気がします。
他の選択肢がたくさんあったと思いますが、
私たち人類は、結果として、この道をきたのです。
だから、自滅などしないでしょう。
必死で勝ち取った現在の地位なのですから。
というコメントを返事とした。
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朝、いつものように公園の中を歩いていると、
すごい草の匂いがした。
見ると、草刈をした後のため、
そのような草の匂いがしたようだ。
ところが、思い返してみると、
不思議なことに気付いた。
昨日、同じところを歩いて帰ったが、
そんな匂いはしなかったのである。
あるいは、匂いの記憶がないのである。
ちょっとしたミステリーである。
まさか、夜や早朝、草刈をしたとは思えない。
多分、昨日の夕方、歩いた時、
匂いが鼻には達していたのだが、
意識をしなかったのだろう。
匂いによって、注意を惹起させられなかったのであろう。
これは、もしかすると、
人間の五感のうち、視覚優先の現われなのかもしれない。
あるいは、夕方疲れて帰ってくると、
五感もつかれていて、
微妙な匂いを感じ取れなかったのかもしれない。
朝は、五感がリフレッシュしていて、
よく感じ取れたのかもしれない。
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さまざまな人間関係がある。
それを、リンクとよぼう。
かつて住んでいたちに10数年ぶりにもどる。
すると、そこには、過去のリンクが
成長しながら、その地に存在している。
大学教養部時代の学生寮のリンク。
大学の学部時代のリンク。
大学院時代のリンク。
それぞれが、微妙に弱いリンクを持ちながら、
それぞれ、独自に存在する。
そのリンクが、私に対して働きかける。
私は、過去のリンクに戸惑いながらも、
懐かしさや、過去の変わりなさ、そして変化を楽しみながら、
それらのリンクに組み込まれている。
そして、職場での新しいリンクにも組み込まれていく。
私の核となるものは固持しながらも
リンクは私を絡め取っていく。
これも、人間関係。
私も拒まないし、楽しんでいる。
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私が、仕事すること。
その大部分は、パソコンに向かっている。
そして、少しの時間、
教壇にたって、しゃべるという労働をする。
はたして、これは、本当の「労働」なのだろうか。
はたして、これは、生産的なことなのだろうか。
情報をいじり、理屈を捏ね、数字を弄び、
これが、真理に迫る道なのか。
もはや、額に汗する時代ではないのか。
額に汗することは、私にはできないことなのか。
自分の特性として、知的労働を選んだけれど、
知識や智恵という形のないものにしか、
その結果は残らない。
額に汗すること。
その「労働」が生み出すのは、
形あるもの。
目に見えないものを生み出すことへ、
不安に苛まれる瞬間が、ある。
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今日、知り合いの人の訃報を聞いた。
明日、その葬儀に参列する。
北海道に来たので、
そろそろ挨拶をしようと考えていた矢先の
出来事である。
交通事故であった。
それも、野外調査ででかけていたときの事故であった。
野外科学の宿命ではあるが、
野外調査では、デスクワークにない、危険が伴う。
それを恐れていては、何も出来なのだが、
でも、明日がわが身と、身の縮む思いをした。
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朝、大学に歩いてくる時、
行程の半分は、公園の中を歩いてくる。
今日は快晴。
早朝の公園も、さわやかであった。
ふと感じた。
北海道のさわやかさは、
本州のものと違う。
青空もすっきり抜けたような空だし、
さわやかさも、スカーンとしたものだ。
なぜだかわからない。
それが北海道の風土というものだろうか。
少し違っていたのは、
春の移り変わりのめまぐるしさだ。
公園は、 落葉広葉樹が多いため、
春に一気に葉っぱを出し始める。
それまで、枝と幹だけで、すかすかした景色が、
2、3週間で、まったく見かけのちがったものとなる。
そこに、めまぐるしく春の花が色を添える。
北海道の春は、いい。
多分、長い冬を越えて、
待ちに待った季節だからであろうか。
今年は、冬を経験してないのだが、
春の爽快感を、おすそ分けしてもらった。
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時間について考えた。
3月下旬まで、
私は、博物館の学芸員として、
あるいは神奈川県湯河原町の住人として過ごしていた。
それは、ほんの一月ほど前の状態だが、
ずっと前のような気がする。
いってみれば、それほど、いろいろなことが、
この一月余りの間に起こったということである。
五感というが、
それ以外の感覚も確かにある。
たとえば、上で述べた時間に対する感覚である。
時間とは、不思議なもので、
短時間にたくさんの出来事があると、
その時に流れる時間の経過は、
あっという間なのだが、
それ以前にあったことがらが、
遠くに追いやられ、ずいぶん昔に感じるようである。
あっという間の時間経過ほど、
実は、長い時間として感じられるのである。
時間的に同じでも、
その時間の間に過ごす人間の側に、
その時間を長く感じたり、
短く感じたりするようである。
でも、本当の時間とは、
いったいどっちなのだろうか。
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朝夕は、涼しくて、コートがあってもいいのに、
昼間は、風さえなければ、暖かい。
特に、南向きの部屋なので、暑いくらいである。
でも、若人たち薄着である。
これが、若さか。
それとも、気温に適応しきれない
自分の衰えか。
人はそれどれ、年相応というものをなんとなく持ってしまう。
もしかすると、それが、衰えの始まりかも知れない。
ついつい、風邪をひいたらとか、
もう若くなのだから、と
自分自身の中で、弱い自分を作ってしまう。
それこそが、衰えかであろうか。
しかし、こう言おう。
若い頃、無理をして失敗しているから、
慎重になっているだけである。
君子危うきに近寄らず、である。
ところで、私はいつから、
「君子」などと言うようになったのか。
中年老い易く、学成り難し、である。
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2日の夕方から、6日まで、家族サービスである。
2日の夕方、すぐ近く(車で15分)南幌温泉に宿泊した。
ゴールデンウィークは混んでいて、とれなかったが、
2日ならとれたからである。
3日、南幌町見学後、市の図書館を覗き、買い物。
4日、図書館で本を借りて買い物。
5日、沼のある公園へ行き、買い物。
変則勤務ではなく、カレンダー通りの勤務になると、
家庭サービスができるが、
そのサービス内容に、買い物が大抵含まれる。
金を使うことがまるで、家庭サービスのようになっている。
これいいのだろうか、と、ふと思った。
金を使わないで家族が楽しめること、
その方が、本当の家族サービスのような気がする。
金で買うサービス、それは、商品の一部である。
家庭へのサービス、を金で買うのは、変である。
明日は、家族への金を使わない「無料奉仕」である。
これが、望む家族のあり方かもしれない。
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ダイナ・スタベノウ著「死を抱く氷原」
(ISBN4-15-079754-4 C0197)
を読んだ。
いわゆるサスペンスものである。
家内が読んだものを、私も読んだ。
まあ、面白かった。
舞台が、北極圏の油田採掘という閉鎖的な場所での
サスペンス物語である。
極限状態でも生活が、
石油が富を生み、
その金と、科学技術にサポートされて、
極地での生活も快適に過ごせる。
しかし、ストレスの勝てない人間は、
麻薬なのどの現実逃避を図る。
そんな中で生まれたサスペンスである。
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●弁証法をどう学ぶか:No. 337● 2002.05.01
井尻正二著「弁証法をどう学ぶか」
(ISBN4-272-43046-7 C0010)
を読んだ。
井尻氏がどのようにして弁証法を勉強しているかを
エッセイ風にまとめたものである。
彼の哲学書が何故読みやすいかというと、
自然科学者あるいは地質学者の目で、
哲学を考えているからであろう。
その中で否定について考えている。
否定の歴史は、
アリストテレスに始まる形式論理学的否定は、
「否定判断としての否定」、
スピノザのいう「規定は否定である」とは
「規定即否定としての否定」、、
ヘーゲルの弁証法的否定は、
「すべての規定は否定である」という言葉は
「否定の否定(止揚)としての否定」
となっているという。
大変参考にある。
しかし、私の目指す地質の哲学とは違う。
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