「思いつくまま」2001年夏休み篇

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「思いつくまま」2001年の夏休み編です。
2001年9月13日から19日まで、
遅い夏休みを取りました。
目的はなく、
単に家族サービスです。
でも、少し、リフレッシュしたような気がします。
「思いつくまま」に25個、
書きました。


目次
●豊かさよりも、利口さを:No.118(1) ● 2001.9.14
●森と、霧と、涼しさの中:No.119(2) ● 2001.9.14
●少しの快楽:No.120(3) ● 2001.9.14
●休養と疲労と:No.121(4) ● 2001.9.14
●湯釜のエメラルド・グリーン:No.122(5) ● 2001.9.14
●自然の自然なやり方:No.123(6) ● 2001.9.14
●林にもいろいろある:No.124(7) ● 2001.9.15
●頭の切り替えスイッチ:No.125(8) ● 2001.9.15
●生活パターン:No.126(9) ● 2001.9.15
●利己的な旅行:No.127(10) ● 2001.9.16
●究極のユニバーサル・デザイン:No.128(11) ● 2001.9.16
●自然の王国:No.129(12) ● 2001.9.17
●理解不能:No.130(13) ● 2001.9.17
●子供時間:No.131(14) ● 2001.9.17
●地質の時間の流れ:No.132(15) ● 2001.9.17
●コナラのドングリ:No.133(16) ● 2001.9.17
●紅葉:No.134(17) ● 2001.9.17
●そんな教育を:No.135(18) ● 2001.9.17
●秋:No.136(19) ● 2001.9.18
●親の満足のために:No.136(20) ● 2001.9.18
●いのち:No.137(21) ● 2001.9.19
●生き物の種類:No.138(22) ● 2001.9.19
●森の持ちもの:No.139(23) ● 2001.9.19
●土産それぞれ:No140(24) ● 2001.9.19
●夏休みの終わり:No.141(25) ● 2001.9.19


●豊かさよりも、利口さを:No.118(1) ● 2001.9.14
遅い夏休みで、群馬に来た。
軽井沢までJRを乗り継ぎ、
軽井沢からレンタカーで移動する。
浅間山の東側山麓を通りぬけ、
草津温泉にたどり着く。
途中、昼食をとり、
露天の果物屋で巨峰を食べる。
家内が言うには、「高い」そうである。
確かに、近くのスーパーで買い物をしたら、
露天で売っていた果物が
すべて安かった。
もしかしたら、
露天は値段より雰囲気を
値段より、味を、
値段より、新鮮さを
売っていた脳だろうか。
しかし、
掃除もあまりされてなく、
味も特別美味しいわけでもなく、
腐った果物が、無造作に店先のごみ箱に捨ててあるし、
違うような気がする。
商品作物の一部を自主流通させているのではないだろうか。
やっぱり、露天は価格、雰囲気、味、鮮度のどれかが、
あるいはすべてに勝るべきではないだろうか。
でも、あのような露天が多数存在するのは、
我々、観光客が利用しつづけているから、
あるいは、だまされつづけているからだろう。
豊かさよりも、利口さを求めるべきであろう。
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●森と、霧と、涼しさの中:No.119(2) ● 2001.9.14
草津温泉。
森と霧と、涼しさの中で、思う。
窓から見える景色は、
一見、野生の自然。
しかし、手入れのされた植林の杉林。
林の向こうには、テニスコ−ト。
窓の内側には、
エアコンのある人工環境。
つくられた「自然」を
つくられた室内から見る。
私は、いったいなにを見てるのだろうか。
こんなに遠くにまで来て、
箱庭のような環境を楽しんでいるのだろうか。
でも、すべて、森と、霧と、涼しさの中にはある。
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●少しの快楽:No.120(3) ● 2001.9.14
家族旅行とは、
疲れること。
これが一番である。
これがなければ楽しさの方が勝るのだろう。
でも、行こうと決めるのは、親である。
自分で疲れることを、進んでおこなう
馬鹿な行動である。
人の習性だろうか。
少しの快楽のために
多くの苦労をすることは。
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●休養と疲労と:No.121(4) ● 2001.9.14
次男が不調で、
今日は、家内とホテルに居残り。
長男と本白根山に登った。
土砂崩れで、通行止めが解除された直後に行った。
霧がすごくかった。
湯釜のエメラルド・グリーンの池も
霧の切れ間に見た。
途中の噴気地帯も、霧と子連れだったので止めた。
午後は、雨。
ホテルとホテル付近で過ごす。
休養に見えるが、
子守りで疲れる。
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●湯釜のエメラルド・グリーン:No.122(5) ● 2001.9.14
湯釜のエメラルド・グリーン。
それは、氷河地帯で見た湖水の色に似ている。
不思議な引き込まれるような色である。
その原因は、多分、
何らかの化学成分が水に混ざって
生じた色のはず。
そのような原因がわかれば知的感動を生じるだろう。
でも、感動と知的感動とは、次元が違う。
感動とは、一次時的な心理状況。
知的感動は、二次的な心理状況。
多分、脳の刺激されるところ違うはず。
そして、その感動の記憶されるところも違いうだろう。
でも、このような感動の起こりは、
いつの頃からだろう。
知的感動する仕組みは、あったとしても、
昔は、刺激が少なかったであろう。
でも、科学が進歩したということは、
知的感動も、人として非常に重要な働きをしたのであろう。
これが、湯釜のエメラルド・グリーンで考えたことだった。
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●自然の自然なやり方:No.123(6) ● 2001.9.14
雨音を聞きながら、思う。
自然の音というのは、
意識しなければ聞こえてこない。
でも、意識すると
さまざまな音が聞こえてくる。
しかし、人はいつも意識はしていられない。
ふと散歩にでたりして、
環境が変わると自然の音が聞こえてくる。
でも、自然の中に浸っていると、
ふと気づくと、音が消えている。
つまり、自然の中ですら、
浸りすぎると、
自然を意識できなくなる。
自然とは、意識しないこと、
それが自然かもしれない。
だから、不自然から自然に入ってくると、
一番自然を感じる。
これが、自然の自然なやり方なのかもしれない。
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●林にもいろいろある:No.124(7) ● 2001.9.15
雨上がりの朝。
まだ、どんより雲が残っている朝。
風もなく、異様に静かである。
手入れされた植林の林。
下草もなく赤茶けた落ち葉が見える。
林の中は、歩きやすそう。
作られた林は、人にやさしい。
かたや、その隣の放置された植林の林。
下草や、低木がはえた林は、
人を拒絶する。
野生化した林は、人が近寄りがたい。
どちらも同じ木々がつくる林。
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●頭の切り替えスイッチ:No.125(8) ● 2001.9.15
ここは榛名湖。
霧の小さな湖。
ここの霧は、濃淡として流れていく。
室内は子供達の喧騒。
外は静寂。
窓際に座って、その狭間にいる。
夕食までの一時。
子供をあやし、叱り、なだめ、
ふとした隙間の時間に、
外見て考えにふける。
そんな瞬間瞬間に
即座に頭を切りかえられる自分がいる。
必要は発明の母。
頭の切り替えスイッチが、必要に迫られて発達していく。
親として、子供と一緒に、
今まで使わなかった各種の機能が生まれてきて来る。
多分、その分、いろいろのものが失われているはず。
でも、その失われていくものを振りかえる余裕がない。
せめて、景色を愛でる気持ちだけはなくしたくないものだ。
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●生活パターン:No.126(9) ● 2001.9.15
湖畔のホテルの夕食後。
満腹感、幸福感、けだるさ、脱力感、睡魔。
夜が長いような、短いような。
夕食が早く、かたずけがなく、
7時には寝れる状態。
いつもすることが、すでになくなっている。
だから、夜の時間が長く感じる。
だから、8時か9時には寝てしまう。
いつもよりも1時間から2時間は早く寝れる。
だから、夜は長いようで、短い。
そして、早起きになる。
すると昼が長い。
どうも、1日の生活パターンが変わっていく。
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●利己的な旅行:No.127(10)● 2001.9.16
一転して晴れ。
湖と対岸の山々が、
朝日にあたって、見える。
湖面には、早朝から、つりのボートが多数出ている。
そう、今日は日曜日の朝。
我々のように長期旅行者にとっては、
曜日は関係なくなっていく。
関係があるのは、観光地の混み具合。
非常に利己的な考えである。
現在の旅行なんて、利己的なものかもしれない。
すべて金で処理できる移動。
すべて金で賄う衣食住。
まして乳幼児を連れての我々のような旅行は、
完全なる金による他力本願。
他力本願とは、いってみれば他人を信じていることでもあるのだが。
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●究極のユニバーサル・デザイン:No.128(11) ● 2001.9.16
山の宿。
大きな宿で人は多いが、静かな宿。
子供連れも多い。
山腹の斜面に建てられているので、
ベビーカーや車椅子にはつらい。
つまり、ユニバーサルではない。
ユニバーサルデザインは、
設計段階でしておかないと、
後から付け足していくと、
何倍も、手間や、金がかかる。
そしてできた建築物も
取って付けたようで、見苦しいものとなる。
それくらいなら、最初からしておけばいいのに。
後悔先に立たずである。

ユニバーサインに唯一勝るのは
ハートである。
心のこもった接待である。
少々不便でも、
その不便さを、心が癒してくれることがある。
これは、ハートフル・デザインというべきものかもしれない。
これは、お金や技術で解決できないものである。
もしかすると、ハートフル・デザインが
一番この世で価値あるものかもしれない。
このハートフル・デザインが
究極のユニバーサル・デザインかも知れない。
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●自然の王国:No.129(12) ● 2001.9.17
薄曇りだが、朝日の気配。
ダケカンバ主体の林。
山の雑木林。
人の活動するところは刈り込まれている。
いわゆる、里山。
植林より、あるいは放置植林より、
ずっと心にはやさしい。
ここの雑木林は、
年数はそんなにたっていないが、
自然の木がそのまま残っている。
木の生え方が、人工的でない。
いわゆる「自然」。
木の間隔が、広いところ、狭いところが
ばらばらだが、
ある一定以上の密度では、生えていない。
長い時間によって、
シラカバがつくり上げた法則。
そう、ここは自然の王国。
人はお客。
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●理解不能:No.130(13) ● 2001.9.17
林の街灯の下。
大量のガが集まっている。
まさに、足のふみ場もないほど大きなガが集まっている。
繁殖シーズンなのだろう。
ガにすれば、一世一代の生死を賭けた行事。
異常事態ではない。
これが彼らの一生のフィナーレ。
人間の営みだって
他の生物からすれば
異常な振るまい。
祭り、宗教儀式、スポーツ、政治、芸術などなど。
理解不能であろう。
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●子供時間:No.131(14) ● 2001.9.17
火山の麓にある溶岩類。
「鬼押し出し」というところ。
まるで、鬼が島のよう。
鬼の人形がある。
子供には鬼が島にみえるよう。
そして上にある神社が、鬼が城。
上に着いたら、キビ団子ならず、饅頭を食べた。
降りたら、飲み物と食事。
でも、キビ団子でお腹は一杯。
あとは、車で眠るだけ。
子供時間で大人は動く。
でも、子守り時間で、大人の大半の時間が使われている。
でも、ほんの束の間の休息。
家内は、子供達と一緒に、車で昼寝。
私は、これを書いている。
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●地質の時間の流れ:No.132(15) ● 2001.9.17
雲の切れ間から、時々見える、浅間山の山頂。
噴煙は、雲にまぎれて見えない。
でも、鬼押し出しに多数設置されている避難小屋が、
浅間山が活火山であることを思い出させる。
30年ほど前に噴火をしたという。
浅間山は、数年毎に、活動が活発になる。
地質の時間の流れでは、つい最近。
そして活動を続けている。
人の時間の流れでは、
人の寿命の半分にあたり、長い。
その間隔も長く、忘れた頃に火山活動が起こる。
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●コナラのドングリ:No.133(16) ● 2001.9.17
昼下がりの散歩。
林を歩いていると、
各種の木の紅葉やドングリが見つかる。
それが、秋の訪れを示す。
家族で、秋を満喫。
拾ってきたドングリ。
今日、鬼押し出しで展示即売で買った本で調べる。
平野隆久・片桐啓子著
「森の休日2探して楽しむ ドングリと松ぼっくり」(ISBN4-635-06321-6 C0645)
コナラのドングリ。
本は、人類の知的資産。
初めて見るドングリを、子供でも調べられる。
こんな便利なものがあるのだ。
この本で、森のすばらしさが、よりよく分かる。
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●紅葉:No.134(17) ● 2001.9.17
9月中旬。
山の林では、秋が始まっている。
至るところにキノコができている。
また、春の新緑の季節と同じほど
色鮮やかな紅葉が始まりつつある。
雑木林の秋は色鮮やか。
秋が深まるにつれて、
紅葉が進み明るくなり、
やがて葉がすべて落ち、ますます明るい林となる。
平野隆久・片桐啓子著
「森の休日1拾って楽しむ 紅葉と落ち葉」(ISBN4-635-06322-4 C0645)
名前より、葉の色の変化が時間の流れを示す。
植物をただ愛でるだけでも、楽しい。
やはり、人間は自然に包まれると、
心がしっとりと落ちつく。
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●そんな教育を:No.135(18) ● 2001.9.17
石の好きな子供たち。
小学生低学年には、たくさんいる。
彼らは、大抵、石だけでなく、虫や動物、花なども好きである。
100人の石好き子供が、
高学年になると、ほとんど、石には、興味がなくっている。
それは、教育のせいもあるだろうが、
石は、動かない、変化がないなどの理由もあろう。
石も長い時間が立てば変化することを知らないからだろう。
でも、100人のうち一人でも、
石好きの子供がいれば、
毎年、そんな子供の石への興味を伸ばすことができれば、
5年続ければ、そのうち一人が、
石の専門家になるかもしれない。
それを、20年続ければ4名の専門家が生まれる。
そのうち一人でも、自分を越える専門家がいるかもしれない。
もし、私がこのような教育ができれば、大成功であろう。
自分を越えなくても、
4人も集まれば、
私一人があげた成果を確実に越えてくれるであろう。
越えなくても、いい。
20名の石好きが、子供の頃から好きな道を続け、
同じような教育や普及を、
あるいは、親として、子供に接し続けてくれれば、
もっと多くの石好きの子供が誕生するであろう。
そんな教育を、してみたい。
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●秋:No.136(19) ● 2001.9.18
朝風呂。
それも温泉。
風呂上がりのほてった体に、
高原の朝の空気は、心地よい。
でも、少したつと、寒くなってくる。
子供達も長ズボンをはいている。
昼間、日向では暑いが、日陰では寒い。
汗をかいたり、震えたり。
やはり、ここはもう秋である。
鹿沢(かざわ)にて2日目。
心なしか落ち葉の量も増えたようである。
緑の下草の上に、黄色い落ち葉が増え、
緑がだんだん見えにくくなってきた。
そして、木々越しに空が、よく見えるようになった。
もう秋である。
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●親の満足のために:No.136(20) ● 2001.9.18
今日も2時頃、ホテルに帰えり着いた。
子供は昼寝タイム。
次男は抱いて車から出すと、
目を覚ましたので、部屋に連れいく。
長男は車で1時間、熟睡したので、つきあう。
3時から、家族で林の中を1時間半ほど散策。
長男も次男も、出かけていることより、
それぞれの時間が楽しければいいようである。
親の満足のために、出かけていきたのである。
子供を連れだして、家族旅行をしているのである。
子供に意思表示ができれば、嫌なのかもしれない。
御免なさい。
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●いのち:No.137(21) ● 2001.9.19
テレビで見たのか、他の子供の真似をしているのか、
長男が、振り付きで「命」といっている。
「いのちって、なに」と聞くと、
「しらない」という。
そこで、
「生きているのもの、すべてが持っているもの。
生きているということ。
生きているということは、
生まれて、
大きくなって、
子供を生んで、
死ねまでのこと」
と教えた。
「わかった?」と聞いたら、
「うん」といってたが、
多分、わかってないのだろう。
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●生き物の種類:No.138(22) ● 2001.9.19
長男に、ある虫について
「動物だから」というと、
「これ、虫だよ」という。
「虫は、動物の仲間。
生き物には、
虫やライオンのように動く動物のなかまと、
花や木や草のように動かない植物のなかまと、
キノコのようにホウシで増える菌類のなかま
という3つのなかまにわかれるんだ」
と教えた。
菌類は、キノコの図鑑で見ていて知っている。
「わかった」と聞いたら、
「うん」と答えた。
でも、わかっているのなかな。
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●森の持ちもの:No.139(23) ● 2001.9.19
家族で林を散歩していると、
長男が、ドングリや松ぽっくりを拾ってくる。
「使うぶんだけもらいな。
使わないものは、森に返しな。
リスや虫が食べるから。」
「うん」といいながら、
別の場所では、また、拾っている。
「ドングリは、森のもちもの。
森からもらっているの。
使うだけしかもらわないの」
というと、
「じゃ、これだけもらっていい」
と、片手一杯4個ほどのドングリと、
もう片手には松ぽっくり1個を見せる。
「いいよ」というと、
母親のところに走っていって、
「おかさん、これ、森にもらったんだよ」
といった。
でも、それ以前にポケットに入れていた分は、
無断で持ってきたしまっていた。
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●土産それぞれ:No140(24) ● 2001.9.19
長男の土産は、ビニール袋に入れてある。
白根山の湯釜のデサイト:1
白根山の湯釜の安山岩:1
六合村の道の駅で拾った石:2
吾妻川でマジックで絵を書いた石:5
嬬恋の神社で拾った石:2
鹿沢の林で拾ったコナラのドングリ:5
鹿沢の林で拾ったコナラのドングリでつくったコマ:3
鹿沢の林で拾ったコナラのドングリでつくったヤジロベ:1
鹿沢の林で拾ったクロマツ松ぽっくり:2
絵本:1

次男の土産
吾妻川でマジックで絵を書いた石:1
浅間山で拾った両輝石安山岩:1
ブロックのおもちゃ:1

私の土産
砂:7
職場への菓子:2
「思いつくまま」:25

家内の土産
いろいろあるようだが詳細不明
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●夏休みの終わり:No.141(25) ● 2001.9.19
遅い夏休みを終える。
リフレッシュしたのだろうか。
温泉には一杯入った。
自然の中にも浸った。
森の空気もたくさん吸った。
火山も少し見た。
家族とも長い時間一緒にいた。
楽しんだ。
でも、疲れた。
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