「思いつくまま」カナダ旅行篇
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カナダ滞在中の「思いつくまま」Canada旅行編です。
本当はもともと思ったことがありました。
しかし、記録できたのが、
ここで示した26個の「思いつくまま」です。
今回の旅行で、自分自身の
心の変化が、起こってきました。
その変化が、
もしかしたら読み取れるかもしれません。
一人旅。
なかなかできそうで、できないこと。
特に、海外旅行ともなるむつかしい。
歳を取ったら、「地球を見る」旅に出たいと考えてきた。
しかし、実際に歳を取ると、できないこと、行けないところができている。
今しか行けないところ、今しかできないことをやるべきである。
45歳、決して若くない年齢である。
もはや、無理のきかない年齢である。
でも、今だからできることもある。
それを一杯探していこう。
例えば、南極の越冬隊。
始めてとすれば、もう遅いかもしれない年齢かもしれない。
でも、チャンスは残されている。
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人の振り見て、我が振り直せ。
女子大学生5名が横に座って、ぺちゃくちゃしゃべっている。
どうも短気(3週間ほど)の留学らしい。
歳のせいか、その内容の幼稚さが気になる。
でも自分も、その頃はそんなことをしゃべっていたような気がする。
誰かさんは、誰が好きで、誰かさんの悪口。誰かさんの噂話。
考えてみれば、今の自分も立場や相手が違うが同じようなことをしている。
ときどき、他人の人物評をしている自分が嫌になることがある。
でも、人物評で公正にやるときその評を、評価する人も入る。
でも、考えてみれば悪口はあまりいわないほうがいい。
言うにしても、公正であること。
公正な悪口は、悪口ではなく、単なる人物評。
でも、悪口を言えば、その話し相手は、自分がいないところで、
この人は自分の悪口を言ってるのだろうな思うはず。
「口は災いのもと」
言わずもがなのことはやめたほうがいい。
でも、言うべきことははっきり本人の前で言うべきだ。
難しいことだ。できないかもしれない、でもそれが正論。
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一人旅。
海外に行って感じるのは、日本。
そして、自分自身。
こんなことは時々すべきかもしれない。
なぜなら、自分の仕事やすべきことに追われ過ぎているせいかもしれない。
自分を取り戻すために、一人旅。
自分を見る直すための、一人旅。
新しい自分を見つける、一人旅。
結果より、その行為を重んじること。
結果より、そのプロセスを大切にすること。
なんとなく、自分の考えが、だんだん純化していくような気がする。
まるで、高校生や大学生のとき、自分を高めたいと考えていたような精神状況である。
私はいま、よりよい自分になりたいと望んでいる。
そしてそれに向かっている。
変われる、そしてまだ、進歩できる。
そんな自分をみてみたい。そして実体験してみたい。
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1日が長い。
時差によって、本当に長いのであるが、
することがない時間帯は特に長い
時差ボケで、車の運転中は眠かったのに、今は眠くない。
かといって、文章を書くほど、頭はさえてない。
思考が進まない。
今までは、書きだせは、湯水の如く書きたいことが沸いてきたのに、今はだめだ。
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●Royal Tyrrell Museumにて:No. 41(5)● 2001.7.7
Royal Tyrrell Museumで、考えた。
アメリカやカナダの博物館はセンスが良い。
それは、単にお金があるだけでなく、
センスが違う。
一つには、展示を作成するプロの質の違い。
日本の展示業者の作業は、どことなくあか抜けしない。
それと、学芸員の質の悪さもあろう。
日本の学芸員は、展示も学問も中途半端な気がする。
もっと、すべてのものが一流であるべきであろう。
すべての人がプロフェッショナルであるべきである。
それと、仕事を楽しんでやるべきである。
カナダの人は、みんなその仕事が楽しそうである。
少なくとも周りには楽しそうに見せている。
本心は楽しくないかもしれない。
でも、それが、プロフェッショナルであろう。
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地平線が見えるところ。
360°地平線。
これぞ大陸。
平地の中に、深く刻まれた谷がある。
これぞ大陸。
北米大陸は、氷河の影響下にあった。
氷河を知って、大陸が分かる。
氷河地形と凍結の地形が北米大陸。
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大陸には、恐竜の化石がたくさん見つかる。
所によっては、破片がざくざく出ている。
それを適切な指導の下に、
化石を探し、発見の楽しみを知り、
触り、自然の大切さを知る。
こんな循環が、自然史の理解者を増やし、研究者を育成し、
高度なアマチュア、ボランティア生む。
時間がかかるかもしれないが、
この循環を生むこと、
欧米式でなく、日本式のやり方があるはず。
もしかすると、過去の日本にその答えがあるかもしれない。
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川の流れにそって、森林の中を歩く。
風が、木の香りと川のせせらぎを運んでくる。
心地よい。
風に吹かれていると、あくせくしていたものが、少しずつ、吹き飛ばされていく。
風に吹かれていると、忘れていた穏やかな心が現れてくる。
風に吹かれていると、古い記憶がフラッシュバックのように現れては消えていく。
心地よい。
時々すれ違う人。
歩く人。走る人。乳母車を押す人。犬を散歩させる人。家族連れ。老夫婦。カヌーを漕ぐ人。
こんなにたくさんの人とすれ違っているのだが、
独りぼっちが、気持ちが良い。
みんなも、気持ち良さそうである。
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日本では、山は、近づくと小さく見える。
だから、日本では、山は離れてみるもの。
富士山もその偉大さを知るには、離れてみるべき。
ベイブリッジのレインボーブリッジも、渡らずに離れてみるもの。
ところが、大陸の巨大な山は、離れるとその巨大さは分からず、
近づけば近づくほど、山は大きくなる。
これが、スケールの違いであろうか。
こんなスケールの違いが、個性や人格、国民性に反映されるであろう。
スケールの大きな人間になるには、
天井の高さだけでなく、
すべてのスケールが大きいところで育てるべきであろう。
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今日見た野生動物。
オオツノ羊:bighorn sheep
地ねずみ:Colimbian ground Squirrel
しまりす:golden-mantled ground squirrel or least chipmunk
ワシ、鹿、山やぎ
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夕食を早く食べ、シャワーを浴びても、
1日が長い。
いつもは、午後6時から9時までに、
夕食、風呂、育児を3時間ほどでやっている。
ばたばたしていて、
あっという間の1日の終わりとなる。
しかし、ここでは、午後6時以降すべて、
自分だけの時間となる。
ビールでも飲みながら、
思いつくままに書いていると、
豊かな時間が過ごしている気がする。
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子供用の遊園地や、遊ぶ場所などがあると、
長男が喜びそうだなと考えている自分がいる。
小さな子供がいると、
何歳かなとか、
かわいいとか、
ふと、考えている自分がいる。
子供と一緒の時間が長いせいで、
子供中心の生活が常となっている。
子供中心の発想になっている。
しょうがないとはいえ、
片や全く自分だけの、世界もあるはずであろう。
子供が生まれたとき、
子供に対して、
自分のいま一番大切にしているものをあげることにした。
それは、時間であった。
その代わり、自分自身を見失わない時間だけは確保しようとした。
そして、自分は、変わった。
今も変わりつづけている。
原因はよく分からない。
でも変わっている自分がいる。
そして、それを楽しんでいる自分もいる。
それで良いのかもしれない。
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●山に帰ってきた:No. 49(13)● 2001.7.10
大学院生の頃、
野外調査のために山に入るとホッとしていた。
「帰ってきた」という気がした。
そんな気持ちを増幅したものが、
カナディアン・ロッキーの雄大な景色の中にいると起こる。
どう言えばいいのだろう。
胸につまされるような気がする。
ホッとするより、吸いこまれそうな、
精気が充実するような、
居てもたまらないような、
そう、恋をしているようなそんな気持ち似ているかもしれない。
緑と岩石、氷と雲と青空が織りなす景色。
もしかすると、そんな畏敬に満ちた景色に、
本能が恋してるのかもしれない。
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山、高きが故に、尊(とうと)からず。
山、険しきが故に、尊からず。
山、たおやかが故に、尊からず。
山、美しきが故に、尊からず。
人が自ら持った感情、記憶、心にすぎない。
山は、なにも思わない。
山は、なにも言わない。
そこが、尊い。
山は、悠久の時間によってつくられてきた。
そこが、尊い。
山は、自然の営みによってつくられた。
そこが、尊い。
山自身は、有名無名を問わない。
そこが、尊い。
山は、これからも悠久の時間と自然の営みによって
これからも変わりつづけていく。
そこが、尊い。
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夜、10時過ぎてもまだ明るい。
緯度が高いせいと、
夏時間の使用と、
時差の変更線の一番西にいるせいである。
11時ごろでも、空は明るさを残している。
朝は、日本と同じくらいである。
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昨日、食堂で、隣の席の客とウエイターとの会話。
客は、イタリア人。
ウエイターは、中国系ポーランド人。
両者が、なまりの強い英語で会話した。
長続きしさそうでなかったが、
両者とも、サッカーが好きということが分かり、
にわかに盛り上がる。
ワールドカップの予選で、
ポーロンドがイタリアにペナルティキックで負けたそうだ。
中国系ポーランド人が、ひどく悔しがっていった。
それは、ポーランドが勝つほうにタンマリ賭けていたそうだ。
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今回、2つ目の交通事故を見た。
2台の車が大破していた。
一方は老夫婦で、他方は家族ずれで長男ぐらいの小さな子供がいた。
小さな子供は、父親に抱きついて泣いていた。
それを見ると身につまされる。
次男は、1歳になる前くらいに、
家内が次男を保育園に送る途中、
信号で停車中に後ろから追突された。
その時、家内は軽いむちうち、
次男は、鎖骨が骨折していた。
事故は御免だ。
しかし、考えると、
誰も事故を起こしたいと思っている人はいない。
でも、起こしそうな性格の人や運転をする人もいる。
事故を起こさないためには、
事故の確率をいかに低くするかである。
慎重さ、無理しないこと、急がないこと、
疲れて運手しないこと、などなど、
まるで安全教室教えられることである。
でも、それが、事故の確率を下げる最善の方法である。
でも、所詮、確率。
運の良い人は、どんな無謀運転でも、事故を起こさない。
運の悪い人は、どんなに安全運転しても、事故に巻き込まれてたりする。
詮無いことだが、理不尽さを感じる。
それも運命か。
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●終わりのある人生:No. 54(18)● 2001.7.11
トレイルを歩きながら、ふと考えた。
齢、不惑を越えて久しい。
人生、残り3分の1。
名残惜しいような、でもあきらめにも似た感情。
これも人生。
終わりがあるから、生を精一杯生きる。
終わりがあるから、今が大切。
残された時間が、不確かだから、
今を精一杯生きるしかない。
都合の良い終わりはない。
精一杯の今の積み重ねが、
悔いのない人生。
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Mobile Gearが壊れた。
電源が入らない。リセットスイッチもきかない。
今まで書いてきたものが、すべてだめになるかもしれない。
まあ、じたばたしてもしょうがない。
これからは、ノートに切り替えよう。
損失
・7月6日〜13日までの日記(ここには見てきた場所がすべて書かれている)
・「思いつくまま」18個
・エッセイ 4編ほど
損失は大きいが、教訓としよう。
エッセイはまた書けば良い。
日記は不可欠ではない。
ただし、見た場所を再度思い出さねばならない。
「思いつくまま」は少し痛い。
もう思いつかないかもしれない。
ノートはやはり究極のMobile Gearなのかも知れない。
しかし、デジタル時代なので、
アナログを再度デジタル化する手間が必要となる。
そこが問題である。
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待ち時間。
車の中で一人メモをとっている。
非常に穏やかな時間が流れている。
昨日のハイキングの余韻の疲れ。
今日これから始まるハイキングの緊張。
データを失った失望。
それから復帰しようとしている自分。
それらすべてが、混沌として流れる。
穏やかな時間が流れる。
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パソコンの故障が直った。
あれほどノートが良いと思っていたのに、
パソコンが直ったら、すぐにそれに切り替えている。
やはり、再入力の手間がたまらない。
では、平衡しよう。
パソコンが使いやすいとろろでは、パソコンに。
ノートが使いやすいところでは、ノートに。
極当たり前の選択である。
しかし、パソコンが頑丈でないと、非常に困る。
パソコンも、あと1歩である。
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豊かな時間が流れている。
何かをしているわけではない。
努力をしているわけではない。
単に、自然の中に浸って、歩いているだけである。
人間として、動物として、
ごく当たり前のことをしているにすぎない。
それが、心を落ちつかせ、
豊かだと感じさせる。
2日間にわたるハイキングの疲れが残っている。
なのに、心が豊かである。
こんな安らいだ気持ちは久しぶりだ。
いつも何かの圧力のもとで、
心のどこかに力を入れていなければ、
日常生活を営めない。
そんな日常から開放する何かが、
この自然のなかにはある。
いや、自分はもはや、
日常に豊かさを感じなくなっているのかもしれない。
これは、非日常と自然のなせる、
大いなる幻想なのか。
しかし、この心の静けさ、
そして豊かさは、幻想ではない。
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ふと思った。
ほっとした気持ちの原因は、
自然の中で一人になれること、
孤独でいれること、
のせいではないか、と。
都会暮らしには、
真の孤独はないのかもしれない。
まして家族がいれば、一人にはなれない。
子供は一人にされると、不安になる。
人は、もともと群れる性質を持っているのかもしれない。
しかし、どこかに一人を望む気持ちがある。
一人でいることが、少なすぎるせいなのかもしれない。
だから、ホッとするのかもしれない。
しかし、家族連れを見ると、郷心が現れる。
一人でいる自分が本来なのか。
家族の中の一員が本来なのか。
孤独を望む心。
家族の団欒を望む心。
両方を叶えることは不可能である。
今は、家族が中心である。
しかし、一時的にせよ、
一人になれた幸せを喜べばいいのかもしれない。
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朝食後、腹痛とめまいがした。
しばらくベッドで横になった。
15分ほどうとうとしたら、よくなった。
少々下痢気味。
昨日の昼食のフライドポテトの食べ過ぎかもしれない。
昨日の夕食のときも、もたれていたが、
無理して食べた。
そのせいかもしれない。
原因不明の変調が怖い。
もし、高速運転中に変調をきたせば、
命にかかわることになる。
そう言えば、昨日と今日、交通事故を見た。
昨日のは自滅で、ガソリンに引火したらしく、炎上していた。
今日のは、2台の事故で、やはり大破していた。
あと少し、無事にいること。
無理しないこと。
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●一時的な自然の中の孤独:No. 61(25)● 2001.7.17
無事、カルガリー空港に到着した。
これからは、個人責任の事故はなくなるはず。
今回は、初めての海外一人旅となった。
そこで、感じたことは、
今まで、心の問題を色々考えていたことに
新たな展開があったことだ。
その大きな要因の一つは、
孤独になること。
もう一つは、自然の中に浸ること、
3つ目は、それらに期限があること、であろう。
そして結論は、
日常から離れて、一時的に非日常にはいると、
今回のように、非常に精神的にリフレッシュすることがある
ことがわかった。
これは、日本でも同じことがあったから、立証済みである。
自然の中で孤独になる。
これが重要である。
しかし、無期限に続くとなると、
こんな気持ちになれたかどうかは、
わからない。
例えば、2ヶ月程度なら、同じ気持ちになれる。
それは、ネパールの調査で体験済みである。
では、1年となるとどうだろう。
非日常が、日常になるのである。
南極の越冬隊で試してみたい。
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