目次
●忙しいは忙しさに負けた:No. 183● 2001.11.30
●休刊:No. 182● 2001.11.22
●本当の自然を味わう:No. 181● 2001.11.21
●教育とは難しい:No. 180● 2001.11.18
●日常性を打ち破る:No. 179● 2001.11.17
●心の遍歴:No. 178● 2001.11.16
●優先順位:No. 177● 2001.11.15
●険しい道:No. 176● 2001.11.14
●ささやかな幸せ:No. 175● 2001.11.11
●発展の成果:No. 174● 2001.11.9
●子供は親の鏡:No. 173● 2001.11.6
●これで最後:No. 172● 2001.11.6
●多様なコミュニケーション:No. 171● 2001.11.4
●11月には:No. 170● 2001.11.2
●霜月:No. 169● 2001.11.1
●忙しいは忙しさに負けた:No. 183● 2001.11.30
忙しさにかまけていたら、1週間が過ぎてしまった。
忙しさを言い訳にするのは、やめていたのだが、
最近、ついつい忙しさを口にするようになった。
これは、忙しいより、
忙しさに負けているから、
忙しいという言葉がでるのだ。
忙しくない人なんかいない。
日本のサラリーマンに、「暇ですか」と聞いたら、
「はい」と答える人は、皆無だろう。
だから、忙しいと口にすることは、
忙しさに負けたのを表明していること、
弱音を吐いていること。
心しよう。
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昨日、テクノリサーチのコミニ亭のメールマガジンの
休刊の連絡があった。
残念である。
いろいろ理由あるのだが、
深く関与していた人間には、
非常に残念に感じる。
私のメールマガジン「地球のささやき」も
コミニ亭のメールマガジンの発行を
きっかけで始めたのである。
私がテクノリサーチから受けた
形のない、目に見えない恩を、
形のないが、自分の特質を生かす、
目に見える形で表したものが、
「地球のささやき」であった。
リンクだけを残し、
自分のホームページに移転した。
時間があれば、自分のホームページも
大改造をしたい。
でも、それには、もっと方針をはっきりして
行いたい。
少し先にしよう。
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●本当の自然を味わう:No. 181● 2001.11.21
一昨日の夕方から、箱根にいった。
温泉に入って、一泊した。
10月の家族が病気がちだった影響で、
しばらく出歩くのを控えていた。
11月になったら、今度は、
子供たちが順番に風邪をひいていった。
それが一段落したので、久しぶりに温泉にいった。
宿泊と温泉はいいのだが、
やはり、小さな子供を連れて出歩くと疲れる。
まあ、でも自分たち(親)が行きたいといって、
連れ出すのだからしょうがない。
自業自得である。
箱根は、紅葉真っ盛りである。
でも、朝は寒く、車や地面が真っ白になるほど、
霜が降りている。
秋、深しである。
ロープウエイで駒ケ岳に登った。
わいわいざわざわ騒ぐ
観光客の波に揉まれなら、考えた。
自然の中で楽しむことが、
「本当」の自然の楽しみ方ではないか、とふと思った。
団体旅行で楽しむ観光地の自然とは、
「本当」の自然なのだろうか。
観光客の楽しむ自然とは、「本当」の自然なのだろうか、
と疑問を感じた。
しかし、もっと大きな疑問が生まれた。
では、自然の中に一人佇んで楽しむ自然が、
「本当」の自然なのか。
「本当」でないかもしれない。
では、自然の中で暮らすこと、
それが「本当」の自然なのか。
「本当」でないかもしれない。
野生人として生きることことが、
それが「本当」の自然なのか。
「本当」でないかもしれない。
というように考えていくと、
わいわ騒ぐ観光客と、自然に一人浸りたいと思う自分も、
「本当の自然を味わう」からすると、
50歩100歩の議論に過ぎないと思える。
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昨日、実家の母に電話をした。
一応、用事があって連絡をしたのだが、
母は、孫との会話を楽しんでいた。
母は、京都で一人暮らしである。
弟が近くに住んでいるので、一応安心できる。
1、2週間に、一度は、電話をしたり、かかってきたりする。
母は、私や家内より、孫の声が聞きたいのである。
まあ、それをわかって、私も電話しているのである。
母は、私に勉強をするように教育した。
その結果、私は、実家を離れてしまった。
しかたがないので、弟は、
勉強よりも、実家を離れないように、教育された。
その結果、現在、弟は実家の近くで家庭を持ち、
いくいくは、実家に入り、跡取となるつもりである。
そのかわり、小出家の財産は、
すべて弟のものとなる。
私も、それを望んでいる。
教育とその結果は、
非常に息の長いものである。
そして、その結果がわかる頃には、
取り返しがつかないこともある。
修正できないこともある。
そして、私の母のように、
早急に修正して、被害を最小限に止めた人もいる。
げに、教育とは難しいものよ。
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今日は、午前中人間ドックにいった。
さまざまな検査を受ける。
人間ドックも何度目だろうか。
40歳過ぎてからは、毎年のようにいっている。
健康チェックのためである。
人間ドックの結果は、
たいてい、「不健康である」とでる。
尿酸値、中性脂肪、あるいはコレステロール、
が要注意となる。
成人病あるいは生活習慣病というものである。
日常生活を改善しなければ、直らないものである。
日常性が、簡単に改善できればいいのだが、
なかなかできない。
だから、困る。
日常性を打ち破ること。
これは、意志の問題である。
でも、そのためには、多大なる精神力を要する。
そのせいで、ついつい尻込みしてしまう。
それが、人間、いや自分の弱いところである。
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それぞれの人が、それぞれの世界で生きている。
同じ時間、同じ空間にいるから、
一見すると同じ世界で生きているように見ているけれど、
実は違う世界にいることだってある。
それは、心がどこにいるかということである。
心が、ここになければ、
ここの世界には、いないのである。
こころが、どこを目指してるかが重要である。
私の心の遍歴を見てみよう。
私は、博士課程終了まで、
研究者としていかに研究するか
ということのみを考えて過ごしてきた。
つまり、研究をすることが目的で、
その研究が、世界のあるいは世の中の
どのような位置付けにあるのかなど考えてこなかった。
岡山大学地球内部研究センターでの特別研究員時代は、
自分は世界でも一流となる実験設備を作り、
それを武器に研究したいと考えていた。
つまり、研究における世界一を目指していた。
博物館の学芸員時代は、
自然史と教育というものを考え、
普遍的な体系化を図りたいと考えてきた。
そして、自分たち自身の固有の文化を
世界へ向けて発信すべきだと考えてきた。
つまり、知的普遍化と地域文化の普遍化を考えてきた。
ここ数年間は、
心という非常に内面的な世界を相手にしてきた。
これは、手ごわい。
もしかすると手におえないものかもしれない
というほどの相手である。
でも、後数年挑戦して、
心の中では結論を出すつもりである。
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朝は寒いが、出勤のために外に出て歩き出すと、
その寒さもキリっとして気持ち良い。
そんな朝の心地よい寒さの中で考えた。
残された時間、残された期間にできること。
それは、おのずから限られてくる。
残された時間とは、
人生における自分の使える時間、
人生の節目、
ある目標とする期限、
など、大は時々、でも確実に来、
小はしょっちゅう来ている。
そこで重要なのが、優先順位。
何を真っ先にやるか。
そして、なにをあきらめるか。
かつての優先順位1位が、
今やあきらめる側に回ることなんてざらにある。
それは、時の流れであり、変化である。
時の流れが移ろうなら、
その流れに載っている人間も、移ろう。
移ろうことを厭わず。
流れに乗れず、過去にこだわることを厭う。
その心を忘れるべからず。
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この頃、「思いつくまま」が飛び飛びになっている。
休みがあって、出かけると間があく。
それは、前にもあったことである。
でも、最近は、気力が、少し停滞気味である。
いけない。
これは問題である。
休むことは必要だが、
必要以上に、休む余裕はないはず。
自分の目指す道を極めること。
そのために最大限の努力をすること。
それが、いまの私が望むこと。
そして、その道を貫くことが、
私の目標であり、生きがいである。
好きなように生きているようで、
それが、難しい。
自分の心への殉教者のような気がする。
孤独で、大変だが、楽しい作業でもある。
でも、道は険しい。
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寒くなってきた。
昨日は、雨。
今朝は、晴れ。
家族で、山に出かけよう。
山は、紅葉真っ盛り。
久しぶりに、穏やかな休日を迎えている。
やらなければならないものに、
追い回されていない、休日。
こんなとき、趣味をすればいいのだが、
私には趣味はない。
だから、家族と遊びに行くだけ。
これで、十分リフレッシュする。
ささやかな幸せを満喫しよう。
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昨日は、休んでお出かけ。
始発電車に乗って、
午後9時前に帰ってきた。
理由、目的地は今のところ秘密。
でも、人間は文明を持ったおかげで、
自分の本来備わった能力以上に活動できるようになった。
車を使えば、どの動物より長く、早く走れるし、
もしチータに負けそうなら、電車をを使えば、勝てる。
力だって、パワーショベルやクレーン、ブルドーザーを使えば、
ライオンや像にも勝てる。
飛行機を使えば、鳥にだって勝てる。
ボーリング装置を使えば、モグラにも勝てる。
海だって、パワーボートを使えば、
たいていの魚に勝てる。
潜水艦を使えば、そんな魚より深く潜れる。
生物が未だかつて行ったことのない宇宙にだって
人類は道具を使うことによって進出している。
人類自身が行かなくても、
分身である探査機を使えば、
太陽系の遠くまでいけるようになった。
また、目の延長として、望遠鏡を使えば、
遠くの銀河や宇宙の始まりの光すら見ることができる。
顕微鏡を使えば、
分子や原子までも見ることができる。
直接ではなく間接的にであれば、
素粒子までも見ることができる。
化石を使えば、過去の生き物も見ることができる。
古い時代の岩石や地層をみれば、
過去の地球の環境や姿が見えてくる。
単に技術だけでなく、知恵も知識も発展してきた成果である。
そんな成果を昨日を享受した。
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長男が、保育園で習っているのだろう。
変な歌を唄っている。
「どっからでも、かかってこい」
という歌である。
保育園児が唄う内容の歌ではないような気がする。
本当にかかっていったら
負けてしまうのに、
なんでこんな歌を唄うのかわからない。
多分、長男は、耳から入った歌を、
そのまま口にしているだけであろう。
そして、意味は気にしていないのであろう。
そういえば、
我々大人が口ずさんでいる歌にしても、
唄っている場面や状況にふさわしいとは限らない。
無意識に唄っているだけである。
子供の歌の文句で笑うのは、
自分の口ずさんでいる歌があまりに場違いなのを
笑うのと同じである。
人、いや子供の振り見て、我が振りなおせ、
あるいは、子供は親の鏡、か。
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昨日は、いつものように、
大学の非常勤講師をしてきた。
この非常勤講師も、もう、5年ほどになる。
最初は、あれこれ、授業のパターンも変えて、
努力をし、そして楽しみながら、
授業をしてきた。
5年といっても、前期後期の2度だから、
10回近くもおこなっていることになる。
10回もしていると、ほぼ、パターンは出尽くす。
そして、マンネリ化が始まる。
となると、教える熱意に陰りが見える。
ということで、この非常勤講師を
今年度限りにすることにした。
そして、その、意志と後任について
学科長さんと話し合ってきた。
それで、一応、予定通り、
私の退任と後任が決まった。
ほっとしている。
今学期は、これが最後だと
始まる前から心に決めていたので、
講義にも熱が入る。
そこで、気付いた。
講義内容は同じでも、
教えたいという熱意さえあれば、
充実した授業ができる。
そして、授業後、毎回、学生から何らかのコネクションがある。
理由はいろいろだが、
あるいはこちらの気持ちの持ちようのせいで、
そう感じるのか。
あるいは、最後という意気込みや熱意が、
学生にも伝わったのか。
後者と思うことにしよう。
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●多様なコミュニケーション:No. 171● 2001.11.4
昨日は、博物館の観察会で、
丹沢に行った。
途中からあいにくの雨。
解散する頃には、本降り。
でも、予定通りスケジュールはこなした。
視覚障害者のS君を連れて行った。
F中・高校の理科部も参加していた。
小学校2年生から60歳を越える人まで、
総勢30数名のグループとなった。
非常に多彩な顔ぶれで、面白かった。
そこで思った。
実は、このような団体というのは、
ありそうで、なかなかないという気がした。
地形を見るという目的しか共通点はないグループ。
それが、一日、雨に濡れ、ご飯を食べ、
障害者の手を引き、石や景色について
知らないもの同士が会話する。
人間というのとは、一つの共通項を突破口にして、
コミュニケーションを成立できるのである。
すばらしいことである。
でも、かつてはこんなことは
当たり前だったのかも知れない。
老若男女が一堂に会し、会話すること。
村などの小さな共同体では、祭りの時に。
隣組などでは、
日ごろのコミュニケーションとして。
極当たり前に、おなわれていたことかもしれない。
そんな忘れていたことをふと思い出した。
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さて、今日は秋晴れ。
天気がいいと、得したような気がする。
錯覚なのだろうけど、
単に天気がいいので気分が爽快なだけなのだろうが、
いいものである。
夏の晴天には、こんな気分が味わえない。
しゃきとしたすがすがしさ。
これは、秋の晴天だけの特権。
でも、いつもと変わらない一日が始まる。
11月になると、年賀状の発売。
もちろん、我が家にも年賀状がもたらされた。
そして、12月恒例の講座の準備が始まる。
11月は、年末年始に向けての月じゃないのに、
否応なく、季節行事がはいってきて、
季節感を味あわされる。
11月。やるべきことは目白押し。
流されないように、
優先順位をつけてこなしていきましょう。
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10月は、小出家は病月であった。
でも、10月29日には、
唯一、楽しいニュースがあった。
これは、また別の機会に。
霜月だが、まだ、我が家の周りでは霜は降りてない。
湯河原は暖かいのである。
11月。
それは、私にとって、「転移」への月としたい。
「転移」とは、ある相から別の相に変わることである。
そのための準備を行おう。
人生の区切りは、いつ来るかはわからない。
望む区切りも、望まぬ区切りもあるだろう。
でも、その区切りを、最大限有効に活かすことが
その人の真価となるのかもしれない。
真価の評価は、誰がするものではない。
自分自身の心の中でのみ、評価が下る。
気楽なようで、厳しいものでもある。
心の奥底まで知っている自分が評価するのだから。
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