思いつくまま

No.003 (2001年8月分)
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目次 
●9月には:No. 108● 2001.8.31
●私の生き方:No. 107● 2001.8.30
●苦手なもの:No. 106● 2001.8.29
●「地球のささやき」1,000名突破近し:No. 105● 2001.8.28
●半覚醒の縁:No. 104● 2001.8.27
●責任:No. 103● 2001.8.26
●懸賞当選:No. 102● 2001.8.26
●次男に座布団1枚:No. 101● 2001.8.25
●三桁の大台?:No. 100● 2001.8.24
●早起きは、三文の徳:No. 99● 2001.8.24
●台風一過:No. 98● 2001.8.23
●即物的:No. 97● 2001.8.21
●自然の日:No. 96● 2001.8.20
●うんちはくさい:No. 95● 2001.8.19
●子のために:No. 94● 2001.8.18
●今日も今日とて:No. 93● 2001.8.17
●田舎者の上京:No. 92● 2001.8.16
●いざ、東京へ:No. 91● 2001.8.16
●純化された夜景:No. 90● 2001.8.15
●お盆:No. 89● 2001.8.14
●博物館の展示:No. 88● 2001.8.12
●ミステリー解決。またミステリ:No. 87● 2001.8.12
●グチグチ:No. 86● 2001.8.11
●不思議なメッセージ:No. 85● 2001.8.11
●身近な自然史:No. 84● 2001.8.10
●科学を考える科学者:No. 83● 2001.8.10
●自分のスタンス:No. 82● 2001.8.9
●羞恥心とは心か:No. 81● 2001.8.8
●経験則:No. 80● 2001.8.7
●夏に咲くサボテンの花:No. 79● 2001.8.7
●小出家のミステリー:No. 78● 2001.8.6
●風流:No. 77● 2001.8.6
●血が騒ぐ:No. 76● 2001.8.5
●家庭教育:No. 75● 2001.8.3
●人それぞれ:No. 74● 2001.8.3
●祭り:No. 73● 2001.8.3
●夏休み:No. 72● 2001.8.2
●暑い朝に:No. 71● 2001.8.1


●9月には:No. 108● 2001.8.31

今日は、雨。
今日で8月も終わり、
明日から9月。
少し、気分を変えるために、
明日から、壁紙でもかえよう。

「地球のささやき」の特別号に向けて
こんな文章で告知した。
まだ校正してない。

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このメールマガジン「地球のささやき」の発行を始めたのは、
2000年12月3日です。
しかし、No.1の発行は、9月20日になっています。
(理由は、また別の機会に紹介しましょう。)
ですから、このメールマガジンを始めて、もうすぐ、1年になります。
よく続けてこられたと思います。

近々、購読者数が1,000名を越えるかもしれません。

メールマガジンにおいて、
1年とか、1,000という数字に意味がある訳ではありません。
もっと多くの読者を集めている
メールマガジンが多数あります。
しかし、数が多いから、連載期間が長いからよいとも、
少ないから、短いから悪いともいえません。
もちろん、その逆の
少ないから、短いからよいとも、
多いから、長いから悪いとも
当然、いえません。

大切なことは、私が発信する情報を
必要であるとか、無駄だととか、
役に立つとか、役に立たないとか、
面白いとか、くだらないとか、
いろいろな感想や思いを抱きながらも、
受信して下さる方々(購読者)がいるということです。
情報の発信と受信の関係が成立しているから
このような個人雑誌(メールマガジン)の存在意義があると思います。

もし、数人程度なら、
通常のメールで充分用が足せます。
しかし、このようなメールマガジンの存在を
不特定多数の人が知ることはできません。

もし、読者が数十人以上で、
不特定多数にも読んでもらいたいなら、
「まぐまぐ」のようなメールマガジンの仕組みが有効です。

人数に関わり無く、
この機能が、
私の情報発信と誰かの情報受信に
有効なシステムである限り
今の形態を続けます。

さて、長い前置きでしたが、
1周年か購読者1,000名(突破できないかもしれません)を記念して、
特別号を発行しようと思っています。
ただし、この特別号は、
「地球のささやき」にするには
ちょっと変わったエッセイを載せます。
今まで私にメールを下さった方へのお礼を込めて書きました。

ただし、私のプライベートなことも書いていますので、
今までの「地球のささやき」と違うものとして扱います。
今までメールくださった方には、
無条件でこのメールマガジンはお送りします。
メールを下さった方は、数えると、
22名でした。
そして、メールのやり取りを示すメールカウンターは、
266通になりました。
一番長いメールは、一通で6300文字もありました。

興味があって読んでみたい方は、
ぜひ、私宛に特別号が欲しいというメールを下さい。
特別号をお送りします。
もちろん、停止もできます。
これは、まぐまぐとは別の仕組みで発行します。

特別号の発行予定は、
9月20日ころを予定しています。
もしかすると、登録者には、
たびたび、特別号がいくかもしれません。

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・ Ob氏のHP更新
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●私の生き方:No. 107● 2001.8.30

自分の人生観を人とに語ると、
唯物論的、合理的、科学的
というような語り方になる。
それは、私は、科学というものに
魅力を感じ、科学を考え方の基礎としている。
そして、科学を理性的な手法だとすれば、
もっと根源的な心、気持ちの部分は、
個人主義である。
自分の心が望むこと、
自分の心が一番楽で、無理しないこと
を基本としている。

その結果、
科学的合理主義による殺伐と
個人主義による気楽さによる出世欲の欠如
と映る。

でも、これは、私の中では
きっちり整理されているつもりある。

たとえば、殺伐感は、
しょうがないのである。
科学的に振舞うということは、
そういうことである。

出世意欲はない。
しかし、向上心はある。
今より良いものを目指している。
それは、研究環境であり、
家庭環境であり、
生活環境である。

とかくこの世は生きにくい。
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●苦手なもの:No. 106● 2001.8.29

休日の月曜日。
子供が保育園から帰ってきたとき、
駐車場に死にかけのセミが落ちていた。
子供が、興味を持ったので、
家に持ってきた。

図鑑で調べると、クマセミのようだ。
まだ、生きていて、少し動いている。
私のTシャツにつけると、
怖いけれど、見たいという気が強く、
寄って来るのだか、手が出せない。

しかし、少しずつ、触っていくうちに、
最後には、一回だけつかむことができた。
その時したのは、
そのセミを窓から逃がすことである。

家内は、セミ、クモ、ゴキブリは全くダメである。
せも、私がいないときは、
必死になた、ゴキブリを取り、
必死になって、つかんで捨ている。
毎回必死の思いをしながらである。
年をとると、苦手意識は、
記憶の深い部分い刻まれ、
それを取り除くことは、非常に大変なのかもしれない。

しかし、子供は違う。成長する。
一度目がダメでも、2回目ができれば、
以降は、できるようになる。

長男は、最初、セミに抜け殻がダメだったが、
何度も触ることに挑戦していると
今では、大丈夫になった。
次男も、最初、松ぽっくりが、怖くて触れなかった。
しかし、大丈夫と、ゆっくり慣れさせれば、
今では、全く大丈夫で、あるとかじっていたりする。
でも、セミはもちろん、セミの抜け殻も未だにダメである。

私も、苦手なものがあるが、
それは、秘密。
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●「地球のささやき」1,000名突破近し:No. 105● 2001.8.28

「地球のささやき」の購読者数が、
まもなく1,000を越えるという指摘が、
読者からあった。

考えてみると、
購読者数というのは、
それほど気にしてなかったのだが、
いわれてみれば、
非常に大きな数である。

例えば、毎週1,000名に向けて
自分からのメッセージを発信できるのは
非常に有力なメディアを手に入れていることになる。
ちょっと前までは、
このようなメディアが、
庶民が手にできることはなかった。
それが、今や、誰でも、
思いたったときに、
情報を発信すれば、
送りたい人のところに即座に届く。
いい時代である。
それも、非常に低価格で利用できるのである。
まさにボケットマネーで、
世界に向けての情報発信ができるのである。
それは、情報発信者だけでなく、
情報受信者にとっても、
いい時代といえる。
自分の欲する情報が、
欲しい時に、欲しいだけ入手できるのである。

さて、1,000名突破を記念して、
「地球のささやき」の読者で、
希望者にだけに、
購読者1,000名突破特別号を送ろうかと考えている。
これは、私にメールを送ってくれて、
励ましてくれた方々へのお礼でもある。

「地球のささやき」1,000名突破特別号
希望者は、
小出にメールを下さい。
できれは、コメントと一緒に。
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●半覚醒の縁:No. 104● 2001.8.27

疲れが抜けないまま
けだるく迎えた朝。
ふと、最近、自分は、忙しさにかまけて、
我を忘れているような気がした。
本当に大切なことをきっちりとやっているのだろうか。
そんな不安にとらわれた。

多分、目が覚めてくると、
こんな不安がなくなっていくと思う。

でも、目が覚めるということは、
より現実的になっていくということかもしれない。
だかた、睡眠と覚醒の狭間の時に
本当の自分の気持ちが
浮かび上がってきたのかもしれない。
ああ、また、半覚醒の縁に落ちた。

ふとそんな気持ちになった
明け方であった。
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●責任:No. 103● 2001.8.26

ある時、Etさんと話していると、
お母さんが病気で入院中だという。
そのとき、身の振り方について
いろいろ意見をいった。

しかし、考えてみると、
自分の意見を相手に言うのはいいのだが、
それは、相手に自分の考えを
押し付けているような気がする。
相手が採用しようが、しまいが、
そこにある種の責任が発生するような気がする。

私が言ったことに対して
私自身は、責任の取りようが無い。
これは、もしかして、
すごく無責任なことをしたような気がする。
まして人の命にかかわる事態の時にである。

Etさんは、私に責任を取ってもらおうと
思っている訳ではなかったとしても、
今思うと、すごく責任を感じる。

自分のことをいって、
自分でその責任を取ることはたやすい。
最終的には自分が諦めたり、
周りの人に諦めて貰えばいいのだ。

でも、その結果が他人に降りかかる時、
これは、非常に難しい問題である。
こんどEtさんに、
その旨の話しをしよう。

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・ 「地球のささやき」MM発行、HP更新
・ 「Dialog」MM発行、HP更新
・ 「地球のささやき」に読者への手紙のページを追加
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●懸賞当選:No. 102● 2001.8.26

この「思いつくまま」No.100で、懸賞をおこなった。
その募集期間は、
夕方の5時過ぎから翌朝の7時過ぎの
14時間しかなかった。
なのに、メールが一通きた。

驚いた。
そのメールを下さった方も
このページを見たのは、たまたまかもしれないが、
私には、うれしかった。
実は、このホームページは、
あまり知られていない。
私の知り合いでなければ、
告知してないので、知らないはずである。
「地球のささやき」のメールマガジン、
もしくは「地球のささやき」のホームページからしか
入って来れない。

だから、このページのアクセスカウンターも
ほとんど増えない。
2001年6月16日から今日までで
275人しか訪れてない。

この数を少ないとするか多いとするか。
それは考え方である。
もともとここのアクセスカウンターは、
誰か、このページを覗いてないかを
監視するためのものであった。
だから、あまり値自体は、気にせず、
値の変化だけを気にしていた。

でも、反響があることは、うれしいことである。
不特定多数からの反響よりも
以前からコンタクトのある人からの反響の方がうれしい。
身内のような気がする。
もとは他人であった人が、
私のインターネットを介した活動に
興味を持ってくれたのである。
そんな人からの反響であるから、
その反応は大切にしている。

私が大切にするという意味は、
私の活動に対する反応であるから、
私のよき評論家と見なしている。
私は、時間と体力、能力が許す限り、
返事を書くようにしている。
前にも書いたが、
「地球のささやき」に関しては、
それをメールカウンターとして
表現している。

最後になりましたが、
応募いただいた
Moさん
本当にありがとうございました。
心から感謝申し上げます。
今後ともよろしく、御贔屓してください

(今回は多分読んでないと思いますが)
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●次男に座布団1枚:No. 101● 2001.8.25

昨日の朝、家内が、物干し台で、
洗濯物を干していたら、
死にかけのセミがいたそうな。
長男(3歳7ヶ月)が、先日買ってあげた、
昆虫図鑑で調べたところ、
ミンミンゼミということだったそうな。

昨日の夕方、帰宅して、その話をきいた。
次男(1歳3ヶ月)にセミとして、
「ミンミン」といって説明していたら、
しきりに耳を触っている。

家内と大笑いした。
次男に座布団1枚。
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●三桁の大台?:No. 100● 2001.8.24

この「思いつくまま」もNo.100となった。
なんとなく感慨があるような、ないような。

実は、感慨はたいしてない。
100という数字が
意味のあるわけでもないし、
区切りでもないし、
スタイルを変える必要もない。

100回記念で、
もし、誰かこのページを読んだ人がいて、
メールを私にくれたら、
豪華商品を上げようかと思う。

こんなことを書いたら、
知らない人からメールが来るだろうか。
このページの寿命は、12時間ほどである。
だから、多分、こない方に、かける。
だから、こんな企画である。
(この企画は終了しました)

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・ 「Metamorphic」イラスト3枚追加
・ Club Geo新メンバー追加
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●早起きは、三文の徳:No. 99● 2001.8.24

通勤だが、朝早く歩いていると、
なんとなく、すがすがしい気分になる。
あるいは、得したような気分がする。
体調が、そんなに悪くない時に限るが。

「早起きは、三文の徳」であろうか。
別に、金銭的に得しているわけではない。
誰かのために、あるいはい誰かに言われたから
朝早く出勤しているわけではない。

早朝でも
冬は寒いし、夏は歩き出せば、汗も出る。
なのに、早朝は、気分がいい。
なぜ、そんな気がするのだろうか。
いつも、いつも、毎日、感じることなので、
不思議な気がする。

季節の移ろいはゆっくりで、
毎日、そんなに真新しいものはないはずだ。
この「思いつくまま」のネタも
朝の通勤時に感じたことで
コンピュータの前まで覚えていたことを
書くことが多い。

でも、もしかすると、
こんなことを考えながら歩くことも
徳の一部なのだろうか。
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●台風一過:No. 98● 2001.8.23

昨日は、台風であった。
いつもより2時間遅れで家を出る。
JR東海道で湯河原から小田原まで来たが、
その先がいけなかった。
箱根登山鉄道、ストップ。
バス、ストップ。
交通渋滞で、箱根方面にはいけない。
タクシーで、小田原から博物館へ行った人がいたようだが、
私が行った頃は、もっと渋滞していたようである。
それで、出勤をあきらめる。

台風一過。
午後には晴れてきた。
夕方には蒸し暑かった。
久しぶりの台風と、
湯河原に越してきてはじめての台風だったので、
心配した。
小出家、被害は、
雨漏り一ヶ所
露天風呂が雨水で一杯で、水抜き作業一度
ですんだ。
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●即物的:No. 97● 2001.8.21

昨日は、学会で千葉に行った。
湯河原から千葉まで遠い。
新幹線を使って2時間少々。
自宅から、大学の学会会場まで、
約3時間である。

7時に自宅を出て、
10時前に会場着。
10時から学会開始。


私の発表は11時から20分間。
セッションの終了後、
興味ある発表をした人と議論。
学会の関係者と、
次回のシンポについての相談。
昼食は、知り合いと雑談しながら。

午後は、総合的な講演会。
16時30分から、個別のセッションで、
私が座長をする。
17じ35分、セッション終了。

興味ある講演をした人と議論。
18時過ぎ、帰る。
21時前、自宅着。

千葉では今日も学会が続いている。
興味深い発表がいくつかあったが、
わざわざいく元気はない。
本当なら、泊りでいってもいいのだが、
泊まるには近すぎる。
毎日通うのには遠すぎる。

湯河原は関東でないと割り切ってしまえば、
泊まってしまえるのだが、
通えるところに泊まるの面白くないし。

などなど、ちょっと出歩くと
即物的なことをいろいろ考えてしまう。
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●自然の日:No. 96● 2001.8.20

昨日の夜は、花火を見に家族で出かけた。
隣町なので、峠の上までいった。
その峠付近からは、よく見える。
そこは、知る人ぞ知る花火スポットである。
昨日も、私たちが花火の10分前に着き、
一番のりだったが、
始まるころには、5台ほどの車が見物に来た。

花火は、間近で見るのが一番である。
光と音が同時でないと迫力が伝わらない。
でも、人ごみの中を、
子連れでかえるは疲れる。
だから、どうしても、楽なところで見たくなる。

花火は、文句なく素晴らしい。
なぜかわからないが、
感動する。
夜に見る光は、
人にとっては、安全の象徴なのだろうか。
まら、理屈抜きとしておこう。

朝は、万葉公園というところの散歩し、
夕方は、長男だけだが、
近所の山を虫を探して散歩した。
昨日は、自然に接する日だった。
疲れた。
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●うんちはくさい:No. 95● 2001.8.19

昨日は、家族で小田原城の公園にいった。
本当は、三島に行くつもりだったが、
電車に乗り遅れたので、
反対方向の小田原にした。
次の電車まで、40分以上時間があった。
小田原の城跡にも動物園があり、
子供が喜ぶので、
急遽、変更した。

動物園の檻の前で、
子供が「うんちくさい」と言った。
この1年くらいで、
うんちなどの匂いを
くさいということをいうようになった。

匂いは、前から感じていたようであるが、
うんちの匂いが、くさいというようになったのは、
人の文化を継承したのである。
親か、保母さんか、友達か、誰かが
うんちが、くさいということを、
教えてしまったのである。
そして、くさいものは、いけないもの
という常識を植え込んだのである。

このような常識は、
社会生活をするには
必要なことなのだけど、
少しずつこのような常識をつけ、
子供が成長するこによって、
少しずつ子供純粋さが消えていくような気もする。
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●子のために:No. 94● 2001.8.18

今朝は、自宅から。
長男が、心性の発疹が出る。
激しく泣いたりすると、
蚊に刺されたような できもの ができる。

夏の暑さに加えて、
次男ができてから
ストレスが溜まっているようである。
どうしても、一人と比べて、
怒られることも多く、
反抗期でもあるので、
ストレスも溜まるようである。

人間は、精神的な生き物であると思う。
精神的な変化が、
瞬時に肉体に反映される。
それも意に反したことである。

これは、精神が発している
危険信号であろう。
親として、
可能な限りケアーしてあげよう。

子供が生まれたとき、
私が一番大切にしているものを
与えることにした。
お金でも物でもなく、
時間である。
子供の私が使える最大限の時間を与えることにした。
これは、実は非常に大変なことであった。
そして、時間を与えることは、
肉体的、精神的な疲労も伴う。
休日も、平日の夜も、
ほとんど自分時間が取れない。
したがって、早朝、時間をぬって
仕事をばたばたとすることになる。
今日もそうである。
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●今日も今日とて:No. 93● 2001.8.17

今週は、2日しか、博物館に来ないことになる。
今日がその2日目である。
疲れがなかなか取れない。
たまたぐちである。

今日は、書類作成である。
文部科学省に提出する書類と、
学会発表用のOHPの作成など、
ゆっくり考える暇が無いかもしれない。
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●田舎者の上京:No. 92● 2001.8.16
新幹線の回数券を買おうとしたら、
20日まで、回数券は使えないという。
20日にも東京経由の千葉まで出張がある。
のに、今回と次回は、回数券は使えない。
残念である。
まあ、こんな時期に出かけるほうが悪いのかもしれない。


でも、東京は近いようで、遠いようで、困る。
確かに、新幹線を使えば、1時間ほどの乗車時間で
東京に行ける。


でも、実際には、家から駅まで30分かかるし、
乗り継ぎを考えると、東京駅まででも、2時間近くかかる。
それに、たまにしかでないので、
本屋に立ち寄るなど、他の用事もつくってしまう。
だから大抵、1日仕事となる。
したがって東京は遠い。

でも、関東はどこでも、日帰りが可能である。
学会などでも、発表の当日だけ行けばよい。
宿泊や切符の予約などの手間はいらない。
行こうと決めれば、今すぐにでも行ける。
東京なら、小田原から新幹線で40分。
新宿なら、ロマンスカーで1時間少々。
だから、東京は近い。

でも、気持ちの上では、
田舎暮らしを望む自分には、
東京はたまに行くもので、
遠き存在であってほしい。
できれば、めったに行かないところとなってほしい。
本当の田舎者になりたい。
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●いざ、東京へ:No. 91● 2001.8.16
今日久しぶりに東京に出かける。
文部科学省への出張である。
午後からなのだが、9時過ぎに家を出て、
昼前に東京に着く予定。


目的は、大きな書店に行くこと。
八重洲ブックセンターが東京駅に近いから
行くことが多い。
平均すると一月に一回程度東京には出かける。
可能であれば、そのたびに八重洲ブックセンターに寄っている。
目的は、もちろん本を買うこと。


大抵は、論文を書くために文献探しが多い。
ここ数回は、障害者に関するものである。
次ぎの論文のテーマはユニバーサルである。
でも何度が買いあさったので、
多分めぼしいものはないはず。


でも、その他にも目に付いた本を購入することになるだろう。
1万5000円以上買うと、
宅急便の送料が無料になり、
喫茶店の飲食券がもらえる。
1万5000円を越えることが
目的なってまうことにならないようにしなければ。
一万円を越えるとそういう気が生じる。
気を付けねば。
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●純化された夜景:No. 90● 2001.8.15

昨夜、夜景を見に、峠の上まで行った。
長男とは、時々行くのだが、
昨日は、家族で行った。
先日、花火を見に行った時と、
同じところである。
途中、OKI、IBM、伊藤忠などの大企業の
熱海保養所を通り抜ける。
お盆のせいか、煌々と灯りがついていた。
そこを通り抜けて、行き止まりの道のところが、
小出家の隠れた夜景と花火の観賞スポットである。

夜景というのは、不思議である。
家の灯りの一つ一つに、
それぞれの家族があり、
それぞれの生活があり、
それぞれの人生があり、
それぞれの思いがあり、
それぞれの過去と未来と現在がある。
まるで、平行宇宙を眺めるように
計り知れない、奥行き、時間、思念がある。

大量のそのようなもろもろを
遠くから眺めると、
そんなもろもろが、消えて、
光の集合としてし見えない。
もろもろが消えてしまい
光だけに順化されていくので
綺麗なのかもしれない。
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●お盆:No. 89● 2001.8.14

お盆である。
お盆というものが、どんなものか
本当に理解している人はどれくらいいるのだろうか。
私も、「訪れる先祖の霊を迎え、祭る」
というくらいにしか知らない。

帰省ラッシュ
家族旅行
里帰り
お墓参り
精籠(しょうろ)流し
盆踊り
花火

どれも、違っているようで、
また、あっているようで、
よくわからない。

平凡社の世界百科事典によれば、
お盆は、古く606年(推古14)から記録があり、
のち朝廷の恒例仏事となり、
諸大寺でも行われ、
しだいに民間の寺院へ普及したそうだ。

里帰り、お墓参り、盆踊り。
それでいいのかもしれない。
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●博物館の展示:No. 88● 2001.8.12

博物館の展示に関するメールをもらった。
昔ながらの、展示がいいという。
系統分類というか、オーソドックスというか
誰が見ても、この通り並べるであろうな
というような展示は、
特徴は無いかもしれないが、
飽きがこないで、
古びることが無いのかもしれない。

その質問には、以下のような返事をした。

「当館で、分類展示は、
ジャンボブックという3階の展示室で展開しています。
でも、かつての系統分類や個別解説中心の博物館を
期待されている方には、
不満足になるかもしれません。
館全体に占める割合が少なすぎます。
しかし、考えてみると、
当館のような規模で、分類展示をやると、
多分多くの人は情報が多すぎて、
全部見る前に飽きてしまうはずです。
そうなれば、博物館の後半部分の展示物が
無用の感が出てきます。

このような展示のあり方は、
実は問題が一杯あります。
自然史とはいえ、もっと細分化して、
専門博物館をいくつか作ったほうが良いのではないかとか、
県立なのに地球規模の展示というの分を外れているとか、
規模の割には人対応の部分が少ないとか、
いろいろ問題があります。
でも、建替えや作り変えは出来ませんが、
少数の学芸員や職員で、
無い知恵をしぼり、無い金で対応していきます。

今や博物館も、テーマパークです。
より詳しく知りたいのならば、
展示でなく、博物館の有する別の機能を用いる方法となります。
例えば、観察会、講座、シンポジュウム、公開講座の
学習プログラムに参加するか、
学芸員や学習指導員の人的資材を使うか、
ライブラリーの資料利用などです。
そのためには、リピーターとならなければなりません。
そのためには近所の人でないと不可能です。
そのような問題を解消することあって、
インターネットの利用の必要性を考えて、
現在私的に初めています。
興味がおありでしたら、
私のホームページを覗いてみて下さい。」

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・ 「地球のささやき」MM発行
・ 「地球のささやき」HP更新
・ 「Dialog」MM発行
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●ミステリー解決。またミステリ:No. 87● 2001.8.12

軽のワゴン車のカードの謎が少し進展した。

今朝も、ワゴン車は止めてあった。
歩きながらだが、車の内部を良く見た。
すると、例の「ローン返済中」カードは
運転席のハンドルの横に、
運転手に良く見えるように置いてあった。
従って、運転手は、自分への戒めのために
このカードを置いていたという推理が
正しかったことになる。

ところが、そのカードの横に、
同じようなサイズで、
助手席に人に向けて見えるように
別のカードがおいてあったのだ。
そのカードには、
「ついてこないでね」
と書いてあった。

さて、あなたはどういう推理をするだろうか。
この世は、摩訶不思議。
ミステリーが一杯である。
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●グチグチ:No. 86● 2001.8.11

何かをしたいのだけれども、けだるい。
特に午後になると、集中力がなくなる。
夏バテなのか。
でも、食欲はある。
こんな時は、休んでしまうのがいいんだが、
目的も無く、休むのは気が引ける。
でも、公務員は、業務に支障が無い限り、
有給休暇を取る権利がある。

なにを、グチグチいっているのか。
こんなことを行っているということ自体が、
疲れているいる証拠。
来週は、学会準備と
文部科学省への出張があり、
結構、ばたばたしそうである。
ああ、また、グチグチが続いている。
もうやめよう。
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●不思議なメッセージ:No. 85● 2001.8.11

通勤途上にある駐車場に、
ちょっと変わった車がいつも駐車してあった。
車は、軽のワゴンで、何の変哲もない。
その車の助手席の窓に、
一枚のA4サイズくらいのカードがいつも置かれていた。
そのカードには、
「ローン返済中」
と書いてあった。

多分、後にも何かを書くべきなのだろうが、
そこを抑えているところが、
奥ゆかしさ。

だた、その意味するところがわからない。
まるで、皆が笑っているジョークが理解できない
まどろこしさがある。

その後に、
「だから、ぶつけないでね」
とでも、書きたかったのだろうか。
一般にぶつけられるのは、
後部である。
だから、追突注意のつもりなら
後の窓にカードをつけるべきである。

「ローンを返すまで安全運転しよう」
という運転手自身への戒めなのか。
もしそうなら、運転席の
運転手が見えるほうに
カードを向けて貼るべきである。

私には、理解が出来ない内容であった。

ところが、今日見たら
その車からカードがなくなっていた。
またまた、多重解釈ができ、
悩みの種となる。
なぜ、例のカードは無くなたのか。

運転手が、カードの内容の矛盾に気付いた
ローンが返済された
一度追突され効果がないことが判明した
事故を起こしたので効果が無いことが判明した
ジョークの落ちの矛盾に気付いた
などの可能性があるが、
答、あるいはオーナーの真意がわからず
欲求不満が募るばかりである。
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●身近な自然史:No. 84● 2001.8.10

新しいデータベースをつくるために
趣旨説明の文章を書いた。

身近な自然史について

このホームページは、
身近(みじか)な自然(しぜん)についての
記録(きろく)をするページです。
それも一人でも多くの人が、
自然に目を向けることができるように、
このホームページは願(ねが)ってつくられました。
自然はどこにでもあります。
そんな自然を見ることを
心がけてください。
自然は、そんなあなたに心を開いてくれるはずです。
森や林、川、海、
日本にはきれいな自然がいっぱいあります。
でも、なにも、遠くに行かなくても、
自然は、身近なところに、
どこにでもあるのです。
都会のビル街にも、
どぶのように汚れた川にも、
ゴミのういた池にも
自然はあります。
そんな自然は、よく見ることで発見できます。
さあ、身近な自然を発見しましょう。

○観察のコツ
・近所の自然を
身近な自然は、自分の住んでいる近所でさがしてください。するとなんどもなんども観察できます。
・目的(もくてき)をきめる
撮影するとき、ある目的を決めるとおもしろですよ。たとえば、アサガオの観察などは、毎日観察をつづけると変化がみえてきます。また、かわらの石ころなどは、いろいろな石をみつけていけば、多くの自然がきろくできます。
・いろいろな見かたをしてみる
ひとつのものでも、近づいてみたり、離れてみるとみがってみえます。朝と、昼、夕方、夜では違うようすになるかもしれません。むしめがねをつかってデジカメをとろことだってできるかもしれません。

というものです。
そろそろこのデータベースが
完成しそうです。
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●科学を考える科学者:No. 83● 2001.8.10

科学とは何かを、考えることがある。
当然その答は、まだ出ていない。

現在、私は科学を100%の精力を
持って行っているわけでない。
半分以上精力は、教育につぎ込んでいる。
また、「心」についても考えている。
このようなホームページを作成したのも
メールマガジンを始めたのも、
ボランティアを始めたのも、
その「心」を考えるためであった。

こうして、私は科学から、
少し離れることができた。
その結果、科学とは何か、
ということに考える余裕が出来た。

それまで、科学、いや論文を書くこと、
科学的成果をあげることが、
最大の目標であった。
これは、主客転倒も甚だしい。
しかし、かつての自分がそうであったように、
多くの科学者は、現在もその状態であろう。

だれが、科学について考えるのだろう。
本当は、科学の最前線にいる人が考えるべきことなのだ。
進んでは、いけない方法に進めるのは、
そのような科学する執り行う人がいるからだ。

科学者は、科学者という階層の中で
抑止力を持たなければならない。
そんなに難しいことではない。
業績をあげることよい。
でも、科学全体を見通せる科学者を
科学者の中で育てる教育が必要なのか知れない。
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●自分のスタンス:No. 82● 2001.8.9

人には、それぞれの経験に応じて、
バックグランドというか、
自分の寄って立つスタンスがある。

スタンスは、なかなか変えれるものではないし、
そうそう変えてはいけないものかもしれない。
しかし、自分の進む道が変われば、
スタンスは即座に変えていいはず。
それが、自分の生きる道なれば。

スタンスは、
違うものが混じっている方が、いい。
それは、同じスタンスを持つ人は、
大学や専門学校で多数生産されている。
だから、きっと人と違う方が、
長い目で見れば、役に立つはずである。

でも、人と違うことは、
敬遠されることもあるし、
人と違った努力や経験をしなければならない。
だから、大変である。
でも、だから、存在価値がある。

あるとき、多大なる心労による決断をし、
それなりの努力をした人だけが、
自分の進路を、人と違うように変えれる。
そんな人だけが、
人と違うスタンスを持つことができる。
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●羞恥心とは心か:No. 81● 2001.8.8

子供は、裸でも恥ずかしいとは思わない。
羞恥心がないのである。
もともと、人間には羞恥心という心はないのであろう。
いつの頃から、羞恥心というものができるのだろうか。
その羞恥心というものは、
本当に心の所作なのか。

羞恥心は、
風習や風俗が違えば、
羞恥心の種類も違うであろう。
陰部や女性の胸部を出すことは、
多くの文明国では恥ずかしいことであるが、
ある文化では当たり前のことかもしれない。

と、なると、羞恥心は、
心に分類しているけれど、
本当は、文化である。

では、心の作用とは
どんなものであろう。
生物としての、
生理的欲求は、
肉体が求めるもので、心ではないかもしれない。
喜怒哀楽は、
本当に心の作用なのか。
多分に、文化的要素が入っているかもしれない。

こう考えていくと、心とは、
文化の一側面、
あるいは、文化が精神に及ぼした作用
という捉え方が正しいのかもしれない。

心とは、厄介なものだ。
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●経験則:No. 80● 2001.8.7

職員の家族がきた。
子供を連れた奥さんが来て、
一緒に食事をした。
1歳8ヶ月の女の子。
やはり、男の子とは、
様子が違う。

実はこのようなことは、
一概に言えないのである。
男の子だから、
女の子だから、
という言い方をよくするが、
一般の経験則のようにいうが、
実は、そこには
統計的なあるいは科学的な根拠があるわけでない。
感覚である。
それが、客観的に証明されて、
初めて経験則成るはずである。

例えば、
女の子は口が達者とか
男の子は小さい頃は病気がちだとかいうのは
2人の男の子を見ていると、
必ずしもそうとはいえないと思える。

でも経験則は、
感覚の中に発見されやすいことも確かであろう。
ありそうも無いところには、
やはり経験則もなのであろう。

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・ 「Dialog」No.81-90追加
・ 「Dialog」MM発行
・ 「地球のささやき」MM発行
・ 「地球のささやき」HP更新
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●夏に咲くサボテンの花:No. 79● 2001.8.7

今朝、駅に向かって歩いていると、
春に咲いていた、
サンボテンの花が、
また咲いていた。
何も考えないと、
このサボテンは、
しょっちゅう咲いている
と思っていしまう。

これは、一種の心理トリックで、
マーヒィーの法則になるようなものである。
非常の印象の強かったものは、
記憶に残り、
再度、同じことがあると、
しょっちゅうあるとか、
この時は決まってこれがあるというような
記憶となる。

このサボテンも多分そうであろう。
春と夏に咲いた。
もしかすると、
もっと何度も咲くのかもしれない。
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●小出家のミステリー:No. 78● 2001.8.6

朝、10時から3時ころまで、
自宅のパソコンは、
家内が占領中である。
ただし、明日は
月一度のガラス・ビンのごみの日だということで、
午後からいらない食器の整理で、
パソコンが空いています。

今日は涼しく、短パンではなっく、長ズボンです。
どうも今年の夏は、気温変化が激しいようです。

先日、屋台でタコ焼きを買ったら、
長男は、タコがきらである。
「タコは食べないで、ヤキを食べる」
という。
吾が息子ながら、素晴らしい。
座布団一枚です。

先日、小出家で不思議な盗難事件があった。
家内いわく。
「絶対、誰か、家の中に入っている」
そうである。
それは、ものが連続してなくなったからである。
次男の買ったばかりだが、
汚れたクツを、洗おうと思って玄関に置いておいたら、
消えてしまった。
翌日には、買ってきたばかりの肉を
冷蔵庫に入れておいたのに消えていた。
2つの事件が続けて起こった。

鍵のかかっている家に入ってきているのである。
それも、つまらないものばかり盗んでいくのである。
きっと、家内の思い違いであるというのざが、
「ぜったい、間違いない」という。
となれば、ミステリーである。
家内は不安がっていた。

数日後、玄関においていた子供の4輪車の下から
次男のクツは発見された。
さらに数日後、
車の中から異臭がするので、
運転席の座席の下を覗くと、
スーパーの袋に入った、
腐った肉が出てきた。

それ以来、家内は
「私は、ボケてきた」
といって落ち込んでいる。
私もそう思うが、
家内があまりに惨めで、
「はい」とはいえなかった。

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・ 「思いつくまま」にアンカー・リンクを設置
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●風流:No. 77● 2001.8.6

早川漁港の港祭りに行く。
生きた魚が入った子供のプールがあった。
長男が入るといったので、
水着に着替えて、入れようとしたら、
怖くて入れなかった。
家内と交代で15分くらいがんばったがだめだった。
入りたいけど、怖いそうである。
魚に触りたいけれど、怖いそうである。
なだめすかして、別のところに移動。
長男は、もと遊んでいたかったが、
次男がくたびれたので、帰る。
12時過ぎ帰宅。
次男は車でにたので、そのまま昼寝。

夕方、熱海の花火があるので、
車で、峠まで行く。
4、5台の車が、いい場所をとっていた。
我々も、見える場所で車をとめ、見る。
外に出てみようとしたが、雨なので、
車から見る。
音が遅れて聞こえてくる。
私には、少し物足りないが、
長男には、音が怖くなくていいようだ。
雨が本降りだったが、
花火は、最後でおこなわれた。
車で見てよかった。

次男は、花火が始まる前に寝た。
長男は、花火の最後に寝た。
車で帰って、二人とも、布団へ。

花火は、近くから見るだけが
その素晴らしさを、満喫したわけではない。
遠く峠から見ても良し。
自宅の窓から見ても良し。
ホテルの部屋から見て良し。
車の窓から見ても良し。
音だけを楽しんでも良し。
人それぞれ、自分の好きなところから見ればいい。

ここからじゃ物足りないというのは、
今見ている花火に失礼。
一瞬の花火だが、その素晴らしさを、
多くの人がそれぞれの見方で見ればいい。
これという見方がきまているわけではない。
そんな先入観が、
風流を一面からしか見れないもの
としているのかもしれない。
それは、風流ではなく無粋。
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●血が騒ぐ:No. 76● 2001.8.5

3日。地元の花火大会に行った。
海岸沿いであったので、
始まるまでの1時間ほどで、
海に入って遊んだので、
子供たちは砂だらけ。
海に注ぐ川で洗ったが、
きれいにならない。
帰ってシャワーを浴びたら、
砂だらけであった。
肝心の花火。
数も少ないものだが、
船から、海上に飛ばし、
海の上で爆発する花火は、見ものだった。

昨日は、隣の町で花火大会。
でも、遠いのと、人手が多いので、
子連れではつらいの、
町の山の上から見れないか、
車で、走り回ったが、
残念ながら、見れなかった。
でも、その山の上は、
ちょっとした公園で、いいところのようなので、
今度家族で行くことにする。

今日は、やはり隣町の港で、
漁港祭り。
朝一番の9時に乗り込んで、
早々に帰ってこよう。
そして、夜は、隣町の花火。
一駅なのだが、
夜遅いので、行くかどうか迷っている。

どうも、祭りとなると血が騒ぐ。
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●家庭教育:No. 75● 2001.8.3

家族サービスとは、
子供がいるうちは、
自分のうちのやり方を伝える儀式。

例えば、小出家では、
お金をかける遊びは、
基本的好まれない。
それよりも、その地域にある
自然や民族的な風習を満喫することを旨とする。

子供にとっては、
それが世界の大半であるから、
小出家風の育ち方をする。
無視することはちゃんと無視しているはず。
そして、楽しむ時は楽しむ。
親が思うほど、
小出家風には、染まらないかも知れないけれど、
でも、それがそれぞれの家のやり方があるはず。
それが、家庭教育である。

つまり、家族サービスとは、
家庭教育のことである。

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・ Canadaの旅行ホームページ作成
・ 「Metamorphic」Letterの追加
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●人それぞれ:No. 74● 2001.8.3

今日は、祭りの最終日。
花火がある。
浮かれ気分ばかりではいられない。
昨日、今日と
地学クラブ(Club Geoという)のメンバーが集まって
作業をしている。

彼らを見ていると、
人それぞれであるということがよくわかる。
同じテーマを与えても、
文学的に考える子、
あることにこだわりを感じて、ひつこく取り組む子、
要領よくささっとまとめる子、
夏の暑さに疲れているせいか、寝ているばっかりの子。
寝ている子だって、明日から出かけるから、
今日は頑張りたいといっている。

まさに、人それぞれである。
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●祭り:No. 73● 2001.8.3

昨日は、祭りで、一家で見に行った。
公園では、多数の夜店がでていた。
そして、「やっさ踊り」という踊りが
音楽にあわせて、地区やグループごとに、
道路を練り歩いた。

長男も次男も興奮気味であった。
屋台で夕食にいろいろ食べたのだが、
長男は、食べた気がしないらしく、
8時過ぎに帰ってきても、
「ご飯は、まだ?」というしまつ。
軽く、おやつを食べさせて寝かせる。

多くの人が、ざわざわと、うろうろする。
そんな雑踏中にいると、
我を忘れて、
周りの祭り気分と同化する。
これが、祭りの魅力だろう。

集団催眠による忘我の境地。
これが、祭りの真相かもしれない。
花火もこの境地かもしれない。
でも、何百年も続いている
集団催眠である。
いってみれば、無害が証明されている
集団催眠。

それと、祭りには事故がつきもの。
あまり、その責任は追求されなかった。
でも、花火見物の帰りの将棋倒しによって、
何人もの死亡者がでたのは、
耳に新しい。

でも、祭りは、
つべこべ言うより、
参加すること。
まさに、「百聞は一見にしかず」である。
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●夏休み:No. 72● 2001.8.2

夏休みが、始まると、
私が出勤する6時半ころでも、
子供を見かける。
それも、たいてい家の手伝いをしている子供だ。
ある子供は、親の新聞配達を手伝っていた。
ある子供は、ごみを捨てをしていた。

私が子供のころも、
手伝いはしていた記憶はある。
でも、夏休みの早朝は、
なんといってもラジオ体操であった。
今は、ラジオ体操の音を聞かなくなった。
近所からうるさいとクレームがつくとか、
世話係が大変だとかいろいろあるらしい。
城川町では平日のみで、土日は休みだそうだ。
でも、ラジオ体操がまだ残っているようだ。

ところで、子供のお手伝いは、
なぜ、夏休みにしかできないのだろう。
少し早起きすれば、こんなことできることである。
やはり学校があるからだろうか。
でも、学校は昔からあった。

多分、皆、豊かになったので、
子供が働かなくてよくなったのだ。
これは、いいことではあろう。
しかし、私の子供のころも含めて、
子供の手伝いは、
教育的手伝いである。
戦前や戦後すぐのころは、
子供の手も必要だったのである。
だから、手伝いとはいえ、
子供は重要な働き手であったのだろう。
そのかわり、子供の教育は、
おざなりにされがちであったのだろう。
いいことなのか、悪いことなのか、
どうだろう。

夏休みの子供をみて、ふと思ったことである。
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●暑い朝に:No. 71● 2001.8.1

今朝は、4時過ぎに起きた。
暑い朝である。
メールをみていたら、
ある人からメールマガジンの休載のつもりであるという
内容の連絡があった。
非常に驚いた。
その人に対して、
私が、メールマガジンや、ホームページを
続けている理由を書いた。

「私は、2月あたりから、
メールマガジンやインターネットのホームページに
精力注いでいます。
それは、現在の科学や社会があまりにも、
打算的すぎます。
無駄を嫌います。
そしてあまりに「合目的」的すぎます。
無償無私の心がなくなっているような気がします。
そんなのことに疑問を持ったからです。
無私の心を探して、
その心に触れることによって、
なんらかの答えが出るのではないかと始めました。

メールマガジンやインターネットのホームページには、
無私のこころがいたるところにあります。
こうしてメールを何人もの方とやり取りしているのも、
その延長です。
わたしの「地球のささやき」のホームページには、
メールカウンターなのものをつけています。
アクセスカンターではありません。
メールマガジンの読者の方と交換したメールの数です。
このメールは、206です。
この数字が多いのか少ないのかわかりません。
メールの内容もあいさつていどのものから、
エッセイの何倍もあるようなものもあります。

たとえば、ある人がら、複雑系についても質問があり、
私がわかる範囲で答えたのですが、
わからないという回答、
それに対して、エクセルでカオスをおこすプログラムを
添付したりもしました。

でも、これは、その人への回答という意味だけでなく、
私自身への答えでもあったのです。
無視の心を発見しようから始まった活動でしたが、
無私の心は至る所にあることはわかりました。
そして、その無視の心に対する、
私の対処法と、
対処することから
何かが生まれないかと考えています。」

さて、私は、今、無私を探す旅の途中です。
その答えは見つかるのでしょうか。
少し前の日本には一杯あったもです。
それが、デジタルのバーチャルの世界にしか
発見できないのは、
なんとなくむなしく感じます。
ボランティア活動といってもいいのですが、
少し、ニュアンスが違うような気がします。

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・ 「地球のささやき」No49発行
・ 「Diaolog」No.24発行
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