目次
●新しい自分:No. 336● 2002.04.30
●意識改革:No. 335● 2002.04.26
●ミミズ:No. 334● 2002.04.25
●進化の大爆発:No. 333● 2002.04.24
●淮南子の斉俗篇:No. 332● 2002.04.24
●宇宙の語源:No. 331● 2002.04.24
●我、遠方より来る:No. 330● 2002.04.23
●大学の講義:No. 329● 2002.04.19
●読書時間の確保:No. 328● 2002.04.18
●式辞:No. 327● 2002.04.17
●私の主義:No. 326● 2002.04.17
●講義:No. 325● 2002.04.16
●弁証法における「否定の否定の法則」について:No. 324● 2002.04.15
●残業と前業:No. 323● 2002.04.15
●顔を立てる:No. 322● 2002.04.14
●論理と存在:No. 321● 2002.04.14
●生活者として:No. 320● 2002.04.14
●風邪:No. 319● 2002.04.13
●「Terraの科学」:No. 318● 2002.04.11
●科学の理解:No. 317● 2002.04.10
●はじめてを楽しもう:No. 316● 2002.04.10
●無限論の教室:No. 315● 2002.04.08
●学長の言葉:No. 314● 2002.04.08
●救急車:No. 313● 2002.04.7
●新しい知的資産:No. 312●2002.4.6
●新しい生活パターン:No. 311● 2002.4.6
●もったいない:No. 310● 2002.4.6
いつになれば、自分自身を取り戻せるのだろうか。
新しい環境は、楽しい。
しかし、新しさに適応するために、
自分らしさを失っているような気がする。
しかし、こんな愚痴が、もしかすると、
新しい自分自身をつくることでもあるのかもしれない。
「自分自身を取り戻す」とは、
昔の自分を引きずっていることではないのか。
「新しい自分」とは、
予想がつかないから、「新しい」のではないか。
いまを必死で乗り切るしかない。
そこには、何かわからないが、
「新しい自分」がいるのかもしれない。
それを信じて、日々を過ごすしかない。
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昨日までの、寒々とした天気とはうってかわって、
今日は快晴。
その変化の程度が激しく、
今日の快晴が一層のありがたさをもって受入れられる。
この地は、つつじが一番、
二番は桜。
三番は、数少ない梅。
という順番に、でも一気に咲く、
本州とは逆である。
と、いうような発想は、よくないと思った。
それは、ある地域では、花の咲く順番がこうだというのがある。
しかし、他の地域では、別の順番がある。
それをすんなりみとめ、
自分のところのものを中心に考える方法を取るべきだ。
そうしないと、グローバルスタンダード、
ISOなど、なにもかもが規格化されて
個性、地域性、民族性、国民性など
大切なものが消えていく。
地方の活性化より、
その地に住む人の意識改革が
先決だと思った。
自分の住んでいいるところのもの
誇れる気持ち。
それをつくり上げること、
そして、その気持ちを周りが認める気持ち
が大切であろう。
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雨上がりの朝、道を歩いていると、
道路で蠢いているミミズの多さに驚いた。
なにも公園の中だけでなく、
舗装道路にも、大学の構内のコンクリートにも
ミミズがうじゃうじゃいた。
小さいものから大きなものまで、いろいろいた。
大学のミミズは、大きいのはいなくて、小さいのばかりだった。
なぜ、そのような違いが生じたのだろうか
とふと疑問に思った。
ミミズがたくさんいるということは、
その付近に、正常な土壌が一杯ある、
正常な土が一杯あるということである。
以前住んでいたところも田舎だったが、
こんなに大量のミミズを見たことがなかった。
こんなに大量のミミズがいるようなところに住めて、
本当によかったと思えた。
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大森昌衛著「進化の大爆発 動物のルーツを探る」
(ISBN4-406-02756-4 C0046)
を読んだ。
この本の存在は、1年半ほど前から知っており、
3月の北京行とのときに手に入れ、
半分ほど読んで、
そのご転職のどたばたで、
しばらく間が開いていたが、今日やっと読み終わった。
原生代後期からカンブリア紀にかけての
生物の進化をまとめた本である。
本書は、大森氏のライフワークである。
先カンブリア紀とカンブリア紀の境界は
私は最近興味をもった。
大森氏と、2度のわたる中国への調査で、
その境界に互いに興味があること、
そして、それぞれの視点が違うことも認めながら、
見解を一(いつ)にするところも多いことも判明した。
そして、最終的な結論として、
私との共著の論文を今年書くつもりである。
その論文に本書は参考なる。
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中国古典文学体系第6巻
「淮南子・説苑(抄)」
(平凡社)
これは、日本語訳である。
そのうち、淮南子(えなんじ)の斉俗(せいぞく)篇を読んだ。
「日本書紀」の国生みの神話が、
淮南子の天文篇に由来している。
そんな淮南子の解説書が
金谷治著「淮南子の思想」
(ISBN4-06-159014-6 C0110)
がある。
以下、いくつか気になった言葉である。
「斉(せい)は、壹(いつ)(ひとしい)である」
「いわゆる達とは、他の外物を知るの達にはあらず、
おのれれに知るの達なり」
「形を遺(わす)れ智恵を去り、
素(もと)を抱いて真に反(かえ)る」
「至極の是とは、これを非とするもののなきこと、
至極の非とは、これを是とするもののなきこと、
これぞ真の是非」
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宇宙の語源を調べている時に、
原典になかなか当たれなかった。
しかし、大学に来るとそのようなことができるようになった。
宇宙は、淮南子という書物の斉俗篇に
「往古来今謂之宙、四方上下謂之宇」
とかかれている。
読み下すと
「往古来今これ宙という、四方上下これ宇という」
となる。
の原典に当たった。
原典は大学にはなかったが、
その翻訳があった。
そして、淮南子の解説書も手にできた。
このような簡便さが、大学にはある。
そして、それを教授できるよさがある。
さて、宇宙の語源であるが、
淮南子あるというのは
松井孝典著「宇宙誌」
(ISBN4-19-555069-6 C0044)
にかかれていた。
さらに遡れば、この本は
「サンサーラPart I、II、III」の文章だけを抜き出したものである。
そこに、書かれていたというだけで、
その原典は知らなかった。
しかし、今回調べたら、
淮南子の意味、
そして、宇宙の用語が
どのような場面で使われているのか
もはじめ知った。
調べるということはこういう楽しみもある。
しかし、手間はかかる。
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「友、遠方より来る」
という言葉があるが、
今回は、私がきたのだから、
「我、遠方より来る。旧友、集まる」
だろうか。
友とはいいものだ。
先日、大学の同窓の人たちと飲んだ。
札幌に残っているのは、
25名の同窓のうち、私も含めて7名である。
教員2名は歓迎会で来れなかった。
他の4名は、20数年ぶりに会う人が多かった。
皆、それぞれの人生を歩んでおり、
それぞれの考え方をして、
変化している。
そして、それなりに老いている。
私から見て、いい変化。
そして、一見不幸に見える変化。
さまざまな変化があった。
そして、友人として、助け合っている人たちもいた。
そのような人たちをみると、
私も協力できることがあれば、
という気になってしまう。
さっそくだが、
私は、近状に住んでいることが判明した、
友人に子供教育について相談した。
家内同士で相談をはじめた。
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大学の講義は、大人数教室でおこなう。
教育効果はどうだろうか。
一般的には否定的である。
しかし、大人数でやる講義なんかざらにある。
そのすべてが、教育効果が上がらないとは限らない。
ようは、生徒と教師の熱意の問題である。
そして、教師は、熱意はもちろん必要である。
しかし、熱意だけでなく、
魅力的な講義には、
何らかのプラスアルファが必要である。
1講目、2講目をやった。
280名ほど入る教室が、
2講とも、ほぼ一杯で、
400枚用意していたレジメが
足りなくなった。
まあ、それは、我慢してもらうとして、
問題は、私が熱意と興味を持って伝えたことが、
どの程度聞き入れられたかである。
少なくとも、何人かは、
熱心に聞いていたし、
質問にきた学生もいた。
そして、地学が好きだという学生も現れた。
今後どう対処していくか。
それが問題である。
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読書時間の確保、それが問題である。
徒歩通勤になると、
通勤時間を読書時間に割り当てるという
余暇利用ができなくなる。
通勤読書は、嫌でも、一日の内のある一定時間を
読書に割り当てることができるのである。
いい方法でであった。
以前、私は、通勤時間中に、
1時間の読書時間がとれた。
その時間で、主な図書の読書をしていた。
文献は、それには相当しない。
さて、ここでの生活で、いつ本を読もうか。
読みたい本ばかり溜まっていく。
そして、その本は重たい、ハードな
内容の本ばかりになっていく。
さてさて、どうしたものか。
早く、生活のあるいは研究のパターンを
確立していきたいものだ。
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またもや、学部長 狩野陽氏の話である。
4月3日の入学式の挨拶を
大学の機関紙「週刊ひろば」に掲載していた。
「大学とは何か。
大学は学問をするところです。
学問とは何か。
それは物事の理法を明らかにすること。
その理法はただ眺めていても
自分に明らかになってはまいりません。
人間が永い適応の問題解決の中で、
その経験を組織化して残してきたものが
私たちの学問であります。
皆さんが、この大学で学問を身につけるのは、
借り物としての学問ではなく、
皆さんが生きていく上の問題解決に働きうるものです。」
式辞として、素晴らしい言葉である。
この学長は只者ではないような気がする。
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昨日は一日、今日の講義の準備をしていた。
この講義をどういう考え方で進めるかを決め、
その考え方自体を明確する。
その考え方とは、
科学的に考えること、
常識に捕らわれないこと、
徹底的におこなうこと、
である。
これは、講義の方針でもあり、
私の主義でもある。
つぎに、物事の意味や定義を、納得いくまでした。
これが、結構疲れる。
しかし、それが終わると、なんとなくすっきりした気がする。
今回は、要素、地球環境、変遷史を定義した。
そして、講義ですべきことの全体像を私自身がつかめた。
今度は、この路線にそって講義をつくることになる。
やっぱり楽しみである。
そして、1年間これをおこなうことは、
単に講義ノートをつくるだけでなく、
私が目指す、地質学的思索への道へと繋がるかもしれない。
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講義の準備にはいった。
新しく講義内容をつるくために、
いろいろなことについて考えなければならない。
今、考えているは、
2つのテーマである。
「環境」とはなにか
「この世」とはなにか
である。
どちらも、難しいテーマである。
それを、2、3日で考えなければならない。
講義をするということは
こんなにも大変で、
でもエキサイティングなことなのだ。
勉強しよう。
そして、楽しもう。
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●弁証法における「否定の否定の法則」について:No. 324● 2002.04.15
井尻正二著「弁証法における「否定の否定の法則」について」
(ISBNなし、地団研プックレットシリーズ10)
を読んだ。
小冊子であるが、久しぶりに本を読んだ。
井尻正二を読んでいる。
この書は、O先生から頂いたものである。
地質学と哲学を橋渡すようなものを考えたとき、
日本では、井尻正二を忘れていけない。
かれは、ヘーゲル、エンゲルスなどの研究を
地質学者とおこなってきたのである。
学生時代、井尻氏の書いた
「科学論」を読んで感動したことがある。
そのあたりを、再度読み直そうと考えている。
これが手始めである。
この書は、ヘーゲルの弁証法の根本原理である
「否定の否定の法則」を批判したものである。
弁証法の勉強の入門としていいかもしれない。
弁証法とは、
「世界を生成消滅の自己運動としてとらえる」
考え方である。
弁証法とは、
三分法の思考形式を持つ。
定立(あるいは正)と呼ばれる最初の説があると、
それに対立、矛盾する
反定立(あるいは反)が生まれる。
それをさらに否定
(あるいは止揚(アウフヘーベン:aufheben)とよばれる)
され、
次なる正(あるいは(総)合)
になるという思考形式である。
ヘーゲルの観念的弁証法からはじまり、
マルクス、エンゲルスの唯物弁証法になったものである。
その正に至る過程が、
「否定の否定の法則」で、
弁証法の根幹となる部分である。
それを批判した書である。
面白かった。
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今日は、5時前に起きた。
そして、大学に着いたら、
5時40分ころだった。
コンビニの弁当もついたばかりで、
まだ並んでなかった。
大学も、まだ玄関が、開いてなかった。
外は風がふいて、寒いので、
玄関の風除室でまっていた。
しばらく、待つと、
守衛さんがおきてきたので入れてもらえた。
5時50分頃であった。
6時頃に、大学の玄関は開くそうである。
何事にも、限度があるのだ。
時間を見て、これからは出てこよう。
というような自戒が生まれるのだが、
少しおかしいことに気付いた。
大学の閉門は、22時である。
その頃まで、教官も学生も各種施設を利用可能である。
図書館は、21時30分
コンピュータ室は22時まで、
利用可能である。
それに伴って、コンピュータのSEも常駐する。
もちろん、守衛さんは24時間いる。
そして、許可さえ取れば、
22時以降も滞在可能だし、
徹夜もできる。
しかし、早朝に関しては
そんな制度がもうけられていない。
つまり、制度とは延長に関するもので、
前に向かっての延長は考えられていない。
残業はあっても、早朝出勤による「前業」の制度はない。
朝方は損をするのか。
「早起きは三文の得」ではなかたのか。
これからは、守衛さんと仲良くなろう。
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疲れた。
新しいことを始めるのは疲れる。
いつもの生活パターンに反した行動は、
子供が疲れる。
すると、ぐずったり、暴れたりする。
それを扱う親も疲れる。
そんな相手をする営業の人もつかれる。
結局、皆疲れる。
疲れることが目的でないのに、
それを私は避けたいのに、
営業の顔を立てると、皆疲れる。
これは、本当に営業的に成功といえるのだろうか。
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気功の大先生の治療が
「木の城たいせつ」に来て、
治療をやっていた。
これに至っては、共感できない。
これは、趣味、好みである。
まあ、それと家自体の機能とは違うので目をつぶろう。
若いときはこんなことがあると、
きっと噛みついていただろう。
いまは、それも人の好みと、割りきることができる。
論理的に否定できないことは、
否定されるまで、
その論理は存在しうる。
しかし、本当はその論理の確かさを示すべきであろう。
しかし、存在することを証明するはたやすい。
ただ存在を示せばいい。
しかし、存在しないことを示すのは
大変である。
否定は、簡単で、
反証である「存在」を提示するればいいのである。
科学的に存在しないこと示せないことも
多々ある。
そんな論理の存在を許す必要もあるだろう。
もしかすると、
そこに新たな可能性があるかもしれないのだから。
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「木の城たいせつ」に宿泊した。
購入するつもりがあるから、
リゾート気分ではない。
その家で生活するとして体験をさせる。
素晴らしいことである。
このようはポリシーに共感できる。
常に地球や環境に配慮する気持ちが現れている。
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風邪がなかなかぬけない。
寝る前は、一昨日も昨日の鼻水が止まらず、つらい。
昨日は少しましだが、だなおらない。
家族全員が風邪である。
今日は、栗山の「木の城たいせつ」に
体験宿泊する。
こんな体調だから、気を付けよう。
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●「Terraの科学」:No. 318● 2002.04.11
昨日、メールマガジン「Terraの科学」のための
ホームページをつくった。
本文はこれから書く。
小学生にもわかりように書かなければならないの
結構大変である。
「Terraの科学」は予定では、
2年間である。
これは、大学で私が担当している講義を
小学生も分かるように文章化し、
公開するもである。
その翻訳にどの程度時間がかかるかわからない。
大変な労力がいるとなると結構大変かもしれない。
しかし、なんといっても
やりがいのあることでもある。
そして私自身の中では
非常に重要な位置付けとなっている。
これは、新しい生涯学習の試みでもある。
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今日は、初めて講義をした。
もともとガイダンスだけのつもりだったので、
30分ほどで終わった。
どの講義でも、最終的に伝えたいのは、
科学を知らなくてもいい、
しかし、科学をしている人、
興味を持っている人がいるということを、
理解し、認めて欲しいということである。
そのような理解があれば、
子供が、石ころや虫、草などの自然に自興味を持った時
汚い、危ないからなどという
根拠のない制止を押しつけず、
彼らの興味を伸ばすことができるかもしれない。
特に自分の子供には、そうして欲しい。
その中の何人かが、科学者になり、
そのなかの一握りが、
人類の将来や発展に大いに貢献できる
科学者になるかもしれないのである。
それを理解してもらうことが
私の一番の目的である。
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●はじめてを楽しもう:No. 316● 2002.04.10
定常的な業務体制に突入。
しかし、はじめてのこともしばらく続く。
今日は、最初の講義。
何名受けるか予想がつかない。
280名入る教室で、
2コマ続けての講義である。
レポート、試験、出席が思いやられる。
はじめてを恐れてはいけない。
楽しむ余裕をもって、望もう。
もちろん、予期せぬことが
いろいろ起こるであろう。
でも、それもいい経験思えばいいではないか。
初めては、一度しかないことなのだから、
無我夢中で過ごすより、
楽しんでいた方が、
記憶に残せるし、
後々、似たような初めてに対して、
より良いスタートにできるかもしれない。
でも、はじめては予期できないもの。
さあ、楽しんでこよう。
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野矢茂樹著「無限論の教室」
(ISBN4-06-149420-1 C0210)
を大分前に読んだ。
以前にも、半分ほど読んだのだが、
今回は、再度、最初から読み直した。
非常に面白く、
ヒルベルト、ラッセル、ゲーデルなどの
意味するところがこの本で、やっとわかった。
面白いところを書き出すと、
きりがないのでやめる。
この書は、永久保存版とする。
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私のいる大学の学長のスピーチが面白い。
人によっては長くて嫌だという人もいるようだが、
私は含蓄があっても非常に刺激される。
直接は聞いていないのだが、
大学の週刊誌広報で
卒業生への式辞が載っていた。
そこに以下のようなメッセージがあった。
「ウォルフガング・ゲーテは、
「地上の人間に許された最大の幸せは、
ペルゼーンリヒカイト、人格になることだ」
と申しました。
「人格とはなにか」
ゲートは言います。
「それは、心の秩序ある」と。」
18世紀初頭、
ジャンバティスタ・ヴィィーゴのナポリ大学での講義で、
「ウィラーレ(真である事をを知ること)は、
ただ一つ、ファケーレ(物を創る、事をなす)を通じてのみである。」
という意味のことを言いたそうだ。
つまり、
「私たちがものを創り、事をなすことを通じて、
その仕組みを知る。
それこそが、私たちが真にそれを知ることだと提起した」
そうである。
素晴らしい式辞であると思う。
学長は、狩野 陽(かのう みなみ)という心理学で
脳に関する臨床的研究者である。
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今日の夜中、2時過ぎ。
次男の寝息がすごくごーごーいっているな
と思っていると、
大きく息を吸いこんだときに、
たんが気管の一方に入ったようで、
一時呼吸困難になった。
呼吸はできるのだが、
たんが気管に残っているようなので
救急車を呼んだ。
救急車は初めての経験であった。
家内が付き添ったが、驚いた。
かぜをひいたようで、
喉が赤くなっていたよである。
昼間はまったく気づかなかったが、
疲れているようである。
しかし、病院では、たんをきる薬をもらった。
そしてすぐに帰宅でき、次男は眠りにつくことができた。
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山口昭著「もったいない 常識への謀反」
(ISBN4-478-33041-7 C0034)
を読む。
久しぶりに本を一冊読みきった。
家にいるときのあき時間によんだものである。
北海道に来て、一番先に考えたこと、それは、
終(つい)の地となること、
そして、自分の気に入った家に住むこと。
湯河原の持ち家を購入するとき
建築や別荘などについて書かれて本を読んだ。
そのとき読んで、一番感動したのは、
赤池学・金谷年展著「世界でいちばん住みたい家」
(ISBN4-484-98102-5 C0036)であった。
そのなかで紹介された家に住みたいと思った。
その家は、「木の城たいせつ」という変わった名前の
建築会社が立てたものである。
私の気に入った家、「木の城たいせつ」は、
北海道でしか建てられない。
だから、神奈川にいる時は住めなかったのである。
北海道でないと住めない家なのだ。
山口氏は、その「木の城たいせつ」の
創業者でありオーナーである。
本書は、山口氏の生い立ちと、
「木の城たいせつに」の企業姿勢にいたる経緯を書かれている。
本書は、家の近くにあった
「木の城たいせつ」のモデルハウスを見に行った翌日、
営業の人が来て、置いていったものである。
そして、今日、栗山にある「木の城たいせつ」の
本拠地のモデルルームを見に連れていってもらう。
栗山は家から近いのである。
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